Archive for category テーマ

Date: 7月 21st, 2013
Cate: 岩崎千明, 終のスピーカー

終のスピーカー(2013年7月21日)

Tour de Franceの100大会の初日(6月29日)に、岩崎先生のお宅にはじめて伺った。
Tour de Franceの100大会の最終日の今日、また行ってきた。

意図的にそうしたわけではなく、たまたまTour de Franceの日程と重なっただけ。
今日は岩崎先生の原稿をお借りしてきた。
手書きの原稿が数本、
手書きの原稿をコピーしたものが数本、
それから口述筆記の原稿も数本あった。
その他に週刊FMで連載されていた「カタログに強くなろう」の記事のコピーが揃っていた。
この連載記事の一部はある方から譲っていただいてすでに入力が終っているが、
歯抜けが今回すべて埋めていけることになる。

実は、この他にいただいてきたモノがある。
パイオニアのチューナー、Exclusive F3だ。

外形寸法、W46.8×H20.6×D38.9cm、重量は16.6kg。
これだけの大きさで、受信できるのはFMだけである。

いまFM放送はインターネットを介して聴ける。
音にこだわらなければiPhoneでも聴くことができる。
こうなってきたこの時代に、プリメインアンプ並の大きさと重量のチューナーで聴く。

それはどこか時代錯誤といわれるのかもしれない。
チューナーは一台、なにか欲しい、と思ってはいた。
できればバリコンを使ったチューナーがいい。

インターネットで聴けるものを、わざわざチューナーを介して聴くわけだから、
チューナーならではの音の美しさをもっているモノで聴きたい、
そんなことを漠然と思っていた。
それに別項で「チューナー・デザイン考」を書いている。
そのためにも最高級のチューナーでなくともいいけれど、
すくなくとも手もとに置いときたくなるモノがいい──、
そこにExclusive F3がやって来た。岩崎先生が使われていたExclusive F3である。

Date: 7月 20th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その4)

DE ROSAに乗り始めて、あれこれ試行錯誤していた。
ただ力まかせにペダルを踏んでいけば速く走れるというものではない。

自転車の乗り方は、その意味ではスピーカーの調整とよく似たところがある。
とにかく意識して乗っていると気づくことがある。
なにか自転車に腰のあたりを押されているような感覚があることに気がつく。

そういうときはうまく乗れている時であり、
うまく乗れているときほど、自転車から、もっともっと、というふうに腰を押されている感じを受ける。
つまり、自転車にあおられている、とはこういう感覚である。

この自転車は、もっと速く、もっと遠くまで走れる──、
お前はまだまだ、もっともっと力を出し切れ、そんなふうに感じられるから、
ロードバイクという自転車に乗る爽快感とともに、乗り終ったときにぐったりもする。

自分の好きなように乗ればいいじゃないか、
なにもプロの自転車選手を目指しているわけではないだろう──、
そんなことはわかっている。
そういう乗り方をしよう(つまりポタリング、散歩的な走り方)と思っていても、
体が温まってくると、自転車からあおられて、ポタリングではななくなっている。

「Harkness」におさめられているD130ソロから鳴ってきたSaxophone Colossusにうけた感覚は、
まさにそういう感覚だった。

Saxophone Colossusの鳴り方は、他のディスク(録音)を鳴らした時とは明らかに違う。
その違いは、あおられる感覚であり、挑発されているかのようでもある。

明らかに違う鳴り方とは、いい音であるわけだが、
でも同時に、まだまだこんなもの(レベル)じゃないぞ、
もっと鳴らしてみろ、もっともっと……と、そんなふうにあおられている。

Date: 7月 19th, 2013
Cate: audio wednesday

第31回audio sharing例会のお知らせ

8月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 19th, 2013
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その6についての余談)

ステレオサウンド 39号掲載の「オーディオの名器にみるクラフツマンシップの粋」、
ここではトーレンスのTD124とガラードの301がメインで取り上げられていて、
TD224についてもふれられている。

367ページには、岩崎先生、長島先生、山中先生が、
301とTD224をはさんですわられている写真が載っている。

301はキャビネットなしの単体、
TD224はかなり大きめのキャビネットに取り付けられた状態。
このTD224は、私の部屋にいまあるTD224そのものである。
つまり岩崎先生のTD224であり、
中野のジャズ・オーディオで使われていたTD224である。

Date: 7月 19th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(S.A.C. その1)

ネットワークによる音楽の配信が、これから先、どう展開していくのか。
正確には予測できない要素がある。
オーディオマニアがほんとうに望む音楽配信は、どれだけ実現されるのだろうか。

権利の問題、利益の問題、その他、業界の外にいる者には伺い知れない理由もあるはず。
それらによって翻弄されていかないとは言い切れない。

今日も、ユニバーサルミュージックに対してソフトバンクが買収を提案した、というニュースがあった。
拒否した、という報道もあり個人的にはほっとしているのだが、
もしソフトバンクがユニバーサルミュージックを買収したとしたら、
音楽配信はどういう方向に進む(流れる)のか……、と考えてしまう。

なんとなくでしかないのだが、オーディオマニアが望む方向とは違ってくるような気もする。
詳細はわからないし、今後どうなるのかもわからない。

巷では、CDに未来はない──、そんな言い方がなされている。
CDはあくまでも、1982年の時点で、デジタルで家庭に音楽(録音)を届ける最初の手段であった。
いまはCDだけが手段ではなくなっている。

遅かれ早かれCDというメディア(手段)はなくなるであろう。
インターネットによる配信がある──、と安心もできない。

昨日までオーディオマニアにとって理想的な配信を行っていた会社があっても、
企業買収により翻弄されてしまう可能性もないわけではない、と、今日の買収のニュースを読んで思っていた。
そして、このソフトバンクによる買収のニュースがきっかけで、
この項(オーディオと「ネットワーク」)にサブタイトルとして、「S.A.C.」をつけて、
なにか書いていけるのではないか、と思ったわけである。

S.A.C.とはStand Alone Complex(スタンド・アローン・コンプレックス)の略である。
「攻殻機動隊」の主人公、草薙素子による造語である。

Date: 7月 18th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その4)

ともかく五味先生はオーディオ評論家ではない。
私は一度たりとも、これまで五味先生をオーディオ評論家と思ったことはない。
オーディオ評論をやる作家だとも思ったことはない。

こんな当り前過ぎることを、こうやって書かなければならないことに、
なんとも表現しようのない気持になってしまう。

安岡章太郎氏は書かれている。
     *
本当のところ五味は、オーディオについての製品テストや消費者リポートの如きものをやっているわけではない。何々印のスピーカー、何々社製のアンプというのは、じつはキカイのことではなくて、音楽を語る言葉の代用としてつかっているにすぎない。五味には、それ以外に音楽を語る言葉がなかったのだ。いや、五味でなくとも、音楽そのものを直接語る言葉などというものがあるだろうか。──言葉が語ることができるのは、せいぜい演奏家の技術や、作曲家のプロフィールといったことぐらいではないか──。繰り返していえば、五味にとって音楽は宗教であり、〝音楽〟を信仰することで自分がよみがえったと信じているのである。音楽を語る言葉がありさえすれば、キカイをうんぬんしたりする必要もヒマもまったくなかったはずである。
     *
いうまでもなく、「〝言葉〟としてのオーディオ」とは、このことである。

誰も「音楽そのものを直接語る言葉」はもっていない。
岩崎先生も瀬川先生ももっていない。

もっていないこと、もつことができないこと、
それを生み出すこともできないのであれば、「〝言葉〟としてのオーディオ」を意識せざるを得ない。

だが、どれだけの人が、そのことを意識しているといえるだろうか。
五味先生の他に、誰がいたのか。
瀬川先生、岩崎先生はそうだったと、私は思っている。

Date: 7月 18th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その3)

インターネットが普及し、匿名での発言が簡単に行えるようになったことも関係している、とは思っているが、
とにかく、驚いたことは、五味先生のことをオーディオ評論家、もしくはオーディオ評論もする作家、
そんなふうにとらえている人がいた、ということである。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌に、連載をもっていたからオーディオ評論家なのか。
その短絡的思考には驚くしかないのだが、
もっと驚くのは、五味先生をそう捉えている人がどうも少なくないことである。

五味先生とは直接関係のないことなのだが、
これに関連することで私が最近驚いたのは、ステレオサウンド 186号の特集だった。
タイトルは「ほしくなる理由、使いたくなる理由」であり、
サブタイトルとして「評論家11人のオーディオコンポーネント選択術」とついている。

11人が登場している。
だが、この11人すべてをステレオサウンドはオーディオ評論家としているのか。
そのことに意外な感を受けた次第だ。
確かに11人のうちの多くは、ステレオサウンドでオーディオ評論家として執筆されている。
彼らが、本当の意味でオーディオ評論家なのかどうかを、ここで問いたいわけでなく、
その人たちのことをステレオサウンドがオーディオ評論家とすることには、特に異論はない。

けれど数人の方たちは、ステレオサウンドにときどき執筆されているけれど、
私の認識ではオーディオ評論家ではない、音楽評論家であったり、オーディオ愛好家であったりする。

ステレオサウンド 186号の特集に、
オーディオ評論家ばかりでなく、音楽評論家、オーディオ愛好家が登場するのはいい、と思う。
けれど、オーディオ評論家とそうでない人たちの境界を曖昧にしてしまっている。
なぜ、こんなことを編集部はしてしまったのだろうか。

ここにも、編集部の「言葉」に対する感覚が滲み出ている。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その23)

オーディオの「現場(げんじょう」は、どこなのかが、やっと見えてきたような気がする。

そして音場をおんじょう、と呼ぶのか、おんば、と呼ぶのか。
これについての私なりの答もはっきりとしてきた。

左右への拡がりも同じようにあり、
奥行きの深さも同じようにある、ふたつの再生音があったとする。
ひとつの再生音には、ステージの存在が感じられ(意識され)、
もうひとつの再生音にはステージが存在が感じられない(意識されない)、
としたら、ステージがある再生音の音場は(おんじょう)であり、
ステージがない再生音の音場は(おんば)と呼ぶべき、
これが私の考えである。

こう定義すると、意外にも音場(おんば)である再生音が多いことにも気がつく。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その2)

 この本の『オーディオ』巡礼という書名は、まことに言い得て妙である。五味康祐にとって、音楽は宗教であり、オーディオ装置は神社仏閣というべきものであったからだ。
     *
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評は、この書き出しではじまっている。
この書き出しは憶えていた。
そして、どんなことを書かれていたのかも、今回読みなおしてみて、
割と憶えていることを確認できた。
にも関わらず、大見出しとなっている、〝言葉〟としてのオーディオ、
この部分だけをなぜだか見落していたのか、それとも記憶の片隅に追いやってしまったのか、
とにかく、大事なことにいままで気づいてこなかった……、
そういう気持をつよく感じた。

安岡章太郎氏の書評の中に、「〝言葉〟としてのオーディオ」がそのまま登場するわけではない。
この「〝言葉〟としてのオーディオ」が、安岡章太郎氏自身によるものなのか、
ステレオサウンド編集部によるものなのかはわからない。

どちらでもかまわない。
「〝言葉〟としてのオーディオ」は、こうやって毎日ブログを書いている私にとって、
ほんとうに多くことを考えさせる。
だから、その意味では、今回、改めて「〝言葉〟としてのオーディオ」に出合えて、よかった。

ステレオサウンド 56号は1980年の9月に出た号だから、
私は当時17だった。
オーディオに夢中になっていたし、オーディオ関係の仕事につきたいと思うようになっていたころではあった。
でも、オーディオについての文章を書いていたわけではない。
そんなときの私には、まだ「〝言葉〟としてのオーディオ」の持つ意味を、
どれだけ理解できたか、はなはだあやしい。

そして、「〝言葉〟としてのオーディオ」は、
当時よりも現在において、その重みを増している。
それはなにも私だけにおいてにとどまらず、広い意味において、そうである。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 言葉

〝言葉〟としてのオーディオ(その1)

ひとつ確かめたいことがあって、ステレオサウンド 56号を手にとった。
確認はすぐにできた。やっぱりそうだった、という感じだった。

せっかく手にとった、ひさしぶりの56号だから、
パラパラと頁をめくっていた。
56号は、かなり熱心に読んだ号である。
瀬川先生によるJBL・パラゴンの記事、
「いま私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法 あるいはグレードアップ法」というタイトルの記事、
トーレンス・リファレンスの記事、ロジャース・PM510の記事の他にも、
黒田先生の「異相の木」が載っているし、
この他にも……、ひとつひとつあげていったらかなりの数になってしまうので、
この辺にしておくが、とにかく1980年に出た4冊のステレオサウンドで、
もっともくり返し読んだのは、56号であることは間違いない。

だから、この記事も読んでいた。
確かに読んでいた。
それでも、なぜか、この記事の大見出しは記憶から消えてしまっていた。

426ページに載っている。
安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評である。

ここには大見出しとして、こうある。

〝言葉〟としてのオーディオ

この短い見出しに気づき、
いいようのない感覚におそわれた。
そして、なぜ、この、〝言葉〟としてのオーディオ、をいままで見落していたのか。
自分のうかつさを反省していた。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その22)

最近ではあまり使われることが少なくなった気もする言葉に、臨場感がある。
1970年代には、この臨場感はよく目にしていた。

臨場感は必ずしも音場感と完全に一致するものではないにも関わらず、
音場感という言葉が誰もが使うようになってきた1980年以降、
音場感と交代するかのように臨場感の登場回数は減ってきたのではなかろうか。

臨場感にも「場」がついている。
臨場感は、りんじょうかんと読む。
音場を、おんじょうではなく、おんばと読む人でも、臨場感はりんじょうかんである。

「場」をじょう、と読むわけだ。
つまり現場(げんじょう)と同じで、そこで何かが起っている「場」に臨む、
臨んでいるかのような感覚を、臨場感というわけだ。

では、いったい何に臨んでいるのか。どういう「場」に臨むのか。
ここで考えるのは、オーディオについてのことだから、
答は、ひとつしかない、といいきっていいだろう。

ステージ(stage)こそが、「場」(じょう)である。

そう考えていくと、オーディオにおける現場(げんじょう)とは、
ステージであり、ステージのあるところ、であるはずだ。

Date: 7月 15th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その3)

「Harkness」から鳴ってくるSaxophone Colossusを聴いていると、
あの感覚に似ている、と思ってしまう。

いまから20年近く前、1995年の5月、ちょうどジロ・デ・イタリアの初日にあたる土曜日に、
DE ROSAのロードバイクを買った。

初めての、本格的なロードバイクだった。
外国製の自転車も初めてだった。

購入した自転車店からの帰路、
当然、買ったばかりのDE ROSAに乗って帰ったわけだが、
正直、大変なモノを買ってしまった……、と少しばかり後悔していた。
こんなにも、それまで乗っていた、いわゆる一般的な自転車とは異るモノだとは思っていなかった。

それでも乗って帰るしかないわけで、
乗り続けていると、少しずつなれてくる。
この自転車の良さがわかってくる。

無事帰宅できて、ほっとしていた。
にもかかわらず、もう一度乗りたい、とすぐにDE ROSAと出かけてしまった。

こんなふうに私の自転車のつきあいははじまった。

少しずつ走れる距離は伸びてくる。
出せるスピードも増してくるようになる。
そうするとイタリアのロードバイクのもつ性格が、徐々にはっきりとしてくる。

時速20〜30kmくらいで走っている時と、
40km/hをこえたとき、さらに50kmをこえたとき、
それぞれに感じることが違う。

こういう速度で走ることを前提としていることが、はっきりとわかる。
そして、自転車に、あおられる感覚が確かにあった。

この感覚が、D130ソロでSaxophone Colossusを聴いていた時に蘇っていた。

Date: 7月 15th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その12)

ヤマハのNS1000Mも、ダイヤトーンのDS1000も、
どちらも国産のブックシェルフ型スピーカーシステムとして、高性能の実現を目指したものといえる。
けれどNS1000MとDS1000のあいだには約10年が経過している。

あえていえばNS1000Mの高性能は静特性であり、
DS10000の高性能は動特性ということになる。
これは、あくまでも誇張した言い方ではある。

でも、このふたつの価格もサイズも構成もよく似たブックシェルフ型スピーカーシステムを、
私はステレオサウンドの試聴室で何度も聴く機会があった。

NS1000Mは、このスピーカーが世に登場した時は先端の音だったのかもしれないが、
私が1980年代に聴いた時には、こなれた、実にいい音だった。
尖ったところが、うまくぐあいに丸くなってはきているけれど、
それでももともとは尖った性格のスピーカーだっただけに、
最初から柔らかな音を特徴とするスピーカーとは、また違った趣のあるこなれた音だった。

NS1000Mは、こんなにいいスピーカーだったのか、と認識を新たにした。

その点、DS1000は違っていた。
尖っている、といえばそういえなくもないが、NS1000Mの尖っている、とは少し違う意味をもつ。
非常に優秀なスピーカーシステムではあるものの、
その優秀さには、懐の深さがいくぶん足りない、とでもいおうか、
すくなくともスピーカーシステム以前のシステムの不備を、ここまではっきり出さなくても……、
と感じる性格が、DS1000にはあった。

そのくらい大目にみるよ、的な大らかさは欠けていた。

Date: 7月 14th, 2013
Cate: トランス

トランスからみるオーディオ(3Dとは)

3DはThree Dimensionだから、
平面に奥行きが加わったもの、ということになるわけだが、
ほんとうにそうなのだろうか、と感じてしまうことがある。

X軸とY軸から成る平面にZ軸という奥行きを加えたものは確かに3Dであることは間違いないのだが、
X軸とY軸からなる平面にZ軸として加わるものは、果して奥行きが最初に来るのだろうか。
そう思ってしまうのだ。

2チャンネルのステレオ再生を考えていくと、
左右の音の拡がりは理屈としても感覚的にも理解できることである。
けれど奥行きの再現となると、理屈からは理解し難い。
音像に立体感があることも、理屈からは理解し難い。

けれど入念に調整されたオーディオからは、
2チャンネルの再生であっても奥行きを感じたり、音像の立体を感じる。

そして奥行きの再現が浅かったり、
音像が平面的であることを、音が悪いことの証しのようにも捉えたりする。

なぜなのか、と考えていくと、
Z軸が奥行きとして考えていくよりも、
あくまでも個人的な感覚からいえば、Z軸を時間として捉えた方がしっくりくる。

そして思うのは、3Dプリント技術はたしかに立体物をアウトプットしているわけだが、
これまでの、X軸とY軸からなる紙にプリントされていたものに加わったのは、
奥行きではなく、時間として考えていくものかもしれない、ということである。

Date: 7月 14th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その11)

ダイヤトーンのDS1000に、「高性能」ということを感じたのか。
それは、まず音にある。
それは、井上先生によって鳴らされたダイヤトーンのDS1000の音にあった。

その音を聴いた後で、DS1000に関する技術資料を読めば、
高性能の追求が、変ってきたことがわかる。

アンプにおいては、AGIの511の登場によりスルーレイトという、
それまであまり耳にしたり目にしたりすることのなかった測定項目が注目を浴びるようになった。
そしてマッティ・オタラ博士によるTIM歪の発見と発生メカニズムについての発表があったりして、
アンプの性能の追求は、それまでの静特性の追求から動特性の追求へと移行していった、といっていいだろう。

AGI・511はハイスピードアンプの代名詞のようでもあった。
とはいえ、AGIの登場の数年前からOTTO(三洋電機のオーディオ・ブランド)は、
広告でスルーレイトという技術用語がこれから注目されるだろう、といったことを謳っていた。

アンプにおいては、NFBの功罪を含めて、
動特性が静特性よりも重要視されることになっていったわけだ。

この動きは当然スピーカー、スピーカーシステムの開発にも波及していく。
けれどアンプとほぼ同時期とはならず、数年の遅れが必要であった。