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Date: 1月 7th, 2016
Cate: audio wednesday

第60回audio sharing例会(アンプを愉しむ・その3)

昨夜、私にとって驚きといえることもあった。
喫茶茶会記のお客さん、つまりオーディオには何の関心もない人が、
途中から参加された。

アンプの音は一通り聴いた後だった。
三人のうち、ひとりはプロのダンサーということだった。
少し聴かれていたら、「踊ってもいいですか」ときかれた。
ことわる理由は特にないので、踊ってもらった。

こういうことが起るのは、ここが喫茶茶会記だからである。
オーディオ雑誌の試聴室やオーディオ店では、こういうことは起きない。

そんなこと起きない方がいい、と思う人が多いのかもしれないが、
少なくとも昨夜鳴っていた音は、プロのダンサーが踊りたくなる音であったのだろう。

踊れない音、というものもあると思う。

三人のうち一人は女性だった。
「バグダッド・カフェのような感じがする、なぜだろう……」とくり返していた。
そういえば、バグダッド・カフェ(映画)を観ていないことに気づき、
そもに対して、何の返答もしなかったけれど、ここでの「バグダッド・カフェのよう」は褒め言葉だった。

少なくとも、昨夜鳴っていた音の何かが、彼女にバグダッド・カフェを想起させたのかもしれない。

23時をすぎたころ、プロのダンサーの人が、今度は椅子にこしかけて、
真剣に鳴っている音(音楽)を聴いている姿は、印象に残っている。
背筋をのばして、両手は膝の上において正しい姿勢で聴かれていた。

この時、別のところをいじって、音を変えていた。
その音の変化に対しても、彼にとっては初めての体験であっただろうが、
真剣に耳を傾けている姿は、ここ(喫茶茶会記)で、
こういうことをやった意味があったかも、と思わせてくれた。

まだまだやりたいことはいくつもあった。
喫茶茶会記のアルテックの音は、まだまだ良くなる余地がそうとうにある。

私のスピーカーではないから、あえて積極的には手を出さないようにしている。
それでもこの一年で、少しずつあれこれ店主の福地さんをそそのかしてやっていこうとたくらんでいる。

今日、片付けに喫茶茶会記に昼間行っていた。
Kさんとふたりで片付けながら、またやりたいですね、と話した。

Date: 1月 7th, 2016
Cate: audio wednesday

第60回audio sharing例会(アンプを愉しむ・その2)

昨夜は、私とKさんは喫茶茶会記に15時半ごろには着いていた。
アンプの梱包をといて、アンプの置き台を用意して、そのうえにセッティングしていく。
アンプのAC極性をチェックしながら、配線、それから音出しのチェックを行う。

喫茶茶会記はステレオサウンドの試聴室とは違う。
それに伴ういくつかの制約はある。
ケーブルに関してもそうである。

スピーカーケーブルに関しては、試聴室レベルとは到底いえない。
ここもきちんとやれば、もっといい結果が得られるはわかっているけれど、
時間という制約もある。
その中で、今回はアンプの試聴ということなのだから、
そのために必要なことを選択して、それを優先してやっていく。

傍で見ているだけの人からすれば、
あそこがいいかげんだな、と思うだろう。
それはすべてわかってやっている。

その人が気づかないことも、やっている者は気づいている。

今回一通りアンプを聴き終り、何人か換えられたあと、
スピーカーに関するセッティングを手直しした。

ここで、何をやったのかは書かない。
昨夜、最後までいた人は、私が何をやったのかはわかっている。
そして、彼らは、そのことによる音の変化に驚いていた。

その驚きは、アバド/ポリーニのバルトークのピアノ協奏曲を初めて聴いた驚きとは違う種類のもの。
私がやったことは、ここで何度も書いている聴感上のS/N比に関係することである。

オーディオ雑誌で聴感上のS/N比という言葉をみても、なかなか実感のわくものではないのではないか。
わいていたとしても、ズレたものであることも少なくない。

昨夜やったことは、はっきりと聴感上のS/N比を向上させることである。
スピーカーを正面から見ていても、何をやったのかはわからないことをやっている。

費用も手間もほとんどかかっていない。
けれど、私がやったことに対して、アルテックのスピーカーは素直に反応してくれていた。
アンプの違いについても、そうだった。

これも、驚きのひとつとして受けとめた方もいると思う。

Date: 1月 7th, 2016
Cate: audio wednesday

第60回audio sharing例会(アンプを愉しむ・その1)

毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶喫茶茶会記で行っているaudio sharing例会。
昨夜は60回目、丸五年やってきたわけだ。

以前書いているように、喫茶茶会記のスピーカーが新調され、
常連のKさんがアンプを持ち込んでくれることになり、アンプの試聴会を行った。

audio sharing例会で本格的な音出しは今回が初めてである。
初めて来られる方もいるかな、と思ったけれど、
来られた方は常連の方ばかりで、その分、愉しんでもらえたように感じた。

アンプは是枝重治氏のアンプがコントロールアンプが一機種、パワーアンプが三機種がメインといえよう。
管球王国19号に発表されたコントロールアンプを固定して、
ラジオ技術2013年12月号発表の6AQ5プッシュプル、管球王国57号の7695シングル、
管球王国59号発表の807Aプッシュプルの順に聴いていった。

807Aプッシュプルを聴いた後で、コントロールアンプをゴールドムンドのMIMESIS7に替える。
MIMESIS7と807Aプッシュプルの音を聴いて、パワーアンプを7695シングルに替える。

次はオーラデザインのプリメインアンプVA40、
それからゴールドムンドのMIMESIS7とMIMESIS6のペアを聴いた。

スピーカーシステムはアルテックだが、
通常のセッティングではなく、この日のためにセッティングを変えた。
通常の喫茶茶会記での鳴り方とはずいぶん違った面を出せたと思っている。

ゴールドムンドのペアで、試聴ディスク以外をかけることになった。
そこでポリーニ/アバドのバルトークのピアノ協奏曲が鳴った。
1977年の録音である。

いまではバルトークの音楽は現代音楽ではなくなっているけれど、
このころは、まだ現代音楽であったように、私は感じている。
だからこそのアバドとポリーニの演奏だと思っている。

ここでの両者の気迫は、このディスクを最初に聴いた時、圧倒された。
いまでもそのことははっきりと憶えている。

アルテックのA7に準ずるユニット構成で、
そんなバルトークが鳴るものか、と思われるかもしれないが、
昨夜来られていた人で、このディスクを初めて聴いた人は、驚いていた。

そうだろうと思っていた。
まだまだ十全な鳴り方とはいえないところも多々あるけれど、
それでも1977年に、この演奏がなされた意図は、その音から伝わってきたのではないだろうか。

Date: 1月 7th, 2016
Cate: 表現する

「含羞 -我が友中原中也-」

以前、曽根富美子氏の「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」について書いた。
長らく絶版のままだった。
ほんとうに長い間絶版だった。

今日、偶然にも、書店で「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」が平積みされているのに気づいた。
復刊ドットコムから、ようやく復刊されての復活である。

「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」はマンガである。
もうそれだけで読むに値しないと思う人がいるのはわかっている。

音楽はジャンルに関係なくなんでも聴きます──、
そんなことをいっている人が、本に関しては、いわゆる純文学のみで、
それ以外の文学、ましてマンガとなると、どんなに薦めても読もうとしなかった人を知っている。

そういう人は、「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」を読むことはない。
でも、表現する、ということに少しでも関心のある人ならば、
「含羞(はじらひ)-我が友中原中也-」は手にとってほしい。

Date: 1月 6th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その1)

菅野先生が、優れたヘッドフォンを「感覚の逸脱のブレーキ」と表現されていた。
確かに、そうだと思う。

車にも、私が趣味としている自転車にもブレーキがついている。
信頼できるブレーキがついているからこそ、スピードを出せるし、ある安心がある。

もし自転車にブレーキがついてなかったり、極端に効きが悪い状態だったら、
そんな自転車には乗りたくないし、仮に乗ったとしてものろのろと乗るしかない。

オーディオは車や自転車とは違う。
ブレーキがなくとも、支障はないといえばそういえる。

それでもアンプのレベルコントロール(ボリュウム)は、
アクセルでもあるが、ある種のブレーキの役目ももつ。

音量を極端に上げすぎた──、
これも「感覚の逸脱」、小さな逸脱といえよう。
だから上げすぎたと感じたら、サッと下げる。

ほとんど無意識に使っている「ブレーキ」だが、
意識的な「ブレーキ」には、ヘッドフォンのほかに何があるだろうか。

Date: 1月 5th, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(重みが増すからこそ)

以前ほどではないけれど、いまも五味先生の文章を思い出しては読みなおすことがある。
13歳のときから読んでいるわけだから、もう40年近く読んでいる。

もういいかげんあきないのか、と、
五味先生の文章をまともに読んでいない人からはいわれそうだが、
それでも読む、読むのをやめることはない、と断言できる。

読み返すことで、言葉の重みが増していることを実感する。
だから、やめることはないと断言できるのだ。

さりげなく書かれていることが、若いころ読んだ印象よりも、ずっと重みを増している。
だからこそ実感している、ともいえる。

もうひとつ断言できる、
五味先生の文章に関する限り、半端な読み方はしてこなかった、と。

Date: 1月 5th, 2016
Cate: audio wednesday

第60回audio sharing例会のお知らせ(アンプを愉しむ)

今月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

明日の試聴機器です。
CDプレーヤーは、喫茶茶会記常備のラックスのD38u。

アンプは是枝重治氏のアンプがコントロールアンプが一機種、パワーアンプが三機種。
コントロールアンプは管球王国19号に発表されたモノで、組立ては別の人とのこと。
パワーアンプは、管球王国59号発表の807Aプッシュプル、管球王国57号の7695シングル、
ラジオ技術2013年12月号発表の6AQ5プッシュプル。
パワーアンプはすべて是枝氏の組立て。

トランジスターアンプはゴールドムンドのMIMESIS6とMIMESIS7のペア、
それからオーラデザインのプリメインアンプVA40。

この他は喫茶茶会記常備のマッキントッシュの管球式プリメインアンプMA2275、
コントロールアンプのC27の予定です。

あとARのModel 6。
CelloのAudio Paletteと同コンセプトのイコライザー。

スピーカーはアルテックの416-8C(ウーファー)、807-8A+811B(ドライバー+ホーン)、
グッドマンDLM2(トゥイーター)。
エンクロージュアはジェンセンがオリジナルのウルトラバスレフ型(日本では昔オンケン箱とも呼ばれていた)。

今回はスピーカーのセッティングを少し変えようと考えています。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: audio wednesday

第60回audio sharing例会のお知らせ(アンプを愉しむ)

今月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

ラジオ技術、管球王国に真空管アンプを発表されている是枝重治氏。
是枝氏が管球王国に発表されたアンプも、常連のK氏のご好意で聴けることになりました。

メーカー製のアンプと一緒に聴ける機会は、あまりないと思います。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その35)

つきあいの長い音がつくり出す音楽美こそ、オーディオマニアの喜びかもしれない。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: 型番

JBLの型番(L250)

1976年の時点で、JBL・4343のコンシューマー用モデルL400が登場する、といわれていた。
実際にL400はプロトタイプがつくられていたことは確認できている。

だが1982年、JBLから登場した4ウェイのコンシューマー用モデルは、L250だった。
なぜ、L250という型番だったのか。

L400は4343のコンシューマー用ということだから、上二つの帯域を受け持つのはホーン型、
けれどL250はコーン型とドーム型のために、あえてL400の型番を避けたのだろう、と思っていた。

L250の前にL212というシステムが1977年に登場している。
記憶されている方は少ないかもしれない。

L212は、いわゆる3D方式のスピーカーシステムだった。
3D方式のスピーカーといっても、いまではどのくらいの人がすぐに理解されるだろうか。
私くらいまでの世代がぎりぎりなのか。

10年ほど前だったか、若いオーディオマニアとの会話で、3Dって何ですか、ときかれたことがある。
そのころでさえそうだったのだから、いまはどうなのか。
3D方式とは、いわゆるセンターウーファーであり、今風にいえば2.1chシステムとなる。

L212は、サイドモジュールとウルトラバスモジュールから構成される。
サイドモジュールが、いわゆる一般的な意味のスピーカーシステムで、
20cm口径ウーファー、13cm口径スコーカー、2.5cm口径ドーム型トゥイーターの3ウェイ構成。
ウルトラバスモジュールは30cm口径ウーファーを搭載。
サイドモジュールが二基、ウルトラバスモジュールが一基のシステムである。

サイドモジュールのクロスオーバー周波数は800Hzと3kHzで、-6dB/oct.のネットワークを使用。
70Hz以下をウルトラバスモジュールが受け持つ。

別項「続・再生音とは……」でピアノロールのレコードについて書くために、
ステレオサウンド 45号を読んでいて、L212のネットワークの仕様に気がついた。

L212も-6dB/oct.だったのである。
L250も-6dB/oct.であり、さらに同時にサブウーファーのB460も登場している。

つまりL250+B460のシステムは、L212のスケールアップモデルといえる。
L250はL212をベースにしているところもある、といえよう。
そうであれば、L250という型番に納得がいく。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(CBSソニーのピアノロールLPについて)

CBSソニー「世紀の大ピアニストたち」の七枚のLPは1977年に発売になり、
ステレオサウンドでは44号に広告が載っている。

広告にもあるように、当時のソニーの会長だった盛田昭夫氏のコレクションをレコード化したものだ。
45号の記事とあわせて読むと、盛田氏のコレクションは録音時点で998本で、
録音に使われたのは約100本、コレクションの一割がレコードになったわけである。

監修は岡先生であり、
第一巻がヨーゼフ・ホフマン、第二巻がイグナツ・ヤン・パデレフスキー、
第三巻がアルフレッド・コルトー、
第四巻は伝説の巨匠たちというタイトルで、ゴドフスキー、パハマン、フリートハイム、ガブリロヴィッチなど、
第五巻は若き比の巨匠たちで、ホロヴィッツ、バックハウス、ルービンシュタイン、フリートマンなど、
第六巻は女流ピアニスト名演集で、ランドフスカ、エリー・ナイ、ノヴァエスなど、
第七巻は大作曲家、自作自演集で、ガーシュイン、プロコフィエフ、サン=サーンス、グラナドスなど、
となっていて、この企画はCSBソニー創業10周年記念でもあり、
エジソンが蓄音器を発明した1877年からちょうど100年目ということで、実現になった、とある。

録音は盛田氏の自宅で行なわれている。
ピアノはスタインウェイで、フォルセッサーはアメリカ・エオリアン社のデュオ・アート。

録音場所がスタジオやホールではなく、個人の住宅ということから、
スタインウェイの調律は、この条件下でピアニスティックに響くように、
調律師の枡渕直知氏が、一日半かけて行われている。

CBSソニーにとって、この「世紀の大ピアニストたち」が初のデジタル録音である。
テスト録音はすでに何回を行っていたが、当時のデジタル録音には、まだ編集の問題が残っていた。

45号の記事では、76cmのアナログ録音では2mmきざみ(約1/400秒に相当する)の編集をやっていたけれど、
同レベルでのデジタルでの編集はできなかったため、
こまかな編集を必要とする録音は避けようということで、
ピアノロールによる自動ピアノがデジタル録音第一段に選ばれている。

Date: 1月 4th, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その26)

正月休みに何をやっていたかというと、
Huluで、スタートレックの映画版を一作目から順に観ていた。

全部で十本ある。
TOS(The Original Series)が六本、
TNG(The Next Generation)が四本。
すべて映画館で観ている。それをあらためて観ていた。

TOSにはスポック、TNGにはデータが登場する。
スポックはバルカン人と地球人のハーフであり、
スポックの口ぐせ「船長、それは非論理的です」からもわかるように、感情を表に出すことはない。
バルカン人の設定が、感情を完全に抑制できるためであり、スポックは地球人とのハーフのため、
この部分が完全なバルカン人とはちがう。

データはアンドロイドであり、当然のことながら感情をもたない。
けれど感情チップを装着している。

くわしいことは映画スタートレックを観ていただきたいのだが、
スポック、データの存在は、人間とは何かを問いかけてくる。

特にアンドロイドのデータがそうだ。
映画版だけでなくテレビ版のTNGをみていた人ならば、
データの変化、進化が描かれることで、人間とは何者なのかを考えることになる。

人と限りなく近い存在であり、
人よりも優れた能力をスポックもデータももっている存在でありながら、
感情という点に関して、人とははっきりとちがう。

だからこそスポックとデータは、スタートレックにおける重要な存在といえる。

私にとって、オーディオを考えるうえで、再生音とは何かを考えるうえで、
このふたりの存在といえるのが、
アンドロイドのピアニストであり、ピアノロールによる自動ピアノなのだ。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その25)

ピアノロールによる自動ピアノの再現性とは、いったいどの程度なのだろうか。
ステレオサウンド 45号では、インタヴュアーの坂氏の、
「巨匠たちの演奏スタイルがかなりのところまできくことができる」を受けて、
京須氏と半田氏は次のように語られている。
     *
京須 ええ、まずそれがいえると思います。それから、強弱が16段階までコントロール出来るといっても、ある範囲内での16段階で、おのずと限界はありますけれど、SP録音とくに一九三〇年代初頭以前のものは、感覚的には演奏がおしはかれるような気がするが、本当のところは分らないのに対して、こちらのほうが骨格ははっきり分ります。たしかに微妙なところは出ないかもしれませんが、演奏の骨組みはひじょうにはっきり出ます。ですから、SPあるはSP復刻盤をきいて、情緒的に描いていたピアニストのイメージと、ややちがったものが出てきているように思うんです。もちろん、ぴったり一致するところもあるけれど、全部が全部一致しない。
 われわれがSPの復刻盤などをきいてムード的に描いていた、今世紀初頭のピアニストの演奏スタイルに対する認識を変えるひとつのきっかけになるのではないか、そんな気がしています。このことは、実際に音をきいてみてはじめて気がついたことなんですよ。
半田 ぼくなんかはもっと単純に、機械がピアノを弾くんだからどれも同じ音がするだろうなどと、最初は思っていたんですね(笑い)。ところが実際に録音してみると、たとえば女流ピアニストはやっぱり女性の音なんですよ。そのちがいが出てくるんでびっくりしたんです(笑い)。
京須 リストの弟子なんかは、やっぱりものすごく豪快に弾いたり……(笑い)。ホフマンとパデレフスキーはぜんぜんちがうし、そういうところがちゃんと出てくるんですね。
     *
1977年当時は気がつかずに読んでいたのは、
京須氏も坂氏も「演奏スタイル」といわれているところだ。

ピアノロールによる自動ビアノが、同時代のSP盤録音よりも優れていたといえるのは、
この演奏スタイルの記録かもしれない。

京須氏が、そのことについて、もう少し詳しく語られている。
     *
京須 ピアノ・ロールの再生というのは、たしかに実際の演奏とは多少ちがっているのでしょうから、厳密にはいえないのかもしれないんだけれど、さっきもちょっとふれましたように、コルトーにしてもホフマンにしても、SPをとおして語られているほど情緒的でも崩れてもいないような気がするんですね。べつないいかたをすれば、過度にロマンティックではないのではないか、と思う。もちろん現代のピアニストの演奏に比較すれば、そうだったのかもしれないけど、一般に語られているほど気分のままに弾いているとは思えないんです。いわゆる耽溺的な演奏とばかりはいえないような気がします。
 たとえば、コルトーやバウアーのものでとくに思ったんですが、テンポ・ルバートをぼくたちはひじょうに心情的に受けとめているんだけれど、ピアノ・ロールでこのひとたちのテンポのゆれをきいていると、かならずしも心情的な表現のためにテンポを動かしているとは思えないんです。カラッと、あっけらかんと弾いていて、ただ、たとえば歌舞伎や踊りのきまりの手と同じように、こういうところはテンポを落とすんだといった、即物的といってもいいような意味での、ひとつのスタイルとして、テンポを変えているのではないかという気がします。だからこちらが、そこにあまり心情的なものをのっけてきくのは、むしろまちがっているようにも思うんです。
     *
今回、ピアノロールのことを思い出して、45号を取り出して読み返した。
これが約40年前の記事なのか,と思い読んでいた。

40年前のステレオサウンドだからこそ、というおもいももちながら読んでいた。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その24)

五味先生が、「ピアニスト」(新潮社刊「人間の死にざま」所収)で、
ホフマンについて書かれているところがある。
     *
 私はげんなりし、暫く、音を出さぬスピーカーを眺めていたら「これはどうですか?」社長が、物故せる作曲家の自作自演のピアノ・ロールから録音したレコードを取出してきた。マランツ・ファー・イーストが米スーパースコープ(ステレオ)のシリーズとして出したもので、マーラー自身のピアノ譜に改編した『第五交響曲』第一楽章、ドビュッシーの自ら弾く『子供の領分』と『前奏曲』から〝沈める寺〟〝パックの踊り〟〝野を渡る風〟、ラベルの『高雅にして感傷的なワルツ』、スクリアビン『前奏曲』、マックス・レーガー『間奏曲』変ホ長調、プロコフィエフ作品十二から〝行進曲〟〝前奏曲〟〝スケルツォ〟〝ガヴォット〟及び『三つのオレンジの恋』間奏曲など十二枚である。もっともわかり易いラフマニノフ自身の『前奏曲』嬰ハ短調、ト短調から聴かしてもらった。わかり易いというのは似たピアノ・ロール・シリーズの米エヴェレスト盤でヨーゼフ・ホフマンの弾いた同じ『前奏曲』嬰ハ短調、ト短調を私は聴いているからだが、念のために言えば、ヨーゼフ・ホフマンはアントン・ルービンシュタイン門下でラフマニノフ、レヴィンと並ぶ三羽烏と称され、中でももっとも頭角をあらわした天才少年だった。岡俊雄氏の解説によれば、ある日カーネギー・ホールでホフマンのリサイタルを聴いたラフマニノフが、ショパンのロ短調に至って「これで私のレパートリーがひとつ減ってしまった。ルービンシュタイン先生以来、こういう演奏はきいたことがない。もうやりようがない。あれは音楽そのものだし、唯一のやり方だ。ああ弾けるのはほかに誰もいない」と長嘆したそうである。ホフマンが今日ほとんど知られていないのは、岡氏の説明では、アコースティック時代の音がひどすぎるのですっかり彼はレコード不信になり、つまりその名演をレコードで知る機会が吾人にはなかったからだろうという。ホロヴィッツあたりは、でもホフマンにあこがれ彼をもっとも畏敬していたそうである。
     *
この時代のすべての演奏家がホフマンと同じだったわけではないだろう。
ピアニストはピアノロールとSP盤のどちらかを選択、もしくは両方の録音を残すことができたが、
他の楽器の演奏家、指揮者、声楽家には、この選択肢はなかった。

聴き手側にもいえる。
ピアノロールによる「録音」とSP盤による録音の両方を残しているピアニストもいる。
なのに、なぜピアノロールの「録音」を軽視してきたのか、と私は反省している。

Date: 1月 3rd, 2016
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その23)

ステレオサウンド 45号で、
CBSソニーの京須氏と半田氏が語られているくだりがある。
     *
半田 日本では自動ピアノというと、なんとなくオモチャ扱いでしょう。
京須 仕掛けものというか、からくりといった印象が強いんですね。
半田 いずれにしてもニセモノだということでしょう。
京須 だから、どんなに雑音のかなたからきこえてくる演奏でも、SPだったら本物だということになって……(笑い)。このピアノ・ロールでも、そのひとが演奏したものを再生してるんだけど、どうもニセモノ扱いをされるんですね。
     *
ここのところを当時も読んでいた。
それでも、私の中には、ピアノロールによるものは、どこかニセモノというに感じていた。
しかも聴いてもいないのに、である。

ピアノロールは仕掛け、からくり、とあるが、
オーディオも仕掛け、からくりであることに変りはない。
そのころの蓄音器にしても、そういえる。

けれどピアノロールの全盛時代は1920年代であり、
これはSP盤の初期と重なっているし、ピアノロールは1950年代まで存在していた。

45号ではインタヴュアーの坂氏が語られている。
     *
広い意味での録音・再生装置としての価値を、少なくともLPレコードの出現までは認められていた、といえますね。事実、このシリーズにも収められているホフマンという巨匠などは、SPにはほとんど録音が残っていなくて、むしろピアノ・ロールのほうに数多く残っているほどですから。
     *
つまり、このことはホフマンは、当時のSP録音よりもピアノロールによる「録音」のほうが、
自身の演奏を正確に伝えることができる、という判断だった、ともいえよう。

もちろん当時のピアノロールに「録音」も、
いまの録音技術からみれば未熟であっても、
それでもホフマンにとってはSP録音はもっと未熟ということだったのではないか。