Archive for category テーマ

Date: 1月 19th, 2015
Cate: オーディオ評論, 訃報

江川三郎氏のこと(その1)

昨夜、facebookで江川三郎氏が亡くなられたことを知った。
オーディオフェア、ショウの会場ですれ違ったことが二回くらいあるだけだ。

私はステレオサウンドで丸七年働いていたけれど、
そのころは江川三郎氏はステレオサウンドとの関係はまったくなかった。
ご存知ない方もいまでは増えているようだが、
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のアルテック号には、江川三郎氏が登場されている。
アルテックのユニットを使った自作スピーカー記事「アルテクラフト製作記」を担当されていた。
この記事は面白かった。

私にとって江川三郎氏ということで頭に浮ぶのは、
この「アルテクラフト製作記」に出て来た604-8Gを使用したアクロポリスがまずあり、
それからハイイナーシャプレーヤー、逆オルソン方式である。
あと思い出すのは、JBLのパラゴンを鳴らされていたことである。

パラゴンは1969年にはすでに鳴らされていた。
当時の山水電気の広告「私とJBL」にパラゴンをバックにした江川氏が登場されている。

たしかトリオの会長の中野氏が鳴らされていたパラゴンだったはずだ。
パラゴンといえば私の中では真っ先に岩崎先生が浮ぶ。
けれど江川氏が岩崎先生よりも早く、パラゴンを鳴らされていたことは忘れてはならないことだと思う。

パラゴンも最後のほうではウーファーの裏板を取り外して鳴らされていたはず。
1980年代以降の江川氏のイメージとパラゴンは結びつきにくい。
けれど山水電気の広告の写真をみていると、そんな感じはしない。

この写真を見ていると、あれこれおもってしまう。

Date: 1月 18th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その8)

ワディアのPower DACは、オーディオ機器としてパワーアンプなのか、D/Aコンバーターなのか。
ワディアはPower DACと呼んでいるのだから、D/Aコンバーターの一種として開発したモノともいえる。

ステレオサウンド 133号のベストバイでは、Wadia 390 + Wadia 790はパワーアンプとして扱われている。
コンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー賞でもパワーアンプとして受賞している。

ということはPower DACはD/Aコンバーター内蔵パワーアンプということになり、
そう捉えてみると、類似のオーディオ機器は以前からあることになる。

アルパイン・ラックスマンがD/Aコンバーター内蔵のプリメインアンプLV109を1986年に出している。
LV109にはフォノイコライザーは搭載されていなかった。
アナログディスク再生用にLE109が用意されていた。

入力はライン入力とデジタル入力のみのLV109は、
アルパイン・ラックスマンがもしPower DACだと呼んでいれば、Power DACと受けとめただろうか。
そんなことはなかったはず。
アルパイン・ラックスマンがどう呼称しようと、LV109はプリメインアンプであった。
デジタル入力を備えるプリメインアンプである。

ならばワディアのWadia 5はD/Aコンバーター内蔵のパワーアンプとして認識すべきである。
Wadia 390 + Wadia 790はコントローラーが別筐体ではあるものの、
やはりD/Aコンバーター内蔵のパワーアンプということになり、
ステレオサウンドのベストバイ、コンポーネンツ・オブ・ザ・イヤーのジャンル分けは間違っていない。

このことはWadia 5がステレオサウンド誌上に現れた時に考えたことだ。
アナログ入力のない、デジタル入力だけのパワーアンプである、と。

それでも私のなかでは、Power DACという認識である。
つまり8Ω負荷で200Wの出力をもつD/Aコンバーターである。

このことがシンプルについて考えていく上で、ずっと引っかかっていることであり、
シンプル(simple)とミニマル(minimal)の違いを、
オーディオにおいてよりはっきりさせていくように感じている。

Date: 1月 18th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その7)

プロトタイプであったWadia 5、製品として登場したWadia 390 + Wadia 790。
私がミニマルなシステムだと感じるのは、Wadia 5である。

コントローラーとしてWadia 390が加わったとはいえ、基本構想はどちらも同じである。
けれどWadia 390 + Wadia 790には、Wadia 5には感じたミニマルな印象が後退している、と感じた。

なぜなのだろうか。
Wadia 5では円筒形の筐体がふたつだったのが、
Wadia 390 + Wadia 790では筐体の形状・大きさが変り、三筐体になったからだろうか。
たしかにWadia 390 + Wadia 790の本体はかなり大きい。

それでも充分なスペースのリスニングルームであれば、
その大きさも問題にならないはず。

私には大きさではなく、形状に、そう感じさせるところがあるよう思っている。
Wadia 5の筐体は円筒形。
円筒形のアンプはそれ以前にもあった。
イギリスのレクソンのパワーアンプは1977年には登場していたし、
日本のNIROのパワーアンプも基本的には円筒形だった。
円筒形のパワーアンプは目新しいわけではなかった。

Wadia 390 + Wadia 790の筐体の形状は言葉では表現しづらい。
誰かがいっていたけれど、
Wadia 790の筐体はスターウォーズのダースベイダーのマスクを思わせるようなところがある。
つまり威圧感がある。実物を見ていないけれど、存在感もどうだ、といわんばかりに写真から伝わってくる。

それに対してWadia 5の円筒形の筐体には、そういった要素は感じられない。

Date: 1月 18th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その17)

トーレンスの101 Limitedを使っていた時、
EMTの930st用のガラスターンテーブルと927Dst用のスタビライザーを手に入れた。

930st(101 Limited)はアルミ製のターンテーブルプラッターの上に、
プレクシグラス製のサブターンテーブルがのっている。
これを927Dstのそれと同じつくりのガラス製のモノに変え、
927Dst用のスタビライザーも併用する。

しばらくこの状態で聴いていた。
ガラス製ターンテーブルはそのまま使い続けた。
スタビライザーはというと、レーベルの上に乗せるという使い方はしなくなった。
けれど使わなくなったわけではない。

101 Limitedはトーンアームの真横に、45回転アダプターをおけるようになっている。
927Dstのスタビライザーは上下反対にすれば45回転アダプターになる。
だからスタビライザーは、この位置に置いていた。
つまりトーンアームとターンテーブルプラッターのあいだにスタビライザーがある。

ここにスタビライザーがあるとないとでは、音が違う。
私はここにスタビライザーを置く音をとった。
たいていはこの状態で聴いていた。
ときどき気が向けばスタビライザー本来の使い方をして聴いた。

このスタビライザーが二個あれば、トーンアームの真横に置きながら、
レコードの上にのせるかのせないかという使い分けもできたのだが、一個しか持っていなかった。

スタビライザーはなにもレコードの上にのせるだけが使い方ではない。
こういう使い方もある。

Date: 1月 18th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その16)

したり顔でスタビライザーを使うとレコードの鳴きを抑えてしまう、だからダメ、という人がいる。
スタビライザーはレコードのレーベル部にいわば重りを乗せるものであるからといって、
レコードの鳴きを抑えているといえるのだろうか。

レコード(LP)の直径は12インチ。スタビライザーの直径は7〜8cmのモノが多かった。
これだけのモノでレコードの鳴きを抑えることができるのならば、すごいことである。

それにスタビライザーはたいていの物が金属製だった。
金属といっても真鍮、銅、ステンレスなどがあった。
ガラス製もあった。
ゴムでダンプしてあるモノもあった。

どんなスタビライザーであっても、スタビライザー固有の音(鳴き)がある。
スタビライザーを使うと、スタビライザー固有の音も大なり小なり再生音に附帯して出てくることになる。

スタビライザーはレコードの鳴きの一部を抑えることはできているだろうが、
完全に抑えることなんて無理である。
なのに、スタビライザーの使用に徹底的に否定的な人は、レコードの鳴きを抑えるから、だという。

なぜ、こうも強引な理由をつけて、スタビライザーを使うことに対して白黒つけたがるのか。
音を聴いて瞬時にどちらがいいかを判断する。
これがカッコいいことだと思っているから、ではないのか。

スタビライザーはひじょうにプリミティヴなアクセサリーである。
使い方も簡単である。
だからこそもっともっと気楽につきあえばいいではないか。

その時の自分の感覚が使った方がいいと判断すれば使えばいいだけのことだし、
このレコードでは使わない方がいいと判断したのであるならばそうすればいい。

スタビライザーを使うこと(使わないこと)を楽しめばいいのに……、と思う。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その4)

上野晃一様のコメントは、16日にもあった。
そこに、オーディオ評論の「美」とある。

いますぐというわけではないが、オーディオ評論の「美」もテーマになる。
何か書いていける予感がした。

オーディオ評論の「美」は、オーディオの「美」のひとつでもあるかもしれない。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その3)

オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者。
一般的にはオーディオ評論家の方が編集者よりもオーディオのプロフェッショナルであるように思われている。
当事者たちもそう思っているのかもしれない。

けれど本来はどちらがオーディオのプロフェッショナルとして上ということではなくて、
同等にオーディオ・エンジニアリングに長けていて、
その上でオーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者とでは役割が違うだけのはずだ。

だが実際には……。
この人(たち)は、オーディオのプロフェッショナルなのだろうか、
オーディオ・エンジニアリングに長けているのだろうか。

私はオーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者はオーディオ業界の中心にいると考える。
オーディオ評論家とオーディオ雑誌の編集者がオーディオ業界の主人公というわけではなく、
あくまでも業界の中心にいると見ている。

だから、くり返すが、彼らはオーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない。
オーディオのプロフェッショナルとして、である。
つまり圧倒的であってほしいのだ。

圧倒的といえるほど長けている人たちがオーディオ業界の中心にいれば、
彼らに接しているオーディオ業界の人たちも感化・触発・挑発されていくのではないのか。

私がグールドの演奏が残酷だという話をした知人も、オーディオ業界にいた人だった。
彼はいまも自身のことをオーディオのプロフェッショナルと自認・自称している。

私は自称であれ他称であれ、オーディオのプロフェッショナルを名乗っている人に対しては、
はっきりというようにしている。
オーディオマニアの中には、キャリアの短い人やシステムの総額がそれほどでない人を、
オーディオの素人という人もいる。

誰かをオーディオの素人というのであれば、
その人はオーディオの玄人(プロフェッショナル)といっているのと同じである。

認めるところは認める。
けれど、あまりにもいいかげんなことを言っている人(オーディオのプロフェッショナルであるべき人)には、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」と思われてしまうことでも書いていく。

オーディオ業界がよくなれば、オーディオの世界はより広くより深く楽しく素晴らしくなっていくはずだ。
なのに、いまのオーディオ業界にははっきりと欠けている「もの」がある。

Date: 1月 17th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その15)

スタビライザーを使うのがいいのかどうかについても同じことである。
あるレコードについては使った方がいいことだってある。
同じレコードであっても、カートリッジがかわれば使わない方がいいことだってある。

それにシステムの音も聴き手の感覚も毎日完全に同じではない。
ひとりの聴き手の朝と夜とでも違うように、常に変化しているのだから、
それに応じて柔軟に対処するのが、それができるのがアナログディスク再生の、
デジタルディスク再生に対しての大きな強みといえる。

スタビライザーにもいろんな種類がある。
それらを試して、これがいちばんいい、と思えるスタビライザーをえらぶのではなく、
それぞれのスタビライザーの音の傾向をきっちりと把握しておくことで、
同時にカートリッジとの相性をふくめて、その調整、それらの関係性の把握こそが、
アナログディスク再生の柔軟性を、聴き手が手にすることができる。

このことは針圧計で針圧をできるかぎり精密に測ることではない。
自分の感覚の把握でもある。

つまりあれこれ調整することで、
その時の自分の感覚に合せることは、自分の感覚を調整していることでもある。

アナログプレーヤー関連のアクセサリーをどう捉えるのか。
私は、こう捉えている。

Date: 1月 16th, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その14)

アナログディスク再生とデジタルディスク再生。
このふたつの違いは、いろんな言葉で表現できる。

究極的には、アナログもデジタルも同じだと私は考えている。
だからといってアナログディスク再生とデジタルディスク再生が同じというわけではない。

デジタルディスク再生、
いいかえればCDプレーヤーの場合、ひとつのブラックボックス的要素が強い。
アナログプレーヤーにはブラックボックス的要素はほとんどないといえる。
機種によって、その辺の違いはあるけれど、
ほとんどすべての動作は視覚的に確認できるのがアナログプレーヤーである。

それゆえに調整箇所が多いのがアナログプレーヤーである。
CDプレーヤーでは、アナログプレーヤーでカートリッジを交換するようなことはできないし、
カートリッジの調整にあたる箇所もない。

つまりアナログプレーヤーによるアナログディスク再生は、
その時々の自分の感覚に応じて調整すること(融通をつけること)ができることが、
CDプレーヤーによるデジタルディスク再生との大きな違いである。

スピーカーから鳴ってくる音をきく聴き手は、いうまでも人間である。
機械がきくわけではない。
人間である以上、常に同じ状態ではない。
スピーカーから鳴ってくる音楽に気乗りしない時もある。身が入らない時もある。
上の空で聴いてしまいそうになるときがある。

そういう時、アナログにプレーヤーならば、その時の自分の感覚に合せるように調整することができる。
カートリッジの交換も、そう受けとめることができる。

このLPにはこのカートリッジで、というふうに決めておくのではなく、
むしろ、いま聴きたいレコードを、いまの感覚に合せてカートリッジを選択する、という聴き方である。

Date: 1月 16th, 2015
Cate: audio wednesday

第49回audio sharing例会のお知らせ

2月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

テーマはまだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 15th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(コメントへの返信・その2)

あるスピーカーの輸入商社の社長に、こんなことを話したことがある。
そのスピーカーは振動板にチタンを採用していた。
そのスピーカーに私は惚れ込んでいた。いまも惚れ込んでいる。

それで「振動板、カーボンもいいはず」と話した。
動作原理からいってカーボンでも動作するはずだし、
チタンとカーボン、どちらが優れているかは現実に製品化されなければなんともいえないものの、
カーボンにはカーボンならではの素材のよさがあるのだから、
チタン採用とはまた違うよさを、そのスピーカーから抽き出してくれるはず、という確信があった。

だが返ってきたのは「カーボンなんてありえない」だった。
どうもカーボンでは動作しないと判断しての即答だった。
それ以上、この件については話さなかった。

その一年後くらいして、そのメーカーからカーボンを採用したヴァージョンが登場した。
チタンがいいのかカーボンがいいのか、それは聴く人に委ねられているわけだが、
やはりカーボンで出してきたな、と思ったけれど、そのことを蒸し返す気はなかった。

オーディオ・エンジニアリングに長けている、長けていようとする人ならば、
そのスピーカーでのカーボンの可能性に気づいて当然である。

以前、「気になっている(その3)」で書いたが、
オーディオ業界に属している人は、オーディオのプロフェッショナルであるべきだ。
けれど、そのスピーカーの輸入元の人は残念ながら違っていた。

カーボンの可能性に気がつかないから、というわけではない。
誰しも気づかないことはある。
だがそれを誰かから指摘されたときに、その人がオーディオのプロフェッショナルであるならば、
すぐに気づかなければならない。

そのスピーカーの輸入商社の社長は、オーディオ業界にいるわけだから、
オーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者といった、
オーディオのプロフェッショナルであるべき人たちと仕事で日常的に接している。

ここで彼らがオーディオのプロフェッショナルであったならば、
輸入商社の社長もオーディオのプロフェッショナルとなっていたようにも思える。

Date: 1月 15th, 2015
Cate: オーディオの「美」
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オーディオの「美」(コメントへの返信・その1)

この項の(その4)へ、上野晃一様のコメントがあった。

グールドの演奏が残酷であると感じたことを、ある人に話した、と書いた。
ここのところは、ある人を否定することにもつながるから、それ以上のことは書かなかった。
言葉足らずなのかはわかっていた。

言葉たらずなのだから、上野様のコメントにあるように、
そういう受けとめ方をされるかも、と思っていたけれど、それはそれでいいかな、と思い、
あえて言葉足らずのままにしておいた。

知人の「あたりまえじゃないですか」の後には、
「彼はプロなんですよ」という言葉が続いていた。
その人とのつきあいは長かった。

彼と話すことといえば、オーディオと音楽の話ばかりだったといってもいい。
それでも、彼に私がいいたかったことは伝わらなかった。
ここで知人との会話の逐一を書いたりはしない。

コメントには、
《グールドのピアノが残酷なのは「あたりまえ」です。
他者に冠絶するがゆえに、彼の人の演奏はかくも美しいのだから。》とある。

知人の「あたりまえ」とコメントにある「あたりまえ」は同じ意味で使われているとは、私には思えない。

知人と私の関係をほかの人は知らないのだから、
それに言葉たらずなのだから、そういうふうに受けとめられてもしかたない。

それでも、「あまりにたやすく他者の異論を一蹴」したのではない。
こんなことをここに書くことではないのだが、
「あまりにたやすく他者の異論を一蹴する」のは知人の方だとつねづね感じていた。

一蹴するのは、別にかまわない。
人の話を禄にきかずに知人はたやすく一蹴する。
そういうことがあって、昨日のブログであった。

コメントには「才能の隔絶による絶望を味わったことが、果たしておありでしょうか?」とある。
オーディオに関する限りはない、と答える。
なんという自惚れといわれても、オーディオに関しては「才能の隔絶による絶望」はまだ味わっていない。
これから先、味わうことになるかもしれない。先のことはわからない。

だからといって才能の差、違いを感じていないわけではない。
私よりも専門知識を持っている人はいる。けっこうな数の人がいる。

たとえばメーカーのエンジニア。
スピーカーのエンジニア、アンプのエンジニア、
そういった人たちのスピーカーに関する専門知識、アンプについての専門知識は私の敵うところではない。
けれど、オーディオの難しいのは、
スピーカーの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか、
アンプの専門知識をもった人がオーディオの専門家といえるかどうか。

スピーカー・エンジニアリング、アンプ・エンジニアリングが、
オーディオ・エンジニアリングと常に直結しているとはいえない。
だからこそオーディオ評論家の存在が求められるのだと考えてもいる。
そしてオーディオ評論家の活躍の場となるオーディオ雑誌の編集者も、
オーディオ・エンジニアリングに長けていなければならない、とも考えている。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson, デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(LNP2のこと・その7)

マークレビンソンのML6のデザインも、素晴らしいとはいわない。
けれどML6をステレオサウンドに載った写真でみたとき、
LNP2、JC2(ML1)には感じないものを感じていた。

ML6はウッドケースにおさめられた写真が多かった。
中に、ウッドケースから取り出し、上下に重ねた写真もあった。

ML6はウッドケースにいれないほうが断然いい。
少なくとも私がML6に感じていた魅力は、ウッドケースなしのほうが映える。

ML6の基本はJC2のデザインである。
JC2のフロントパネルからツマミやスイッチを取り外して、
レベルコントロールとインプットセレクターだけにしたのがML6である。
これ以上省けないところまで機能を削っている。

音のために、その潔さに魅力を感じていたのか、と思いもしたが、どうもそうではない。
ML6を、LNP2、JC2の写真を何度も見較べた。
実物をみる機会はなかったから、ステレオサウンドに載った写真を見較べるしかない。

ML6には、色気のようなものがあるのに気づいた。
色気のようなもの、であって、色気とは書かない。

ほとんどのっぺらぼうに近いフロントパネルのML6にあって、
メーターもついていて、ツマミの数も多いLNP2に感じられないもの。

それは肉感的な要素であり、官能的な要素である。
とはいえML6にそういった要素があるとはいえないのだけれど、
LNP2にはそういった要素を拒否している。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: オーディオの「美」
1 msg

オーディオの「美」(その4)

もう30年ちかく前のことだ、20代半ばだったころ、グレン・グールドのピアノを聴いていて、
なんて残酷なんだろう……と感じた。

グールドの演奏を聴いていると、ピアノを弾ける、ということは、なんと素晴らしいことだと思える。
人生を最初からもう一度やり直せるのであれば、ピアノを弾けるようになりたい、とも思わせる。

けれど次の瞬間、なんと残酷なんだろう……、となっていた。

たとえピアノが弾けるようになるのに理想的な環境が与えられて、もう一度やり直したところで、
グレン・グールドのようには到底なれない。
一度だけではなく、二度三度やり直せたとしても、絶対に無理だ……。

圧倒的に隔絶したものを、グールドのピアノの音は感じさせていた。
だから、なんて残酷なんだろう……、と感じたのだろう。

この話を、ある人にしたことがある。
彼は「そんなのあたりまえじゃないですか」といった。
説明したけれど、彼の反応は同じだった。

それは彼の音楽の聴き方がそうなのであり、
同じようにグールドの演奏が素晴らしいとふたりともいっていても、違うだけのことだ。

そのときに、この人とは、「美」について真剣に語り合うことはないだろう、と予感した。
この予感は的中した。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・絵に描いた餅ならば)

「絵に描いた餅」なのはわかっていて、あえて餅の絵を描く人と、描かない人とがいる。
描く人はオーディオマニアであり、
描かない人は音楽が好きで、いい音でききたいと思っていてもオーディオマニアではない──、
そう思えてきた。