Archive for 1月, 2010

Date: 1月 22nd, 2010
Cate: 瀬川冬樹, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その20・続々補足)

瀬川先生が、「インターナショナル・サウンド」という言葉を使われた、29年前、
私は「グローバル」という言葉を知らなかった。
「グローバル」という言葉を、目にすることも、ほとんどなかった(はずだ)。

いま「グローバル」という言葉を目にしない、耳にしない日はないというぐらい、の使われ方だが、
「グローバル・サウンド」と「インターナショナル・サウンド」、このふたつの違いについて考えてみてほしい。

ステレオサウンド 60号の、瀬川先生抜きの、まとめの座談会は、
欠席裁判のようで不愉快だ、と捉えられている方も、少なくないようである。
インターネット上でも、何度か、そういう発言を読んだことがある。

早瀬さんも、「やり場のない憤り」を感じたと、つい最近書かれている。

私は、というと、当時、そんなふうには受けとめていなかった。
いまも、そうは受けとめていない。

たしかに、菅野先生の発言を、ややきつい表現とは感じたものの、瀬川先生の談話は掲載されていたし、
このとき、瀬川先生が帰らぬ人となられるなんて、まったく思っていなかったため、
次号(61号)のヨーロピアン・サウンドで、きっとKEFのスピーカーのことも、
思わず「インターナショナル・サウンド」と言われるのではないか、
そして、「インターナショナル・サウンド」について、
菅野先生と論争をされるであろう、と思っていたし、期待していたからだ。

Date: 1月 21st, 2010
Cate: 4343, JBL

4343における52μFの存在(その13)

2405ほどではないが、私の経験では、JBLのユニットは、総じてコーン型ユニットよりも、
ドライバーユニットに、能率差はわりと顕著なことである。

ステレオサウンドの試聴室にあった4344でも、レベルコントロールを追い込んでいくと、
左右で、ミッドハイ(2421)のレベル差が、1dBほどあった。
たとえば4343(4344)の例でいえば、ミッドバスのユニットの能率の差は、左右チャンネルでないとして、
レベルコントロールの0dBの位置で、ミッドハイ(2420もしくは2421)の能率の差があったとしたら、
わずかではあるが、クロスオーバー周波数が左右チャンネルで異ることになる。
単にミッドハイのレベルがすこし高いだけではない。

もちろん2420の能率の差があったところで、
ミッドハイのローカットの周波数はネットワークによって決まるので一定だが、
カットオフ周波数・イコール・クロスオーバー周波数ではない。

ミッドハイのレベルが高くなると、ミッドバスとのクロスオーバー周波数は、すこし下の周波数に移動する。

JBLのマルゴリスは、ステレオサウンド 51号で、レベルコントロールについて、
「アンプのトーンコントロールとは違いますから、これを動かしたからといって歪が増えたりするわけではありません。十分レベルコントロールを活用して、それぞれの部屋に合ったレベルバランスに調整していただきたいと思います。」
と語っている。

Date: 1月 20th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その10)

「肉体のない音」は、「音は人なり」とともに、私のオーディオのはじまり、といっていい。

たびたび書いているように、五味先生の「五味オーディオ教室」が、
最初に手にし、もっともくり返し読んだオーディオの本である。

この本の最初に出てくるのが、いわゆる「肉体のない音」について、である。

Date: 1月 19th, 2010
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その1)

「その発言はどこまでもメーカー、メディアの代弁者としてしか見られなくなってしまったことも、
活字離れの原因となっているように思えてならない。」
と早瀬さんは、オーディオ評論家について書かれている。

オーディオ評論家と名のって仕事をしている人、つまりお金を稼いでいる人たちは、
オーディオ雑誌を手に取って見れば、いったい何人いるのだろうか、と思う。

他に仕事をもちながら、オーディオ評論と、一般的には呼ばれている仕事をしている人もいるだろうし、
専業オーディオ評論家の人のほうが、実際に多いのかもしれない。
ホームシアターに軸足を置いている人たちは、どちらなのだろう?

資本主義というよりも、商業主義の世の中では、オーディオ評論家と呼ばれている人、名のっている人が、
メーカーや輸入代理店の代弁者──すこしきつい表現をすれば広報マン──としてしか機能しなくなっても、
それを全面的に否定する気は、じつはない。

言いたいのは、代弁者(広報マン)として、実は機能していないのではないか、という印象を、
私はもっているということ。

Date: 1月 18th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その9)

「肉体のない音」といえば、3年前にリリースされたグールドの1955年のゴールドベルグ変奏曲を、
ヤマハの、まったく新しい自動演奏ピアノを使って再録音したSACDのことを、
誰しも頭に浮かべるのではないだろうか。

これこそ「肉体のない音」といえるものであるはずで、このディスクが発売されることを知ったとき、
「肉体のない音」とは、どういうものか、この耳で、少なくとも、そのひとつの例を確かめることができると、
そういう気持が先立っていた。

re-performance、と、この自動演奏ピアノの仕組みをつくりあげた会社は、そう呼んでいる。

発売後、すぐに購入した。いわば、変な期待をもちながら、音が鳴りだすのを待った。
鳴った、「グールドだ!」と、当り前すぎることを、心の中でつぶやいた。

ピアノのメーカーも、録音方式も、いろんなことが大きく違うにも関わらず、
「グールドだ!」と認識してしまったことに、すこし拍子抜けするとともに、
すこしばかり驚いてしまった。

これはほんとうに「肉体のない音」なのか。

Date: 1月 18th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その8)

左右のスピーカーのあいだに、空気の密度が急激に高まって、硬い、見えない壁ができ、
それをこれまた、異常に硬いもので叩いた、もしくは貫いた結果の音、と、
ここまで書いて思い当ったのが、ソニックブームである。

飛行機が音速を超えるときに発生する衝撃波に近いであろう、そんな音、
つまりアコースティック楽器では、いかなる楽器をもってこようとも、
こんな音はとうてい出せないだろう、といった低音が伝わってきた。

いままでいくつものスピーカーを聴いていたが、それらのなかで、同じCDをかけて、同じアンプで鳴らしても、
こんな低音を出せるスピーカーは、おそらくないだろう、とそう思うぐらいの音で、
その意味では、この一点のみにおいて、他のいかなるスピーカーよりも優れている、といえるのかもしれない。

けれど、その低音が鳴ったのは、わずか1、2秒のことである。
たしかに凄いとは思った。が、ただそれだけのことである。

衝撃波のような低音がはいっているCDそのものにまったく興味がない。
だから、そのCDがどんなにすごい音で鳴ろうとも、
グールドをはじめとする、私が聴きたい音楽のCDが、奇妙な異和感をまとって鳴るのだから、
その非常に高価なスピーカーを、欲しくなることは絶対にない。

Date: 1月 17th, 2010
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その8)

ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。
(中略)そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
     *
瀬川先生が、ステレオサウンド 50号の特集記事
「ステレオサウンド誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる」のなかで、語られている言葉だ。

50号は、1979年3月に出ている。
オーディオ誌の企画書といえるメモを書かれて、2年後の発言である。

Date: 1月 16th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その7)

これが「肉体のない音」なのかもしれない。
グールドのゴールドベルグのCDがケースに収められるのを見ながら、そんなことも思っていた。

試聴会が始まって、機械の説明とともにつぎつぎとCDが鳴らされていく。
そのなかには、グールドほどではないが、聴きなれたものもあった。
それらの鳴り方も、グールドのゴールドベルグに感じた印象と変らない。

ポップスがかかると、おっ、と感じる。いままでのCDとは違う鳴り方で、
はじめて聴くCDということもあり、それまでの異和感はとくに感じられなかった。

それほど長時間の試聴ではなかったのだが、聴いていてわかったのは、
アコースティック楽器主体の録音では、奇妙な異和感がつねにつきまとう。

ポップスも、それも電子楽器やコンピューターによる音の調整を施した録音では、
ある種の爽快感が現われてくる。

内容そのものに興味がなかったため、CDのタイトルは忘れてしまったが、
アメリカのハイエンドメーカーのあいだで、低音の鳴り方をチェックするのによく使われるというCDがかかった。

このCDだけは、まぁ、たしかにすごかった……。

Date: 1月 16th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その6)

奇妙なことに、聴けば聴くほど「グールドのゴールドベルグ」という確信がなくなっていく。
グールドの演奏を真似た、まったく知らない人の演奏のように聴こえてくる。

とにかく、まずピアノがヤマハのCFには、どうしても聴こえない。
アップライトピアノにしか聴こえない。

580kgの重量のあるピアノが鳴っている感じが全く、そこで鳴っていた音には感じとれなかった。
重量だけではない、アップライトピアノだから、コンサートグランドピアノとは大きさも違う。
響きがこじんまりとしていて、空間に響きが拡がっていく感じがしない。

そのためもあろうが、弾いているひとも、なんとなく細い人というより、存在感が希薄、
もしくは自動ピアノの演奏じゃなかろうか、そんなところまで妄想がいってしまう音なのだ。

グールドのゴールドベルグのCDは、回数の多さだけでなく、じつにさまざまなシステムで聴いてきた。
ステレオサウンドの試聴室で、いろんなCDプレーヤー、多種多様なスピーカーで聴いてきた。

そこで鳴っていた音は、首を傾げたくなるほど不思議な音だった。

なぜ? と思っていたら、開始時間になり、CDプレーヤーからCDが取り出され、
ケースにおさめられているときに見えたジャケットは、
やはり、というべきなのか、グールドのゴールドベルグ変奏曲のものだった。

Date: 1月 16th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その5)

この項の(その3)で、グールドのゴールドベルグ変奏曲なら、たいていの場所で耳にしても、
グールドの演奏だと、耳が判断する、といったことを書いた。

まぁ、よほどひどい環境でも無いかぎり、ふしぎなもので、さほど高価なスピーカーでなくても、
レコード店に置いてある程度のスピーカーから、ラジオのスピーカーであっても、
グールドの演奏だと、バッグラウンドミュージックであっても、ふしぎと耳にはいってくる。

にもかかわらず、昨年、ある試聴会で、どうして?、と考えてしまうことがあった。

開始時間の20分ほど前に会場についた。バッハのゴールドベルグ変奏曲がかかってくることは、すぐにわかった。

よさそうな位置の席を見つけて坐って、そのゴールドベルグに耳をかたむけたら、
「もしかして、グールド?」と思ってしまった。
弾き方は、あきらかにグールドの演奏に似ていると感じても、「あっ、グールドだ!」とは感じられなかった。

Date: 1月 15th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その4)

アデールの「フーガの技法」、2枚のCDを聴きおわったところで、拍手が鳴り、最初のときは驚いた。

ジャケットには”Live Recording” と書かれているし、ライヴ録音だと感じさせる箇所もないわけではないが、
聴き耽っていたら、そんなことは頭の中から消えていて、いきなりの拍手の音に、ハッとした。

このライヴでの聴取は、みな息を潜めて、ひとつになって聴いている。
別の場所、別の時間にいる、CDの聴き手も、いつのまにか聴取とひとつになっている、とでもいったらいいのだろうか。

拍手の音は、とうぜんだがひとつではない。あちこちから聴こえてきて、
視覚情報のあたえられていないCDの聴き手は、拍手の数の多さから、
こんなにも多くの聴き手がまわりにいたことを、はじめて知る。

この静謐さは、グールドとアデールのバッハに通底しているもののひとつであろう。
これだけではないだろう。まだなにかがあるのだろう……。それを感じとりたくて、今日もまた聴いていた。

Date: 1月 14th, 2010
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その5)

他者からの「承認」をえやすい音のスピーカーが、あきらかにある。
しかも増えてきている。

そのことで失われつつある「もの」がある。
そして、オーディオ評論とも関係している。

Date: 1月 13th, 2010
Cate: 瀬川冬樹, 現代スピーカー
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現代スピーカー考(その20・続補足)

「ぼくはインターナショナル・サウンドっていうのはあり得ないと思います」と岡先生は否定されている。
が、「アメリカ製のインターナショナル・サウンド」とも言われているように、全否定されているわけではない。

岡先生は、こうも言われている。
「非常にオーバーな言い方をすれば、アメリカのスピーカーの方向というものはよくも悪しくもJBLが代表していると思うんです。アメリカのスピーカーの水準はJBLがなにかをやっていくたびにステップが上がっていく。そういう感じが、ことにここ10数年していたわけです。
 JBLの行きかたというのはあくまでもテクノロジー一本槍でやっている。あそこの技術発表のデータを見ていると、ほんとうにテクノロジーのかたまりという感じもするんです。」

この発言と、瀬川先生が病室から談話で語られた
「客観的といいますか、要するにその主観的な要素が入らない物理特性のすぐれた音」、
このふたつは同じことと捉えてもいい。

だから残念なのは、全試聴が終った後の総括の座談会に、瀬川先生が出席されていないことだ。
もし瀬川先生が入院されていなかったら、インターナショナル・サウンドをめぐって、
ひじょうに興味深い議論がなされたであろう。

それは「現代スピーカー」についての議論でもあったはずだ。

瀬川先生の談話は、the Review (in the past) で公開している。
「でも、〝インターナショナル〟といってもいい音はあると思う」の、そのだ。

Date: 1月 13th, 2010
Cate: 瀬川冬樹, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その20・補足)

ステレオサウンドの60号が手もとにあるので、
瀬川先生のインターナショナルサウンドについての発言を引用しておく。
     *
これは異論があるかもしれないですけれど、きょうのテーマの〈アメリカン・サウンド〉という枠を、JBLの音には、ぼくの頭のなかでは当てはめにくい。たとえば、パラゴンとオリンパスとか、あの辺はアメリカン・サウンドだという感じがするんだけれども、ぼくの頭の中でJBLというとすぐ、4343以降のスタジオモニターが、どうしてもJBLの代表みたいにおもえちゃうんですが、しかし、これはもう〈アメリカン・サウンド〉じゃないんじゃないのか、言ってみれば〈インターナショナル・サウンド〉じゃないかという感じがするんです。この言い方にはかなり誤解をまねきやすいと思うので、後でまた補足するかもしれないけれども、とにかく、ぼくの頭の中でのアメリカン・サウンドというのは、アルテックに尽きるみたいな気がする。
アルテックの魅力というのは(中略)、50年代から盛り返しはじめたもう一つのリッチなアメリカ、それを代表するサウンドと言える。もしJBLの4343から4345を、アメリカン・サウンドと言うならば、これは今日の最先端のアメリカン・サウンドですね。
     *
瀬川先生のインターナショナル・サウンドに対しては、
アメリカン・サウンドの試聴に参加された岡、菅野のおふたりは、異論を唱えられている。

岡先生は、4345の音を「アメリカ製のインターナショナル・サウンド」とされている。

Date: 1月 12th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その59)

「きれいさっぱり」という表現がある。

きれいさっぱりに洗った、という場合には、汚れの落とし忘れもなく、清潔なこと。
きれいさっぱりあきらめた、という使い方もある。
潔くあきらめて、さっぱりしている、という意味だ。
また、何もかも失ってしまったときにも、きれいさっぱり、を使うこともある。

洗濯の例のようによい意味で使われることもあれば、そうでない使い方もある。

バーンスタインのマーラーには、きれいさっぱり、という表現はまったく無縁だ。
インバルのマーラーには、きれいさっぱり、という言葉を使いたくなる、なにかを感じる。
というより、何かがたりないから、そう感じる、といったほうが正しい。

きれいさっぱりな音のアンプ、は、褒め言葉ではない。
そう受けとる人もいるかもしれないが、音の表面的な綺麗さにこだわるあまり、
なにか大事なものまで捨ててしまった音、そんな意味が含まれている。

バーンスタインの感情移入の凄まじさは、ある種のノイズなのかもしれない。
その「ノイズ」は、人によっては、音の汚れとして、または、きわどい音として受けとめるのか……。

バーンスタインのマーラーの第5番を「チンドンヤみたい」と受けとめた編集者にとっては、
バーンスタインの発する「ノイズ」は、単なる汚れにしかすぎなかったのか。
だから、その種の「ノイズ」をきれいさっぱりと洗い流したインバルのマーラーを選ぶのか……。

その一方で、きれいさっぱりなものに物足りなさを感じる者も、またいる。