Archive for 8月, 2010

Date: 8月 9th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その7)

ステレオサウンド 43号(ベストバイの特集号)のなかに、
井上先生と瀬川先生が、LS3/5Aについて書かれている。

超小型の、ポータブル用モニターシステムで、英BBC放送のモニター用に採用されていることは、型番からも明らかである。本来の特長を活かすためには、低域をコントロールしてあるQUADの405パワーアンプなどがドライブ用に必要であり、しかも、1m以内の近接位置で聴かなければならない。ヘッドフォン的な聴き方だけに、組み合わせコンポーネントは高品質が要求され、さもなければ、見えるような臨場感は得られない。(井上卓也)

左右のスピーカーと自分の関係が正三角形を形造る、いわゆるステレオのスピーカーセッティングを正しく守らないと、このスピーカーの鳴らす世界の価値は半減するかもしれない。そうして聴くと、眼前に広々としたステレオの空間が現出し、その中で楽器や歌手の位置が薄気味悪いほどシャープに定位する。いくらか線が細いが、音の響きの美しさは格別だ。耐入力にはそれほど強い方ではない。なるべく良いアンプで鳴らしたい。(瀬川冬樹)

とにかく近接的な配置で、ステレオ再生の基本である正三角形のセッティングを正しく守り、
組み合わせるアンプやカートリッジに良質なモノをもってくることで、
ぴしっと定位する音像を見るかのごとく体験ができる──、
そういうスピーカーだと、ふたりの文章から受けとれた。

ヘッドフォンとスピーカーの中間的といおうか、その境界があいまいな聴き方をするスピーカーといおうか、
LS3/5Aで聴く女性ヴォーカル、それも深夜にひとりで聴くという行為は、
中学、高校の頃、親に隠れてラジオの深夜放送を聴くのにある種似た、
対象との親密な関係を結べるからこそ、夢中になれるのかもしれない。

中学生に、ペアで15万円のスピーカーはおいそれと買えるものではない。
それでも、いつか、そういう聴き方を楽しみたい、と思わせてくれたのが、LS3/5Aだった。

Date: 8月 8th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その6)

キャバスのブリガンタンは、1本655,000円。
当時、JBLの4343は739,000だった。

4343は4ウェイで、上2つのユニットはホーン型。
一方のブリガンタンは3ウェイで、スコーカー、トゥイーターはドーム型。
ウーファーの口径はほぼ同じだが、ブリガンタンは36cmと、4343の38cmより、ちょっとだけ小さい。

こんなふうにスペックだけを4343と比較していくと、それほど魅力的なスピーカーシステムとは思えない、
このブリガンタンが、1977年当時、もっとも聴いてみたいスピーカーの筆頭だった。

もっともそれにはもうひとつ理由ともいえない理由があって、
当時キャバスというブランドは著名なブランドではなかったし、実物をみる機会すらなかった。
だから、よけいに、とにかく聴いてみたい、と思っていただけでもあるのだが。

井上先生が候補として選ばれたもうひとつのスピーカーシステム、ロジャースのLS3/5Aは75,000円(1本)。
大きな音は望めない、低音も、もちろんこのサイズだがそれほど望めるわけではない。

でもこの小ささと、4343のほぼ10分の1の価格。
けっして、あらゆる音楽を4343のように十全に楽しませてくれるだけの能力は秘めていないものの、
ある特定のジャンル、ある特定の聴き方には、
LS3/5A以上に魅力的なスピーカーシステムは、そう多くはない、ということは、誌面から伝わってきていた。

Date: 8月 8th, 2010
Cate: 正しいもの

正しいもの(その2)

別項で、「間違っている音」について書いた。

「正しい音」もある、と私は考えている。
そう考えない人もいるだろうが、正確な音とは違う意味の「正しい音」がある。
そして「間違っている音」に対して、「正しい音」がある、とは考えていない。

つまり間違っていなければ、それだけで正しい音だとは思っていないということだ。
「正しい音」は、「間違っている音」は無関係のところにあるような気がしてならない。

Date: 8月 7th, 2010
Cate: 「本」, 瀬川冬樹

語り尽くすまで(8月7日、そして11月7日)

29年前の今日(8月7日)、瀬川先生は入院された。

ステレオサウンド創刊15周年記念の特集「アメリカン・サウンド」の取材の途中で倒れられたのが、前日の6日。
ちょうど三カ月後の11月7日、8時34分に亡くなられた。

その約二カ月後、ステレオサウンド編集部で働くことになった。
そのとき、ステレオサウンドから遺稿集が出版されるものだと思っていた。

七年後、ステレオサウンドを離れてからのことだった。
もう出す術もないのに、瀬川先生の遺稿集をどうにかしたいと思っていた。
想うだけだった……。

それから十年後、遺稿集ではないものの、瀬川先生の書かれたものをインターネットで公開することも思いつく。
これだけはなんとか実現できた。

また十年経った。それが今日。

ふりかえると瀬川冬樹について語ることは、私にとってオーディオ評論についての考えを述べることでもあり、
オーディオそのものについて考えさせられることでもある。

だからこそ瀬川冬樹について語り尽くそう、と思い今日まで来た。
今年の11月7日に、ひとつのくぎりをつける。
ひとつのかたちにする。

Date: 8月 7th, 2010
Cate: 中点

中点(その10)

「美しい音」の反対となることばは、なんであろうか。
人によって答は変ってくるだろう。

「汚い音」という人もいるだろうし、「悪い音」とか「雑な音」、
「醜い音」(どんな音なのだろうか)といった答が返ってきそうだ。

正解は……、というつもりはさらさらない。
ただ、私は「美しい音」の反対語は「貧しい音」だと答える。

そのあとで、「美しい音」と「貧しい音」の中点について考えてみる。

「醜い音」と考えた人は「美しい音」と「醜い音」の中点を、
「汚い音」と答えた人は「美しい音」と「汚い音」の中点を、それぞれなんであるのか考えてみるといいと思う。

音に関するあらゆる表現で、その反対語を考えてみると、おのずと己の中点が浮び上ってきはしないか。

Date: 8月 6th, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その19)

もう10年以上前のことになるだろうか、記憶が薄れているところもあって、
詳細なところは少々違ってしまっているかもしれないが、
あるテレビ番組で、海外のバレリーナ(世界的に有名な人だった)が答えていた。

「最良・最高のバレエの教師は、ビデオカメラである」と。
「ビデオカメラがあることが、昔の人たちともっとも違うところでもある」とも続けていた。

ビデオカメラで自分の練習、踊りを録画して再生することで、冷静に正確に自分の踊りを、自分自身で判断できる。
誰かの目をとおしての誰かの意見ではなく、自分の目で自分の踊りをすぐさま観察できる。

高城重躬氏が録音されるのは、ご自身の演奏を録音・再生されるのは、なぜかを考えるにあたって、
このバレリーナの話が、頭に浮んできた。

演奏しながら、もちろんいま出している音を聴いてはいる。
でも、それを録音して、スピーカーから再生した音を聴くという行為には、多少の違いがある。

冷静に正確に自分の演奏を捉えたければ、やはりいちど録音してみるのが、
いまのところ、これにまさる方法はないだろうし、これから先もずっとそのはずだ。

音楽を演奏している自分に酔いしれたい、とか、引いていることだけに満足している、
それだけで充分だという人には、録音はむしろアラをさらすことになり、むしろ遠ざけたいだろうが、
演奏のテクニックをより向上させたい人にとって、録音して聴く行為は不可欠のように思えてくる。

高城氏にとっての録音は、そういう意味あいが強かったのだろうか。

Date: 8月 5th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その25)

「真の自己にとって浄化された自己は友であるが、浄化されていない自己は敵である」
インドの古典「バカヴァッド・ギーター」のなかに出てくる一節だ。

だとしたら、いったい音楽は、真の自己にとって、どういう存在となってくるのか。
そして、音楽がこころに響く、とはいったいどういうことなのだろうか。

Date: 8月 4th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その18)

高城重躬氏は、ときおり親しくされていたピアニスト(たしかハンス・カンだったと記憶している)の演奏も、
自宅のリスニングルームのスタインウェイで録音されていたが、多くはご自身の演奏だったはずだ。

自分の部屋で自分の演奏を録音し、同じ部屋で再生する。
このことこそ「音による自画像」ではないかという指摘もあろう。

でも、実際のところどうなのだろうか。

五味先生も、バイロイト音楽祭の録音を思い立ち始められるときから、
すでに「音による自画像」という意識をもっておられたわけではない。
なぜ録音を続けるのか、なぜ演奏に満足できないテープまで保存しておくのか、
と自問されたゆえの「音による自画像」であるから、高城氏にとって、最初はそういう意識はなかったとしても、
録音を続けられるうちに、「音による自画像」ということを意識されたことはあるだろうか。

高城氏もすでに亡くなられている。そのことを確かめることはできない。
だから憶測に過ぎない、それも根拠らしい根拠はなにもない憶測なのは承知のうえで、
高城氏には「音による自画像」という意識はなかったように思う。
それは日々の記憶ではなかったのか、とも思う。

ここで、いちど私なりに「音の自画像」について考えてみる必要がある。

Date: 8月 3rd, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(自分語りについて)

音を表現していくのは難しさがある。
音を直接表現できない以上、なにかをもってくることで、音楽、オーディオについて語る、書いていくことになる。

自分語りがある。
音楽、オーディオについて語るために自分語りをもってくるのと、
自分語りをしたいがために、音楽、オーディオについて語るのとでは、まったく違うものである。

自分語りを目的としているのに、それを巧妙に隠した文章は、
赤裸々に己のことを書いてある、ふうに読めなくもない。そう受け取っている読み手もいることだろう。
ここまで……、こんなことまで書くんだ、この人は、と思わせておきながら、じつのところ、
そこに書いてあることといえば、広く浅く自分語りをしているだけだったりしてないだろうか。

音楽、オーディオについて語るための表現手段としての自分語りの場合、狭く深く、といってもいいのかもしれない。

そんなことを感じることが多くなってきた。

ニーチェが「善悪の彼岸」に書いている。
「自己について多くを語ることは、自己を隠すひとつの手段でもあり得る」と。

自分語りを目的としている人の、音楽、オーディオについての文章は結局のところ、
なにひとつ語っていない、己のことも、音楽、オーディオについても。

Date: 8月 2nd, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その17)

どこかのスタジオ、もしくはホールで録音されたピアノのレコードを自宅で再生するのと、
リスニングルームに置かれたピアノを録音して、そのリスニングルームで再生するのとでは、
「再生」と同じ言葉をつかっているものの、内容的にずいぶん違うものといえるところがある。

ハイ・フィデリティを、原音に高忠実度ということに定義するならば、
録音と再生の場を同一空間とする高城重躬氏のアプローチは、しごくまっとうなことといえるだろう。

その場で録音してその場で再生する。そして、ナマのピアノの音と鳴ってきたピアノの音とを比較して、
スピーカーユニットの改良、その他の調整を行っていく。
これを徹底してくり返し行い実践していくだけの、高い技術力と確かな耳、それに忍耐力があれば、
原音再生──ハイ・フィデリティというお題目のひとつの理想──に、確実に近づいていくことであろう。

ただし、この手法は、あくまでも録音の場と再生の場が同一空間であることが絶対条件であり、
このことが崩れれば、そうやって調整したきたシステムは、
いかなるプログラムソースに対しても、はたしてハイ・フィデリティといえるのだろうか。

そしてもうひとつ。録音という行為にふたりとも積極的に取り組まれている。
けれど高城氏に、「音による自画像」という認識はあったのだろうか。

Date: 8月 1st, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その16)

高城重躬氏も、録音には積極的にとりくまれていた。
たしか、五味先生がつかわれていたティアックのR313は、高城氏のすすめで購入されたものだ。

高城氏は、なにを録音されていたのか。
放送されたものも録音されていたのたろうけど、高城氏がおもに録音対象とされていたのは、
リスニングルームにおかれてあったスタインウェイの音であり、ときには秋の虫のすだく音である。

スタインウェイがある空間、ここに設置されているスピーカーによって、
録音されたスタインウェイの音が鳴らされる。
この比較によって、音を判断・調整されていたようだ。

高城氏にとって、市販のレコードはメインのプログラムソースであったのだろうか。
もちろんレコードも、数多く聴かれていたであろう。で、氏の著書「音の遍歴」を読んだ印象では、
やはり自分で録音したテープこそが、最良のソースであったように感じてしまう。

レコード、そしてバイロイト音楽祭の録音に重きをおかれた五味先生と、
自身のリスニングルームでの録音に重きをおかれていた高城氏とでは、なにもかもが違ってきてとうぜんとも思える。

レコードにしろ、バイロイト音楽祭を収録したテープにしろ、
どちらも録音された場は、再生の場と異る。それも空間の広さ、建物の構造など、多くのものが大きく異ってくる。

一方、高城氏の場合は、録音の場と再生の場は、完全に一致している。