2022年をふりかえって(その2)
「2021年をふりかえって(その4)」で、メガネを新調したことを書いた。
川崎先生デザインのACTシリーズのなかから、ACT-Treeを選んだ。
「2021年をふりかえって(その5)」で、
ACT-Threeにしてからの日々は、第三幕ということになるのか、とも書いた。
別項「終のスピーカーがやって来る」を書いていると、
第三幕なのかもしれない、と思ったりする。
「2021年をふりかえって(その4)」で、メガネを新調したことを書いた。
川崎先生デザインのACTシリーズのなかから、ACT-Treeを選んだ。
「2021年をふりかえって(その5)」で、
ACT-Threeにしてからの日々は、第三幕ということになるのか、とも書いた。
別項「終のスピーカーがやって来る」を書いていると、
第三幕なのかもしれない、と思ったりする。
一昨年は、11月8日から「2020年をふりかえって」を書き始めた。
昨年は、11月1日から「2021年をふりかえって」を書き始めた。
今年は今日からだ。
今年、マドンナの新譜が出た。
“Finally Enough Love: 50 Number Ones”である。
TIDALでは、このアルバムはPopのところではなく、Danceのところで扱われている。
e-onkyoでもロック/ポップスではなく、クラブ/エレクトロニカのところだ。
マドンナのファンではないが、まったく聴いていないわけでもない。
耳にすることはあった。
以前、マドンナはQueen of Popと呼ばれていた。
だからPopなのだと思っていたら、いつしかDanceである。
いつからそうなのかは知らないが、時代は変っている──、そのことに驚いていた。
他の人はどうかはわからないが、私には、このことはけっこうな驚きだった。
このことをどこかで書こうと思いつつも、
唐突に、どこかのテーマで触れるのは無理があるな、と思っていたので、
ここで書くことにした。
タワーレコードウェブサイトによると、ショルティの「ニーベルングの指環」は、
今回の2022年でリマスターは六回目となる、とのこと。
1985年に、最初のCD化。
1997年に、原録音に携わった技師ジェームズ・ロックがリマスター監修。
私が買ったのは、このリマスター盤。
2009年に、英デッカから音源をライセンスしてSACD化。これがエソテリック盤。
2012年に、1997年版をフィリップ・シニーがリマスタリング。
これがBlu-Ray Audio盤(96kHz)になっている。
2018年に、セイフティ・アナログ・マスターテープからSACD化したのが、ステレオサウンド盤。
2022年、オリジナルアナログディスク十九枚分のアナログマスター三十八本から、
192kHz、24ビットでリマスタリング。
さらにタワーレコードの解説によると、
一回目から五回目までのCD(SACD)化には、
オリジナル・2トラック・ステレオ・マスターテープは保存状態が悪いことを理由に使われていない。
オーディオ雑誌は、ステレオサウンドを含めて、
ショルティの「指環」の比較試聴をやるのだろうか。
オーディオ雑誌だけでなく、レコード芸術も比較試聴はやりそうである。
ステレオサウンドはやらなかったりするのだろうか。
11月20日まであと十日。
時間にすれば240時間を切っている。
(その3)で、記録のような、と書いた。
書いた後で、すぐに記録のような、ではなく、最近のオーディオ機器のなかには、
記録そのもののような、そちらの方向に進んでいるモノ(音)が少なくない。
録音技術から再生技術のすべてが完璧なモノ(技術)で構成されるようになれば、
記録そのものといえる音が家庭で聴けるようになるであろう。
それでも、それはあくまでも録音に関しても完璧なモノ(技術)でなされていなければならない。
そういった完璧な録音しか聴かない、と断言できる人は、それでいいい。
けれど何を聴くのか。何を好んで聴くのか。
そのことを考えれば、なにも完璧な録音ばかりではない。
完璧どころか、完璧に近いともいえない録音を聴いている。
だからこそ記録ではなく記憶のような、ということが大切にしなければならないことのはずだ。
私にとって、終のスピーカーとはなんなのか。
もうここに書きたくて書きたくて、その衝動を抑えているところ。
正直な音というのがあるはずだ。
反対の音も間違いなくある。
今年6月に開催されたOTOTENでのMQAのセミナーにいかれた方ならば、
ワイヤレスでMQAの実現が近いことを聞いている。
年内には発表されるだろうと思っていたら、ようやく今日発表された。
SCL6というコーデックがMQAによる開発であり、
MQAによるMQairという名称の発表もあった。
MQAとairの造語。
分かりやすいといえば、分かりやすい。
まだ詳細は発表になっていないし、
MQair対応のモデルが、どれだけ登場するのかもわからない。
いまのところワイヤレスで音楽を聴こうとは思っていないけれど、
MQair対応のワイヤレスヘッドフォン(イヤフォン)が出てきたら、
やっぱり聴いてみたくなるはずだ。
日本でTIDALのサービスが開始になっていれば、
MQairの登場によって日本でのMQAの普及に拍車がかかるだろう、と思うけれど、
TIDALはまだである。
ショルティの「ニーベルングの指環」の2022年リマスター。
10月28日に、その抜粋盤がe-onkyo、TIDALともに配信が開始された。
e-onkyoはflacとMQA、TIDALはMQAで、どちらも192kHz、24ビットである。
もちろんその日のうちにTIDALで聴いてる。
まず驚く。
そのくらい音が違う。
私はすでに書いてるようにエソテリックのSACDは聴いていない。
ステレオサウンドが出したSACD(シングルレイヤー)も聴いていない。
デッカのBlu-Ray Audio盤(96kHz)も聴いていない。
私が聴いているのは、デッカのCDとTIDAL(44.1kHzのMQA)だけである。
エソテリックのSACD、ステレオサウンドのSACDとの比較はやっていない。
これらとどの程度、音が違うのか。
そこに興味はあるものの、比較する機会はない。
今日、facebookを見ていたら、今回の2022年リマスター盤(SACD)を購入された方が、
ステレオサウンドのSACDよりも、はるかにクリアなサウンド、と書かれていた。
おそらくエソテリックのSACDと比較しても、そうであろう、と思う。
そう、素直におもえるほどに、TIDALで聴く2022年リマスターの「指環」はいい。
日本では平面バッフルとよくいわれる。
平面バッフルといって、これまで通用しなかったことはない。
プレーンバッフルということもあるけれど、九割以上は平面バッフルといっている。
では海外ではなんといっているのかというと、
facebookのオーディオ関係のグループをみていると、
プレーンバッフル(Plain Baffle)ではなくオープンバッフル(Open Baffle)である。
平面バッフルはたしかにオープンバッフルである。
そしてオープンバッフルといったほうが、発想に結びつくような気もする。
(その22)で、サンスイのLMシリーズのマルチラジエーションバッフルに触れた。
このマルチラジエーションバッフルとともに、
平面(オープン)バッフルについて考えていく上で、
大きなヒントとなりそう、と見ているのが、
元ベーゼンドルファー・ブランドで登場したVC7である。
現ブロッドマンのホーンレゾネーターは実に興味深い。
輸入元のサイトで公開されている以上の技術的資料をぜひ読みたいところなのだが、
いまのところ見つけていないし、その機会もない。
このホーンレゾネーターは、うまくオープンバッフルに利用できるような気がしてならない。
(その22)を書いた頃からそう思っているからこそ、
インターナショナルオーディオショウのフューレンコーディネイトのブースに行っては、
今年も鳴らされていない──、と帰ってきてしまう。
終のスピーカーとは、音による自画像を描くための存在なのだ、
さきほど気がついた。
そのうえで、11月20日にやって来る終のスピーカーは、
私にとって、まさしく「終のスピーカー」である。
ステレオサウンドが「オーディオの殿堂」を企画していることは、
誌面で発表されていたわけで、それをみた私は、あることに少しだけ期待していた。
それは古いオーディオ評論の総括としての「オーディオの殿堂」であり、
「オーディオの殿堂」が載る223号以降から、
「新しいオーディオ評論」への挑戦(試み)がはじまる──、と。
224号を読んでも、そんな気配は微塵も感じないのだが、
それでもステレオサウンド編集長の染谷一氏の編集後記を読むと、おもうところがある。
別項でもすでに引用しているが、
《自分の好みをただ押し付けただけの感想の羅列を試聴記として読まされると、いったい何の目的を持って誰のために書かれた文章なのかと理解に苦しむ》
《プロ意識が欠けたまま書かれた試聴記には何の価値もないと思う。自戒の念を強く込めて。》
とある。
これはオーディオ評論に対して、というよりも試聴記に対してのものであっても、
試聴記はオーディオ評論の大事なところである。
染谷編集長がどういう意図で、224号の編集後記を書かれたのかはまったくわからない。
変化の兆しなのだろうか、と期待するところもないわけではないが、
次号(225号)の特集は、ステレオサウンド・グランプリとベストバイ。
225号もまったく期待できない、そう捉えるがちだけど、
そんなステレオサウンド・グランプリとベストバイだからこそ、
変化の兆しを示すかっこうの機会と捉えることもできる。
終のスピーカーがやって来る日まで、あと二週間。
カウントダウンが始まった、という感じがしてくる。
一週間後には、あと一週間! と言っているはず。
あと一週間! になってからの一週間は、ほんとうにながく感じられるだろうし、
そのころになっていると、あと何日ではなくて、あと何時間と、時間の経過を捉えているはずだ。
グレン・グールド生誕九十年、没後四十年の今年に、
終のスピーカーがやって来て、十年後のグールド生誕百年、没後五十年を、
このスピーカーから鳴ってくる音で迎えている──、もうこんなことまで想像している。
MQAを全否定といっていいくらいに批判的である人は、
低音に関して、締まっていなければならない、と勘違いしているのではないのか。
よく締まった低音は、一般的には褒め言葉である。
そういわれてイヤな顔をする人はわずかかもしれないが、
私はロジャースのPM510に惚れ込んでいるところからもわかってもらえようが、
締まった低音を求めているわけではない。
よく締まった低音こそが最高、とも捉えていない。
ステレオサウンド 60号に「プロが明かす音づくりの秘訣」の一回目が載っている。
一回目は菅野先生である。
低音について、こう語られている。
*
菅野 だいたいぼくは、よく締まっているのがいい低音と言われるけれども、必ずしもそうは思わないんです。やはり低音はふくよかなものであるべきだと思うんです。締まっているというのは、結局ブーミーな、混濁する、ピッチのはっきりわからないような低音が多いから、それに対するアンチテーゼとして、締まった低音=いい低音というふうに受けとられているんじゃないかと思うけれども、本来、低音は締まっていたのではいけないんで、やっぱりファットじゃないといけない。ファットでいて明快な低音がほんとうにいい低音じゃないかと思います。
それはピアノなんかでもそうですね。銅巻線の部分というのは、とにかく膨らんだ、太い音がしなきゃいけない。締まっているというのは言い方をかえれば少しやせているわけですから、たしかに明快です。けれどもほんとうの低音の表情が出てこないと思うんです。
ほんとうの低音の表情というのは、太くて、丸くて、ファットなものだと思う。それでいて混濁しない。言葉で言えばそういうことなんですけれども、それだけでは言い切れないような、低音の表情に対するぼくの要求があるわけです。
*
60号は1981年9月発売の号である。
もう四十年以上前のステレオサウンドである。
もう時代は変ってきているよ、といわれそうだが、ほんとうにそうだろうか。
ソーシャルメディアを眺めていると、
いまでも締まった低音がいい低音だという発言をみかけることがある。
「オーディオのデザイン、オーディオとデザイン」をテーマに書いているけれど、
書きながら、「オーディオによるデザイン」について考えていかなければならない。
ここにきて、そうおもうようになってきた。
五味先生が「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書かれている。
*
世の中には、おのれを律することきびしいあまり、世俗の栄達をはなれ(むしろ栄達に見はなされて)不遇の生涯を生きねばならぬ人は幾人もいるにちがいない。そういう人に、なまなかな音楽は虚しいばかりで慰藉とはなるまい。ブラームスには、そういう真に不遇の人をなぐさめるに足る調べがある。だがブラームスの場合、ベートーヴェンという偉大な才能に終に及ばぬ哀れさがどこかで不協和音をかなでている。フランクは少しちがう。彼のオルガン曲は、たとえば〝交響的大曲〟(作品一七)第三楽章のように、ベートーヴェンの『第九交響曲』のフィナーレそっくりな序奏で開始されるふうな、偉大なものに対する完き帰依──それこそは真に敬虔な心情に発するものだろう──がある。模倣ではなくて、帰依に徹する謙虚さが誰のでもないセザール・フランクの音楽をつくり出させたと、私には思える。そのかぎりではフランクをブラームスの上位に置きたい。その上で、漂ってくる神韻縹緲たる佗びしさに私は打たれ、感動した。私にもリルケ的心情で詩を書こうとした時期があった。当然私は世俗的成功から見はなされた所にいたし、正確にいえば某所は上野の地下道だった。私はルンペンであった。私にも妻があれば母もいた。妻子を捨ててというが、生母と妻を食わせることもできず気位ばかり高い無名詩人のそんな流浪時代、飢餓に迫られるといよいよ傲然と胸を張り世をすねた私の内面にどんな痛哭や淋しさや悔いがあったかを、私自身で一番よく知っている。そんなころにS氏に私は拾われS氏邸でフランクのこの〝前奏曲〟を聴いたのだ。胸に沁みとおった。聴きながら母を想い妻をおもい私は泣くような実は弱い人間であることを、素直に自分に認め〝前奏曲〟のストイシズムになぐさめられていた。オレの才能なんて高が知れている、何という自分は甘えん坊だったかを痛感した。この時に私は多分変ったのだろう。
*
《なまなかな音楽は虚しいばかりで慰藉とはなるまい》、
まったく何もうまくいかない時期なんて、誰にでもあるだろう。
私にもあって、だからといって《不遇の生涯を生きねばならぬ人》と、
自分のことを思っていたわけではないけれど、
《なぐさめに足る調べ》を求めた時期がある。
けれど、そんな時に、“Don’t Give Up”は、最後まで聴けなかった──、
(その2)に書いた。ほんとうにそうだった。
“Don’t Give Up”を聴き続けるのがつらかったわけではなく、
どこか虚しく聴こえてしまい、途中で聴くのをやめたことがある。
胸に沁みとおってこなかったことに、自分でも唖然とした。
2023年1月26日から28日までの三日間、
オーチャードホールで、ホイットニー・ヒューストンのホログラムコンサートが行われる。
2020年5月16日と17日、
やはりオーチャードホールでマリア・カラスのホログラムコンサートが開かれるはずだった。
けれどコロナ禍のまっただなか、延期ではなく中止になった。
つい期待してしまう。
ホイットニー・ヒューストンのホログラムコンサートが行われるのならば、
マリア・カラスのホログラムコンサートも、もしかすると復活するかも──、と。