Archive for category テーマ

Date: 10月 13th, 2019
Cate: 「ネットワーク」

人工知能的な存在を感じた出来事(その1)

現在の人工知能と呼ばれているものの実態は、
ディープラーニングだ、といわれている。
処理速度が劇的に向上したからこそのディープラーニングである、とも。

そうなのだろう、となんとなく理解していても、
人工知能と呼びたくなるような機能が、すでにあるような気もしている。

別項「ダイレクトドライヴへの疑問(その34)」で、こんなことを書いている。
     *
ヤフオク!は、「お探しの商品からのおすすめ」をしてくれる。
PL30Lや50Lを眺めていたときに、そこにテクニクスのSL01が表示された。

SL01を検索してもいないのに、それまでの履歴からSL01を表示する。
なんなんだろう、この機能は? と感心するとともに、
少しばかり空恐ろしくなるところでもある。
     *
この時は、パイオニアにしてもテクニクスにしても、
どちらも近い時期に発売されていたダイレクトドライヴ型のアナログプレーヤーである。
価格的にも近い。

なので「お探しの商品からのおすすめ」として、SL01が表示されるのは、
わからないわけではない。
それでも驚いたし、感心もした。

9月、iPhoneにインストールしているヤフオク!を眺めていたら、
「お探しの商品からのおすすめ」に、あるアナログプレーヤーが表示された。

イギリスの、とても古いモデルである。
例えば私が、ガラードのプレーヤーをヤフオク!で検索していたら、
このプレーヤーが表示されても、不思議ではない。

パイオニアのプレーヤーを検索していて、
テクニクスが「お探しの商品からのおすすめ」として表示されるのと同じであろうから。

けれど、私がヤフオク!で、
ここ数ヵ月検索していたのは、
ステレオサウンド 56号での瀬川先生の組合せに関係してくるものばかりである。

なのに、ヤフオク!は、
そのイギリス製のプレーヤーを「お探しの商品からのおすすめ」と表示してきた。

Date: 10月 13th, 2019
Cate: 夢物語

20代のころの夢もしくは妄想(その3)

三度目のデッカ・デコラの音だった。
三度目にして、ほんとうにじっくりと聴くことがかなった。

そしてグラシェラ・スサーナを聴くことができた。

デコラを手に入れて十数年、
一度もクラシック以外のレコードはかけたことがない──、
そのデコラの鳴らし手(使い手)は、そういわれた。

なのに、そのデコラでグラシェラ・スサーナをかけてもらった。
ずうずうしい、あつかましい、
そんなふうに思われようと、
一度でいいからデコラで、グラシェラ・スサーナの、
それもタンゴやフォルクローレといったスペイン語による歌ではなく、
日本語の歌、いわゆる昭和の歌謡曲を聴かせてもらった。

この機会を逃せば、二度とデコラでグラシェラ・スサーナの歌を聴くことはない、と思っていた。
だから(その2)を書いて公開した。
読んでくださっていることがわかっているから書いた。

おかげで聴くことができた。
いろいろおもうことがあった。

Date: 10月 13th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その1)

完璧な音とは?
どういう音なのだろうか、ふと考える。

美しい音が完璧な音とイコールとはいえない。
いい音イコール完璧な音なのか、といえば、これも違う。

プログラムソースに収録されている音そのままを再現できれば、
そこに歪もノイズも加わることなく、
何らかの情報欠落もなく、何かが加えられることなく音が、
聴き手の耳まで到達できれば、それが完璧な音なのか。

完璧な音ではなく、完璧な文章だったら、どうだろか。
どんな文章が完璧な文章なのか。

完璧と評されている文章はあるのだろうか。
プロの書き手は、完璧な文章を目指しているのだろうか。

そんなことを考えていた。

素晴らしい文章といわれても、読み手によって受け止め方が違う。
どうしてこんな読み方をするのだろうか、といいたくなる読み方をする人もいる。
どんな文章であれ、曲解されるもの、といっていいだろう。

どれだけ優れた文章であっても、わずかな人が曲解すれば、
それはもう完璧な文章とはいえないのではないか──、
こんなふうに考えてみた。

だとすれば、どんな読み手であっても、
そこに書かれたことを曲解せずに、正しく受け止めることができる文章こそが、
完璧な文章となるのか。

そうだとすれば、完璧な音も、そういう音ということになるのか。

Date: 10月 13th, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(本音を失っているのか・その4)

(その3)で書いている本音とは、
いうまでもなくオーディオに対する本音であって、
オーディオ業界で稼ぎたい──、
というオーディオ評論家(商売屋)の本音ではない。

こんなこと書くまでもないことだと思いながらも、
ずいぶん世の中(オーディオの世界)も変ってきてしまったから、
念のため書いておく。

保身的なオーディオ評論家(商売屋)は反論するかもしれない。
オレだって、オーディオに対する本音は忘れていない、と。

でもそれはほんとうの本音なのだろうか、
いつしか偽りの本音に変り果ててしまっているのかもしれない。

誰が保身的なオーディオ評論家(商売屋)とは書かない。
それに一人とは限らない。

それに、こんな反論もある(実際にあった)。
家族がいる、家庭がある、養っていかなければならない──、と。

そういった時点で、オーディオ評論家(商売屋)と認めているということに気づいていない。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(こんなこともあった、という話・その2)

五年ほど前だったか、
偽ハイレゾ、ニセレゾということがインターネットで話題になっていた。

44.1kHz、16ビットで録音されたデータを、
ソフトウェアでアップサンプリングし、ビット拡張した音源を指してのものだった。

そういう擬装ハイレゾを、ハイレゾ音源としていた。
さすがに、いまではこんなことはどこもやらない、と思っていた。

ところが、どうもそうではないようだ。

これまで圧縮音源のみを提供していたところが、
ハイレゾ音源提供を、急にやりはじめた。
あえて、どこなのかは書かないが、よく知られているところである。

有名なところだけに、擬装ハイレゾなんてやらない、と信じていた。
ところが、ある人から聞いた話では、
mp3音源をアップサンプリングしビット拡張して、ハイレゾ音源としている、とのこと。

44.1kHz、16ビットの音源を元にした擬装ハイレゾではなく、
mp3を音源とした擬装ハイレゾだから、驚くしかない。

そこに音源を提供していた人が、今回の話をしてくれた人の知人である。
だから、いいかげんな情報ではない。

ただし、音源を提供している人と、そこのサイトの間には、
いわゆる問屋的な存在の会社が介在している。

この問屋的な会社が、mp3音源を擬装ハイレゾに加工して、
そこの有名・大型サイトに提供したのか、
それとも大型・有名サイトが擬装ハイレゾに加工したのか、
どちらなのかは現時点でははっきりしないが、どうも前者のようである。

今回のことは、こんなこともあった、という話ではなく、
いまもこんなことがある、という話だ。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その2)

昨晩は神楽坂にいた。
飯田橋駅から目的の店に向う途中、
時間の余裕があったので、書店に寄ろうとした。

(その1)で書いているように、
近所の書店が、今月号から無線と実験を置かなくなったからである。

飯田橋駅近くの書店はすでに廃業していた。
神楽坂に向って歩いて行き、個人経営の書店が見つかった。

オーディオ関係の雑誌はいくつかあったが、
無線と実験は、ここでも置かれてなかった。

無線と実験と同じ毎月10日発売のトランジスタ技術も、その書店にはなかった。
技術系の雑誌は扱わない書店なのだろうか。

初めて入った書店なので、そのへんのことはなんともいえない。
でも、無線と実験の11月号は、まだ見ることができないでいる。

大きな書店に行けばある。
それはわかっている。

でも小さな書店に置かれなくなる。
無線と実験以外のオーディオ雑誌は置いてあるからいいじゃないか、となるのか。

もうラジオ技術も一般の書店では扱わなくなってけっこう経つ。
そして無線と実験も、扱わなくなる書店が増えてきそうな感じである。

技術系というか自作系のオーディオ雑誌が、
大型書店以外では見つけることが大変になる時期が、意外にも早く訪れるのかもしれない。

これは憂慮すべきことだ、と思っている。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(再読したい)

(その18)まで書いてきて、
ここで再読してほしい、と思うのが、
瀬川先生がステレオサウンド 5号、
「スピーカーシステムの選び方 まとめ方」の冒頭に書かれていることだ。
     *
 N−氏の広壮なリスニングルームでの体験からお話しよう。
 その日わたくしたちは、ボザークB−4000“Symphony No.1”をマルチアンプでドライブしているN氏の装置を囲んで、位相を変えたりレベル合わせをし直したり、カートリッジを交換したりして、他愛のない議論に興じていた。そのうち、誰かが、ボザークの中音だけをフルレンジで鳴らしてみないかと発案した。ご承知かもしれないが、“Symphony No.1”の中音というのはB−800という8インチ(20センチ型)のシングルコーン・スピーカーで、元来はフル・レインジ用として設計されたユニットである。
 その音が鳴ったとき、わたくしは思わずあっと息を飲んだ。突然、リスニングルームの中から一切の雑音が消えてしまったかのように、それは実にひっそりと控えめで、しかし充足した響きであった。まるで部屋の空気が一変したような、清々しい音であった。わたくしたちは一瞬驚いて顔を見合わせ、そこではじめて、音の悪夢から目ざめたように、ローラ・ボベスコとジャック・ジャンティのヘンデルのソナタに、しばし聴き入ったのであった。
 考えようによっては、それは、大型のウーファーから再生されながら耳にはそれと感じられないモーターのごく低い回転音やハムの類が、また、トゥイーターから再生されていたスクラッチやテープ・ヒスなどの雑音がそれぞれ消えて、だから静かな音になったのだと、説明がつかないことはないだろう。また、もしも音域のもっと広いオーケストラや現代音楽のレコードをかけたとしたら、シングルコーンでは我慢ができない音だと反論されるかもしれない。しかし、そのときの音は、そんなもっともらしい説明では納得のゆかないほど、清々しく美しかった。
 この美しさはなんだろうとわたくしは考える。2ウェイ、3ウェイとスピーカーシステムの構成を大きくしたとき、なんとなく騒々しい感じがつきまとう気がするのは、レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか。シングルコーン一発のあの音が、初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音が、音楽がありありとそこにあるという実在感のようなものがなぜ多くの大型スピーカーシステムからは消えてしまうのだろうか。あの素朴さをなんとか損わずに、音のレンジやスケールを拡大できないものだろうか……。これが、いまのわたくしの大型スピーカーに対する基本的な姿勢である。
     *
ボザークの8インチ口径のフルレンジ一発が、
瀬川先生に提示した音の世界こそ、
シングルボイスコイルのフルレンジユニットの、昔から変らぬ魅力である。

《音の悪夢から目ざめたよう》、
《清々しく美しかった》、
《初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音》、
《音楽がありありとそこにあるという実在感のようなもの》、
素晴らしい、というより、大事なことではないか。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(本音を失っているのか・その3)

数人で会って話していて、
オーディオ評論家のことが話題になった。

○○さんは、保守的だよね、ということを一人が言った。
そういうふうに見られてもしかたない、と思いつつも、
○○さんは、本当に保守的なのか、とも思った。

保守的とは、使っているスピーカーやアンプなどのオーディオ機器が──、
ということではなく、書いていることについて、である。

表面的に新しいことう書いているように見せていても、
実のところは……、という意味での保守的な書き手ということである。

私の見方はちょっと違う。
○○さんは、保守的というよりも保身的である。

○○さんがそうなっていったのは、
処世のための狡智ばかりにとらわれて、
本音を失ってしまったからだろう。

現在のオーディオ業界で、
オーディオ評論家(職能家)としてではなく、
オーディオ評論家(商売屋)として、しっかりと稼いでいくには、
本音など不要、むしろ邪魔、そのくらいのほうがよいのだろう……。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その9)

「五味オーディオ教室」との出逢いのあと、
ステレオサウンドの存在を知ることになる。
そして、いくつものオーディオ雑誌を読むようになって、
中学の理科の先生になるっていいなぁ、と思っていたのが、
オーディオの世界に入りたい、と変化していった。

中学のころ、成績は良かった方だった。
高校も一年まではそうだった。
でも、それからはオーディオにめり込み過ぎて、どんどん落ちていった。

教科書を持っていくのを忘れても、
カバンにはステレオサウンドが入っていたくらいなのだから、そうなるのは当然である。

高校三年の時、担任の先生から職員室に呼ばれた。
ほかの生徒には見せないのだけど、とことわって、
知能テストの結果を見せてくれた。

けっこう上位だった。
なのに、なぜしっかりと勉強しないのか、と説教された。

それでもオーディオにのめり込んでいった。
オーディオの世界で仕事をしたい、と思うようになっていたけれど、
だからといって具体的にどんなことがしたいのかが決めていたわけでもなかった。

ただただ漠然とオーディオの世界に進みたい──、
それだけだった。

M君やT君だったら、
オーディオの世界に──、ということでも、
きっと具体的な目標を見つけ、そこへの計画を立てて向っていったことだろう。

私は違っていた。
具体的な目標はなく、ただひたすらオーディオに詳しくなりたい、
誰よりも詳しくなりたい、それだけが、そのころの目標だった。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(本音を失っているのか・その2)

本音こそ熱を帯びている、
そう思っている。

だから本音を失ってしまった書き手による文章を読んでも、
読み手の気持が熱くなることはない──、
そんな気がする。

だからなのか、最近のオーディオ評論といわれる文章を、
一度読めば、もう読み返すことがなくなってしまった。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: イコライザー

トーンコントロール(その13)

メリディアンのULTRA DAC、218のトーンコントロールと同じカーヴを、
従来のアナログ回路で再現しようとした場合、
複雑な構成になるのかもしれない、となんとなく感じている。

メリディアンのトーンコントロールのカーヴがどういう特性なのか、
測定データを見て確認しているわけでもないし、
どんなことをやっているのかも、まったくとまで、とはいわないが、
知らない、といっていいレベルでしかない。

ただ、そう感じているだけ、である。
アナログ回路で、同じカーヴのトーンコントロールを、
それでも試してみたい、という気持が芽ばえている。

おそらくうまくいかないだろう、と予想している。
カーヴだけは近似のものがつくれても、位相に関する特性は、
DSPを使ったメリディアンのトーンコントロールの特性とは、
大きく違う結果になるはずだからだ。

四十年以上オーディオをやってきている者が、
いまになってトーンコントロールに夢中になっている。

メリディアンのD/Aコンバーターに搭載されているトーンコントロールに夢中になっている。

傍からみれば、オーディオの初心者じゃあるまいし、といわれることだろう。
夢中になっているのは、実際に自分で218のトーンコントロールに触れ、
その音、その効能性を実感しているからである。

218を、D/Aコンバーターとしてオーディオ店で試聴したことのある人はいよう。
オーディオ店での218は、トーンコントロールをどうしているのだろうか。

とにかくメリディアンのトーンコントロールについては、
触ってみて、つまり自身でいじってみて、その音を聴いてほしい、と思う。

その経験がある人は、私が、トーンコントロールについて、
これだけ書いていることに納得されるはずだ。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その25)

一年前に(その19)を書いている。

同じメンツで、昨晩(11日)、神楽坂で会って飲んでいた。
一年前のことを憶えていて、この日にしたわけではなかった。
たまたま、この日になっただけである。

一年前、よく一緒に飲んでいる三人に、新しい人が加わり四人になった。
この四人に、さらに何人かが加わっての飲み会はあったし、
四人のなかの誰かとの飲み会も何度かあった。

この四人だけの飲み会は、一年ぶり二回目だった。
楽しい三時間半だった。

本音からの会話であったからだ。

Date: 10月 12th, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(本音を失っているのか・その1)

「五味オーディオ教室」に、こう書いてあった。
     *
 これを褒めておかねばメーカーが、あるいはだれそれがうるさい、などという処世のための狡智が加わることもあろう。それもまたおもしろいし、処世の知恵のともなわぬ批評があると思うほうがどうかしている。
     *
これを13歳のときに読んでいる。
これを読んでしばらくして、ステレオサウンドというオーディオ雑誌と出逢った。

ゆえに、ステレオサウンドをドキドキしながら読んでいても、
五味先生が書かれていたことは、頭の片隅のどこかに、常にあった。

処世の知恵のともなってこその批評といえば、そうなのだろう。
そのバランス感覚にたけていてこそのオーディオ評論のはず。

けれど、いつしか処世の知恵ばかりが肥大してきているようなところもある。
それが、いまのオーディオ評論と呼ばれているものだ。
それにともない書いている人の本音が隠れつつある。

それでも、まだ本音が書いている人にあるうちによかった、といえる。
処世の知恵(というより狡智)ばかりになってしまい、
本音を書かなくなった、が、本音を書けなくなった、に変ってしまい、
ついには本音を失ってしまった、となってしまったのではないか。

毎日書いているからこそ、
オーディオ雑誌を読むと、そんなことを感じてしまう。

Date: 10月 11th, 2019
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その1)

オーディオのムックが書店に並んでいたり、
オーディオ雑誌ではない一般誌が、オーディオを特集していたりすると、
ここで取り上げている。

書店に行くと、オーディオはブームなのだろうか、と思うこともあれば、
反対のことを感じてたりもする。

昨日、つまり10日に、近所の書店に寄った。
ここは、無線と実験を置いている書店である。

最近、ここの書店を少しばかり模様替えを行っている。
音楽、オーディオ関係のコーナーは、以前と同じところにある。

なのに、毎月発売日にあるはずの無線と実験がない。
何人かの人が買ってしまい売り切れてしまった、とは見えない。
売り切れているのならば、無線と実験が置かれていたであろうスペースが空いているだろうから。

ということは、この書店も無線と実験を取り扱わなくなったのか。
ここよりももっと駅に近い書店(数年前に開店)では、無線と実験は取り扱っていない。

駅の反対側にある書店にはまだ行ってないが、どうなのだろうか。
売行きのよくない雑誌は、棚から消えていくことになる。

昔からわかっていることである。
その書店でも無線と実験の売行きがよくないことは、通っていればわかる。

いつかは扱われなくなる、とわかっていても、
その日が突然に訪れると、オーディオはブームなんかではない、と思うことになる。

音楽・オーディオの雑誌の向う側には、女性雑誌のコーナーがある。
ふと見たら、同じ表紙の雑誌のサイズ違いが平積みされていた。

判型の小さなほうには、トラベルサイズと英語で表記してある。
同じ内容の女性誌がサイズ違いで出版されている。

女性誌の多くは判型が大きく、旅行に持っていくには邪魔になりやすいのか。
トラベルサイズの方は、確かに旅行に持っていくにはちょうどいい大きさ。

売れているからこそ、こういうことができる。
置かれなくなった雑誌もあれば、こういう雑誌もある。

Date: 10月 10th, 2019
Cate: 夢物語

20代のころの夢もしくは妄想(その2)

デッカのデコラを初めて聴いたのは、ハタチごろだった。
ちょうどモーツァルトがかかっていた、と記憶している。

この音が欲しい、と思った。
デコラを欲しい、と思っていたのは確かだが、
それ以上に、この音が欲しい、と思っていた。

二度目のデコラは、何年後だったか。
はっきりとは記憶していない。
この時も、やはり、というか、なぜだか、というべきか、
モーツァルトがかかっていた。

デコラのことは、五味先生の文章によって知った。
そのこともあって、デコラで聴くのはクラシックだ、と、
若いころは、そんなふうに思い込もう、としていた。

ハタチのころ、デコラは私にとって夢だったのか──、
とふり返るようになった。

デコラの音は、デコラでしか聴けない。
ならばデコラが欲しい、ということになるわけで、
デコラを手に入れるのは夢であったような気もする。

そんな曖昧な書き方をするのは、
やっぱりデコラの音が欲しい(聴きたい)のか、と自問自答しているからだ。

デコラをはじめて聴いて三十年以上が経った。
モーツァルトを聴くのもいい、バッハもいいし、
どうしてもデコラではクラシックとなるだろう、と思いつつも、
もう五十を超えて六十の方が近くなっていると、
見栄とか若さ故のつっぱりとかはもうなくて、
デコラでグラシェラ・スサーナがどんなふうに鳴ってくれるのか、
一度でいいから聴きたい、と思うように変ってきている。