Archive for category テーマ

Date: 8月 2nd, 2022
Cate: 四季, 真空管アンプ

真空管アンプの存在(と四季)

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭で、
こんなことを書かれている。
     *
 秋が深まって風が肌に染みる季節になった。暖房を入れるにはまだ少し時季が早い。灯りの暖かさが恋しくなる。そんな夜はどことなく佗びしい。底冷えのする部屋で鳴るに似つかわしい音は、やはり、何となく暖かさを感じさせる音、だろう。
 そんなある夜聴いたためによけい印象深いのかもしれないが、たった昨晩聴いたばかりの、イギリスのミカエルソン&オースチンの、管球式の200ワットアンプの音が、まだわたくしの身体を暖かく包み込んでいる。
     *
今日は8月2日。真夏の真っ只中。
瀬川先生がこの文章を書かれた時よりも、ずっとずっと暑い夏をわれわれは体験している。

瀬川先生は、ステレオサウンド 52号の特集の巻頭で、こうも書かれている。
     *
せめてC240+TVA1なら、けっこう満足するかもしれない。ただ、TVA1のあの発熱の大きさは、聴いたのが真夏の暑さの中であっただけに、自家用として四季を通じてこれ一台で聴き通せるかどうか──。
     *
TVA1はKT88のプッシュプルで、出力管は四本。
M200はEL34の4パラレル・プッシュプルで、出力管はステレオで十六本。

発熱量はそうとうに違う。
M200をTVA1と同じ真夏の暑さの中だったら、どうであったろうか。

井上先生は、
季節によって聴きたい音楽、聴きたい音が変ってくることについて、よく口にされていた。
真空管アンプの音が聴きたくなるのは涼しくなってきてから、ともよく言われていた。

こんなことを思い出して書いているのは、
いまヤフオク!に、ジャディスのJA200が出品されているからだ。

今日の22時すぎに終了を迎えるが、いくらで落札されるのだろうか──、
そのことよりも、JA200を落札した人は、この暑い暑い真夏の真っ只中、
JA200で鳴らすのだろうか──、ということに関心がある。

JA200はステレオサウンド時代に聴いている。
どのくらいの落札価格が適切とか、そんなことは書かないが、
JA200の発熱量は半端ではない。

KT88の5パラレル・プッシュプルだから、両チャンネルで二十本である。
TVA1の五倍の規模であるし、厳密ではないものの、約五倍の発熱量である。

入札、応札している人たちが東京の人とはかぎらない。
もっと涼しいところに住んでいる人かもしれない。

それにしても、あの発熱量をわかったうえで、JA200を欲しがっているのだろうか。

Date: 8月 2nd, 2022
Cate: 名器
1 msg

ヴィンテージとなっていくモノ(人もなのか)

ヴィンテージ・ピアニストの魅力」という本が、
9月26日に発売になる、とのこと。

一ヵ月以上先の発売なのだから、読んでいるわけではない。
本の内容についてあれこれ書くわけではない。

タイトルへの違和感をおぼえたからである。
この本で取り上げられている「ヴィンテージ・ピアニスト」は、現役のピアニストである。

誰について書いていて、誰について書いていないかではなく、
現役、つまり生きている人に「ヴィンテージ」とつけていることに、
私は違和感しかない。

ヴィンテージという言葉を、そもそも人につけるのだろうか。
少なくとも私は、今日初めて目にした。

それでもすでに物故した演奏家、
しかも数十年前にこの世を去った演奏家にもかかわらず、
いまなお多くの聴き手に聴かれていて、
しかも新しい聴き手を呼び起こしている人たちに、ヴィンテージとつけるのであれば、
まだなんとなくではあっても納得できなくもないが、
生きている(現役の)人につけることに、編集部は何も思わなかったのか。

それとも、これがいまの感覚なのか。
違和感を持つ私の感覚が古い、といわれればそれまでだけど、
それでも、人にヴィンテージとつけるのは、おかしい。

Date: 8月 1st, 2022
Cate: 戻っていく感覚

ラックス MQ60がやって来る(その3)

ラックスは、なぜLX38としたのだろうか。
SQ38FD/IIIとしなかった理由は、ウッドケースをやめたからではなく、
内部を比較してみるとはっきりすることなのだが、
LX38はプリント基板を要所要所で使い、製造コストを抑えていることがわかる。

SQ38シリーズだったころとはワイヤリングがずいぶん違うし、
製造にかかる時間も手間もずっと合理化されたはずである。

なのでLX38とSQ38FD/II。
どちらも程度のよい中古があったとしたら、どちらがいいかと訊かれたら、
SQ38FD/IIと答える。
内部を見たくなる人ならば、よけいにそうだ。

でも私は、それでもLX38をとる。
五味先生が書かれたことを思い出す。
     *
最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。
(「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」より)
     *
レコードとアンプとでは話はまったく同じなわけではないのはわかっていても、
それがいいから必ずしも選ぶとはかぎらない。

ステレオサウンドの「世界のオーディオ」のラックス号の171ページに、
製品の型番のアルファベットについて書かれている。
それによると、
プリメインアンプはSQとL、
コントロールアンプはCLとC(旧製品はPZとPL)、
パワーアンプはMBとMQとM(旧製品はMVとMRとMA)、
チューナーはT(旧製品はWZとWLとVL)、
スピーカーはLX(旧製品は〜Hと〜CとS)、
プレーヤーはPD(旧製品はP)、
キットはKとA、
となっている。

1975年時点で、LXはスピーカーにつけられる型番だった。
それがプリメインアンプに移っている。

LX38は1978年に登場している。
それ以降、ラックスからスピーカーが登場していないのかというと、そうではない。
MSから始まる型番の製品がいくつか出ていた。

Date: 8月 1st, 2022
Cate: 言葉

ひたむき(続・音になる前の「音」)

マンガ「ちはやふる」が今日最終回をむかえた。
十五年の連載だった。

前回「ひたむき(音になる前の「音」)」を書いたのは、2013年。
まだMQAは登場していなかった。

音になる前の「音」。
MQAの良さを感じとっている人ならば、きっと感覚的であっても理解できるはず。

Date: 8月 1st, 2022
Cate: 戻っていく感覚

ラックス MQ60がやって来る(その2)

真空管の音は、それ以前もラジオやテレビで聴いていたけれど、
オーディオアンプとしての真空管の音は、私にとって、その最初はラックスのLX38だった。

これまでのオーディオ歴で、真空管アンプは四台使ってきた。
チューナーは一台である。
ただ、どの機種にしても長期間愛用してきたとはいえない。

そんな私のところに、ラックスのMQ60がくる。
SQ38FDとLX38のパワーアンプの回路がどの程度違っているのは、調べていない。
二機種の回路図を比較すれば、多少の違いはあるだろうけれど、
基本的には同じ回路だと思われる。

ということはLX38のパワーアンプ部とMQ60は回路的には同じだろう。
そのMQ60が、LX38を聴いた日から四十年以上経って、私のところにやって来る。

不思議な感覚だからこそ、この項のテーマは真空管アンプではなく「戻っていく感覚」である。

Date: 7月 31st, 2022
Cate: 戻っていく感覚

ラックス MQ60がやって来る(その1)

今回はヤフオク!ではない。
あるところからラックスのMQ60がやって来る予定である。

MQ60と書いてしまったが、正確にはKMQ60。
MQ60のラックスキット版である。

MQ60は50CA10のプッシュプルアンプである。
SQ38FDのパワーアンプ部を独立させた製品といえる。

50CA10は、ヒーター電圧が50Vという規格の出力管で、
50CA10を二本直列接続すれば、AC100Vからヒーター電圧をとれる。
つまり電源トランスから50CA10用のヒーター巻線を省くことができる。

真空管アンプの電源トランスには、
高電圧・低電流の巻線と定電圧・高電流の巻線とがある。

出力管のヒーター用巻線を省ければ、それだけ電源トランスの製造は楽になるし、
その分コストも下がるし、発熱も少なくなる。
メリットは、確かにある。

だからラックスが管球式プリメインアンプに50CA10を採用した理由も理解できる。
けれど、当時のように50CA10が製造されていて入手が容易ならばそれでいいけれど、
50CA10は、このヒーターのせいで代替管がない。

私のところにやって来るMQ60に挿っている50CA10の状態がどうなのか、
いまのところわかっていない。

50CA10がダメになっていたら、ヤフオク!で探すことになるだろう。
それにメインテナンスも必要だし、きちんと音を出せるようになるまでは少し時間がかかる。

それでいい、と思っている。
ぽつぽつやっていけば、涼しい季節になっているはずだからだ。

Date: 7月 30th, 2022
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その19)

太った豚より痩せた狼であれ。
一時期、よくいわれていたものだ。

はっきりとは憶えていないし、
検索してみても、いつごろから、誰が言い始めたことなのかはっきりとしない。

私が十代の終りごろからハタチすぎくらいまでに、
よく見聞きしたように思う。

私の周りにも、真顔で「太った豚より痩せた狼であれ」という男がいた。
豚、狼というのが精神的な分類であることはわかったうえで、
ややひねくれたところのある私は、
豚なのか狼なのかは、本人には選べないし、
選べるのは太っているか、痩せているか──、ではないのか。

それを真顔でいう人に向って返したことはないけれど、
いま彼らは、どう思っているのだろうか。

(その18)で引用した菅野先生の文章は1975年のものだが、
まだそのころは私は「五味オーディオ教室」にであっていない。

なので「世界のオーディオ」のラックス号を読んだのは、
ステレオサウンドで働くようになってからである。

《肥った馬はやせていき、やせた馬は死んでいき、肥った豚が増えてくる。ついには、やせた豚と肥った豚だけの世の中になってしまう》、
ゆえに、ここのところではうんうんと頷いていた。

やせた豚と肥った豚だけの世の中。
そうなりつつある。

ひさしぶりに読みなおして、五十年近く前に書かれたこととは、
わかっていても、予言めいていると思うし、
ここで私は「時代の軽量化」をテーマにしているけれど、
それは近年のことではなく、ずっと以前から悪循環の輪なのかもしれない。

Date: 7月 29th, 2022
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その18)

次の文章を、まず読んでほしい。
     *
 ところで現実の姿はどうだ。金儲けが第一、唯一の目的(初めはそうではなかったのが、知らず知らずのうちにこうなっていく悪循環を生み出す,悪い輪廻から生れたものと思われるが)の人間は、すでに物創りの魂を失っているわけだが、そういう人間が作るものに本物の美や価値があろうはずがない。それを買う買手は、決してよい買手とはいえない。買手のほうにも広い精神的視野と高い価値観がないから、少しでも安いものを買って目先の得をしようと思う。それでも売れることは売れる。ただし、安くしなければならないから、大量に売らなければならない。上がった利益は次の仕事に使われるが、その方向が問題。つまり、より安く、より多くつくるために大部分が使われる。もともと物創りの精神を失っているから、客の目を惹くためにはなんでもする。新製品は目につくから、次から次へと短期間にやっつけ仕事でも新製品をつくらねばならない。この輪廻の中で金儲け主義の人間に使われる多くの使用人達は馬車馬のようにムチ打たれ、心の余裕を失うままにヒステリックに働き疲れる。少しでも賃金を獲得しようと汲汲とする。少しでもサボッたほうが得だという歪んだ考えや無責任人間が生れる環境が出来上がる。金儲け人間たちは、大量のそういう使用人達の管理や、おだてに神経を使い、ますます本質を忘れる。そうしてふくれあがった大量の人間たちは、他の分野でも、低い価値観しか持たないから、決していい買手にはなり得ない。文化は低下し、人間は疲れる。世の中がこういう輪廻をつくり出すと、人は生き甲斐を失って、ただ疲れ、ますます悪循環の輪は拡がっていく。そして、知らず知らずのうちに、世の中には、本当に優れたものの価値を評価する人間が減っていく。いいものは値段の高さだけが目立つようになる。ここで本来のオーディオ界の輪が決定的にくずされるわけだ。実用家電製品になり下がる。趣味はひたすら、レジャーとか暇つぶしといった概念だけで考えられるようになり、オーディオも単なる流行現象と化し、肥った馬はやせていき、やせた馬は死んでいき、肥った豚が増えてくる。ついには、やせた豚と肥った豚だけの世の中になってしまう。
     *
《少々極端だが》と菅野先生自身も書かれているが、
1975年に書かれた、この菅野先生の文章を読んで、
どう思う(感じる)のか、そしてどう考えるのか。

Date: 7月 29th, 2022
Cate: 書く

毎日書くということ(続々・今日決めたこと)

今日は7月29日だから、audio identity (designing)が終る日まであと半年。
新しいブログの名前も考えた。

とはいえ、どんなことを書いていくのかはまだあれこれ考えている。

Date: 7月 28th, 2022
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(iPhoneとミニマルなシステム・その5)

別項「D/Dコンバーターという存在(その14)」で、
二年前にも書いているように、
Amarra PlayのMQA対応は完全な、とはいえないところを残している。

二年前に、Amarra Playを使ってiPhoneとメリディアンの218でのMQA再生を試した。
Amarra PlayはMQAのコアデコードをパスすることができる。
フルデコードのD/Aコンバーターと接続するためである。

設定項目にあるPassthrough MQAをONにしてみると、MQA再生が非常に不安定だった。
218のMQAを示すLEDが、なぜか点灯ではなく点滅する。
IP Controlで確認しても、MQA、PCMの表示が一秒足らずの周期で変る、という具合にだ。

今回、LotooのPAW S1と接続した時も、もちろんPassthrough MQAをONにした。
PAW S1の表示には、コアデコードのみの再生と表示される。
フルデコードされていない(MQAと表示されない)。

PAW S1のファームウェアのヴァージョンも確認した。
最新ヴァージョンの一つ前だった。
症状がおさまるとは思えなかったが、念のためファームウェアを最新にする。
予想どおりに症状は同じである。

mconnect Player、HF PlayerではMQAのフルデコードができる。
Amarra Playは、どうやってもできない。

なので、いまのところmconnect Player+PAW S1の組合せが、
夜遅くなってからのTIDALサーフィンの供になっている。

Date: 7月 28th, 2022
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その33)

この項を書いてきて、ふと思うのは、
五極管シングルアンプを初心者向きとするのは、
真空管アンプ自作のスタートは、五極管シングルということなのだろう。

このスタートは、なんとなく作りやすい、とっつきやすい、
そんな印象からくるものだろうか。

海外がどうなのかは知らないが、
日本では三極管のシングルアンプ、
それも傍熱管ではなく直熱三極管のシングルアンプが、
ある種の心情的なゴールのように昔から捉えられている。

つまり、この三極管シングルアンプを最初にゴールと設定したうえでのスタートが、
五極管シングルアンプのような気がしてならない。

Date: 7月 28th, 2022
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その10)

ケント・ナガノと児玉麻里によるベートーヴェンのピアノ協奏曲、
その素晴らしさに驚いていたころに、
ある人から「児玉麻里のベートーヴェンのソナタは素晴らしい」といわれたことがある。

私よりも一世代ちょっと上の人である。
その人とは初対面だったけれど、たまたま児玉麻里の話になった。

聴いてみよう、とは思いながらも、
心のどこかに、機会があったら──、という気持があった。
そのため積極的に聴こうとはしなかった。

そうすると意外にも、聴くまでの時間がかなりかかったりする。
結局、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いたのは、
TIDALを使うようになってからだ。

《ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない》、
五味先生が、そう書かれていた。

別項でも書いているが、そうだ、と私も思うところがある。
作品一一一の第二楽章を聴いていると、
五味先生が書かれていることを実感する。

そうでありながらも、
内田光子、アニー・フィッシャーのベートーヴェンの後期のソナタに感動している。
この二人が、私にとっては例外の存在といってもしまってもいいのだが、
児玉麻里が三人目として、ここに加わるのかといえば、決してそうじゃなかった。

ケント・ナガノにしても、児玉麻里にしても、
二人でのピアノ協奏曲は、あれほど素晴らしかったのに、
それぞれの演奏、交響曲とピアノ・ソナタにおいて、
そこまでのレベルに達していないのは、
つまりは内田光子のいうところのベートーヴェンの音楽における苦闘、
肉体的、精神的、感情的な意味での苦闘であり、彼自身との苦闘であること。

その中でも、彼自身との苦闘。ここにつきる、としかいいようがない。
内田光子は《自分がピアノを弾いている時に、オーケストラに自分を攻撃させられないから》
といい、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の弾き振りはしない。

交響曲ならば、指揮者はオーケストラに自分を攻撃させる、
ピアニストは、ピアノによって自分を攻撃させる、
この境地に到ってこそのベートーヴェンの演奏だとすれば、
ケント・ナガノによる交響曲、児玉麻里によるピアノ・ソナタに、
何か欠けたように感じてしまうのは、そこにおいてなのだろう。

何も、このことはケント・ナガノ、児玉麻里に限ってのことではない。
他の指揮者、他のピアニストにもいえることだ。

なのに、ここでケント・ナガノ、児玉麻里の名を挙げているのは、
くり返すが、ピアノ協奏曲はほんとうに素晴らしいからである。

Date: 7月 27th, 2022
Cate: 書く

毎日書くということ(三度・エリカ・ケートの言葉)

一度目は2016年だった、
二度目は2019年、
2022年のいま、三度(みたび)、
エリカ・ケートが語ったことを引用したい。

イタリア語を「歌に向く言葉」、
フランス語を「愛を語る言葉」、
ドイツ語を「詩を作る言葉」、
日本語は「人を敬う言葉です」だとエリカ・ケートが浅利慶太氏に語っている。

ソーシャルメディアには、どうしたら、ここまで汚い言葉で人を罵れるのか──、
そう感じてしまうことが、増えてきている。

誰かを批判するのが悪いことだとはいわない。
それでも……、と思う。

Date: 7月 27th, 2022
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その38)

黄金の組合せということでは、この文章も忘れられない。
     *
 ……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
 だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
     *
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」からの引用だ。

エリカ・ケートのモーツァルトの歌曲、
マッキントッシュのC22とMC275、アルテックの604E。

時代をふくめて、黄金の組合せが奏でた音。

Date: 7月 27th, 2022
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド,

オーディオの殿堂(その6)

「オーディオの殿堂」で、
オーディオテクニカの製品は、AT-ART1000のみがノミネートされている。
殿堂入りはしていない。

AT-ART1000の殿堂入りしていないことについては、何も書かない。
意欲的な製品だとは捉えているが、音を聴いていないので。
それよりも、なぜオーディオテクニカのVM型カートリッジが殿堂入りしていないのか、
ノミネートすらされていない。

VM型カートリッジは、オーディオテクニカの特許である。
オーディオテクニカの最初の製品は、MM型カートリッジのAT1、その上級機のAT3、
どちらも1962年に登場している。

その後、オーディオテクニカはトーンアーム、MC型カートリッジなどを出してきて、
1967年にVM型のAT35Xを誕生させている。

MM型に関しては、よく知られるようにエラックとシュアーが特許を取得していた。
世界各国で、両社は特許を取れたにもかかわらず、
日本では無理だったのには理由がある。

瀬川先生から、どうしてだったのかを聞いている。
ちょっとここでは書けないことがあっての、日本での特許不成立である。
このときばかりは、日本のオーディオメーカーが一致団結した、といわれていた。

なので日本では各社がMM型カートリッジを製造販売できたが、
それはあくまでも日本国内に限られる。
MM型カートリッジを海外に輸出しようとすれば、特許料を支払うことになる。

オーディオテクニカは、海外に打って出るためにもVM型を開発した、と聞いている。
VM型ならば、この方式自身が特許を取れたわけだから、
MM型の特許に関係なく海外でも販売ができる。