Archive for category テーマ

Date: 9月 28th, 2015
Cate: audio wednesday

第57回audio sharing例会のお知らせ(ヤマハ NS5000をどう評価するか)

10月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

インターナショナルオーディオショウをじっくりと見て聴くことができていたら、
今回のテーマはショウ雑感にしようかな、と考えていたが、わずかな時間しか会場にいられなかった。

別項で書いているように、ヤマハの新しいスピーカーシステムNS5000には、
予想以上の音が体験できて正直驚いている。

他にも注目のスピーカーシステムがあったことは知っている。
それらが高い評価を得ていることはインターネットを通じてわかる。

そういうスピーカーの音を今回は聴けなかったし、
インターナショナルオーディオショウで鳴っていた音だけを比較して、
それぞれのスピーカーシステムについてあれこれいうのは極力控えるようにしている。

ヤマハのNS5000の音をどう評価するのかは、人によって違っている。
私と同じように高く評価する人もいれば、そうでない人もいる。
高く評価している人でも、私の聴き方と同じ聴き方での評価ではおそらくないと思うし、
その人なりの聴き方での高い評価のはずだ。

NS5000の登場を、嬉しく思っている。
それでは満点がつけられるスピーカーなのいかというと、そうではない。
そうとうに気になる点があった。

ただそのことに関しては、自分の手で鳴らしてみたわけではないし、
その問題点が試聴用ディスク(二枚に共通していた)に起因することなのか、
それとも別のところに問題があってことなのかがはっきりとしないから、
ここでは触れないことにする。

それにNS5000は試作品である。
発売は2016年7月の予定である。
一年近く発売まであるわけで、私が感じた問題点がほんとうに問題点なのか、
だとしたらヤマハがどう処理するのか、その時間はたっぷりとある。

NS5000の音の細かなことについては語ろうとは考えていない。
それよりも、NS5000というスピーカーシステムが「日本のオーディオのこれから」を語る上で、
どういうスピーカーシステムであるのか、そのことについて話したいと考えている。
同時に、インターナショナルオーディオショウという場で、
どういう聴き方をするのかについても触れるつもりでいる。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 27th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・その4)

ダイヤトーンが40周年記念モデルとして、1985年にDS10000を出してきた。
このころのダイヤトーンはDS5000、DS1000、DS2000といったスピーカーが主力であり、
これらをきちんとセッティングして鳴らした音は、オーディオマニアとして惹かれるところがあった。

とはいっても自分のモノとして買うかとなると、それはなかった。
それでもきちんとした状態で鳴るこれらのスピーカーの音には、
オーディオマニアとして挑発されるところがあった。

DS10000は型番からわかるようにDS1000をベースにした限定モデルである。
ウーファーは27cm口径、スコーカー、トゥイーターはハードドーム型。
エンクロージュアはピアノフィニッシュのブックシェルフ型だった。

こう書いていくと、今回のヤマハのNS5000も同じといえる構成である。
構成、外観が共通するところがあるにとどまらない。

昨日、NS5000の音を聴きながら、DS10000の音を初めて聴いた時のことを思い出していた。
DS10000を聴いた時の驚きを思い出していた。

NS5000にも、そういった驚きがあった。
同じといえる驚きの部分もあったし、そうでない驚きもあった。

Date: 9月 27th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・その3)

24日のNS5000の発表された内容を読んでいて、
インターナショナルオーディオショウに行って音を聴きたい、と思うようになったのは、
まず型番がそうだった。

現在のヤマハのプリメインアンプとCDプレーヤーは、1000番、2000番、3000番の型番がつけられている。
NS5000はNS1000でも、NS2000でもNS3000でもなく、NS5000である。
NS1000とNS2000は既に使われている型番だとしても、なぜNS3000でないのか。

もしかするとNS3000という型番で開発は始まったのかもしれない。
それがなんらかの理由で、NS5000になったとしたら……、そんなことを考えていた。

そして価格をみると一本75万円(予価)とある。ペアで150万円。
ヤマハのCD-S3000、A-S3000の価格からしても高い価格設定である。
ということは、CD-S5000、A-S5000が今後登場してくるのかもしれない。
それだけではない、いまはプリメインアンプだけだが、セパレートアンプの復活もあるのではないか。

そんな勝手な期待をしていた。
これがインターナショナルオーディオショウに行こうと思った理由のひとつ。

もうひとつはNS5000の外観にある。
30Cm口径ウーファーに、ドーム型のスコーカーとトゥイーター、
エンクロージュアのサイズはいわゆる日本的なブックシェルフ。

エンクロージュアも写真を見る限りはラウンドバッフルではない。
ただの四角い箱に見える。
いくら仕上げがピアノフィニッシュであっても、
598のスピーカーと一見似たような内容で、十倍以上の価格をつけて出してくる。

あえて、このスタイルでヤマハは出してくるのか──、
これがふたつめの理由である。

もうひとつは昨年のショウ雑感にも書いているように、
ヤマハのプレゼンテーションは、なかなかよかった。
今年もいいプレゼンテーションであるだろうし、
昨年と同じということもないであろう。そういう期待も理由のひとつであった。

Date: 9月 27th, 2015
Cate: 再生音

残像、残場、残響(その1)

残像とは視覚的なことである。
聴覚的なことだと残響か。

けれどどちらも聴覚的なこととして捉えれば、
残像は音像、残響は音響との対比で語れるのではないだろうか、と思えてくる。
となると音がつく言葉には音場があり、これは残場となるのか。

残場(ざんじょう)、けっしていい読みではないけれど、
音像・音場・音響、
残像・残場・残響、
再生音とはそういうことではないのか、という予感がしてくる。

間違っているかもしれない。
そうだとしても、残像・残場・残響についてしばらく考えてみたいと思っている。
考えることで、間違っていたとしても何が間違っていたのかははっきりしてくるだろうから。

Date: 9月 27th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・その2)

ヤマハのスピーカーシステムの型番には基本的にはNSとついている。
NSとはナチュラルサウンド(Natural Sound)の略である。

NS1000M、NS690、NS10M、NS500、NS8902などの製品があった。
これら以外にも数多くのヤマハのNSナンバーのスピーカーシステムは登場してきた。

1980年代に登場したヤマハのスピーカーの大半は、
ステレオサウンドで聴いている。
そうやって聴いてきて、
ヤマハが目指している・考えているナチュラルサウンドがどういう音なのか、
それがわかった・つかめたかというと、そんなことはなかった。

こちらの聴き方が悪いのかもしれない。
でも、それだけではなかったはずだ。

たとえばNS690IIとNS1000Mは、どちらも30cm口径のウーファーの3ウェイ、
スコーカーとトゥイーターはどちらもドーム型だが、NS690IIはソフトドームでNS1000Mはハードドーム型。
エンクロージュアの仕上げ、色もまったく違う。

それぞれのスピーカーから鳴ってくる音は、
他社製スピーカーとの比較においてはどちらもヤマハのスピーカーであることははっきりしているのだが、
NS690IIとNS1000Mとでは性格が同じスピーカーとはいえないところもあった。

ヤマハはどちらの音をナチュラルサウンドと呼ぶのか。
私にとって、このことはながいこと疑問だった。

今回NS5000を聴いて、
やっとヤマハの「ナチュラルサウンド」をはっきりと耳で聴きとれた、と実感できた。

Date: 9月 26th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・その1)

25日からインターナショナルオーディオショウが始まった。
今回は仕事の関係で行けない(行かない)かもと思っていた。

けれど24日にヤマハからNS5000のリリースが発表になった。
これだけは聴いておきたいと思い、なんとか時間のやりくりで、26日の夕方の、二時間半ほど会場を廻っていた。

目的のヤマハのブースでは私が到着する少し前に試聴が始まっていた。
これまでならばそれでもブースに入れたものだけど、今回は無理だった。
となると本日の最後のデモ(18時から)を聴くしかない。
そのためにはヤマハのブースに最低でも15分前には入っておきたい。

つまり他のブースを廻る時間は一時間ちょっとになってしまう。
NS5000以外にも聴いておきたいモノはあった。
でも今回はNS5000を最優先とすることにした。

おかげでNS5000を約50分間聴けた。
予想をこえていた音が鳴っていた。
詳細は明日以降書いていくが、明日(27日)に行かれる方は、とにかくNS5000の音を聴いてほしいと思う。

NS5000からは「日本のオーディオ、これから」を聴き取ることができたからだ。

Date: 9月 25th, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その16)

つきあいの長い音を持つことは、絶対不可避な機器の劣化を補っていくことかもしれない。

Date: 9月 25th, 2015
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(黒田恭一氏のことば)

《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》
ステレオサウンド 61号(1981年12月発売)、
黒田先生の「さらに聴きとるものとの対話を 内藤忠行の音」に、こう書かれている。
34年前のことだ。

《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》
これだけだったら、現在を語ったものだと、多くの人が思うことだろう。

《いまは、恥じらいなどというものがまるでない、しったかぶりと自己宣伝全盛の時代である。》
これだけだったら、現在のオーディオ評論と呼ばれているもののことだと、思う人もいることだろう。

Date: 9月 25th, 2015
Cate: ポジティヴ/ネガティヴ

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(その4)

システム(system)とドグマ(dogma)。
すでに存在しているものである。

グレン・グールドはトロント大学王立音楽院の卒業生に、
《諸君はシステムとドグマ、つまりポジティヴな行為のために教育されてきました》と話している。
グールドが「諸君」と呼びかけているのは、卒業生たちである。
     *
諸君のなかには、いつか音楽のいずれかの方面で教育に携わる方も多いと想像します。そうした役割を果たしておられるときこそ、ポジティヴな思考のもたらす危険と呼んでよいものに陥りやすい,そう私は思っています。
     *
システムとドグマ、どちらも人工物である。
人工的構築物である。

グールドはいう。
     *
じつのところ、想像力の駆使とはシステムの中にしっかりとおさまった場所からシステムの外にあるネガティヴの領域へと用心深く身を浸していくことだからです。
     *
用心深くネガティヴな領域に身を浸していくことをせずに、
システムの中にしっかりとおさまった場所での思考、
つまりがそれがポジティヴな思考であり、それがもたらす危険とは、
「システム化された思考には相補的存在」があることを忘れてしまうことである。

Date: 9月 25th, 2015
Cate: background...

background…(ポール・モーリアとDitton 66・その3)

ステレオサウンド 48号の新製品紹介のページに、
ひときわユニークなスピーカーシステムが登場している。
セレッションのDEDHAM(デッドハム)だ。

48号当時のステレオサウンドでは、
個々の新製品の紹介とともに、井上先生、山中先生による「新製品の話題」という対談があった。
そこには「最新スピーカーシステムの話題を追って」というタイトルがついている。

DEDHAMは新製品ではあっても、最新スピーカーシステムとは呼びにくい性格の代物である。
(ここではあえて代物という言葉を使う)

DEDHAMはDitton 66をベースにしたスピーカーシステムなのだが、
外観はまったく異る、別物といえるシステムである。

DEDHAMの外装は、イギリスのコンスターブル社の熟練工によって、
イギリスのクラシック家具調に仕上げられている。
その外観はアンティーク家具そのものである。

どこから見てもスピーカーには見えない。
DEDHAMには両開きの扉がついている。
扉には熟練工による装飾が彫られている。

この扉は全開することでフロントバッフルを左右に拡張することにもなる。

DEDHAMは登場時は80万円(一本)していた。
その後98万円になっていた。
Ditton 66は178000円(一本)だった。

DEDHAMの存在を知っている人でも、
Ditton 66のフロントバッフルを、
アンティーク家具調のエンクロージュア(キャビネット)に取りつけたモノと思っているようだが、
実際はDitton 66そのものを家具調のキャビネットに収納している。
Ditton 66をエンクロージュアごと収めているわけで、
その意味ではDEDHAMの外装は、まさしく家具である。

Date: 9月 25th, 2015
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その1)

あのころのオーディオ評論家による文章と、
いまどきのオーディオ評論家と呼ばれている人たちの文章、
前者をオーディオ評論とするならば、後者は……、ということはここでは問わない。

とにかくオーディオ雑誌に掲載されたオーディオに関する文章をオーディオ評論とすれば、
それをどう読むのか。

私と同世代、それよりも上の世代の人たちにとっては、
いまどきのオーディオ評論はつまらない、と思っている人が少なくないのは感じている。
一方、若い人たちにとっては、
昔のオーディオ評論のどこがいいのかわからない、という意見もあるだろう。

ステレオサウンドだけでも来年創刊50年を迎えるわけだから、
そこに掲載された文章はかなりの量になり、
ステレオサウンド以外にもいくつものオーディオ雑誌がある(あった)。
それらすべてとなるとそうとうな文章になり、玉石混淆でもある。

昔のオーディオ評論がよかった、
昔のオーディオ評論なんて役に立たない、
読み手によってどちらでもあるわけで、
つまりは読み手次第のところがある。どう読むか、である。

私は、ここで製造中止になってひさしいオーディオ機器のことについて書いている。
もういちど聴きたい、といったことを書くこともある。

たしかにもういちど聴きたい、と思いながらも、聴かずにいたほうが賢明かもしれない──、
そう思うこともある。

井上先生がステレオサウンド別冊「音の世紀」で書かれていることを思い出す。
     *
 ただ、古き佳き時代のスピーカーシステムがいかに心に残るコンポーネントであったとしても、経時変化という絶対不可避な劣化は、当然覚悟しなければならず、基本的に紙パルプ系コーンを採用していた振動板そのものの劣化や、エッジ、スパイダーなどの支持系をはじめ問題点は多い。現実に状態の良いシステムを実際に鳴らしてみたとしても、かつて備えていた本来の状態をベースに聴かせた音の再現は完全には不可能であり、例えば、1モデルに1ヵ月の時間を費やしてメインテナンスしたとしても、絶対年齢は、リカバリー不能であろう。逆説的ではあるが、イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、想い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。
     *
《イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、想い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。》

これはまさにそうである、と歳を重ねるごとにそう思うようになっている。
「残像」を大切に扱いたい、と思う。

そして、その「残像」を大切に扱うために欠かせない文章があり、
その「残像」をよりはっきりとしたものにしてくれる文章がある。

Date: 9月 24th, 2015
Cate: 調整

オーディオ機器の調整のこと(その12)

3009/SeriesIIIは、いまでもいいトーンアームだと思う。

SMEのトーンアームで3012と3009とでは、ためらうことなくロングアームの3012を選ぶ。
Series Vの音を聴いて驚き、その音にまったく不満などありもしなかったのに、
つい「Series Vのロングアームは出ないんですか」と口にしてしまったこともある私でも、
3009/SeriesIIIに関しては、そのロングアーム版が欲しいとは、一度も思ったことがない。

3009/SeriesIIIは、ずっと以前に使っていた。
欠点がまったくないトーンアームではないものの、いまでも輝きを失っていないトーンアームである。
アナログディスクという塩化ビニールの黒い円盤を、ひとつのインターフェースとして捉えるのであれば、
トーンアームとは何なのかと考えた場合に、3009/SeriesIIIの形態は重要なヒントとなる予感がある。

その3009/SeriesIIIは、SME初のユニバーサル・トーンアームなのではないか、と思えてくる──、
以前そう書いた。いまもそう思っているけれど、それでもこのトーンアームはカートリッジを意外な面で選ぶ。

それはカートリッジの形状である。
もっといえばカートリッジのヘッドシェルとの接触面の形状(というより大きさ)で、
3009/SeriesIIIはカートリッジを選り好みする。

Date: 9月 23rd, 2015
Cate: ケーブル

ケーブル考(その5)

ケーブルは関節だということに気づいてみると、
そういえは関節は英語では jointであり、
Jointには、関節の他に、接合個所[点、線、面]、継ぎ目、継ぎ手、という意味がある。

ジョイントケーブルという言い方があるのも思い出す。
ジョイントケーブルといっても関節ケーブルという意味ではなく、接続ケーブルという使われ方ではあるわけだが、
ケーブルをオーディオ機器同士の関節として捉えることは、
あながちおかしなことでもないし、目新しいことでもないのかもしれない。

たまたま私が読んできたオーディオ関係の本に、そういったことが書かれていなかっただけだったのか。

人間の身体に関節はいくつもある。
指にもあるし、手首(足首)にもあり、肘(膝)、肩(股)などがある。
これらの中では膝の関節が複雑だと聞いたことがあるが、
だからといって膝の関節がもっとも優れた関節であり、
他の関節も膝と同じ構造の関節になれば、身体能力が向上する、というものではないはず。

それぞれに箇所に適した関節であるからこそ、バランスが成り立っているのかもしれない。

オーディオ機器に使われるケーブルにも、いくつか種類がある。
もっとも短くて、だから価格も安く手軽に交換できる箇所としてシェルリード線、
トーンアームからの出力ケーブル(低容量と低抵抗タイプとに以前はわけられていた)、
チューナー、CDプレーヤーなどをアンプに接続するラインケーブル、
スピーカーに接続されるスピーカーケーブル、
それからそれぞれのオーディオ機器に電源を供給する電源コードがある。

スピーカーケーブルに求められる条件とシェルリード線に求められる条件とは違ってくる。
スピーカーケーブルではさほど重量が問題となることはないが、
シェルリード線では、あの狭いスペースであり、トーンアームの先端部分に位置するのだから、
太さと重さには制限がある。

ただし、この制約は高価な素材を使ううえでは有利ともなってくる。

Date: 9月 23rd, 2015
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その7)

発熱の問題はオーディオにとっては、けっこうやっかいな問題である。
なにもアンプに限った話ではない。
スピーカーにとっても熱を発することは問題であり、
その熱をどう処理するかはスピーカーの基本的な性能に関わってくる。

いうまでもなくスピーカーユニットのボイスコイルは金属である。
アルミニウムか銅が使われている。

電流が多く流れれば、どんな金属であれ熱をもつ。
熱をもてば金属の内部抵抗は大きくなる。
内部抵抗が大きくなれば、発熱もまた増えていく。つまり悪循環に陥る。

そうなってくると音量を上げようとして、
スピーカーにどれだけパワーを送ったとしても熱へと変換されていくパワーが増えていくだけで、
リニアリティが悪くなっていく。

つまりボイスコイルがもつ熱をどう処理していくのか。
この部分がうまく設計されていないユニットだと、
どんなに耐入力が高くとも最大音圧レベルは理屈どおりにはいかない。

JBLを離れたバート・ロカンシーを中心として1970年代終りに設立されたガウス。
当時、ウェストレックス(ウェストレークではない)のシステムに採用されたユニットでもあった。
無線と実験の記事で、このことを知って、
JBLよりもすごいユニットが登場したのか、と思ったほどだ。

ガウスのフルレンジ、ウーファーといったコーン型ユニット、
ホーン型トゥイーターは、ユニット後部がヒートシンク状になっていた。

それからイギリスのPMCの独特の形状のウーファー。
通常フレームはユニットの後部(裏側)にあるものが、
振動板の前面(ユニットの前面)にフレームをもっている。

見た目も独特なこの形状は、フレームを放熱器としてとらえれば、
エンクロージュア内に置くよりもエンクロージュアの外にもってきたほうが、
とうぜん放熱効果は高くなるというメリットがある(もちろんデメリットもあるけれど)。

それにボイスコイルの熱はボイスコイルだけではなく、マグネットにも影響を与えてる。
ネオジウムマグネットを採用したJBLのS9500のウーファー1400Ndでは、
熱による悪影響から逃れるために磁気回路の一部を削りとるという、独自の放熱機構をもっている。

ボイスコイルの抵抗を完全に0にできて、しかもどんな状況下でも0を維持できるのであれば、
変換効率の低さは、パワーアンプの出力の増大によって、かなりの部分補えるとしても、
現実にはそういう素材は登場していない。

ガウス、PMC、JBLのそれぞれの手法にしても、完全な解決法とはいえない。
パワーアンプの場合、発熱体である出力トランジスターはヒートシンクに取りつけられている。
けれどスピーカーの発熱体であるボイスコイルは、つねに動いているため、そういうわけにはいかないからだ。

Date: 9月 22nd, 2015
Cate: background...

background…(ポール・モーリアとDitton 66・その2)

岡先生のDitton 66の評価は、かなり厳しいものと読めなくもない。
     *
 このモデルも37号のテストに登場している。そのときもハイエンドが目立つというような書いたのだが、今回もそういう印象は、オーケストラ曲における弦楽器の目立つこと、声にかなり一種のつややかさがあること、とかくバックにある高音楽器をうまくひきだしてくれる一種のおもしろ味をもっているという店では、印象はあまりかわらなかった。倍音の出方がなかなかおもしろいのである。16Hzまでの再現性があるのかどうかはちょっとわからないが、低域の量感もかなりある。しかし、その低音の量感のわりに抑えが利かないところが出てくる。ABRの反応がおそくそのダンピングがあまいせいではないかと思われた。前回のテストでヴォーカルがよいというようなことを書いたが、このジャンルの音楽のききやすさというようなものはたしかにあるのだけれど、いまひとつ切れがあまくなるようで、一体にどの音にも余韻みたいなものがつきまとう。イギリスのスピーカーのなかでは、ほかにあまりきかれない一種の華やかさといったものもあるようだ。定位感がぴしっと出てこないところがあるが、ごく上等なイージーリスニング・システムといった感じである。
     *
瀬川先生が「テストの結果から私の推すスピーカー」の筆頭にDitton 66を挙げられているのと対照的に、
岡先生、黒田先生はDitton 66については、そこではまったくふれられていない。

瀬川先生と岡先生の評価がここまで違うのは、
どちらかの耳が信用できないから、ということではまったくない。

短絡的な読み手は、ここで「だからオーディオ評論家なんて信用できない」と口にしてしまうだろう。
けれど、ここでの例はそんな低いレベルのことではない。

ふたりの聴き方の違いが、そのまま試聴記に顕れているだけである。
Ditton 66は瀬川先生が書かれているように「永く聴いていても少しも人を疲れさせない」。
けれど、その性質が、
岡先生にとっては「ごく上等なイージーリスニング・システムといった感じ」になってしまうのだろう。

岡先生にとってはイージーリスニング・システムであるDitton 66が、
瀬川先生にとっては「本ものの音楽のエッセンスをたっぷりと響かせる」スピーカーである。