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Date: 9月 11th, 2019
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その39)

(その38)へのコメントが、facebookであった。

いま国産のスピーカーの代表といえるTADだが、とても攻撃的ではないか、
そう書いてあった。

ここでのTADが、現行製品のすべてを指しているのか、
それともTADのスピーカーシステムのひとつ、もしくはいくつかなのかははっきりしないし、
過去のTADのスピーカーも含めてのことなのか、そのへんははっきりとしない。

現行製品のTADのスピーカーシステムの音が攻撃的とは感じていないが、
そう感じる人がいても不思議ではない、とも思っている。

コメントをくださった方は、これまでにも何度かコメントをくださっていて、
ブリティッシュサウンドに魅了されている方のようである。

ここでのブリティッシュサウンドも、いま現在のそれではなく、
セレッションのDitton 25を気に入られていることからもわかるように、
佳き時代のブリティッシュサウンドのはずだ。

そういう方からすれば、TADは攻撃的と感じられるかもしれない、と思いつつも、
TADの小型スピーカーTAD-ME1を聴かれているのだろうか、とも思う。

オーディオショウで鳴っていたTAD-ME1を聴いて、意外だった。
これまでのTADのスピーカーの音を、どうしても先入観としてもってしまう。

そういう耳で聴いてもなお、TAD-ME1の音は、こちらを驚かせた。
TADも、ついに、こういう音を鳴らせるようになったのか、
そんなおもいだけでなく、この音ならば、ずっと聴いていたい、とも思っていた。

TAD-ME1には、それまでのTADのスピーカーの音にはなかった響きが感じられた。
響きと表現してしまうと、勘違いする人もいると思う。

スピーカーの付帯音を響きと解釈する人は、そう受けとってしまうことだろう。

それに音場感をきちんと出せれば……、という人もいるだろう。
けれど、音場感を出していても、そこに響きを感じられるかどうかは、
また別の問題であり、
ここのところは、クラシックをずっと聴いてきた聴き手ならば、
なんとなくではあっても理解してくれるだろうが、
そうでない聴き手にとっては、なかなか理解し難いことなのかもしれない。

それでも、やはりオーディオショウで初めてTAD-ME1を聴いた友人たちも、
数人だけではあるが、みな驚いていた。
いいスピーカーだ、と評価していた。

また横路にそれている、と思われるだろうが、
この「響き」をうまく出せるかどうかは、これから書いていくことに深く関係してくる。

Date: 9月 10th, 2019
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その38)

その37)で、四つのマトリクスがある、と書いた。
アクティヴな聴き手がパッシヴなスピーカーを選択、
アクティヴな聴き手がアクティヴなスピーカーを選択、
パッシヴな聴き手がアクティヴなスピーカーを選択、
パッシヴな聴き手がパッシヴなスピーカーを選択。

この四つのマトリクスが考えられる。

アクティヴに似た言葉にアグレッシヴがある。

ステレオサウンド 36号に瀬川先生の「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」が載っている。
     *
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞれに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、〝ハイファイ・トレイド・ニュウズ〟の副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音を〝ノーマル〟と感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
     *
ステレオサウンドが出しているムック「良い音とは 良いスピーカーとは?」にも収められている。
興味をもった方は、ぜひ全文を読んでほしい。

36号は1975年秋号である。
40年以上前のことである。

アグレッシヴな音だったのは、そのころの日本のスピーカーだろう──、
そう思う人もいよう。
けれどその約十年後の1980年代の598のスピーカーの音も、
よほどうまく鳴らさない限りアグレッシヴであった。

そのアグレッシヴな音を、高解像度だとかハイスピードだとか、
そんなふうに勘違いしている人もいるようだが……。

Date: 9月 9th, 2019
Cate: デザイン, 世代

世代とオーディオ(とデザイン)

ソニーがIFA2019で、SA-Z1を発表している。
ニアフィールド用のアクティヴ型スピーカーシステムである。

どういう製品なのかは、PHILE WEBAV Watchの記事をお読みいただきたい。

面白そうだな、と思うと同時に、なぜ? とも思っていた。
SA-Z1の写真を見ていると、どうにもブラウン管型のテレビを連想してしまう。

写真のアングルにもよるが、ブラウン管型のテレビ、
それも後側から眺めているような形が、なぜ? につながってしまう。

もう勝手な想像でしかないのだが、
SA-Z1をデザインした人は、テレビといえば液晶の薄型しか知らない世代なのか、と思う。
だから、こういう形にしても、なんとも思わないのか。

それとも、まったく逆なのか。
SA-Z1のデザイナーは、私と同じくらいの世代なのだろうか。
テレビといえば、ブラウン管型。
そういう人が、あえて、こういう形に仕上げたのか。

発売は2020年春(欧州において)。
それまでにデザインは変更されるのか、このまま登場するのか(その可能性は高い)。

Date: 9月 9th, 2019
Cate: ロマン

MOMENTと昭和男のロマンか(その2)

手塚治虫のブラックジャックは、掲載誌・少年チャンピオンを毎号買って読んでいた。

1973年からの連載開始だから、10歳の時から読んでいる。
二週にわたっての回もあったが、
ほとんどが一話完結であり、掲載誌が少年誌ということもあって、
10歳の小学生が読んでも面白かった。

少年チャンピオンで読み、単行本も買っては、また読んでいた。
何度も読み返した。
なので、ほとんどの話は、冒頭の二、三ページ読めば、思い出せる。
どういう最後なのかも思い出せる。

ブラック・ジャックは、成人してからも何度か読んでいる。
一年ほど前にも読み返している。

これだけ何度も読んでいるのだから、もう感動することはない──、
そんなことはまったくなく、むしろ逆である。

小学生のころは、さらっと読んだだけでわかったつもりになっていた。
十分楽しんだつもりでいた。

けれど、いま読み返すと、小学生のころ、さほど感動しなかった話が、
重みをまして、読み手のこちらに迫ってくる。

子供向けのマンガだから──、という手抜きはない。
それでもブラック・ジャックは、いまどきのマンガと比較すると、
一見、絵も話も単純なようにみえなくもない。
細部にこだわりぬいたマンガではない。

いまどきのマンガになれてしまった読み手には、どことなくものたりないのかもしれないが、
そうみえるだけである。

大人になって、いい歳になって……、といわれるような年齢になっても読み返している。
ブラック・ジャックに感じているのと同じものを、
9月のaudio wednesdayは感じていた。

Date: 9月 8th, 2019
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その9)

別項「ある写真とおもったこと(その12)」で、
録音された音楽の共通体験ということでは、
CD、CDプレーヤー以上に、一歩も二歩も押し進め、活かしたのがiPodだ、と書いた。

iPodといっても、かなり世代を重ねているし、ヴァリエーションもある。
それに、いまではiPodではなくiPhoneにとって代られている。

iPodといっても,そこに音の違いがまったくないわけではないし、
付属のイヤフォンにしても変ってきているし、
同時代のイヤフォンにしても、製造工場が複数あって、
音が同じというわけではない、というウワサもきいている。

CDをリッピングしてiPodで聴く。
すべてが同じ音で鳴っているわけではないが、
それでもアナログディスクをアナログプレーヤーで再生した音の違いの大きさからすれば、
ほとんどないものということだってできる。

つまりiPodは、CDとCDプレーヤーの登場によってスペックの画一化されたのを、
音のうえでも画一化していった、といえる。

CDプレーヤーは、スペックは基本的に同じでも、
ローコストの製品と最高性能をめざした製品とでは、音は大きく違う。

しかもCDプレーヤーの先には、アンプがあり、スピーカーがあり、
部屋の違い、鳴らし手の違いなどがあり、実際に鳴ってくる音は、
元のスペックが同じとは思えぬほどの違いを聴かせるのも事実である。

iPodは、そこが違う。
それを意図していたのかそうでないのかはわからないが、結果としてそう見える。
しかもiPodと付属のイヤフォンの普及は、
CDとCDプレーヤーが成し遂げられなかった(あえてこう書いている)領域で、
画一化といえるほどの音楽の共通体験を、ほぼ実現している。

このことは、ものすごいことであり、
だからこそ、その画一化(抑圧)から逃れたい、と思う(願う)人が出てくる。

いまのヘッドフォン、イヤフォンのブームの根っこは、
そのへんにあるようにも感じている。

Date: 9月 7th, 2019
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その8)

1982年に登場したCDとCDプレーヤーの登場は、
現象として捉えてみると、オーディオに画一化をもたらした、といえるのではないか。

CDの規格は、サンプリング周波数が44.1kHzで、量子化数は16ビットである。
一体型のプレーヤーであっても、セパレート型のプレーヤーであっても、
この点はまったく同じである。

さらには一万円程度で買えるローコストのCDプレーヤーであっても、
百万円、さらにもっと上の価格帯のCDプレーヤーであっても、
そのスペックはCDの規格によって制約されているから、
基本性能としては、同じといえる。

さらには再生の、この規格は、
録音側のスペックにもなっていった。

CD登場以前の、レコード会社はそれぞれにデジタル録音を研究・実験、
実用化に向けていた。

サンプリング周波数もまちまちだった。
16ビットもあれば14ビットもあった。

それがCD登場により、44.1kHz、16ビットに統一されてしまった。

CDというフォーマットの登場は、画一化である。

画一化には、抑圧という側面もある。
規格というものは、すべてそうなのかもしれないが、
それでもアナログ時代の規格と、デジタル時代の規格とでは、
画一という点では、ずいぶん違う。

画一化は浸透した。
浸透したからこそ、それを抑圧と感じる人が出ていた、とは考えられないだろうか。

アナログディスクのブーム、さらにはカセットテープのブーム、
そういったことを何かで目にする度に、
ブームの理由は一つではないはずだが、
それでも抑圧からの逸脱行為として、アナログディスクの選択、
カセットテープの選択があるようにも思うのだ。

Date: 9月 7th, 2019
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その7)

コントロールアンプにはバラストの役割がある、と(その6)で書いた。
つまりコントロールアンプは、秩序の象徴である。

「プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン」で、
コントロールアンプとプリメインアンプのデザインの違い、
それも本質なところでの違いはなんなのかについて考えている。

まだまだ考えていかなければならない、と思っているが、
コントロールアンプは秩序の象徴である、
これはいまのところの一つの結論である。

秩序の象徴であるコントロールアンプを、
CDとCDプレーヤーの登場によって、一部ではコントロールアンプ不要論が起ってきた。

一つの試みとして、コントロールアンプを省いて、
パッシヴ型のフェーダーを使うというのは理解できる。

パッシヴ型フェーダーを試して、どう思ったのか、どう考えたのか。
コントロールアンプはもう要らない、となったのかと、
やはりコントロールアンプは必要、となったのか。

どちらが正しいというよりも、
そこでコントロールアンプの役割を、どれだけ理解したか、ではないのか。

と同時に、CDプレーヤーの定格出力が2Vと高くなければ、
コントロールアンプ不要論は出てこなかったのか、についても考えてみる必要はある。

Date: 9月 6th, 2019
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その7)

9月4日のaudio wednesdayは、あるところをそれまでとは違うセッティングにしていた。
以前書いているように、スピーカーの位置は、ほぼ毎回少しずつ変えていっている。

1cmとか5mmぐらいの変化量だから、見て気づく人はまずいない。
今回変更したのは別のところであり、毎回来ている人で、
セッティングに注意している人ならば、わりとすぐ気づくくらいに、
今回は大きく変更していた。

今回参加した人の一人が、「○○のところ、変えました?」と訊いてきた。
その部分はまったく変更していない。
前回と同じだし、前々回とも同じである。

変えていないのだから、違う、と答えた。
それ以上、訊いてこなかったので、何もいわなかった。

でも、変更箇所は○○じゃなくて、もっと手前の箇所で、
もっと大きくてわかりやすいところなのに……、
そんなことを心でつぶやいていた。

前回とのセッティングの違いを、中心視野という捉え方で、
しかも記憶と目の前のセッティングの違いを比較して違いを見つけるのは、
このような見当違いなところを指摘することになるように、私は思っている。

周辺視野での捉え方で、
これまでのセッティングを見てきているのであれば、
スピーカーの位置のわずかな変化は気づかなくとも、
今回のはっきりとした変化には、きちんと反応できるのではないのか。

なんとなく、いつものセッティングと違う……、
まず、そう感じてほしい、と思って、私はaudio wednesdayを続けている。

どこか違っているのだろうか。
凝視するように今回のセッティングをみても、人の記憶はあやしいところもあるのだから、
わからないものだろう。

それよりも、なんとなくあのへんあたりかも……、そう感じてくれれば、それでいい。
どう変更したのかまでは気づかなくとも、
あそこが変っている、と気づいてくれれば、
どう変えたのか、なぜ変えたのかを説明する。

人は見たいようにしか、目の前のことを見ないのか、
関心のあるところにしか目が向かないのか、
ここでは周辺視野的聴き方について書いているが、
周辺視野による、目の前のセッティングの捉え方も忘れてほしくない。

Date: 9月 5th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、音の量感のこと(その2)

音の量感という表現は、もうずっと以前から使われてきている。

質と量。
質感と量感。

わかりやすいはずの量に関することであっても、
そこに感がつくと、わかりやすいとはいえなくなっていることに、
どれだけの人が気づいているのか、と疑問に思うことが、むしろ増えてきている。

特に低音の量感とでもいおうものなら、
こちらが意図するのと真逆の印象で受けとられることだってある。

ひどくなると、トーンコントロールで低音をブーストすることイコール低音の量感、
そんなふうに捉えている人すらいる。

ステレオサウンド 55号のプレーヤーの比較試聴記事で、
《中音域から低音にかけて、ふっくらと豊かで、これほど低音の量感というものを確かに聴かせてくれた音は、今回これを除いてほかに一機種もなかった》
と瀬川先生は、EMT 930stについて書かれている。

930stの音を、量感について誤解している人は、ぜひ聴いてほしい──、
と以前は、そう思っていた。

とはいえ、このころでも、930stは、どこかへ行けば、すぐに試聴できるというわけではなかった。
自分で購入するか、友人・知人のオーディオマニアが持っていれば、そこで聴くか、
そのぐらいしか機会はなかった。

それでも930stを、きちんとした状態で聴いてから、音の量感について語ってほしい、
そう思い続けていた。

930stは遠の昔に製造中止になっている。
そうなると、930stを聴いてみてほしい、とは、もういえない。

仮にいまも930stが現行製品だとしても、そうとうに高価だろうし、
そう簡単に聴けるわけではないだろう。

もっと身近で手頃で、しかも、誰が聴いても(鳴らしても)、ほぼ同じに鳴ってくれる──、
この難しい条件を、MQAは満たしている、といえる。

Date: 9月 5th, 2019
Cate: audio wednesday

第105回audio wednesdayのお知らせ(40年前のシステムの鳴らす音)

10月のaudio wednesdayは、先日書いているように、
瀬川先生がステレオサウンド 56号の特集での組合せを実際に鳴らす。

これまで読まれている方にはくり返しになるが、
スピーカーシステムはKEFのModel 303、
プリメインアンプはサンスイのAU-D607、
アナログプレーヤーはテクニクスSL01、カートリッジはデンオンのDL103D。

アナログプレーヤーは、パイオニアのPL30Lだったが、
私の好みで、PL30LではなくSL01をヤフオク!で落札した。

SL01が届いて、サイズを含めたアピアランスの統一感は、
SL01にして良かった、と思っている。

当時の定価で、30万円ほどの組合せである。
このシステムを、ヤフオク!によって、六分の一ほどで、
いまでは手に入れることが可能になっている。

これは、いいことなのか、悪いことなのか。
そのことについては、10月のaudio wednesdayで音を鳴らした後に書いていきたい。

当日は、瀬川先生の組合せにはないが、ヤマハのカセットデッキK1dも予定している。
なので、今回のプログラムソースはアナログディスクとカセットテープ中心となる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 9月 4th, 2019
Cate: ロマン

MOMENTと昭和男のロマンか(その1)

これまで電車の中、公園だったり、友人の仕事場、
それから忘年会の途中など、日付が変るまでブログを書けない時は、
とにかく書けるところで書いてきた。

今日は、audio wednesdayの途中で書いている。
昼間、書く時間がとれなかったために、
それにどうやっても日付が変る前には帰りつかないのは確実なため。

今日のaudio wednesdayのテーマは、ここでのタイトルそのままである。
こういうテーマだから、テーマにそうCDを持ってこられる方は、もしかするとゼロかもしれない……、
そんなことも、少しは心配していた。

今回、二回目のIさんが、ぴったりのCDを三枚、
常連のHさんが一枚、持ってこられた。

その中の一枚、
「山下毅雄を斬る~大友良英プレイズ・ミュージック・オブ・山下毅雄」、
このディスクに収められている音楽と、
ジャケットのギャップが、すごいというか、楽しい。

どんなジャケットなのかは、Googleででも検索してほしい。
このCDを、オーディオショウに持参して、どこかのブースで、かけてください、と手渡したら、
怪訝な顔をされるかもしれない。

それでも、このディスクに収められている音楽は、
昭和男なら、必ず楽しめるはずだし、
そうでなくとも音楽に妙な偏見を持っていない聴き手であれば、
昭和男のバックグラウンドを持たずとも楽しめる。

ジャケットだけで判断して、関心すら持たないというのが、
音楽の聴き手としては、絶対にやってはいけない行為だ。

今回集まったCD(音楽)をまとめて聴いて、あらためて感じたのは、
昭和の、この種の音楽のストレートであること、
多彩で贅沢であること、
これらの音楽をテレビについていた小さなスピーカーで、昭和男は聴いてきた、ということである。

Date: 9月 2nd, 2019
Cate: audio wednesday

第104回audio wednesdayのお知らせ(MOMENTと昭和男のロマンか)

野球は、どちらかといえば嫌いだ。
はっきりとした理由はないけれど、
たぶんの小さかったころ、野球中継で、
見たい番組が流れてしまうことがたびたびあったからかもしれない。

私が小さかったころ、熊本には民放テレビ局は一局しかなかった。
東京のように、民放がいくつも見られるような環境だと、そうはなからなかったのかもしれないが、
当時の熊本は、野球中継の所為で……、と思うことがよくあった。

そんなこともあってか、「巨人の星」にはたいして興味がなかった。
まったく見なかったわけではないが、毎週楽しみにしていたわけではなかった。

にもかかわらず「新巨人の星」は、けっこう楽しみにしていた。
エンディングで流れる「よみがえれ飛雄馬」が聴きたかったからなのか。

主題歌の「ゆけゆけ飛雄馬」は、特に聴きたいとは思わない。
「MOMENT」には「よみがえれ飛雄馬」は収録され、「ゆけゆけ飛雄馬」はないのも、
私には好ましく感じられ、これだったら買おう、と思わせる。

「よみがえれ飛雄馬」の歌詞に、《左手折れたら 右手でつかめ》とある。
こんな歌詞は、いまの時代、誰も書かないのではないか。

いい悪いではなく、昭和ど真ん中に「巨人の星」は輝いていて、
その復活劇としての続編「新巨人の星」ゆえの歌詞だとおもう。

《夢にかけた値 真赤なかぎり》とも歌詞にはある。
主人公の星飛雄馬の夢、それは本人の夢だったのか、といえなくもない。

いまの時代に冷静に眺めれば、時代錯誤な歌詞ともいえる。
それでも「よみがえれ飛雄馬」を何年かおきに思い出しては口ずさむ。
そんな私は「よみがえれ飛雄馬」に、なにがしかのロマンを感じているのか。

今月のaudio wednesdayは、個人的にロマンを感じている曲をもちよっての会にしたい。

Date: 9月 2nd, 2019
Cate: audio wednesday

第104回audio wednesdayのお知らせ(MOMENT)

9月のaudio wednesdayは、4日。
今回も一枚のディスクをテーマにしたいと考えている。

今回のディスクは「MOMENT」。
これだけでは、だれのディスクなのか、わからないだろう。
「MOMENT」は三年前に出ている。

出ていたことを先日まで知らなかった。

誰にでもあろうが、ふとしたきっかけ(きっかけは必要ないのかもしれない)で、
昔(子供のころ)にきいていた歌のフレーズが、ふと浮ぶ。

すると、しばらくなにかあるごとに、そのフレーズだったり、
歌詞をどれだけ知っているのかにもよるが、頭から口ずさんでたりする。

人には、そういう曲が何曲かあろう。
私にとって、その中の一曲を、数年ごとにふと思い出しては口ずさむ。

でも口ずさむだけで、CDは持っていなかった。
買おう、とは、不思議といままで思ったことがなかった。

それが急に、きちんと聴きたくなった。
昔、テレビで毎週流れていたのを聴いたきりである。

「MONENT」は、ささきいさおの55周年記念アルバムのタイトルである。

ささきいさおは、以前サウンドボーイで、語っている。
     *
ヤマトに限らず、アニメーションの主題歌ってのは、画面に負けないエネルギーを全部ぶつけるようなパワーがないとだめなんです。〝たいやきくん〟の子門真人にしてもロック調でしょう。歌謡曲の人がやると、メロディーに流れてダメになっちゃうんです。
     *
ここでのアニメーションの主題歌というのは、昭和のアニメーションの主題歌と限定してもいい。
「MOMENT」に収められている曲の多くは、昭和のアニメーションの歌である。

私が口ずさみ、ここにきて聴きたくなったのは「よみがえれ飛雄馬」である。
「新巨人の星」の最後に流れる歌である。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 9月 1st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その2)

ステレオが変ってきた(良くなってきた)ことについては、
前々から書こうと思っていた。

ただ、良くなってきた、と書くだけで終ってしまいそうだったし、
一冊も買わずに、良くなってきた、と書いてもなぁ……、という気持もあった。

今回、こういうタイトルで書こう、と思ったのには、
別のきっかけもある。
昨年のことである。

あるオーディオ関係者からきいた話である。

どの会社なのか、社名を出すべきどうかちょっと迷うところもある。
直接きいたことではない、ということもある。
それでも二人のオーディオ関係者からきいたことなので、事実なのだろう。

あるオーディオ関係の出版社の社長が、
「ステレオサウンドを追い抜いた」といわれた、ということだ。

ここでのステレオサウンドが、季刊誌ステレオサウンドを指しているのか、
それとも株式会社ステレオサウンドのことなのか、
二つまとめてのことなのか、そこははっきりとはしない。

それでも「ステレオサウンドを追い抜いた」という発言は、
オーディオ雑誌のNo.1はわれわれだ、ということだろうし、
オーディオ関係の出版社のNo.1はわれわれだ、ということでもあろうか。

私がオーディオ雑誌を読みはじめた1976年、
オーディオ雑誌のNo.1はステレオサウンドだった。
はっきりと、そのことはいえた。

発行部数がどれだけとか、そういうことではなくて、
オーディオ雑誌のNo.1はステレオサウンドだった。

それはずっと続いていいくものだと思ってもいた。

Date: 9月 1st, 2019
Cate: オーディオ評論

オーディオ雑誌考(その1)

昨日、ひさしぶりにステレオ 9月号を買って読んでいた。
ステレオを買うのは、高校生以来だから、ほぼ40年ぶりである。

もちろんステレオサウンドにいたころは毎号読んでいたし、
いまも、書店で表紙を眺めて、面白そうな企画をやってそうだな、と感じたら、
手にとってパラパラめくることはあった。

買ってもいいかな、と思うことは何度かあった。
そう思うようになってきたのは、ここ数年のことで、
ステレオは一時期よりもずいぶん変ってきた(よくなってきた)ように感じている。

9月号の特集は、江川三郎発見伝である。
この特集を読みたくて、ステレオ 9月号を買った。

ステレオは一年前の8月号の特集で、長岡鉄男氏をとりあげている。
長岡鉄男氏とステレオの発行元である音楽之友社との関係からすれば、
ステレオが長岡鉄男氏の特集をやるのは、すんなりわかるけれど、
今回は江川三郎氏である。

江川三郎氏も、ステレオの筆者の一人だった。
それでも特集で、江川三郎氏ということは、広告にまったく結びつかなくなる。

「江川三郎発見伝」が特集ということで、広告を出したところはないはずだ。
それでもステレオは、「江川三郎発見伝」を特集として、そこそこのページ数を割いている。

同じことは、ステレオ時代がそうだ。
昨年、中島平太郎氏の特集を二号続けてやっている。

この特集にしても、広告にはまったく結びつかない。
それでも二号続けてやっている。

ステレオ 9月号の広告は、
オーディオメーカー、輸入元が14、オーディオ店が2、
これだけである。

広告があまり入っていないから、そういう特集がやれる、
そんなことをいう人がいるのかどうかはわからないが、
広告があまり入っていないからこそ、広告目当ての記事をつくることだって、
十分考えられる。