Archive for category テーマ

Date: 8月 1st, 2017
Cate: オリジナル

原典主義は減点主義か

オーディオ機器でもレコードでも、オリジナルオリジナルと唱える人がいる。
オリジナル至上主義者と、私は呼んでいる。

このオリジナル至上主義は、いいかえれば原典主義である。
お手本を欲しがっている、ともいえよう。

そしてお手本とどれだけ違うかを、力説する。
古いアンプやスピーカーシステムに、
ひとつでもお手本(オリジナル、原典)と違う部品が取り付けられていたら、
ここが違う、と減点していく。

原典主義は減点主義でもある。

Date: 8月 1st, 2017
Cate: 新製品

新製品(その16)

川崎先生のブログでは、
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Designも更新されていく。

川崎先生のfacebookから川崎先生のブログへアクセスする人の中には、
この川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Designを読んでいない人もいるようだ。

もったいないことだ。

7月29日の川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Designは、
新製品について考えるうえで、多くの人に読んでほしい、と思っている。

短い文章だから、引用はしない。
読みながら、新製品の性能、効能、機能についての大きなヒントだ、と直感した。

Date: 8月 1st, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その4)

ステレオサウンドの創刊は1966年、
現会長であり創刊者の原田勲氏は、記憶違いでなければ1935年生れ。
31歳のころの創刊である。

瀬川先生も1935年生れ、
菅野先生、長島先生、山中先生は1932年、井上先生は1931年、
岩崎先生は1928年だから、みな30を超えたばかりくらいである。

五味先生は1921年12月だから、44歳。
みな若かった。

作り手だけが若かったわけではない。
そのころのステレオサウンドの読者も、若かった。
もちろん作り手よりも年上の読者もいても、
中心層は作り手側と同じか若い世代だったはずだ。

ステレオサウンドが創刊10年を迎え、20年、30年……といくごとに、
作り手も読者もあわせて歳をとっていく。
これは単なる推測ではない。

ステレオサウンドが三年前に発表した資料によれば、
19才未満が2%、20〜29才が3%、30〜39才が11%で、この世代の合計は16%にすぎない。
のこり84%は40才以上であり、60〜69才が28%といちばん多く、
80才以上も19才未満と同じ2%である。

作り手も歳をとっていく、と書いたが、
歳をとっていく作り手もいれば、編集者は入れ替りが当然あり、
読者やステレオサウンド誌とともに歳をとっているわけではない。

いまのステレオサウンド編集部の平均年齢がいくつなのかは知らないが、
30代から40くらいまでが中心のように感じている。

創刊当時の50年前とは、この点が大きく違ってきている。

Date: 8月 1st, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その5)

波形再現について考える前に考えなければならないことは、
そこで表示される波形は、どこまでの情報を含んでいるのか、がある。

昔ながらのペンレコーダーで記録用紙に描いていく測定では、
ペンの重量、慣性の影響があるためが、
いまではコンピューターのディスプレイに表示することが可能であり、
ペンレコーダーに起因する問題は生じない。

ディスプレイも高精度になってきている。
より細部まで検討することができる。

それでも、そこで表示される波形は二次元のデータでしかなく、
そこから音色を読みとれることができるのか、という疑問がある。

音源通りの波形が完全(そんなことはありえないだろうが)に再現されたとして、
そこで鳴っている音は、音色の再生でも完全といえるのか。

音色とは、文字通り音の色である。
視覚的な色は、光があるからこそ色が存在する。
そのことは誰でも知っている。

光がなければ色はない。
光が変化すれば、色も微妙に変化する。

ならば音の場合の光は、何に当るのか。
視覚的な色と聴覚的な色を、同一視できるのかということも考えなければならないが、
音色も、光によって色が変るように、何かによって変っていくものと感じている。

Date: 8月 1st, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その4)

実際には無理なのだが、仮にすべて同条件での測定が可能になったとして、
何をもって正確な波形再現がなされているかの基準が、
アナログディスクの場合、ないといえる。

アナログディスクを再生した波形と、
マスターテープの波形が一致することは、まずありえない。

こまかな説明は省くが、マスターテープを再生したテープデッキの信号を、
カッティング時において正確にラッカー盤に刻んでいるという保証はない。
しかも、そのラッカー盤を聴いているわけではない。
それを元にプレスされた盤が、市販されているアナログディスクである。

ここでもありえないことだが、仮に正確にカッティングされ、
ラッカー盤のクォリティを完全に維持したままのアナログディスクがあったとして、
今度はカートリッジのトレースの問題がある。

カッターヘッドについている針とカートリッジの針とでは、形状が違う。
このことに起因する問題は、アナログプレーヤの教科書的な本のほとんどで書かれている。

ことこまかに書かないが、こんなふうに細部まで検討すればするほど、
アナログディスクでの波形再現という測定は、絶対的とはいえず相対的なデータということになる。

ならばデジタル(CD)ではどうか。
CDならば、アナログディスクのように溝がすり減るということはない。
それにマスターテープが、CDと同じ規格(44.1kHz、16ビット)でデジタル録音されていれば、
波形再現の測定に使えるはずと考えがちになる。

たしかにアナログディスクよりはCDのほうが……、といえよう。
けれど厳密に考えれば、やはり疑問がある。

とはいえ世の中には完璧なものは何ひとつ存在しないことを考慮すれば、
CDは、測定における再現性を含めての実用の範疇に入ってくる、とはいえる。

そこでデジタル音源(CDには限定しない)を使った波形再現、
それもスピーカーを含めてのシステム全体としての波形再現は可能なのか、
そこでの測定から読みとれることは何なのか。

Date: 7月 31st, 2017
Cate: audio wednesday

第79回audio wednesdayのお知らせ(結線というテーマ)

8月のaudio wednesdayは、2日である。
テーマは前回書いているように「結線というテーマ」である。
これがメインになるが、時間があまったら、
最後のほうでオカルト的ことを試そうと考えている。

ケーブルによる音の変化を認めている人でも、
それはちょっと……、といわれそうなことをやろうと考えている。
といっても、これにかかる費用は数百円程度である。

もし効果が認められれば、すぐに試せる簡単なことでもある。
実は、私もまだ試していない。
昨日、ふとそのことを思い出して、今回のaudio wednesdayでやってみようと思っているところだ。

もしそれで音が明らかに変化したとしても、その理由はうまく説明できない。
そんなことも予定している。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 31st, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(波形再現・その3)

ステレオサウンド 48号でのレコードレベル記録測定のブロックダイアグラムをみると、
被測定プレーヤーは、80kg定盤の上にのせられている。

アナログレコードを使って測定なのだから、
外部からの振動・衝撃が被測定プレーヤーに伝わってしまっては、
その振動・衝撃もレコードレベルとして記録されてしまう。

80kg定盤とあるだけで、詳細はついては書いてなかった。
80kg定盤だけで、外部振動・衝撃を完全に遮断することは無理だから、
わずかとはいえ、それらの影響も測定結果にあらわれているはずだ。

そうなってくると、厳密な測定は非常にむずかしい。
私がいたとき、測定は三回やっていた。
アンプの歪率の測定の場合でも、必ず三回同じアンプで同じ信号で行う。
測定ミスが起っていないかを確認するためでもある。

それに測定は何機種も行う。
アナログディスクで、一機種あたり三回行い、
20機種とか30機種の測定になるわけだから、
30機種であれば90回、同じアナログディスクを再生することになる。
そうなると、アナログディスクの傷みも問題となる。

測定ごとにディスクも交換したら……、
これはこれで厳密な測定とはいえなくなる。
複数枚の同タイトルのアナログディスクの溝の状態が同一という保証はない。

すり減りにくいアナログディスクがあったとして、
カートリッジを被測定プレーヤーに取り付けて、
高さの調整、ゼロバランス、針圧の調整、
場合によってはラテラルバランス、インサイドフォースキャンセラーの調整を行う。

針圧は正確な針圧計をもってくれば、同じにできるが、
高さ、ラテラルバランス、インサイドフォースキャンセラーの量を、
すべて同一条件にできるかというと問題もある。

それからカートリッジの左右の傾きも調整してなければならない。

針圧をわずかに変化させただけで音は変化する。
その変化量がレコードレベルの測定結果にもあらわれるはずだから、
アナログディスクを使った波形再現の測定は、
メーカーが実験的に行うことはあっても、
オーディオ雑誌に客観的データとして掲載することは、
細心の注意を払ったとしても、種々の問題をクリアーできるとはならない。

Date: 7月 31st, 2017
Cate:

おもいだした文章

7月22日の川崎先生のブログ「知人、友人、親友、いや話相手としての別感覚の友」、
読んでいてふと思い出した文章がある。

黒田先生が1970年の終りに書かれたもの、
レコード藝術別冊「ステレオのすべて──1971」に載っている文章を、
読んでいて思い出していた。
     *
 悲しいのは誰だって同じだ。肝心なのはその悲しみをうたえるかどうかではないのか。ビリー・ストレイホーンがデューク・エリントンにとっていかにかけがえのない男だったかは、少しでもエリントンの仕事ぶりを見てきた人なら判るはずだ。協力者などという安っぽい、計算のかった間柄ではなかった。デューク・エリントンはビリー・ストレイホーンによってデューク・エリントンたりえていた部分があった。誰にもましてエリントンが、それを知っていたにちがいない。ストレイホーンにめぐりあえた幸せと、彼を失った悲しみを、エリントンが、このアルバムでうたっている。
 かけがえのない人を失うというのは、きっと誰にでもあることだろう。すくなくともひとりきりで生きられる強い人をのぞいては。ぼくにもあった。なにをはなしあったというのではない。なにか人にできないようなことをしたというものでもない。でも、ある時、なんの前ぶれもなくこの世の人間でなくなってしまったぼくの友人は、いなくなるということで、ぼくの中での彼の存在の大きさをぼくに教えた。
 A面の六曲、B面の5極がビッグ・バンドで演奏された後、人びとのざわめきをバックに、エリントンがピアノをひきはじめる。ストレイホーンの作品「蓮の花」だ。ざわめきはしずまり、エリントンのピアノがつづく。これは、エリントンだけにうたえた、ストレイホーンへの告別の歌ではないのか。
 悲しみをうたえることへのねたましさを、その時ほど感じたことはなかった。ぼくは、ぼくをおきざりにした友人に、なにがうたえたというのだ。心の中にできた空洞をもてあましているときにきいた、エリントンの、ストレイホーンへの告別の歌は、その切実さによって、たえがたかった。
 少しもしめっていない。あるとすればそれは、青い空のさびしさだ。男から男にだけ通じる抒情。しかしエリントンはその伝達の手段をもっていた。彼は音楽家だった。ピアノでうたうことができた。おそらくこの「蓮の花」、レコードにおさめることを意識して演奏されたのではないだろう。つまり、エリントンのつぶやき。つぶやきが歌になり、その歌には、なつかしい人を見やるやさしい目が感じられる。
     *
どのレコードなのかは、書く必要はないだろう。

Date: 7月 31st, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その25)

オーディオの想像力の欠如が、迎合へと向わせる。

Date: 7月 31st, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(もっといえば……)

オーディオは男の趣味、
さらにいえば迎合しない男の趣味である。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: High Fidelity

原音に……(その2)

オーディオにおける原音とは、
ミロのヴィーナス像の両腕のようなものかもしれない。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その6)

十年前に初めて京都に行った。
帰る日の午前中にすこし時間の余裕があったので、東寺に行った。
時間つぶしのつもりだった。

せっかく来たのだから仏像を、と軽い気持だった。
仏像を見たことがなかったわけではないが、
東寺の仏像はそれまでのみてきた仏像の印象とはまるで違ってみえた。
圧倒された。

40すぎて、やっと仏像に興味を持つようになった。
興味をもったからといって、特に詳しいわけではない。
仏像、いいな、とおもう程度になったくらいでしかない。

いま仏像は静かなブームのようだ。
表参道にあるイスムは、繁盛している、ときいている。
友人のAさんも、ここで阿修羅像を買った、といっていた。
仏像のフィギュアも、いまでは珍しくない。
浅草の土産店でも、小さな仏像が売られている。

買いたい、と思うモノもある。
けれど、いまのところ、まだ買っていないのは、
仏像は、自分の手でつくるものではないか、と思うようになってきたからだ。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その3)

出版不況といわれているし、雑誌が売れない、ともいわれている。
売れないからだろうか、たとえばMac雑誌。

私がMac雑誌を読みはじめたころは、
Mac Japan、Mac Power、Mac Life、Mac Worldが月刊誌として出ていた。
それから数年後、Mac JapanがMac Japan ActiveとMac Japan Brosに分れた。
Mac Powerの姉妹誌としてMac Peopleが出て、
日経Mac、Mac User、Mac fanも創刊された。

これだけのMac雑誌があり、
コンビニエンスストアでもMac Powerが、
私鉄沿線の小さな駅の売店でもMac Peopleが売られているのを見ている。

それがいまではMac fan一冊のみである、残っているのは。
そういうMac雑誌に比べれば、オーディオ雑誌はまだマシということになるのか。

それでもオーディオ雑誌も売れなくなってきていることは、書店に行けば感じられる。
感じられる、というより、はっきりとわかる。
ながいこと書店でオーディオ雑誌の扱いをみてきた人ならば、わかっていることだ。

よく出版社が発表している発行部数をもとに、いや売れている、と主張する人がいる。
けれど、その発行部数は公称発行部数であって、実際に印刷した部数ではない。

このことを指摘すると、今度は公称発行部数は印刷部数の数倍だから……、という。
だが公称発行部数は印刷部数の何倍とか何倍までしか発表できないわけではない。

実売に近い公称発行部数もあれば、数倍程度の公称発行部数、
中には十倍以上の公称発行部数もある。
公称発行部数では何もわからない。

証明書付き印刷部数を発表している雑誌以外の発行部数は、その程度のものでしかない。
それより書店に行ってみるほうが、確かだ。

もちろんネット通販で買う人がいるのも知っている。
電子書籍版を買う人もいる。
その分だけ書店での扱いが減っただけ、と考えることもできるが、
それだけとは考えられない。

なぜ減っているのか。
オーディオ雑誌だけに限っていえば、
編集者と読者との年齢の差が開きつつあるから、とまずいえよう。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その9)

静特性は音質との関係性は薄い。
そんなことがずっといわれている。
確かに正弦波で測定するわけで、
しかもアンプの場合、負荷には抵抗器が使われ、
実際の入力信号、実際の負荷(スピーカー)とは大きく違う条件下での静特性である。

人間でいえば基本的な健康チェック的ともいえる。
それでもハイサンプリング化が上へ上へと高くなっていくと、
可聴帯域外の静特性の測定は、重要になっていると考える。

歪率やクロストーク、最大出力といったアンプに関係する項目だけでなく、
スピーカーのインピーダンス特性も、可聴帯域まで測定してみる必要が出てきているのではないのか。

スピーカーの教科書をめくると、フルレンジユニットのインピーダンス特性の説明が載っている。
f0でインピーダンスは最大になり、中高域ではほぼフラット、
それ以上の周波数になるとボイスコイルのインダクタンスによって上昇する。

そんな図と説明が、たいていの場合あった。
ただそれらはすべて可聴帯域内での特性である。
上限は20kHzまでであった。
ステレオサウンドの測定でもその点は同じだった。

あのころはそれでもよかった。
でも、現在はそうもいかない。
スピーカーのインピーダンス特性にしても、
最低でも100kHz、200kHzくらいまで測定してみる必要はあろう。
さらにはMHzの帯域まで測定してみることも必要となってこよう。

ボイスコイルはコイルゆえに高域にかけてインダクタンスは上昇していくが、
コイルには浮遊容量が並列に存在している。
周波数は高くなればなるほど、その影響は顕在化していく。

フルレンジスピーカーの場合は、ある程度の周波数まではどういう変化になるのかは想像がつく。
けれど実際のスピーカーシステムとなると、ネットワークや内部配線だけでなく、
アンプからのスピーカーケーブルを含めてまでが、アンプの負荷となるわけで、
実際の使用条件に等しい長さと種類のスピーカーケーブルを含めての、
200kHz、できればそれ以上の周波数におけるインピーダンス特性は、いまひじょうに興味がある。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(略称の違い・その2)

数ヵ月前、書店に手にしたオーディオ雑誌に、
「みんな、アニソンを聴いてきた」、
そんなふうなタイトルがつけられていた記事があった。

アニソンとはアニメソングの略である。
ここで書きたいのはアニソンという略称についてではなく、
「みんな、アニソンを聴いてきた」という見出しについて、である。

この記事は、いまおじさんと呼ばれている世代も、
子供のころはアニソンと呼ばれる音楽を聴いていた、というものだった(はずだ)。

確かに聴いていた。
いまではクラシックを聴いている時間がながい私も、
小学生のころからそうだったわけではない。

だから「みんな、アニソンを聴いてきた」という趣旨は、
そのとおりである、と同意しても、その世代の者はアニソンとは呼んでいなかった。

アニメだけを見ていたわけではなかった。
子供向けの番組には実写ものも多かった。

ウルトラマン・シリーズや仮面ライダー・シリーズなどもあった。
これら特撮ものと呼ばれるもの以外の実写ものもあった。

それらの主題歌をすべてアニソンと言い切ってしまうところに、
反撥したくなるし、なにかひと言いいたくなる。

そのころの子供は、アニソンなんて言葉はつかっていなかった。
アニメソングでもなかった。
テレビ主題歌といっていた。

「みんな、アニソンを聴いてきた」の編集者は、若い人なのだろう。
それはそれでもいいのだが、なぜ、周りの、そのころの世代の人たちに確認しないのか。

中には、私と同世代であっても「アニソン、聴いていた」と答える人もいようが、
「聴いていたけど、アニソンとはいわなかったな」と答える人も必ずいる。

ほんのちょっとした手間を省いて、記事をつくってしまっている。
どこか細部をなおざりにしたまま記事をつくっている、という印象を受ける。

自分たちの世代だけの考え・感性だけで、
「みんな、アニソンを聴いてきた」といわれても、
同世代に向けての記事でしかない。