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Date: 4月 13th, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(その6)

私がチューナーはほとんど関心をもっていなかったことはすでに書いている。
それがいまごろになって、チューナーのデザインに強い関心をもちはじめて、
記憶を辿っているのだが、メーカーもチューナーに力をいれていた時期は短かったように思う。

日本でのFM多局化は1980年代後半以降なのだが、
この時期以降、チューナーで意欲的な製品が登場していただろうか。

いまでもチューナーの銘器として、中古市場でも人気をもつマランツの10Bは1963年に登場している。
10Bの設計者のセクエラが自らの名を冠したセクエラ・Model 1を発表したのは、1970代中頃か。

日本には高級チューナーがいくつか存在していた。
パイオニアのExclusive F3、ヤマハのCT7000、オーレックスST720、アキュフェーズのチューナー、
サンスイのTU-X1、ケンウッドのL01Tなどあった。
これらは1970年代のモノばかりである。

これらのなかで、その後もチューナーの開発を継続していたのはアキュフェーズだけではないだろうか。
トリオからはケンウッド・ブランドでL01Tを超えるL02Tが1982年に出ている。
けれどその後に登場したL03Tは、L02Tのような性格のチューナーではなくなっていた。
パイオニアにしてもアンプに関してはその後もExclusiveシリーズをC5、M5、C7、M7と開発していったけれど、
チューナーのF5、F7は存在しない。

メーカーはチューナーの新製品は出していた。
けれど1970年代のチューナーを超えようとする意欲的な製品では決してなかった。
少なくとも私はそう感じている。

何度も書くが私はチューナーに関心・興味がほとんど持てなかった。
けれどメーカーも、オーディオがブームのころは積極的にチューナーを開発していても、
いつしかメーカー側も「チューナーはこのくれらいで充分」というふうに流れていってしまった──、
私にはよけいにそうみえてしまう。

Date: 4月 12th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その6)

再生音とは……、ということについてあれこれ考えていると、
アトムのことが頭に浮ぶ。

アトム──、
鉄腕アトムのことだ。

マンガは幼いころから読んできた。
とくに手塚治虫のマンガは集中的に、意識して読むようにしてきた。
私にとっては「昭和が終った……」と実感したのは、手塚治虫の死だった。

ブラック・ジャックが、私にとって最初のヒーローだった。
ブラック・ジャックのような大人になりたい、と思っていた。
何も医者になりたいわけではなかったけれど、
どんな職業につくにしろ、ブラック・ジャックのように生きてきたい──、
そんなことを夢想していた。

このことを書いていくと、別の話になっていくのでこのへんにしておいて、
アトムに話を戻せば、アトムはいわゆる人型のロボットである。

天馬博士が事故でなくなった息子・飛雄(トビオ)の替りとして、似せられてつくられたロボットであるから、
人型、それも少年としてのロボットである。

鉄腕アトムだけでなく、手塚治虫のマンガの中には、さざまなロボットが登場する。
アトムのような人型のロボットもいれば、ある機能に特化した形態のロボットも登場する。

それら数多くのロボットの中で、アトムは突出して優れたロボットと位置づけられる。

Date: 4月 11th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その8)

どんな本にも誤植が完全になくなるということは、ないのかもしれない。
大出版社であろうと小出版社であろうと、誤植のある本を一度も出したことはない、ということはまずない。

どんなに細心の注意を払って、何人もの人が何度も校正したとしても、
不思議とすり抜けてしまう誤植がある。

しかも、そういう誤植は、これまた不思議と本に仕上ってしまうと、
いとも簡単に見つかってしまうことも多い。

初版で見つけた誤植は、次で直せればいいけれど、
雑誌はそういうわけにはいかない。第二版、第三版などは雑誌にはない。

ステレオサウンド 185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
いわゆる誤植ではない。
これはすり抜けさせてはいけない間違いである。

過去のステレオサウンドに、間違いがひとつもなかったかというと、そうではない。
私がいたときも間違いはあった。
それ以前もあったし、それ以降もある。

でもそういう間違いと、185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」とでは、
少々事情が異る。

技術的な事柄に関しては、
特に海外製品の場合、ほとんど資料がないこともあるし、
資料があったとしても抽象的な表現で、何が書いてあるのか(言いたいのか)はっきりしないこともある。
またそこに投入された技術が新しすぎて、理解が不充分なこともある。
それでも新製品の紹介記事では、少しでも情報を多く読者に伝えようとするあまり、
間違いが起きてしまうことだってある。

そういう間違いを見つけても、ことさら問題にしようとは思わない。
185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
本来なら間違えようのないことで、編集部はミスを犯してしまっている。

なぜ「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けて活字になってしまったのか。

新製品ページの担当編集者は、高津修氏から原稿を受けとる。
そこで当然もらった原稿を読み、朱入れが必要ならそうする。
その原稿を編集長がチェックする。それで問題がなければ次の段階に進む。

以前は、この段階を「写植にまわす」といっていたけれど、いまはなんというのだろうか。
写植があがってきたら、コピーにとり、そのコピーを編集部全員が読み校正する。
そして青焼きが、次の段階であがってくる。

ここでも私がいたときは文章のチェックをしていた。

本来ならば、青焼き以前で校正はしっかりと終えておかなければならないのだが、
写植の段階の校正ですり抜けてしまう誤植やミスがあるから、ここでも校正する。

時にはけっこう大きなミスがあって、
バックナンバーの版下を取り出してきて、活字を切貼りしたこともある。
常に締切りをこえて作業していたから、自分たちで最後は手直しということになってしまう。

いまはパソコンでの処理が大半だろうから、
細部では違いがあっても、原稿を届いて青焼きを含めて、
編集部全員によって複数回の校正がなされるわけだ。

にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けてしまったのは、
考えられないことである。

これがトーレンスのプレーヤーではなく、
新進メーカーの、新技術を投入したアンプであれば、
技術的なことは触っただけではわからないのだから、仕方ない面もあるのだが、
何度も書くけれど、トーレンスのプレーヤーについては触ればわかることだし、
オーディオ雑誌に携わっている者、オーディオを趣味としている者ならば、
トーレンスのプレーヤーがどういう構造なのかは、すくなくとも言葉の上ではわかっているのが当然である。

ここに編集部のシステムとしての問題がある。

Date: 4月 11th, 2013
Cate: 世代
5 msgs

世代とオーディオ(JBL 4301・その6)

いま目の前に4301の程度のいい中古品が出て来たら、買ってしまうかもしれない。
うまくタイミングが合ってさえいたら、私にとって初めてのJBLとなっていたかもしれない4301だけに、
いまでも、いい出合いがあれば欲しい、という気持が残っている。

4301は最初はアルニコモデルだった。
けれど1980年ごろからのアルニコ不足の波によって、フェライト仕様のBタイプへと変っていった。

アルニコの4301、フェライトの4301B、
程度が同じであればアルニコ、といいたいところだけれど、
4301に関してはやや事情が、他のJBLのスタジオモニターとは異る。
それはフロントバッフルの色。

4301は側版、天板、底板はウォールナット仕上げ。
4343だと、この場合フロントバッフルはブルーになる。
けれど4301は、なぜか黒だった。

4301Bもウォールナット仕上げだが、
フロントバッフルはブルーになっている。

これは実に悩ましい。
見た目では4301Bにしたいところだから。

こんなふうに書いていくと、
これを読まれている方の中には、
もしかすると4301はいいスピーカーみたいだから……、と思われる方も出てくるかもしれない。

その人たちに、私は積極的に4301はおすすめしない。
他にもっといいスピーカーシステムはいくらでもある。

4301は、あのときもうすこしで手が届きそうでついには買えなかったという経験をもつ、
そしてJBLのスタジオモニターに憧れをもっていた人、
私とほぼ同世代の人ならば、4301への、私のこの想いは理解してくれるはずである。

4月のaudio sharingの例会でも私より上の世代のOさんはすでに書いてるように、
4301の評価は高くない。
でも私と同世代のKさんという、
私とまったく同じ想いで、いまも4301に手を出そうかどうか迷っている人もいる。
彼も4301が買えずにオンキョーのM6を買っている。

そんな想いで4301をみている人は、世代的にも少数のはずだし、
世代が違ってくれば、また別のスピーカーシステムが、Kさんや私にとっての4301と同じ存在になろう。

私と同じ世代でも、JBLの4343に憧れのなかった人にとっては4301は、そういう存在にはならない。

世代と、あの時の憧れ・嗜好が一致しているからこその、ふたりにとっての特別な存在の4301である。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その7)

現在のステレオサウンドの編集部のオーディオの知識がどれだけのレベルなのかはわからない。
けれど、トーレンスのプレーヤーがフローティング型かどうかは、
よほどの初心者でない限り間違えようがない。

仮に勘違いで高津修氏の原稿を編集部が
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書き換えたとしよう。
そうなると編集部は高津修氏に断りもなく書き換えたことになる。

高津修氏に事前に、ここがおかしいと思うので書き換えたい、という旨を伝えたのであれば、
高津修氏が「TD309はフローティング型だよ、資料を見てごらん」といったやりとりがあるはず。
それで編集部が資料にあたるなり、TD309の実機にふれるなりすれば、すぐにフローティング型ということはわかる。
にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字となって、
ステレオサウンド 185号に掲載されている。

私がいたころは、その記事の担当者が試聴に立ち合うし、試聴記の操作も行う。
このシステムが、いまのステレオサウンドでは違うのだろうか。
試聴室で試聴に立ち合う人と記事の担当者が別とでもいうのだろうか。
だとしても、トーレンスのプレーヤーがフローティング型であることは、あまりにも当り前すぎることであり、
仮にフローティング型でなかったとしたら、高津修氏の原稿も、
トーレンスがフローティング型ではなくなったことから書き始めるのではないだろうか。

この件は考えれば考えるほど、ほんとうに奇妙なことである。
私が考える真相は、もう少し違うところにあるのだが、それについてはここで書くことではないし、
書きたいのは、なぜ
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字になってしまったかである。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その6)

ステレオサウンドのサイトに、昨年の12月10日、
季刊ステレオサウンド185号(2012年12月11日)に関するお詫びと訂正」が載った。

そこには、185号の新製品紹介のページに掲載されているトーレンスのTD309について、
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」という、
事実とは異る記述があるというもので、
「これは編集部の校正ミス」ということになっている。

185号発売日の前日に、これが載ったということは、
おそらく見本誌を見た輸入元から事実と異るというクレームがあったから、だと思う。

このお詫びと訂正に気づかれていた人も多いだろう。
でも、この「お詫びと訂正」はよく考えれば、実に奇妙なところがある。

校正ミスとある。
これをバカ正直に信じれば、TD309の試聴記事を書かれている高津修氏が書かれているわけだが、
高津修氏の原稿に「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあり、
そのことを編集部が見落していた、ということになろう。

でも、そういうことがあるだろうか。
トーレンスのプレーヤーはフローティング型で知られているし、
試聴で実際に触れれば、すぐにフローティング型がそうでないかとわかる。
資料がなくても、すぐにわかることであり、誰にでもわかることである。

つまり高津修氏の原稿に
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあったとは考えにくい。
となると編集部が高津修氏の原稿を書き換えた(それも間違っているほうにへと)ということになる。
でも、これも考えにくいことである。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: 電源

電源に関する疑問(その27)

伊藤先生による349Aアンプにおける電源回路の1kΩの働きが、
ほんとうのところはどういうものであるのかは、
実際に、この349Aアンプを製作して、しかも電源トランスの2次側のタップをふたつ用意して、
片方は1kΩがなくてとも規定の電圧がとれるタップ、
もうひとつは1kΩを挿入した状態で規定の電圧がとれるタップとで、
1kΩの抵抗のあるなしの音を聴いていくしかない。

1kΩの抵抗なしでも低音がボンつくことなく鳴るのであれば、
伊藤先生の349Aアンプの音の秘密は、別のどこかにあるということになる。
1kΩの抵抗なしで低音がボンつけば、
1kΩの抵抗による効果ということができ、そうなると(その26)に書いた推論が、ある程度正しいといえよう。

こんなことを書いている暇があったら、さっさと伊藤先生の349Aアンプを作って確かめればすむこと。
1kΩの抵抗の役割に気がついて、もう20年以上が経つ。
にも関わらず検証せずにいる。

それでも1kΩの抵抗の役割について考えていくと、
ある時期のゴールドムンドのパワーアンプの平滑コンデンサーの容量が小さかったこと、
47研究所のアンプにしても、ぎりぎりの容量のコンデンサーしか搭載していないこと、
これらの理由は主に応答速度と語られることが多い、そのことについてもこれだけではない見方ができる。

確かに同一コンデンサーで、容量だけが違うものを集めて測定すると、
充放電の時間は容量が小さなコンデンサーのほうが、わずかとはいえ速い。
ゆえに応答速度の速さが音の反応の良さに活きている──、
そういえないこともないけれど、
電源トランスとの2次側のコイルとの共振周波数の、
コンデンサーの容量による変化も忘れるわけにはいかない。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その5)

4301が登場したころの私のスピーカーの最終目標は、JBLの4343だった。
4ウェイという、鳴らしやすいとはいえない構成の4343をうまく鳴らす──、
オーディオの経験なんて、まだほんのわずかしかないにも関わらず、そんなことを夢想していた私にとって、
4301は、このスピーカーを、このスピーカーと同じ価格帯のアンプとプレーヤーで鳴らせないようであれば、
4343を手にしたとしてもうまく鳴らせないはず。

だから将来4343を手にして鳴らす時のためにも、
いま、この4301で、JBLを鳴らす感覚を身につけ磨いていく──、
そんなことを考えていたからこそ、4301が欲しくてたまらなかったわけだ。

私が編集部にいたときもそれ以前の読者だったころも、
ステレオサウンドは発売日に出たためしがない。
いつも遅れていた。

いまは12月発売の号を除けば1日発売で、それ以前は11日発売。
さらにその前は15日発売だったのだが、たいてい書店に並ぶのは20日すぎ。

ステレオサウンド 46号も、だから私が住んでいた田舎町の書店に並んだのは、3月下旬。
その少し前に国産の3ウェイのブックシェルフ型を買ったばかりだった。
46号が、いまの発売日のように1日であり、発売日に書店に並んでいたら、
4301は第一候補になっていたはず。

けれど実際には、私が手にしたデンオンのSC104は一本43800円。
4301は20000円以上高い。ペアでは40000円以上違ってくる。

この差は大きい。
プレーヤーが買える価格差であるし、
たとえステレオサウンド 46号がもっと早く発売になっていたとしても実際には4301は買えなかったであろう。

4301には、そんな想い出がある。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その4)

JBLの4301の試聴記が載っているステレオサウンド 46号には測定結果も載っている。
その中にはトータルエネルギー・レスポンスとして、
残響室内でのピンクノイズとスペクトラムアナライザーによる周波数特性がある。

これが他のJBLのスタジオモニター(4331A、4333A)よりもずっと優秀で、かなりフラットに近い。
JBL同士の比較だけでなく、46号で取り上げられているスタジオモニター17機種の中でも、
優秀といえるレベルだった。

意外な感じだった。
17機種の中でももっとも安価な、一本65000円の4301が、
ずっと高価な、スピーカーユニットにしても本格的なものを搭載しているシステムより優秀な特性を示している。
もちろんすべての測定結果について優れているわけではないものの、
トータルエネルギー・レスポンスに関しては、
この結果だけを見ていたら、65000円のスピーカーシステムとは思えなかった。

理由はいくつか考えられるが、
4331A、4333Aよりも、JBLのスタジオモニターとして新しい時代のモノであることも関係しているだろう。

とはいえ一本65000円の4301。
瀬川先生の試聴記にもあるように、
4301と同等クラスのアンプやプレーヤーで鳴らした場合には、
46号での試聴記にあるような結果は得られないことは、これを読んだ時にも思っていた。

だからだろう、この項の(その1)でOさんがL26と比較したけれど、
4301がそれほどいい音は思えなかったのは。

でも、だからこそ46号を読んだ時、4301が欲しくなっていた。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その5)

その4)まで書いてきて、ふと思ってしまったことは、
この項では生の音(原音)にはあって、再生音にはないものについて考えてきているわけだが、
逆のことだって考えられること、ということ。

つまり生の音(原音)にはなく、再生音にのみあるもの。
このことも併行して考えていかなければ、再生音の正体には、いつまでたってもたどりつけない。

Date: 4月 9th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その5)

いくつかの呼称がある。
オーディオマニア(audio mania)という呼称が一般だったが、
maniaの意味は、熱狂的性癖、……狂だから、これを嫌う人たちもいて、
1980年代にはいってから、もっとスマートな呼称としてオーディオファイル(audio phile)が登場してきた。
(それにしても最近の「性癖」の使い方は間違っていて、性的嗜好の意味で使われることが目につく)

そして菅野先生によるレコード演奏家も生れてきた。

古くには音キチという呼び方もあった。
音キチガイの略であって、いまこれを使っている人は稀であろう。

オーディオに、一般的な人には理解不能なぐらい情熱をかたむけている人をどう呼ぶか(呼ばれたいか)。
人によって違う。
私などは、何者か? と問われれば「オーディオマニア」とためらうことなく答えるけれど、
オーディオファイル、オーディオ愛好家という人もいるし、
私はそう名乗ることはないけれど、レコード演奏家と口にされる人もいる。

どう呼ばれるかには、こだわりがあるのだろう。
だからいくつもの呼び方が登場しているわけだ。

山口孝氏による「オーディスト」が、そこに加わるかたちとなった。

雑誌の編集者の仕事は実に雑多で多岐であり、
その仕事の中には、新語・造語に対しての判断も含まれている。

ステレオサウンド編集者は、179号の時点で、
山口孝氏からの原稿を届いた時点で、「オーディスト」について調べ、
すでに存在している言葉であるのならば、その意味を確認する必要があったわけだ。

けれどステレオサウンド編集者は、それを怠った。
なぜ怠ったのか。

それは山口孝氏の熱心な読み手と同じだったからではないのだろうか。

Date: 4月 9th, 2013
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その3)

4301についてJBLが発表しているスペックで注目したい項目がひとつある。
それはローレベルのリニアリティを加えている点である。

4301の出力音圧レベルは88dB/W/m。
この当時のブックシェルフ型の一般的な値よりやや低い。
この1W入力時の音圧レベルだけでなく、
4301は1mW入力、30フィート(9.1m)で39dBとなっている。

この値に関しては、他に比較対象がないため、
どれだけ優れているのか当時は正確には捉えることはできなかったけれど、
あえてJBLがこういうデータをつけ加えているということは、
4301のローレベルのリニアリティには自信があった、と受けとめていた。

4301の最大許容入力は15Wと、
JBLのスピーカーシステムとしても低い値だが、
同クラスのスピーカーシステムと比較しても低い値といえる。
加えて出力音圧レベルも高いとはいえないわけだから、
単にスペックから判断するに大音量で鳴らす設計とはいえない。

そして4301はJBLがブロードキャストモニターと呼ぶシステムでもあった。
4301は、4311よりも近距離で聴くことを前提としたスピーカーシステムなのだろう。

このことも4301が、JBLからの贈り物と思えたことにつながっている。

Date: 4月 9th, 2013
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その2)

 アン・バートンの唱う “Go away little boy”(オランダCBS盤。日本盤とは音が違う)の冒頭から入ってくるシンバルのブラッシュ音は、かなりくせの強い録音なのだが、それにしてもアルテックやキャバスやダイヤトーン等では、この音がこう自然な感じで鳴ってはくれなかった。ベースの量感も、このちっぽけなスピーカーを目の前にしては、ちょっと信じがたいほどきちんと鳴る。アン・バートンの声に関してはもう少し滑らかさや湿った感じが欲しいと思わせるようにいくらか骨ばってクールなのだが、それにしても、4301が現代ワイドレインジ・スピーカーでありながら、少し古いジャズ録音をもかなりの満足感を持って聴かせることがわかる。シェフィールドのダイレクトカットの中の “I’ve got the music in me” でのテルマ・ヒューストンの声も、黒人特有の脂こい艶と張りが不足するが、バックの明るく弾みよく唱う音を聴けば、こまかいことをいう前にまず音楽を聴く楽しさが身体を包む。
 要するにそれは、輸入してこの価格、まして小さめのシンプルな2WAYから鳴ってくる音にしては……という前提があるのだが、それにしても4343以来のJBLが新しく作りはじめたトーンバランスは、右のようにポピュラー系の音楽をそれなりの水準で鳴らし分けることはむろんだが、クラシックのオーケストラを鳴らしたときでも、その音色のややドライで冷たい傾向にあるにしても、そして中音域全体をやや抑え込んだ作り方が音の肉づきを薄くする傾向はあるにしても、かんどころをよくとらえた音で鳴る。たとえばブラームスのピアノ協奏曲のオーケストラの前奏の部分などで、低音をアンプで1~2ステップ補整しないと、分厚い響きが生かされにくいし、ハイエンドにはややピーク性のおさえの利かない音がチラチラ顔を出すため、レコードのスクラッチノイズをいくぶん目立たせる弱点もある。
 それにしても、ラヴェルの「シェラザーデ」、バッハのV協、アルゲリチのショパン、ブラームスのクラリネット五重奏……と、それぞれに難しいプログラムソースも、こういうサイズと価格のスピーカーにしては、そしてくり返しになるが総体に質感が乾いているにしては、一応それらしく響きにまとめるあたり、なかなかよい出来栄えの製品ということができる。
 ただ、これを鳴らしたプレーヤーやアンプが、スピーカーの価格とは不相応にグレイドの高いものであったことは重要なポイントで、こういうクラスのスピーカーと同等クラスのアンプやプレーヤーで鳴らしたのでは、音の品位や質感や、場合によっては音のバランスやひろがりや奥行きの再現能力も、もう少し低いところにとどまってしまうだろう。しかしコンシュマー用のL16をモディファイしたような製品なのに、よくもこれほどまとまっているものだと、ちょっとびっくりさせられた。
     *
瀬川先生の4301について書かれた、この文章を読んだのが1977年3月のこと。
ステレオサウンド 46号に載っている。

4301以前にJBLのスタジオモニターには4311というブックシェルフ型があった。
4311は、30cm口径のウーファーをベースにした3ウェイ。
不思議と、この4311には食指が動いたことはなかった。

4311のスピーカーユニット配置は、通常のスピーカーとは違っていて、
ウーファーが上に来て、その下にトゥイーターとスコーカーが並ぶ。
そのせいか、なんとなくクラシックを聴けないスピーカーという印象を勝手に抱いていた。

JBLのスタジオモニターでクラシックを鳴らせるのは最低でも4333、
できれば4343、4350と勝手に思い込んでいた若造の私にとって、
欠点がないわけではないにしろ、10万円を切る価格にも関わらず、
「一応それらしい響きにまとめ」てクラシックを聴かせてくれる4301の登場は、
JBLからの10代の若造への贈り物のようにもおもえたほどだった。

Date: 4月 8th, 2013
Cate: 手がかり

手がかり(その11)

歌は人の声によって歌われる。
声は言葉を歌っている。
けれどつねに言葉のみを歌っているわけではなく、
また聴き手もつねに歌い手による言葉のみを聴いているのではなく、声を聴いている。

声は言葉のみではない。
叫び声、泣き声、笑い声といった、言葉から離れたところにある声がある。

人は生れたばかりの頃は言葉をしゃべれない。
泣き声でもっぱら意思表示をする。
その泣き声を親は聴き分ける。
泣き声という声を聴き分けている。

つまり、このことは泣き声を発している赤ん坊も、
無意識ではあるのだろうが、泣き声を使い分けているからこそ、
そのこの親は泣き声を聴き分けられる、ともいえる。

言葉を必要とせずに、コミュニケーションが成立する。
原始的なコミュニケーションではあるけれど、言葉という具象的なものに頼らずにそれを行っている。

声とのつきあいは、そうやって始まるからこそ、
いまもわれわれは声に対して敏感に反応できるのではないのだろうか。

Date: 4月 8th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その4)

ようするに、山口孝氏の熱心な読み手である、その人は、
山口孝氏による造語ともいえる「オーディスト」を、なんら疑うことなく賞讃していたともいえる。

そこには、その人がいままで読んできた山口孝氏の文章によってその人のなかにつくられていった、
ある種の知名度が関係しているのかもしれない。

これがもし他の人、
たとえば山口孝氏とは正反対のところでの書き手による造語としての「オーディスト」であったなら、
山口孝氏の熱心な読み手は同じように「オーディスト」を疑うことなく受け入れ賞讃したであろうか。

この態度は、はたして読み手として正しいといえるのだろうか。
特に造語として登場してきた「オーディスト」に対して、それでいい、といえるのだろうか。
山口孝氏の熱心な読み手は、
山口孝氏による「オーディスト」だからということで、考えることを放棄しているようにも見える。

私は山口孝氏による「オーディスト」になんら感心しなかったから、
その意味を調べるまでに一年以上経ってしまった。
ゆえにあまり人さまのことはいえないといえばそうなのだが、
だからといって、いわずにすませておける問題ではなく、
それは読み手以上に、送り手である編集者にとっては致命的ともいえることにつながっているはず。