Archive for category テーマ

Date: 1月 23rd, 2016
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(信頼性のこと・その2)

ヴィシェイ(Vishay)の抵抗のことを知ったのは、無線と実験でだった。
1980年ごろだっただろうか。

ヴィシェイの抵抗もMIL規格だったはずだが、
それだけにとどまらず宇宙開発にも使われている、ということだった。

それまでの一般的な抵抗の形が円筒状で両端からリード線が出ていたが、
ヴィシェイの抵抗は大きく違っていた。
価格も高価だった。

箔抵抗ということもあって、小さな四角形のプレート状であり、リード線は下部から出ていた。
抵抗本体は完全な四角形ではなく、下部の両端に小さな出っ張りがある。

この出っ張りがあることでプリント基板にヴィシェイの抵抗を取りつけると、
プリント基板との間に隙間が出来る。
出っ張りがなければ、抵抗とプリント基板とがくっつくように取り付けられるし、
浮かすことも出来る。

抵抗とプリント基板とをくっつけたほうが、なんとなく安定しそうな気がするが、
実際には小さな出っ張りによって浮かすこと(出っ張りは基板と接触している)で、
ロケット打ち上げ時にかかる高Gに耐えられるということだった。

つまり出っ張りまでプリント基板から浮かして取りつけるのは間違った使い方、
間違ったがいいすぎならば、メーカー指定から外れた使い方ということになる。

当時、このことに関する記事を読んで、高い信頼性の実現のためには、
抵抗体そのものだけでなくパッケージも同じように重要であるだけでなく、
指定された通りの使い方をしなければならないことの大事さを学んだ。

Date: 1月 22nd, 2016
Cate: オーディオ評論

評論と評価/「表」論と「表」価(その1)

昨日のKK塾の前日に、「表」論なるもの、と題された文章を読んでいた。

浅井佳氏という方が書かれた文章だ。
《つまり評論ではなく「表」論なのだ。》と書かれている。

浅井氏自身、《我ながらうまい》と書かれている。
確かに、うまいと思った。

評論ではなく表論。
そうとしかいえないものを、いやというほどいまは読める。
読まされる、といってもいいだろう。

評論といえるものはどこにいってしまったのか。
そう嘆きたくなるほど、表論が増えているのは何もオーディオだけのことではないようだ。

そんなことを思っていた翌日に、KK塾の四回目だったから、
講師の長谷川秀夫氏の話をきいていて、この表論のことも思い出していた。

評価も、「表」価になっているのではないだろうか。
それはなにもオーディオ機器の評価にとどまらないのではないか。
安全、信頼の分野でも、評価が「表」価になってしまっているところがあれば、
そこに気づかずにいれば、どうなるのか。

そんなことも考えていた。

Date: 1月 22nd, 2016
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(信頼性のこと・その1)

1970年代後半、アメリカ製アンプの謳い文句のひとつに、
MIL規格、MILスペックのパーツを使用、というのがあった。

MIL規格とはMilitary Standardのこと。
アメリカの国防総省で制定するアメリカ軍が調達する物資の規格のことである。
抵抗、コンデンサーといった電子部品にも、MIL規格がある。

日本ではプロフェッショナル機器が、時として高く評価されることがある。
アナログプレーヤーでいえばEMTの930st、927Dstがあり、
オープンリールデッキでは、
コンシューマー仕様のルボックスに対してプロフェッショナル仕様のスチューダーがあり、
アメリカ製ではアンペックスやスカーリーなどのプロ用機器の評価は高い。

JBLのスピーカーも、コンシューマーモデルとプロフェッショナルモデルとが用意されることが多かったし、
日本ではプロフェッショナルモデルの方が高く評価されがちでもあった。

物理特性、音が仮に同じであったとしても、
プロフェッショナル仕様ときくと、そこには信頼性の高さと寿命の長さが保証されている──、
そう受け取る人が多かったからであろう。

私もそうだ。
930stに憧れていたのは、音の良さだけではなく、信頼性の高さもあったからだ。

MIL規格の部品も同じように受けとめられていた感がある。
アメリカ軍の仕様を満たしているのだから……、誰だってそう思うだろう。
部品としての精度の高さと高信頼性を併せ持つ部品のように思えた。

それでいて実際のMIL規格がどういうものなのかはまったくしらなかった。

MIL規格の部品を使っているアンプは増えていった。
そうなると今度はアメリカ軍ではなく宇宙開発という謳い文句が出てきた。
つまりはNASAで認められた部品ということである。

Date: 1月 20th, 2016
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その21)

黒田先生の文章に関連することで思い出すことがもうひとつある。
レコード芸術1976年1月号に載っている瀬川先生の文章だ。
     *
 わたしの♯4341は、まだその片鱗をみせたにすぎないが、その状態で、もうすでに只物でないと明らかに思わせる。それがわたしの求めていた音であることを別としても、この音には怖るべき底力を内に秘めた凄みがある。どんなに多忙な日でも、家にいるかぎりほんの十数分でもこの音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない。
     *
多忙であれば、疲れてもいる。
その疲労の度合は、黒田先生が「「ミンミン蝉のなき声が……」を書かれたころと、
瀬川先生の《どんなに多忙な日》とでは、同じではないのかもしれない。

それでもあえて考えてみたいのは、
瀬川先生は「この音を聴くことが、毎日楽しくてしかたない」と書かれているところである。

このころの瀬川先生のシステムは、ステレオサウンド 38号でのシステムと同じである。
アナログプレーヤーはEMTの930st、コントロールアンプはマークレビンソンのLNP2、
パワーアンプはSAEのMark2500は登場したばかりで、まだ導入されていない。
パイオニアExclusuve M4で鳴らされていた。

いまとなっては瀬川先生に直接訊ねることはできない。
自分で考えるしかない。

なぜ、「この音で音楽を聴くことが」とされなかったのだろうか。
あえて「この音を聴くことが」とされたような気がする。

「この音」を聴くためには、レコードをかけることになる。
レコードには音楽がおさめられている。
レコードをかけるということは音楽を聴くことと同義である。

そういう前提なのだから、「この音を聴くことが」は、「この音で音楽を聴くことが」と同じである。
とはいうものの、「この音を聴くことが」と「この音で音楽を聴くことが」は、
微妙なところで完全に同じ意味を持っているとはいいがたいところがある。

Date: 1月 19th, 2016
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その5)

KEFのModel 107を知った時、正直にいえばKEFも迷走しはじめた……、そう思っていた。
KEFのModel 105は手に入れたいスピーカーのひとつだった。

Model 105の音は、私にとっては、
熊本のオーディオ店で瀬川先生が調整された音が、その音そのものとして記憶している。
このときのことは、以前書いている

KEFのmodel 105を、
瀬川先生は《敬愛してやまないレイモンド・クックのスピーカー設計理論の集大成》とされている。
(ステレオサウンド 47号より)

まさしく、そういう音でModel 105は鳴っていたし、
それゆえにModel 107のスタイルを見た時に、なぜ……とおもった。

この「なぜ」は、迷走しはじめた……と思えたKEFに対してのものだった。
でも、ここで本来すべきだったのは、自分に対して「なぜ」を向けることだった。

つまりなぜKEFはModel 107を出したのか。
中高域に関してはModel 105のスタイルを継承しつつも、
ウーファーに関しては、いままでKEFが手がけてこなかったスタイルをとっていることに対して、
その理由を考えなかったことを、いまごろ反省している。

Model 105がレイモンド・クックのスピーカー設計理論の集大成であるならば、
Model 107もレイモンド・クックのスピーカー設計理論の集大成として捉えた上での「なぜ」と考えると、
Model 105で中高域のサブエンクロージュアが上下だけでなく左右にも可動する理由が、見えてくる。

Date: 1月 18th, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(続々・古人の求めたる所)

ゲーテが語っている。
《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》と。
(ゲーテ格言集より)

「青は藍より出でて藍より青し」のもつ意味も、同じところにあるように思う。
そしてオーディオの現状を、おもう。

Date: 1月 18th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(その4)

音をよくしたいがためにアンプを買い換える。
その場合の選択肢(候補となるアンプ)は、
予算が多ければ多いほど、制約が減ってくるし、数は増えていく。

予算がかなり制限されていれば、ごく限られた選択肢しかない。
場合によっては、ほとんど選択肢はないことだってあろう。

では予算が制限がある人のアンプの選択には、主体性がない、
もしくは主体性がほとんどない、弱いといえるのだろうか。

反対に予算の制限のない人であれば、選択肢の数は製品の数だけといえるわけで、
その中からアンプを一台選ぶことは、より主体性がある、もしくは主体性が強いといえるのだろうか。

二台の候補から一台のアンプを選ぶのと、
百台の候補から一台を選ぶのとでは、そこにはどういう違いがあるといえるのか。

いまは市場に数多くのアンプがあふれている。
けれど、これが三十年前、さらにはもっと昔(五十年、六十年前)だったらどうなるか。

五十年前といえば、ステレオサウンドが創刊された年だ。
ステレオサウンドの創刊号を持っている人はそう多くはないだろうが、
もし手に取る機会があればみてほしい。

当時どれだけの選択肢があっただろうか。
予算に制約のない人であっても、どれだけの選択肢があっただろうか。

予算に制約のない人がいる。
ひとりは2016年のオーディオマニアで、もうひとりは1966年のオーディオマニアだ。
オーディオマニアだから、アンプを持っている。
選んだ結果としてのアンプが手元にあるわけだが、
その選択において、2016年のマニアのほうが主体性がある、といえるだろうか。

Date: 1月 18th, 2016
Cate: 名器

名器、その解釈(ゲーテ格言集より)

《才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる。》

ゲーテ格言集(新潮文庫)に、こう書いてある。
ここでゲーテが指しているのは人間であっても、
そのままオーディオ機器にも当てはまる、と思う。

オーディオ機器の中でも、スピーカーは特にそうだといえよう。

Date: 1月 17th, 2016
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その42)

ノイズに関することでいえば、今月6日に行ったaudio sharing例会での音の変化もそうである。
アルテックのホーン811Bにあることを施した。
実に簡単なことだけど、その効果(音の変化)は大きかった。

別項ですでに書いているように、
その時かけていたアナログ録音のテープヒスの聴こえ方が、ノイズリダクションをいれたように変った。

テープヒスが耳につかなくなっただけではない。
楽器の音色、人の声も変って聴こえてくる。

たとえばグレン・グールドのブラームスの間奏曲集は、
そのままで聴くと、あきらかにピアノの音色が変化しすぎている、と感じていた。

11月に初めて聴いたときからそのことは感じていた、
原因がどこにあるのかはおおよそ見当がついていた。

ここでのピアノの音色の変化は、
フレディ・マーキュリーの声の変化にもあらわれている。

ただしすべての楽器、人の声すべてで、ここまではっきりと音色の変化があらわれるとはかぎらない。
もちろんすべての音色が変化しているのだが、比較的はっきりとわかりやすく出る例と、
そうでない例とがある。

この種の音色の変化は、以前も体験している。
ソニー・ロリンズの吹くテナーサックスが、アルトサックスのように聴こえることもある。

そのスピーカーも鉄板も使っていた。
叩けば、いかにも鉄板の音がしてくる。
なんらダンプされていないスピーカーだった。

鉄のもつ固有音(これもノイズのひとつである)が、
楽器の音色を時として大きく左右することがある。
なにも鉄に限らない。

どんな物質にも固有音がある。
種々雑多な固有音というノイズを、つねに聴いている。

audio sharing例会で私がやったことは、ノイズコントロールの手法のひとつである。

Date: 1月 16th, 2016
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その41)

伊福部達氏の講演の二、三年前に、ある記事を読んでいた。
人工内耳の記事で、2002年6月に公開されている。

この記事は、ある意味衝撃だった。
微弱な雑音を耳がつくり出している、ということ、
人工内耳に適切な雑音を加えることで、
聞き取れる音の領域が拡がる、ということもだ。

われわれ人間はノイズがまったく存在しない空間では生きられないのかもしれない。
なんらかのノイズを必要としているのかもしれない。

究極のS/N比は無限大であり、
ノイズが完全になくなってしまえば(0になってしまえば)、理屈としては無限大になる。
それが実現できたとして、快適といえる空間なのか、
人にとって自然といえる環境なのか。

別項で、女優の市毛良枝さんの記事のことを書いた。
週刊文春に載っていた記事で、住いに関するものだった。

バリアフリーの高層マンションに引っ越したものの……、という内容だった。
高層階になるほど種々の雑音から隔離されるような環境になる。
そのことで市毛良枝さんのお母さまは元気をなくされていった。
結局、一戸建ての家に引っ越したところ元気を取り戻された、と記事にはあった。

ノイズについて考えさせられるきっかけは、いくつかあった。
けれど、それがうまくつながっていかなったのが、伊福部達氏の講演がきっかけでつながりはじめた。

Date: 1月 16th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その9)

薬物依存症の人たちの矯正施設に入所して、変ろうとする人たちに、
「人は変れない、変れない自分を受け容れることだ」というスタッフの言葉が、
強く記憶に残っている。

そのとおりなのかもしれない、と思う。
もしかすると、違うかもしれないとは思うところもないわけではないが、
変えなくては……、と思っているところほど変えられないものかもしれない。

ならば出したくない音(自己否定の音)というものがあるとすれば、
それは変えられないのかもしれない、とも思う。

出したくない音(自己否定の音)を受け容れること。
受け容れられる人と受け容れられない人がいるであろう。
それもまた「音は人なり」のはずだ。

Date: 1月 16th, 2016
Cate: バスレフ(bass reflex)

バスレフ考(その8)

ステレオサウンド 47号の時点では、JBLの4344は登場していない。
47号以降、ステレオサウンドに近接周波数特性が載ったことはない。

4344の近接周波数特性があれば、4343のそれと比較できる。
4344と4343のエンクロージュアの寸法は同じである。
エンクロージュア内部で発生する定在波も、ほぼ同じとみていい。

4343ではフロントバッフル下部左右に一つずつあったバスレフポートは、
かなり上部に移動し、しかも片側に寄り縦に二つ並んでいる。

これだけポート位置が大きく移動すると、
バスレフポートの近接周波数特性は違ってくる。

エンクロージュア内部の定在波が同じでも、
バスレフポートが定在波の節のところに位置していれば、
定在波の影響の度合に変化が生じる。

4343ではフロントバッフル下部に左右対称の位置にあったため、
右側のポートであろうと左側のポートであろうと、
その近接周波数特性には変化はないはずだが、
4344のように上下位置の違いがあると、大きな違いではないだろうが、
それぞれのポートの近接周波数特性には違いが生じるはずである。

同じことはポートの長さに関してもいえる。
フロントバッフルにおけるポートの位置は、
上下方向と左右方向に関係してくるが、
エンクロージュアは立体だから奥行きがある。

奥行き(前後方向)に発生する定在波に関しては、ポートの長さによって、
節のところにくるかどうか変化してくるからである。

Date: 1月 16th, 2016
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その3)

スピーカーの調教といっても、ピンとこない人は必ずいるはずだ。
どういうスピーカーを鳴らしてきたかでも、調教という言葉に対して、
どう感じるかは違ってくるものと思われる。

調教なんて大げさな……、調整でしょう、と思う人が使ってきた(鳴らしてきた)スピーカーと、
そうそう調教してきた、と頷かれる人が使ってきた(鳴らしてきた)スピーカーは、
その性格において大きく異るものがある。

黒田先生が調教という言葉を使われたステレオサウンド 38号の一号前、
37号では、森忠輝氏が、やはり調教と表現されている。

森忠輝氏は、そのころシーメンスのオイロダインを手に入れられている。
「幻聴再生への誘い」という連載が、そのころのステレオサウンドにはあった。

森忠輝氏は、五味先生のオーディオ巡礼(50号)に登場されているので、
ご記憶の方も少なくないと思う。

シーメンスのオイロダインを、
マランツのModel 7とModel 9、
それにRCAのアナログプレーヤーで鳴らされていた。

森氏は、パルジファルを、この時かけられている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。天井棧敷は、申すならふところのそう豊かでない観衆の行く所だが、一方、その道の通がかよう場所でもある。森氏は後者だろう。むつかしい〝パルシファル〟をこれだけ見事にひびかせ得るのは畢竟、はっきりしたワグナー象を彼は心の裡にもっているからだ。〝オイロダイン〟の響きが如実にそれを語っている。私は感服した。(ステレオサウンド 50号より)
     *
五味先生の文章を読んでもわかる。
森氏は、オイロダインを調教されてきたことが。

Date: 1月 15th, 2016
Cate: バスレフ(bass reflex)

バスレフ考(その7)

ステレオサウンド 47号掲載の「物理特性から世界のモニタースピーカーの実力をさぐる」、
ここに登場するモニタースピーカーは十機種。
うち六機種がバスレフ型である。

アルテックの620A Monitor、キャバスのBrigantin、JBLの4333Aと4343、
スペンドールのBCIII、UREIのModel 813である。

47号では近接周波数特性のグラフがある。
これをみると、ウーファーの周波数特性とバスレフポートの周波数特性がわかる。

バスレフ型の動作からすれば、ポート共振から上の周波数ではなだらかに減衰していくはずだが、
実際のスピーカーシステムのバスレフポートの近接周波数特性をみると、
UREIのModel 813がかなり近いが、他の機種では減衰していく途中でピークが発生している。

たとえば4343では140Hzあたりにかなり大きなピークがある。
そこから減衰していくが、650Hzあたりが少し小さなピークが発生している。

同じJBLの4333Aでは200Hzあたりにピークがある。
4343の140Hzあたりのピークにほどではないが、けっこう大きなピークである。

4343、4333Aとも、バスレフポートはフロントバッフル下部にある。
4343ではポートは二つ、4333Aでは一つという違いはあるが、
ウーファーとバスレフポートの位置関係はほほ同じでいえる。

このピークは、エンクロージュア内部で発生している定在波とみていい。
4343と4333Aでピークの発生周波数が違っているのは、
エンクロージュアの寸法(プロポーション)の違いからきている。

47号の測定結果は、いまみても実にためになる。
他のバスレフ型のポートの近接周波数特性を、
エンクロージュアの寸法(プロポーション)、ウーファー、ポートの位置関係などをふくめて、
じっくりみてほしい。

Date: 1月 15th, 2016
Cate: 楽しみ方, 老い

オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたいのか……・その1)

約一年前に「オーディオの楽しみ方(天真爛漫でありたい……)」を書いた。

一年間、毎日何かを書いてきて、天真爛漫でありたいのか……、と思うようになっている。
そして思い出している黒田先生の文章がある。

ステレオサウンド 59号掲載の「プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティッジ」だ。
最後に、こう書かれている。
     *
 マイルス・デイヴィスの音楽は、自意識とうたおうとする意思の狭間にあった。あった──と、思わず過去形で書いてしまって、自分でもどきりとしているところであるが、これからのマイルス・デイヴィスにそんなに多くを期待できないのではないかと、そのことを認めたくないのであるが、やはりどうやら、思っているようである。少し前から、マイルス・デイヴィスのうちの、自意識とうたおうとする意思のバランスがくずれて、彼は自意識の沼に足をとられておぼれ死にかかっている。
 そのことに気づいたのは、今回、あらためて、プレスティッジの十二枚をききかえしたからである。一九五一年から一九五六年までの五年間にうみだされた十二枚のレコードは、さしずめ、マイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」であった。マイルス・デイヴィスの「ドルジェ伯の舞踏会」といわずに、マイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」といったのは、まだかすかにマイルス・デイヴィスの「ファウスト」を期待する気持があるためであろう。
 しかし、いま、マイルス・デイヴィスに「ファウスト」が可能かどうかは、さして問題ではない。問題は、プレスティッジの十二枚をマイルス・デイヴィスの「ヴェルテル」と認識できた、そのことである。あそこではプライドが前進力たりえた。五十才をすぎた男にも、プライドを燃料として前進力をうみだしうるのであろうか。中年の男にとって、自尊心、あるいは自意識は、怯えうむだけではないのか。失敗したくない。つまらないことをして、しくじって、みんなに笑われたくない。そのためには、一歩手前でとりつくろえばいいとわかっていても、プライドがそれを許さない。いまのマイルス・デイヴィスは、自尊心と自意識の自家中毒に悩んでいるのかもしれない。
 現在のマイルス・デイヴィスをウタヲワスレタカナリヤというのは、いかにもきれいごとの、気どったいい方である。もう少しストレートな表現が許されるなら、このようにいいなおすべきである、つまり、現在のマイルス・デイヴィスは直立しない男根である一方に、男根を直立させつづけ、しかもおのれの男根が直立していることを意識さえしていないかのようなガレスピーが、のっしのっしと気ままに歩きまわるので、マイルス・デイヴィスという不直立男根が、すべてのことが萎えがちなこの黄昏の時代のシンボルのごとくに思われ、不直立男根は不直立男根なりに意味をもってしまう不幸をも、マイルス・デイヴィスは背負っているようである。
 ひさしぶりにプレスティッジのマイルス・デイヴィスをきいていて、ああ、マイルス! これがマイルス・デイヴィス! と思ったが、考えてみると、このところずっと、ディジィ・ガレスピーのレコードをきくことの方が多かった。ガレスピーは、考えこんだりしない。深刻にならない。永遠のラッパ小僧である。あのラッパ小僧の磊落さ、生命力、高笑いは、マイルス・デイヴィスには皆無である。であるから、マイルス・デイヴィスはいまつらいのであろうが、ききては、それゆえにまた、マイルス・デイヴィスの新作をききたいのである。二十年前の演奏をきいて、その音楽家のいまに、あらためて関心をそそられるというのは、これはなかなかのことで、プレスティッジのマイルス・デイヴィスのプレスティッジ(威光──、原義は魔力・魅力)が尋常でないからであると判断すべきであろう。
     *
ディジィ・ガレスピーのごとく、オーディオを楽しむことこそが、
天真爛漫でいることなのだろうか。

黒田先生はかなりストレートな表現をされている。
《男根を直立させつづけ、しかもおのれの男根が直立していることを意識さえしていないかのようなガレスピー》
そう書かれている。

一方のマイルスを、《直立しない男根》であり、
《すべてのことが萎えがちなこの黄昏の時代のシンボルのごとくに思われ》る、と。

59号は1981年に出ている。
いまから35年前である。

いまは21世紀である。
20世紀末ではない。
その意味での黄昏の時代ではないけれど、別の意味での黄昏の時代なのかもしれない。