素材考(ガラス振動板・その2)
1月発売のステレオ 2月号の第二特集は、「DIYスピーカーで冬ごもり」。
マークオーディオから発売になるガラス振動板のフルレンジユニットが取り上げられている。
このフルレンジユニットがうまくいってくれれば、
ガラス振動板のウーファーも出てくる可能性もある。
フルレンジユニットだけでなく、ウーファーでどんな音が聴けるのか。
現実としては、ウーファーよりもトゥイーターの採用が先だろうけど。
1月発売のステレオ 2月号の第二特集は、「DIYスピーカーで冬ごもり」。
マークオーディオから発売になるガラス振動板のフルレンジユニットが取り上げられている。
このフルレンジユニットがうまくいってくれれば、
ガラス振動板のウーファーも出てくる可能性もある。
フルレンジユニットだけでなく、ウーファーでどんな音が聴けるのか。
現実としては、ウーファーよりもトゥイーターの採用が先だろうけど。
十年ほど前に別項で、
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である、
と書いた。
いまでもそうだと強く思っているとともに、これまでに何度も引用している孔子の論語。
子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
《七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。》、
ここである。
己の結論に節制を持たない人は七十を超えても、
矩を踰えず、とはならない。
シルヴィア・シャシュのLPは、新品と言っていいほどのコンディションだった。
というよりも一度も針を通していないようにも感じられる。
手元にある、このディスクを眺めていると、
audio wednesdayで、一度かけてみたいと思う。
2024年のaudio wednesdayは、すべてデジタルだった。
TIDAL、Qobuz、Apple Musicといったストリーミング、
それからアキュフェーズのDP100+DC330によるCD、SACDだった。
四谷三丁目の喫茶茶会記でもアナログを音源としたのは二回だけ。
LPとカセットテープの回だけと少ない。
今年のaudio wednesdayでLPの再生をやろうかな、
ぐらいには思っていたのが、シルヴィア・シャシュのLPが届いてからは、
絶対やろう、に変った。
アナログプレーヤーには、ウィルソン・ベネッシュのCircleを持ち込もうか、と考えている。
カートリッジは、シルヴィア・シャシュのLPがきっかけとなったわけだから、
デッカのMark Vにする。
LPもデッカ、カートリッジもデッカ、
デッカもウィルソン・ベネッシュ、どちらもイギリス。
シルヴィア・シャシュのLPは、ステレオサウンド試聴室で、
けっこうな数のカートリッジで聴いているけど、
デッカのカートリッジでは聴いていない。
フランコ・セルブリンは、ソナス・ファベール時代に、
「スピーカーは楽器だ」と語ったことは、よく知られている。
フランコ・セルブリン以前も「スピーカーは楽器だ」という人はいた。
フランコ・セルブリンが最初に言った人ではない。
それでもスピーカー・エンジニアとして、こう語った人は少ない。
フランコ・セルブリン以前にも、スピーカー・エンジニアでそう語っていた人はきっといただろう。
それでもスピーカー・エンジニアとしての世界的な知名度の高さもあって、
フランコ・セルブリンの「スピーカーは楽器だ」は広く知られている。
フランコ・セルブリンはイタリア人だから、イタリア語で語っているわけで、
“I diffusori sono strumenti.”と語ったのかは知らない。
ここで考えたいのは、その真意だ。
フランコ・セルブリンはスピーカーの開発にあたって測定も相当に重視していたことも知られている。
ならばフランコ・セルブリンの「スピーカーは楽器だ」は、
「スピーカーは楽器のように鳴らせ」ではないか。
私はずっとそう思っている。
ソナス・ファベールは、1988年、Electa Amatorで日本に初めて輸入された。
Electa Amatorを初めてみた時は、期待した。
いい音がしそう、である。
多くのオーディオマニアが、Electa Amatorに初めて接した時は、そう思うだろう。
出てきた音は、期待に反した音だった。
悪い音だったから、期待に反したわけではなく、
乾いた音だったからだ。
この「乾いた音」も、決して悪い意味ではない。
いい意味での乾いた音なのだが、私が勝手に期待していたのは、
もう少し潤いのある表情だったからだ。
そんな出合いだったものだから、その後のソナス・ファベールの新作を聴く機会があっても、
心底、いい音だなぁ、と思うことは訪れなかった。
とはいえ、そんなふうに感じていたのは、少数だったのかもしれない。
ソナス・ファベールの評価は高いままだった。
別項で書いているが、私が心底いい音だなぁ、と感じたソナス・ファベールのスピーカーは、
CremonaとCremona auditorだった。
インターナショナルオーディオショウで、ノアのブースで、
VTLのアンプに接がれていたCremonaは、本当にいい音だったし、
私が勝手に求めていた潤いが、その音にはあった。
ソナス・ファベールのスピーカーで良かったのは? と訊かれれば、
Cremonaだ、といまでもそう答える。
例えばStradivari Homage。
立派な音とは私だって思うけれど、
その音はCremonaの延長線上にあるとは感じられなかった。
そんな私は、フランコ・セルブリンのKtêmaを、
まずは真空管アンプで鳴らしたい。
JBLの4343は、瀬川先生が鳴らされていた。
黒田先生も鳴らされていた。
ステレオサウンド試聴室のリファレンススピーカーでもあった。
だからこそ、と言えるところがある。
スピーカーの多様性について語っていく上で、
現在のステレオサウンド試聴室のリファレンススピーカーであるB&Wのスピーカーが、
当時の4343と代わりとなるだろうか。
JBLがリファレンススピーカーだった時代よりも、
B&Wの方がいまでは長くなっている。
だから十分代わりを果たしている、はずなのだが、私にはそうとは感じられない。
他の人はどうなのだろうか。
4343を知らない世代の人は、そんなふうには思っていないかもしれないが、
4343を知る世代は、どうだろうか。
私と同じなのかもしれない。
だとしたら、どうしてなのだろうか。
何もB&Wのスピーカーの力不足とは言わない。
なぜなのか、結局、ステレオサウンドで書いている人の誰一人として、
自宅で鳴らしていないからだろう。
この項を書き始めたのは2017年12月。
四谷三丁目の喫茶茶会記でaudio wednesdayをやっていたころだ。
2020年12月での喫茶茶会記の閉店とともに、
しばらくは誰かと一緒に音楽を聴く機会はかなり減った。
定期的に聴くことはなくなった。
昨年1月から狛江でaudio wednesdayを再開。
一年間、音を鳴らしてきて、音楽をかけての一年を過ごし、あらためて、ここでのテーマについて考えるようになった。
バーバラ・リーの名前を聞いたのは、昨年の12月だった。
Googleで「バーバラ・リー」を検索すると、
アメリカの政治家ばかりヒットする。
「バーバラ・リー ジャズ」で検索すると目的の情報が表示されるが、それほど多いわけではない。
ジャズを体系的に聴いてこなかった私が知らなくても不思議ではないのかもしれない。
日本ではそれほど名が知られているわけではないようだ。
昨年末からやっていたトーレンスのTD124の整備は、
バーバラ・リーのSP盤を再生、デジタル録音するためだった。
今日は、その本番の日。
バーバラ・リーがリバーサイドからデビューするより前の録音、
直後の録音をおさめたSP盤。
時代はすでにLPになっていたし、テープ録音も普及していた。
なのにSP盤で、これらのディスクは一度も復刻されていない、とのこと。
11時ごろから始まって、途中昼食をはさんで終了は17時ごろ。
ずっとバーバラ・リーばかりを聴いていた。
それも録音順に聴いていった。
面白いもので、リバーサイド・デビュー以前の方が音がいい。
後半になると、盤質も悪くなっていっているように感じたし、
スクラッチノイズの量も増えてきて、質も悪くなっていく。
思うに、最初のころの盤は、まだSP盤に必要な技術が、世の中に残っていたのだろう。
それが数年のうちに失われていったのかもしれない。
このあたりのSP盤の事情については、ほとんど知らないといっていい。
本当のところがどうなのか。
楽しい一日だったし、興味深い時間でもあった。
1月8日のaudio wednesdayでは、11月に続いて4343を鳴らすことができた。
今回は、ライヴ録音のみをかけた。
スタジオモニター用としてつくられた4343で、ライヴ録音のみを鳴らす。
1982年に一冊の本が出た。
「WHY? JBL」という本が、オーディオとはまったく関係のない出版社から、
しかも女性の筆者だったこともあり、
オーディオマニアの間だけでなく、オーディオ業界でも、
けっこう話題になっていた。
ステレオサウンド編集部にも一冊あったが、
この時の編集者は、ほぼみんな買って読んでいた。
私も買って読んだ。
その本に、こんなことが書かれていた。
アメリカのコンサートで、終了後、
会場から出てくる女性の頬が紅潮している、とのことだった。
JBLのスピーカーが使われているコンサートにおいて、である、と。
この記述を読んで、JBLの音はセクシーなのかもしれない──、
そんなふうに思っていた。
音楽は、人の肉体運動から生まれてくる。
そのことを音だけの世界だと、忘れてしまいがちになるが、JBLのスピーカーは、そのことを聴き手にはっきり思い出させる。
いまのJBLのスピーカーが、全てそうだと言わないが、
あのころのJBLの音は、そうといえたし、
だからこそセクシーと感じる人がいるのだろう、頬を紅潮させるのだろう。
それでもJBLをひどく鳴らしてしまうと、無機的な音になってしまう。
そんなことを昔、思っていた。
だから、ライヴ録音のみに絞った。
12月31日の投稿で書いているように、2024年は膝の具合が悪くなったし、
声もほぼ出なくなっていた(多少よくなっているものの、まだまだ)。
去年は不調だったな、と1月6日の夜、思っていた。
ふと、もしかして厄年だったのか、と気づいた。
2024年は後厄だった。本厄の2023年は四十数年ぶりの喘息の発作があった。
前回の厄年も、後厄の年、かなりひどい眩暈に、数ヵ月悩まされたことを思い出した。
ふりかえって厄年だったのか、と気づく。
そんなの迷信と信じないのもいい。
私もそうだった。
けれど、現実は違っていた。
もう厄年は回ってこない。
よし、と思っていたところに、Ktêmaの話。
厄年は明けた。
皆さんも厄年には、気をつけてください。
ステレオサウンド 207号の特集に登場する49機種のスピーカーシステム。
いま世の中に、この49機種のスピーカーシステムしか選択肢がない、という場合、
私が選ぶのは、フランコ・セルブリンのKtêmaである。
別項「現代スピーカー考(その37)」で、以前、こう書いている。
いまもその想いは、ほとんど変らない。
ステレオサウンド 207号掲載の49機種のスピーカーから選ぶのであれば、
Ktêmaだし、233号のベストバイから選ぶとしても、
Ktêmaは、やはり鳴らしてみたいスピーカーの筆頭格だ。
それにしても233号のベストバイでは、小野寺弘滋氏の星二つだけである。
Ktêmaが登場して十数年。そんな扱いになるのか──、と思う必要はない。
いまだKtêmaの魅力は、少なくとも私の中ではまったく色褪せていない。
Ktêmaを聴いたのは、インターナショナルオーディオショウのブースだけである。
じっくり聴けたとも、きちんと聴けたともいえないぐらいだけど、
Ktêmaはいいなぁ、と思い続けているからこそ、
昨晩のaudio wednesday終了後の、常連のOさんの
「Ktêmaは貸しましょうか」の申し出は、
私にとって嬉しいを超えたものだった。
2月、3月、Ktêmaを鳴らす。
昨晩のaudio wednesdayで、JBLの4343の上に、
4PI PLUS.2を乗せて鳴らした。
結果はうまくいった。
うまくいくとは思っていたけれど、
出てきた音を聴いていると、4PI PLUS.2はユニークなトゥイーターだというおもいが強くなる。
このリボン型トゥイーターがまったく合わないスピーカーはあるのだろか──、
そんなことを思ってしまうし、そういうスピーカーがあれば、
ぜひ試してみたいとも思っている。
ステレオサウンド 233号のベストバイではその他のコンポーネントの扱いで、
傅 信幸氏の星一つだけである。
現行製品は、4PI PLUS.2から4PI PLUS Vになっているが、
このトゥイーターの特長は、なんら変っていないはずだ。
けれど、星一つだけなのか。
2月のaudio wednesdayは、5日。3月も、もちろん5日。
2月か3月、どちらになるかはまだはっきりとしてないが、
どちらかでフランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らせる予定。
Ktêmaを鳴らせる日が来るとは、まったく思っていなかっただけに、
これを書きながら、すでにワクワクしている。
こういう時、ずっと続けてきてよかったと思える。
audio wednesdayを終えて、いま帰宅したところ。
今日もすんなりいかないところがあった。
今日の最大のネックとなったのは、インターネットの速度の低下。
20時過ぎからいつもと同じ速度に戻ったけれど、それまでは10分の1から20分の1程度であって、
サンプリング周波数が44.1kHz、48kHzだと途切れずに再生できても、
96kHzとかになるとすぐに再生が止まってしまう。
自宅で自分一人で聴いているのであれば、
速度が落ちたから回復するまで待とう、でいいけれど、
こういう会での速度の大幅な低下は、なんともしようがない。
20時過ぎでも192kHzのアルバムだと、一瞬、途切れることもあった。
結局、どこに問題があったのかは不明。
こういうことを書くと、だからストリーミングは……、と思われるかもしれない。
確かにそういう面がないわけではない。
とはいえこれからもTIDAL、Qobuzを使っていく。
(その4)に、とり氏という方のコメントがあった。
《ネットで個人事業者の商売が容易になったせいか、昔の機種を過剰に持ち上げる手法が跋扈してうんざりです。
修理屋と中古屋の常套手段かなと。》
以前、別項で書いているが、
オーディオを資産価値という観点から、あれこれいう人がけっこういる。
そういう人にとっては、自分が使っている(持っている)オーディオ機器が神格化されて、
中古市場での価格が高騰すれば、嬉しいのだろう。
JBLの4343のことを何度となく書いている。
するとヤフオク!での落札価格の平均は、こんなものですよ的なことを、言ってくる人がいる。
4343よりも価格が安かったスピーカーの方が、いまでは4343よりも高い、とでも言いたげでもある。
別にそんなことどうでもいいじゃないか。
落札価格の平均で、そのオーディオ機器の価値が決まるわけではない。
資産価値でオーディオ機器を選び、購入し、
値上がりしたら転売する。
それもオーディオの楽しみ方の一つと言われれば、
本人がそれで良ければ、私がとやかく言うことではない。
そのまま楽しんでください、ぐらいである、言えるのは。
そういう人は、新製品を購入するにあたっても、
将来値上がりしそうなモノ、資産価値がつきそうなモノを選ぶのだろうし、
オーディオで商売しているわけではなくても、
ソーシャルメディアやブログなどで、
資産価値を高めるように神格化していくのだろう。
メーカーだって、そうだろう。
台数限定で、高価な新製品を出す。
資産価値にプライオリティをおく人は飛びつくだろうから。