Archive for category テーマ

Date: 9月 28th, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その7)

「フツーにいい音」。

私の周りには、こんな表現を使うオーディオ仲間はいないが、
私の知らないところでは、意外にも使われているのかもしれない。

「フツーにいい音」とは、
菅野先生がいわれた「いい音だけど、毒にも薬にもならない音」だと思う。

菅野先生が、そう表現されたことは(その5)に書いている。

「毒にも薬にもならない音」。

なにも、その録音エンジニアの録音だけにいえることではない。
いま優秀な、といわれるオーディオ機器が聴かせる音も、
「毒にも薬にもならない音」になりつつある、
「毒にも薬にもならない音」が増えつつある、そんな気もしている。

だから「毒にも薬にもならない音」という菅野先生の言葉が、
あの時からずっと心にひっかかり続けている。

「毒にも薬にもなる音」。

それはラッパと呼ばれていたころの大型スピーカーが聴かせる音ともいえる。
それだけにうまく鳴らすのが難しい、ともいわれたし、
スピーカーと格闘する、という表現が生れてきたのも、
そういう音のスピーカーだから、ともいえる。

そういう音(スピーカー)に辟易してきた人もいる、と思う。
「毒にも薬にもならない音」は、
「毒にも薬にもある音」のアンチテーゼでもあったとも考えることはできる。

Date: 9月 27th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(GHOST IN THE SHELLとあるスピーカーの音)

古くからの友人でありオーディオ仲間のKさんから、
SNSでのメッセージが来た。

そこには、いま聴いているスピーカーのことが書いてあった。
短いけれど、彼が昂奮しているのが伝わってくるものだった。

どのスピーカーなのかは、いまは書かない。
私はまだ聴いていないスピーカーのことだから。

Kさんのメッセージのなかに、テクスチュアという単語があった。
そうだろうな、やっぱりな、と思いつつ、
Kさんが昂奮しているのは、私が春に「GHOST IN THE SHELL」を、
IMAXで観ての昂奮と、実のところ同じなのかもしれない、とも考えていた。

Kさんは、それを耳で聴き、私は目で観た。
ふたりとも、(おそらく)同じ昂奮を味わった(のだろう)。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その8)

間違っている音を出していた男は、はっきりとナルシシストである。

本人にその自覚があるように感じるときもあれば、
そうでないように感じるときもあったから、
本人が自覚していたのかどうかははっきりしないが、
少なくとも私だけでなく、間違っている音を出していた男とつきあいのあった人の多くが、
ナルシシストだといっているから、
私だけのひとりよがりではないのだろう。

別にナルシシストであってもいい。
けれど、それがことオーディオ、音に関係してくると、
どうしても何か言いたくなるのが、私の性格だ。

間違っている音を出していた男は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と私を誘った。
七年前のことだ。

その6)でも書いているように、
彼は瀬川先生に会ったことはない。
あったことがないのだから、瀬川先生の音を聴いてもいない。

にも関らずナルシシストの彼は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と恥ずかしげもなくいう。
そのとき、たいしたナルシシストだ、と思っていた。

もちろん彼の音が、瀬川先生の音を彷彿とさせるなんて、
まったく期待していなかった。
それでも、彼なりの、ナルシシストとしての美意識が反映された音であるならば、
聴いてみたいという好奇心はあった。

けれど、そこで鳴っていたのは、
残念なことに美的ナルシシズムではなく、醜的ナルシシズムとしかいいようのない音だった。

美少年も歳をとる。
皺が増え、皮膚も弛んでくる、
体形も変ってくる、腰まわりには脂肪がついてくるし、
髪の毛だって白髪になったり、抜け毛も増えてこよう。

ナルキッソスはそうなっても、己の姿を水に映してうっとりするのだろうか。
もっともナルキッソスは、その前に死んでいるのだが。

だが現実のナルシシストは、みな老いていく。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その6)

逸脱気味,逸脱しているといえるヘッドフォン・イヤフォンが増えている──、
そう仮定したとして、その理由にはどんなことが考えられるか。

それはひとつだ、と思う。
スピーカーで音楽を聴く人が減ってきて、
ヘッドフォン・イヤフォンのみで音楽を聴く人が増えてきたからではないのか。

昔もヘッドフォンのみ、という人はいた。
オーディオ雑誌に執筆されていた人でも、名前ははっきりと思い出せないが、
ひとりおられた。
たしかフォンテックリサーチのコンデンサー型ヘッドフォンを愛用されていた。

オーディオマニアのなかにも、ヘッドフォンでしか音楽を聴かない、という人はいたと思う。
けれど、割合としては、いまよりはずっと少なかったはずだ。

だからこそスピーカーにはスピーカーの役割、
ヘッドフォンにはヘッドフォンとしての役割が、
共通認識として、ひとつあった、と思っている。

けれど、いまはスピーカーを持たない人がいる。
増えているようだ。
そうなってくると、
ヘッドフォンのヘッドフォンとしての役割にも変化が生じてきて当然である。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その5)

たしかにいまはヘッドフォン・イヤフォンはブームである。
定着している、とさえ思うほどに、
ヘッドフォン・イヤフォンのムックは出版されるし、専門店もある。

ブランドの数もかなり増えている。
製品数も増えたし、価格のレンジも広がっている。

まさに百花繚乱、といいたいけれど、そこはためらう。
ためらうとともに、
優れたヘッドフォンは、感覚の逸脱のブレーキ、と表現されたのは菅野先生。

そのとおりだと思っているから、この項を書いているわけだが、
どうも最近のヘッドフォン・イヤフォンのなかには、
逸脱気味の製品が増えはじめているのではないか、と思えてきた。

過去にもそういう製品はあったであろうが、
最近のほうが目立ってきているように感じることがある。

具体的にどの製品が、とは書かない。
ヘッドフォン・イヤフォンを同条件で比較試聴しているわけではないし、
私が聴いてるのは全体の製品数の一部にすぎない。

私が思っている以上に、
逸脱気味、さらには逸脱しているヘッドフォン・イヤフォンがある可能性も考えられる。
だから、いまのところ私が逸脱気味、逸脱していると感じている製品について、
具体的なことは書かないが、そういう製品であっても、
意外に(そう感じるのは私だけなのか)高評価であったりする。

そういう製品を全否定はしないけれど、
この項を書き続けるにあたっては、優れた製品、
つまり感覚の逸脱のブレーキ役にもなってくれるヘッドフォン、イヤフォンを、
自分の耳で探していかなければならないし、
そういう製品に関しては具体的に書いていく必要も出てきた。

それにしても、製品数のなんと多いことか。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その6)

(その4)で、スピーカーが出してくる音とのコミュニケーション、とか、
(その5)で、スピーカーの本能、とか、
読む人によっては、わけのわからないことを書き始めたと思われようが、
コミュニケーションのとれるモノととれないモノは、はっきりとあると思っている。

オーディオのなかでは、特にスピーカー。
コミュニケーションのとれるスピーカーと、
コミュニケーションを拒絶しているかのようなスピーカーがある。

コミュニケーションがとれるとれないは、
スピーカーの性能、価格といったこととはあまり関係がない。

世評の高いスピーカーであっても、
私にはコミュニケーションがとれない、と感じるモノが、いまのところある。
その数は、少しずつ増えていっているようにも感じる。

そういうスピーカーは精度の高い音を出す。
そのことはたいしたことである。
ここまで出る(出せる)ようになったのか、と感心しながら聴きながらも、
欲しい、と感じさせないのは、
価格のことではなく、コミュニケーションの不在があるように感じるからだ。

少しでもいい音で聴きたい、いい音を鳴らしたい、とおもうからこそ、
あれこれこまかなセッティングやチューニングをやっていく。
そうすることで、音は少しずつ良くなっていく。
音は裏切らないからだ。

コミュニケーションがとれると感じるスピーカーでも、
とれないと感じてしまうスピーカーでも、そのことに関しては同じだ。

セッティングやチューニングに応えてくれているからこそ、音は良くなっていくわけだ。
ならば、応えてくれるということこそコミュニケーションではないのか、と考えもするが、
そういうことではない、と即座に否定する。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: ディスク/ブック

オーヴェルニュの歌

カントルーブの「オーヴェルニュの歌」といえば、
ネタニア・ダヴラツの歌唱が有名であっても、
私が最初に聴いたのは、キリ・テ・カナワとフレデリカ・フォン・シュターデのどちらかだった。

ダヴラツの「オーヴェルニュの歌」を聴いたのは、CDになってからだった。
そのCDも、もう手元にはない。

聴きたくなることはある。
岡先生によるダヴラツの「オーヴェルニュの歌」のCDの紹介記事を読んでいたから、
無性に聴きたくなっていた。
その数日後、タワーレコードからのニュースで、
ダヴラツの「オーヴェルニュの歌」のリマスター盤が出ることを知った。

発売日は来月である。
少し待たねばならないが、このくらいならしんぼうできる。

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 107, KEF, 試聴/試聴曲/試聴ディスク

KEFがやって来た(番外・table B)

KEFのModel 107のtable Bであげられているディスクは、
クラシックに関しては作曲家と作品名、それとレーベルとディスク番号のみ。
少し不親切に思えるだろうが、
Model 107の発売された1986年当時であれば、
それだけでどのディスクか、クラシックを聴いていた人ならばすぐにわかるし、
いまはインターネットがあるから、レーベルとディスク番号を入力して検索すれば、
どのディスクで、誰の演奏なのかは、すぐにわかる。

サン・サーンス:ピアノ協奏曲第二番/ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
ダヴィドヴィチ、ヤルヴィ/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
(Philips 410 052)

ブラームス:ピアノ協奏曲第二番
アシュケナージ、ハイティンク/ウィーンフィルハーモニー
(Decca 410 199)

ドビュッシー:前奏曲集
ルヴィエ
(Denon 38C37)

ファリャ:三角帽子
デュトワ/モントリオール交響楽団
(Decca 410 008)

ラフマニノフ:交響的舞曲
アシュケナージ/コンセルトヘボウ管弦楽団
(DECCA 410 124)

カントルーブ:オーヴェルニュの歌
キリ・テ・カナワ
(Decca 410 004)

Mister Heartbreak
ローリー・アンダーソン
(Warner 925 077)

Four
ピーター・ガブリエル
(Charisma 800 091)

Superior sound of Elton John
エルトン・ジョン
(DJM 810 062)

Rickie Lee Jones
リッキー・リー・ジョーンズ
(Warner 256 628)

Body and Soul
ジョー・ジャクソン
(CBS 6500)

The Flat Earth
トーマス・ドルビー
(EMI 85930)

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その9・補足)

その9)で、ステレオサウンドのインピーダンス測定も、
可聴帯域、つまり20kHzどまりだった、と書いた。

書いた後で気づいた、というか憶い出した。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIESの三冊目、
トゥイーターの号で、200kHzまでのインピーダンスを測定している。

トゥイーターユニット単体のインピーダンスということもあって、
10kHzあたりからインピーダンスは上昇していく。
200kHzまで上昇していくものがほとんどである。

インピーダンス特性のグラフの縦軸の目盛は32Ωまでしか振ってないが、
目盛はその上まである。

上昇の傾斜が急なものは60Ωを超えて、100Ωくらいまでいくようである。
100kHzあたりが32Ωくらいになるのが多い。

そのなかにあって驚異的なのは、テクニクスの10TH1000である。
50kHzまで8Ωフラット、その上では多少上昇するが、200kHzでも10Ω程度である。
その次に優秀なのがフォステクスのFT5RPである。
200kHzで14Ω程度である。
このふたつのトゥイーターはポリイミドフィルムにボイスコイルパターンをエッチングしている。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その1)

カラーレイション(coloration)という言葉がある。

KEFのReference Seriesのカタログを見ていたら、
“Low Colouration”とあった。

KEFはイギリスの会社だから、colorationではなくcolourationである。
瀬川先生がいわれていたことだが、
カラリゼイション(colorization)とカラーレイションは、意味が違う。

どちらも色づけと訳すことはできるが、
色づけの意味合いがそもそも違う。

カラリゼイションは、積極的な色づけであって、
例えばモノクロの写真に着色、カラー化の意味での色づけである。

カラーレイションは、オーディオの世界では、
ノンカラーレイション、ローカラーレイションと使われ方をすることからもわかるように、
本来あってはならぬオーディオ機器固有の音色による色づけのことである。

カラーレイションとカラリゼーション、
いまでは、カラリゼーションの方は耳にしなくなったが、
先日、カラーレイションのところにカラリゼーションが使われていたことがあったのと、
KEFのカタログで目にしたので、思い出した次第。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その30)

オーディオの想像力の欠如のままでは、空洞ゆえの重さを感じることはないのだろう。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その4)

来週末(9月29日、30日、10月1日)は、インターナショナルオーディオショウ。
インターナショナルオーディオショウ協議会のサイトでは、
各ブースで行われるプレゼンテーションのスケジュールがPDFで公開されている。

上記リンクページの下部には、
「TIAS2017イベントスケジュール」とある。
いつからイベントスケジュールになったのだろうか。

昨年はどうだったのだろうか。
講演スケジュールのようだった気もするが、
いまとなっては確認できない。
それともイベントスケジュールだったのか。

ダウンロードできるPDFは、今年も講演スケジュールとなっている。
おそらくこれまで使ってきているテンプレートを流用しているからなのかもしれない。

スケジュール表をみてわかるように、
オーディオ評論家を呼ばないブースも多い。
そこに講演スケジュールとひと括りにするのは、そぐわない。

それに何度も書いてきているように、
オーディオ評論家が話すことは、
いまや講演と呼べない内容のものばかりになってきている。

来年以降、PDFのタイトルも講演スケジュールからイベントスケジュールへと変更されるのだろうか。

Date: 9月 22nd, 2017
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その12)

車の運転自慢の男がいる、としよう。
彼にとって理想に近い車はポルシェだ、としておこう。

彼はポルシェの運転に自信をもっている。
たいへんな自信をもっている。
それだけでなく、他の車の運転も自慢する。

ポルシェ以外の車、
たとえばランボルギーニ、フェラーリ、アストンマーチン、ジャガー、
メルセデス・ベンツ、マクラーレンといった車だけでなく、
国産車でも、スポーツカー以外の車であっても、
彼はポルシェを運転する時と同じに運転し、
ポルシェと同じ走りを、他の車に要求する。

それぞれの車にそれぞれのよさがあり、
それを活かしてこその運転のはずだろうが、彼は違う。

彼はオーディオマニアでもある。
車の運転と同じに、スピーカーを鳴らす。
どんなスピーカーも、自宅で鳴らしているスピーカーと同じに鳴らす。

その音を自慢するし、
オーディオマニアのリスニングルームを訪ねていっては、
そういう鳴らし方を披露して、自慢する。

スピーカー鳴らしの達人とか、名人とか、自分のことを恥ずかしげもなく、そういう。

それを「自分の音」と、彼はいう。
たしかに、彼自身の音ではある。
どんなスピーカーをもってきても、その「自分の音」でしか鳴らせないのだから。

その「自分の音」とスピーカーとが、たまたまマッチすれば、
それはそれでいいのだが、そうそううまくいくものではない。
だから、自慢するのかもしれない。
言葉で相手を説得させるためにも必要となるからだ。

まるめた紙をアートだといい、デザインだ、といっている人となんら変らない。

Date: 9月 21st, 2017
Cate: audio wednesday

第81回audio wednesdayのお知らせ(1982年10月4日+35年=十五夜)

2017年10月4日は、十五夜であり、
グレン・グールドの命日。

JBLの075を持ち込む、
前回のテーマであった「結線」に関しても、
もうワンステップ(というか半ステップ)進める予定。

どんな音で、グールドは鳴ってくれるのだろうか。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 21st, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その5)

ここでのテーマについて書いていくと、
スピーカーの本能、そんなことを考えてしまう。

本能とは、辞書には、
生れつき持っている性質や能力。特に、性質や能力のうち、非理性的で感覚的なものをいう
動物のそれぞれの種に固有の生得的行動
そんなことが書いてある。ならば、スピーカーそれぞれに、
固有の本能と呼べる性質や能力はある、と考えることもできる。

スピーカーユニットの方式、
ユニットに使われている材質、
マグネットの種類、ダイアフラムの形状、素材、
ユニットの構造など、
もともとがプリミティヴなモノであるスピーカーだけに、
そういったことの、音に直接・間接的な影響は、生得的ともいえよう。

スピーカーの方式などによって先入観をもって音を聴くのはさけるべきであっても、
スピーカーそれぞれの生得的な性質・能力に関しては、切っても切れない関係にある。

ならばスピーカーにも本能といえるものがある。
そう考えてもよさそうである。

あるとして、その本能のままに鳴らしたときの音が、”plain sounding”なのだろうか。