〝言葉〟としてのオーディオ(その2)
この本の『オーディオ』巡礼という書名は、まことに言い得て妙である。五味康祐にとって、音楽は宗教であり、オーディオ装置は神社仏閣というべきものであったからだ。
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安岡章太郎氏による「オーディオ巡礼」の書評は、この書き出しではじまっている。
この書き出しは憶えていた。
そして、どんなことを書かれていたのかも、今回読みなおしてみて、
割と憶えていることを確認できた。
にも関わらず、大見出しとなっている、〝言葉〟としてのオーディオ、
この部分だけをなぜだか見落していたのか、それとも記憶の片隅に追いやってしまったのか、
とにかく、大事なことにいままで気づいてこなかった……、
そういう気持をつよく感じた。
安岡章太郎氏の書評の中に、「〝言葉〟としてのオーディオ」がそのまま登場するわけではない。
この「〝言葉〟としてのオーディオ」が、安岡章太郎氏自身によるものなのか、
ステレオサウンド編集部によるものなのかはわからない。
どちらでもかまわない。
「〝言葉〟としてのオーディオ」は、こうやって毎日ブログを書いている私にとって、
ほんとうに多くことを考えさせる。
だから、その意味では、今回、改めて「〝言葉〟としてのオーディオ」に出合えて、よかった。
ステレオサウンド 56号は1980年の9月に出た号だから、
私は当時17だった。
オーディオに夢中になっていたし、オーディオ関係の仕事につきたいと思うようになっていたころではあった。
でも、オーディオについての文章を書いていたわけではない。
そんなときの私には、まだ「〝言葉〟としてのオーディオ」の持つ意味を、
どれだけ理解できたか、はなはだあやしい。
そして、「〝言葉〟としてのオーディオ」は、
当時よりも現在において、その重みを増している。
それはなにも私だけにおいてにとどまらず、広い意味において、そうである。