Archive for category テーマ

Date: 8月 2nd, 2018
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その7)

5月のaudio wednesdayに続き、昨日(8月1日)も、
二ヵ月ぶりにアルテックのスピーカーを鳴らすことになった。
5月は最初は喫茶茶会記で常時使っているコイズミ無線製のネットワークで鳴らした。

今月は最初から私自作の直列型6dB/oct.のネットワークである。
このネットワークの5月の会の途中から使いはじめ、
6月も使い、この時、少し手を加えている。
そして二ヵ月ぶりの今月。

5月のときのような音が最初は鳴ってくるかも……、と半分予想していたが、
すんなり鳴ってくれた。

CDプレーヤーを設置した時点で、CDプレーヤーにはディスクを入れ再生状態にする。
それからアンプの設置、スピーカーの設置、ネットワークの結線、
ここまで終った時点でアンプの電源を入れる。

昨日は18時30分ごろがそうだった。
音を鳴らしながら、ドライバーとトゥイーターをきちんと設置する。
つまりドライバーとトゥイーターを適当に置いた状態での最初の音が、
5月の時とはまるで違っていた。

今回のテーマは、猛暑ということで、涼しげな音を出すで、
使用機器はなんら変更ないが、セッティングは少し変更している。

パッと見て、すぐに変更しているなとわかる箇所が、一箇所、
ちょっと注意深い人ならば、気づくところが三個所、
毎回、駒かなところまでチェックしてすべて記憶している人ならば気づくところが、四箇所、
セッティングをバラさなけれは気づかないところを一箇所、変更していた。

ひとつひとつは些細なことで、特別なことは何もない。
それで素姓のいい音が鳴ってきたので、昨日は音を出してからは、どこもいじっていない。
いつもなら、どこかを調整するけれど、昨日は何もしなかった。

何もしなかったけれど、音は変化していく。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その56)

今回の、ステレオサウンド染谷一編集長の謝罪の件は、
くり返し書いているようにavcat氏のツイートが発端である。

そのavcat氏の一連のツイートなのだが、
これをクレームと受けとっている人もいるようだ。

けれど、avcat氏のツイートは、クレームなのだろうか。
個人的なぼやきのように、私には思える。

この項ではfacebookでいくつかのコメントをもらっている。
そのひとつに、クレームについてのコメントがあった。

クレーム(claim)とは、原語では、正当な主張、もしくは請求の意味であり、
正当な、肯定的な応酬や積み重ねであれば、全体が望ましい状態に向うはず……、とあった。

調べて、確かに正当な主張、とあり、
いまの日本で一般的に通用しているクレーム、
つまり英語のclaimではなく、日本語のクレームは、英語のコンプレイント(complaint)ともある。

コンプレイント(complaint)は、苦情、不平である。
ということは、avcat氏のツイートは、
クレーム(claim)ではなくコンプレイント(complaint)だ、といえる。

今回の謝罪の件が、ここまで書くほどに興味深いのは、
染谷一編集長が、コンプレイント(complaint)なavcat氏のツイートを読んで、
謝罪し、そのことをavcat氏がツイートしたからである。

それでも誰も、謝罪したことを問題視しなければ、
avcat氏のツイートは、ずっとコンプレイント(complaint)のままだった。

けれど、私だけでなくブログやツイートで、今回の謝罪の件を取り上げている人たちがいる。
私のブログでも、ふだんはほとんどコメントがないのに、
染谷一編集長の謝罪の件に関しては、そうではない。

つまり、avcat氏のツイートが、クレーム(claim)になっていくのかもしれない。
そのために染谷一編集長がなすべきことは? である。
沈黙したままでは、avcat氏のツイートはコンプレイント(complaint)でしかない。

9月発売のステレオサウンド 208号で、それははっきりする。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その8)

雑誌の売行きを安定にする。
特集の企画によって、売れたり売れなかったりをできるだけなくしたい、とするのは、
経営者の判断であり、それを編集部が忠実に実行していくのは、どういうことを自ら招くのか。

気に入られようとする。
そのための幕の内弁当であり、さらに進んだマス目弁当。
弁当は食べてしまうと、目の前に残るのは弁当箱だけである。

オーディオ雑誌は読み終ったからといって、ページが消失してしまうわけではない。
すべてのページを読んでしまったら、表紙だけが残ってしまうわけではなく、
一冊まるごと残っている。

最新号も残っていれば、捨てないかぎり、それ以前に読み終えた号も残っている。
それらが本棚に並んでいく。

一年で四冊、二年で八冊……、
増えていけば、一冊読んだだけでは気づきにくいことにも気づく。
気づかないまでも、なんとなく感じてくるようになる。

己の裡にある毒を転換してのオーディオの美だと、別項で以前書いた。
オーディオ機器、特にスピーカーは毒をもつ。

毒と毒。
だからこそ美へと転換できるとさえ、私は思っている。

私が熱心に読んできたオーディオ評論は、そのことを暗に語っていた。
いまは、それがなくなっていることに気づく。

だからなのか、毒に対しての拒絶反応が、
一部のオーディオマニアのあいだに出てきているようにも感じる。

Date: 8月 1st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その6)

(その5)へのコメントがfacebookであった。

そこにはトップダウン、ボトムアップとあった。
トップダウンは、企業経営などで,意思決定は社長・会長がして上位から下位へ命令が伝達され,
社員に従わせる管理方式、
ボトムアップは、企業経営などで,下位から上位への発議で意思決定がなされる管理方式、とある。

コメントされた方は、
過去のオーディオ誌に求められたのがトップダウンの評論であるとすれば、
今はボトムアップのノウハウのようなものが求められると感じている、とあった。

いわんとされることはわかる。
コメントをされた方は私よりも若い世代。
そういうふうに感じられているのか、と思う。

過去のオーディオ誌は、私が熱心に読んでいた時代のオーディオ雑誌を指すのか。
それともそれより後の時代のオーディオ雑誌なのか。

私が熱心に読んできたオーディオ雑誌の時代は、
私にはトップダウン的評論とは感じていなかったし、いまもそれは変らない。

あの時代、オーディオ評論家(職能家)は、手本であり、
憧れというより目標であった。
もっといえば、将来のライバルというふうにも見ていた。

いまは10代の若造だけれど、あと十年すれば、
そのレベルにまで上っていく──、そういう意味での目標であり、
将来のライバルとは、そういうことである。

そんな私は、トップダウンの評論とは感じていないが、
評論のところを編集に変えてみたら、どうだろうか。

トップダウンの編集、ボトムアップの編集である。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: audio wednesday

第92回audio wednesdayのお知らせ(9月のテーマについて)

8月1日のaudio wednesdayがまだなのに、
9月5日のことについて、少しだけ予告しておく。

まだはっきりとはいえないが、
システムの一部がいつもとは大きく変更になる。

その製品を聴くのは、私は初めてである。
関心をもっている製品だけに、じっくり聴けるのはありがたい。

これも協力してくださる方のおかげである。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: audio wednesday

第91回audio wednesdayのお知らせ(涼しげな音を出せれば、と)

明日(8月1日)の8月のaudio wednesdayのテーマは、というか、やりたいことは、
いつもより涼しげな音が出せれば、と思ってのセッティングのわずかな変更である。

しげしげ見なければ、どこがいつものと違っているのかはわからないくらいの変更で、
音がそれによってどの程度変化するのか、予測していても、
音は実際に出してみてわかるところが必ずある。

暑いからといって気合いの入っていない鳴らし方はしない。
7月はアルテックのスピーカーをまったく鳴らしていない。
二ヵ月、自分で鳴らしていないわけで、
8月もそんな調子だと、9月のaudio wednesdayでの音出しがたいへんなことになるからだ。

スピーカーに気合いを入れるための8月のaudio wednesdayである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その5)

大人のオーディオマニアが大人として、
オーディオのプロフェッショナルがプロフェッショナルとして、
若い世代の手本になっていないと感じるのも、時代の軽量化といえよう。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(余談)

ステレオサウンド 207号のスピーカーの試聴記を見ていて、
異和感をおぼえたのは能率に関することである。

いまでは90dB/W/mを超えるスピーカーの方が少数である。
その中にあって90数dBのスピーカーシステムは、相対的に能率が高い、ということになる。

まあ、でも傅信幸氏、三浦孝仁氏が、
90数dB/W/m程度のスピーカーを、能率が高い、というふうに書かれているのをみると、
異和感をおぼえる。

傅信幸氏は私よりひとまわり上、
三浦孝仁氏はひとつくらい上のはずで、いわば同世代。

93dB/W/m程度でも、最近のスピーカーは能率が低くなった、といわれていた時代を過している。
100dB/W/mの高能率のスピーカーの音も聴いている。

93dB/W/mは変換効率でいえば、1%である。
93dB/W/mより低い値のスピーカーは、いつの時代であっても能率が低いわけで、
たかだか1%の変換効率のスピーカーを、高能率だというのは、
周りの音圧レベルが低くなっているとはいえ、それでいいのか、と思う。

傅信幸氏、三浦孝仁氏が20代、30代というのなら、わかる。
90dBを切るスピーカーが多数になっていた時代にオーディオに興味をもっているのだから。

なぜ、そこに合せるのか、という疑問が、異和感につながっていく。
50代も60代もいい大人なんだから──、と思う次第だ。

Date: 7月 31st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その16)

この二人が主宰するメーカーは、どちらも規模は小さい。
社員が大勢いる大企業ではなく、それぞれの人のいうことが、
そのメーカーの主張するところである。

この二人のメーカーの人は、オーディオ評論家を、
自分たちの代弁者であってほしい、と思っているのではないか。
だから、あれほど喜んだとしか思えない。

その意味で、そのオーディオ評論家はオーディオ評論家(商売屋)としてプロであった、ともいえる。
けれど読者が求めているオーディオ評論家は、
オーディオ評論家(職能家)ではないのか。
少なくとも私はオーディオ評論家(職能家)がいてほしい、と常々思っている。

けれど、オーディオ評論家(商売屋)のほうかわかりやすいと思っている読み手もいるようだし、
メーカー側の人たちが、少なくともこの二人はそうである。

メーカーにとってオーディオ評論家(商売屋)はそれでいいが、
オーディオ評論家(職能家)は、
メーカーの人たちが気づいていないところを指摘するのも仕事である。

それは欠点でもあるし、製品がメーカーの試聴室から市場に出た時に生じる魅力、
メーカーの人が気づいていない価値を指摘するのも仕事だ、と私は考えている。
そこに気づいたメーカーの製品だけが商品となっていくのではないのか。

二人のメーカーの人は、自分の賛同者、代弁者が欲しかった。
それはオーディオ評論家(商売屋)こそが得意とするところでもある。

今回のモニター機に関するいざこざは、個人ブロガー(オーディオマニア)に、
そんなオーディオ評論家(商売屋)と同じことをメーカー側が求めていたことも、
原因のひとつなのではないか。

メーカーと個人ブロガー、どちらか一方にだけ非があるようには思えない。
自分にとって都合のいいことしか求めなくなっている──、
そんな空気が、いまのオーディオ界の現状のような気もする。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その1)

「タンノイはいぶし銀か」を書き始めたところ。
タンノイの同軸ユニットにはフロントショートホーンが不可欠だ、と、
以前から書いていることをくり返している。

もうひとつ不可欠(フロントショートホーンほどではないが)といえるのが、
KT88のプッシュプルアンプである。

世の中に出ているすべてのKT88プッシュプルアンプを聴いて書いているのではない。
タンノイに接いで聴いているのは、マッキントッシュのMC275、
マイケルソン&オースチンのTVA1、ウエスギ・アンプのU·BROS3、
それからジャディスのJA80(これはパラレルプッシュプル)だけである。

けれど、このどれでタンノイを聴いても、よく鳴ってくれる。
真空管アンプの音が出力管だけで決るわけでないことは重々承知しているが、
それでもタンノイにはKT88プッシュプルだ、と口走りたくなるほど、
それぞれに魅力的、ときには魅惑的な音をタンノイから抽き出してくれる。

JA80で鳴らしたGRFメモリーの音は、フロントショートホーンがついていないけれど、
もうこれでいいのかもしれない……、
そんなふうなある種の諦観に近いところに誘われている感じさえした。

やや白痴美的な音でもあった。
CDで聴いていたのに、以前一度だけ聴いたことのあるカートリッジの音を思い出してもいた。
グラドのSignature IIである。

1979年に199,000円もしていたカートリッジで、
瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られた時に持参されていた。

このカートリッジのことは、「ラフマニノフの〝声〟VocaliseとグラドのSignature II」で書いている。

甘美な音がしていたカートリッジだった。
私も、欲しい、と思った。
高校生にはとても手が出せない価格だったけれど。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その55)

ステレオサウンドの記事は、どういう読み方であっても、
すべての読者に対してまったく同じ記事である。

今回の207号にしても、私が買った207号と別の人が買った207号とで、
記事の一部が、書いてあることが微妙に違っているということは絶対にない。

同じ内容の記事を読んでいても、読む人によって受けとめ方は違ってくるということは、
今回の染谷一編集長の謝罪の件については、
人によって読んでいるものが違っているのだから、受けとめ方はさらに違っているのではないか。

私以外にも、今回の謝罪の件を取り上げている人はいる、と聞いている。
twitterでツイートしている人もいるようだし、
自身のブログで書いている人もいる。

私はある人から教えてもらったブログをひとつだけ読んでいる。
そこにリンクしようかと思ったけれど、そのブログを書かれている人は、
あえて固有名詞を出さずの書き方なので、リンクはしない。

でもステレオサウンド 207号の写真は載っているから、
わかる人には、今回の謝罪の件だとわかる。

おそらく、この人以外に書いている人はいるだろう。
ということは、人によって、今回の染谷一編集長の謝罪の件は、
読んでいることに違いが生じている。

すべての人がavcat氏のツイートを遡って読んでいるとはかぎらない。

雑誌掲載の同じ記事を読んでもそうなのに、
読んでいるものが微妙に違ってきては、受けとめ方は記事以上に違ってきても不思議ではない。

読み手がどれを信じ信じないのか、どれに共感するのかしないのか、
そういったことが微妙に違ってきていることの怖さを、編集者ならば想像してみてほしい。

今回の件に沈黙してしまうということは、そういうことなのだ。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その15)

モニター機の評価に関するいざこざは、メーカー側の求めることにもあったのではないだろうか。
今回のメーカーが、どういうことを個人ブロガーに求めていたのかははっきりしないが、
個人ブロガーをふくめてオーディオマニアを、
自社の広報マンの代理として考えていた可能性はあるように感じている。

もう十年近く前になるが、
あるメーカーのある製品が、オーディオ雑誌に取り上げられた。
あまりこのメーカーの製品は雑誌で扱われることはない。
高い評価を得ていた。

その後で、そのメーカーの人と話す機会があった。
彼はすごく喜んでいた。
そうだろう、と思ったけれど、そのあとに彼の口から出た言葉を聞いて、
少し考えさせられた。

これと同じことがfacebookでもあった。
別のメーカーの、ある製品を、とあるオーディオ評論家が評価していた。
そのことをこのメーカーの人も喜んでいた。
二人の喜び方は、同じに見えた。

つまり彼らが伝えたいことを、すべてオーディオ評論家が伝えてくれたからである。
だから、彼らは、○○さんはいい評論家だ、といっていた。
最初のメーカーを評した人(二人)とあとのメーカーを評した人(一人)は、
一人だけが同じ人である。

二人のメーカーの人が喜んでいるのは、そういうこと(レベル)なのか、と思った。
そのぐらいのこと、オーディオ業界で飯を食っている人にとっては、
さほど難しいことではない。

そういう評論家は、メーカーにとってはありがたい人であろうが、
読者にとっては、いい評論家といえるだろうか。
もっといえばメーカーにとっても、いい評論家とはいえないはずだ。

そこに、二人のメーカーの人は気づいていないようだった。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの定価

私が初めて買ったステレオサウンドの定価は1,600円だった。
いまは2,000円で、これに消費税がついて2,160円。

ステレオサウンドが1,600円だったころ、新聞の購読料は同じくらいだった。
いまはステレオサウンドよりも、けっこう高くなっている。

他のオーディオ雑誌も、昔は数百円だったけれど、千円を超えている。
読みたい記事がなければ、もっと安くても高いと思うものだが、
ステレオサウンドの定価は、よくやっているのではないか、
と今回久しぶりに買って思っているところ。

それに一冊買えば、ブログに書きたいことがそこかしこにある。
207号にしても、最初からじっくりひとつひとつについて細かく書いていくことだってできる。
特に特集のあとに続く記事については、そうとうに書きたいことがあるが、
そこまで触れるつもりはない。

私にとって読み応えはないが、書き応えはあるから、
ステレオサウンドの定価は安い、といえる。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 戻っていく感覚

好きな音、好きだった音(あえて書いておく)

(その8)で引用した黒田先生の表現。
25号に載っていることを見つけ、書き写してみれば、
ほぼ正確に記憶していたことも確認できた。

ならば25号を見つけ出さなくとも書けたのではないか。
書けた。

書けたけれど、黒田先生の書かれたものという記憶がこちらにある以上、
それに手元にステレオサウンドのバックナンバーがある以上、
やっぱり正確に引用しておきたい。

それに黒田先生の文章ということを黙ったまま、
さも自分で考えたかのように、少しだけ変えて書くのは絶対にやりたくない。

オーディオ雑誌には、そういう例がけっこうある。
書いている本人は、自分で思いついたと思っているだけなのだろうが、
パクリといわれてもしかたない、という表現もある。

ほんとうに知らないのか、それとも過去に読んだことを忘れてしまっているのか、
そのへんは定かではない。本人にしてもそうなのかもしれない。

こんなことをあえて書いているのは、ステレオサウンド 207号でも、
気になるところがあったからだ。

傅信幸氏のタンノイのKensington/GRの試聴記に、タンノイ劇場、とある。
これが、菅野先生が以前よく使われていたウェストミンスターホールと、
私の中では、どうしてもかぶってくる。

念のため書いておくが、ウェストミンスター劇場のウェストミンスターとは、
タンノイのスピーカーのことである。

ウェストミンスターホールを、菅野先生が使われていたのは、それほど昔のことではない。
傅信幸氏が読んでいないわけがないし、読んだことを忘れていないはずだ。
忘れていた可能性をまったく否定するわけではない。

仮に忘れてしまっていての、今回のタンノイ劇場なのかもしれない。
だとしても、ステレオサウンド編集部の人たちは、何も思わなかったのか、
何も感じなかったのか、何も思い出さなかったのか。

菅野先生のウェストミンスターホールと傅信幸氏のタンノイ劇場。
何の問題もないとする人がいるのはわかっている。
そんなこと、わざわざ書くことか、と言われるであろうこともわかっている。

それでも、何かひっかかるものを感じている。
私だけなのか。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: 戻っていく感覚

好きな音、好きだった音(その8)

その黒田先生が書かれていた表現を、正確に思い出せずにいた。
その黒田先生の表現は、別項「スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ」にも関係してくる。

気合いいれて一冊一冊、一ページ一ページ開いていけば必ず見つかるのだが、
そうそういつも気合いがみなぎっているわけではない。

結局、自分で見つけるしかないわけで、重い腰をあげる。
ステレオサウンド 25号(1972年12月発売)に、それはあった。

音楽欄のところにあった。
グレン・グールドのモーツァルトピアノソナタ集についての文章だった。
     *
 今は、ちがう。誰よりも正しくこの演奏をうけとめているなどとはいわぬが、ぼくは今、この演奏に夢中だ。たとえばイ短調のアレグロは、どうにでもなれとでもいいたげなスピードでひきながら、いいたいことをすべていいつくし、しなければならないことはなにひとつしのこしていない。狂気をよそおった尋常ならざる冷静さというべきか──いや、そのいい方、少し悪意がある、こういいなおそう──狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ、と。
     *
《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》
これを思い出そうとしていた。

だからこそ、あの時代の音は、あれほどスリリングだったのか。