MQAのこと、James Bongiornoのこと(その1)
ジェームズ・ボンジョルノは2013年に亡くなっているから、
MQAの音は聴いていない。
昨年秋からMQAの音をいろんな機会で聴くたびに、
いい方式が登場してくれた、と思う。
それだけに、ここでMQAやメリディアンのことについて書くことが多くなっている。
書いていて、ふと思った。
ボンジョルノはMQAをどう評価するのだろうか、と。
ジェームズ・ボンジョルノは2013年に亡くなっているから、
MQAの音は聴いていない。
昨年秋からMQAの音をいろんな機会で聴くたびに、
いい方式が登場してくれた、と思う。
それだけに、ここでMQAやメリディアンのことについて書くことが多くなっている。
書いていて、ふと思った。
ボンジョルノはMQAをどう評価するのだろうか、と。
9月12日から二ヵ月。
あの日感じたことで、ひとつ書かなかったことがある。
大きく的外れな解釈のように思えたからだった。
二ヵ月経っても、そう感じている。
WAVELET RESPECTは、一輪挿しである。
WAVELET RESPECTという一輪挿しの「花」は、人である。
OTOTEN、ヘッドフォン祭、インターナショナルオーディオショウ、
これらの催しに行って毎回思うのは、
ネットの記事にしても、オーディオ雑誌の記事にしても、
そこで行われているイベントの内容を伝えていることは、ほとんどない──、
そのことにいつも不満がある。
ここのブースには、こういう製品がありました──、
そんな記事は、インターネットの記事で十分だ、と思う。
むしろオーディオ雑誌は写真の点数も少なかったり、モノクロだったりするのに、
インターネットの記事だとカラーで点数も多かったりする。
それにこういう製品がありました──、
それらの製品は遅かれ早かれ新製品紹介のページに登場してくる。
会場に来られなかった人に向けての記事であってほしい、といつも思う。
来られなかった人は、どういうことう知りたいのか、
そこへの想像力がほとんど感じられない記事ばかり、
毎年、どのオーディオ雑誌でもそうだ。
今回のヘッドフォン祭でいえば、
roonのイベントは、来られなかった人にきちんと伝えたい、と思うだけの内容だった。
とはいえ、計八時間のイベントだっただけに、
すべてを伝えるのは文章だけでは無理なところもある。
会場となったブースにはビデオカメラがあった。
記録しているのはわかっていた。
でも公開してくれるとはまったく思っていなかった。
主催のフジヤエービックのブログに、YouTubeで公開した、とある。
やっとこういうことをやってくれる主催者が現れてくれた。
瀬川先生は、
かなり以前からフルレンジからスタートする4ウェイ構成のシステム構築について、
何度か書かれている。
私が読んだのは、ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 1での記事だった。
当時高校生だった私は、JBLの4343、4350に憧れていた。
とはいえ、手の届く存在ではなかったからこそ、
瀬川先生の4ウェイのスピーカー構築の記事は、嬉しかったし、夢中で読んだ。
4343(正確には4341)を鳴らされている瀬川先生の記事だからこそ、
何度も読み返し、記憶している。
フルレンジからスタートして、トゥイーターをつけて2ウェイ、
その後、ウーファーを足して3ウェイ、
最後にミッドハイを追加しての4ウェイの実現である。
フルレンジからスタートするからこそのフルレンジ。
何を書いているのか、と思われそうだが、
瀬川先生は、その記事で、一度に4ウェイにしてもかまわない、とも書かれていた。
ならばミッドバス帯域を受け持つのはフルレンジでなくとも、
JBLでなら、2121や2202というユニットを使う手もある。
あのころは、この点が、理解に苦しむところだった。
でも、いまなら、やはりフルレンジからのスタートがいい、と結論に達することができる。
(その17)で引用したことである。
フルレンジ一発の音に、いつでも戻せるからだ。
フルレンジ一発の音を、すぐに聴けるからである。
いつでもスタート時の音を再確認できる。
この一年、e-onkyoのサイトを訪れては、
ピーター・ガブリエルを月一回くらい検索していた。
SACDが登場した時、ピーター・ガブリエルはアルバムのすべてをSACDで出した。
e-onkyoでDSD音源で配信されないのか、と期待して、であった。
けれど、ない。
出ない、とは思っていなかった。
いつかは出るんだろうけど、まだなのか、と思っていた。
9月に“Flotsam and Jetsam”が発表になった。
CDも発売になるのか、とあれこれ探しても、非可逆圧縮音源のみの配信しか見当たらなかった。
この件があったから、よけいに期待は遠のいていった。
今日、SNSを眺めていたら、TIDALで、ピーター・ガブリエルのMQAでの配信が始まった、とある。
ということは、e-onkyoでも始まっているはず。
今日の期待は、もう確信である。
始まっていた。
しかもflacだけでなく、MQAでも配信されている。
“Flotsam and Jetsam”もある。
48kHz、24ビットではあるけれど、MQAである。
それに“Passion”もある。
こちらは96kHz、24ビットで、もちろんMQAもある。
“Passion”、いったいどんなふうに鳴ってくれるのだろう。
今年はベルリンの壁が崩壊して30年。
30年前の12月25日に、
バーンスタインがベルリンの壁崩壊を記念しての、ベートーヴェンの第九を振っている。
すぐさまCDになった。
ベルリンの壁のカケラが付属していた限定版も出ていた。
今年9月に、同じジャケットで再発売になった。
CDとDVDがセットになっている。
さらにLPでも発売になっている。
12月4日のaudio wednesdayの最後にかける曲は、
バーンスタインのこの「第九」にしたい。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
今年は、電源コードを自作した。
計七本作った。
気に入って使い続けてくれる人たちがいるから、
自己満足で終っているわけではない。
喫茶茶会記のメリディアンの218にも、私自作の電源コードが使われている。
電源コードとはいえ、自作は面倒と思うところも少しはある。
秋葉原に材料を買いに、何度も行く。
行くのは楽しいから、その都度行くようにしている。
帰宅して、ケーブルの先端を剥いて加工する。
夜、一人でこんなことをやっていると、何が楽しいんだろうか、
という疑問みたいなことも思ったりする。
最初の一本は楽しい。
それは、どういう音がするのかという未知の楽しみがあるからだ。
二本目以降は、基本的にそれはないから、黙々と自作する。
それでも続けているのは、使い続けてくれる人がいるからである。
今年は、菅野先生が亡くなられて一年であり、
黒田先生が亡くなられて十年である。
オーディオ界に、先生と呼べる人がいなくなっての月日がある。
この月日が、これからながくなっていくばかりである。
「明瞭さとは明暗の適当な配置である。」ハーマン。傾聴!
(ハーマンは「北方の魔術師」と言われた思想家。)
ゲーテ格言集に、こう書いてある。
これが真理であるならば、
暗のない明瞭さは存在しないわけで、
いまハイエンドオーディオと呼ばれるスピーカーのなかには、
暗のない世界を進んでいるモノがあるように感じる。
それらのスピーカーは、精度の高い音とか精確な音という評価を得ているようだが、
明瞭な音と、ほんとうに評価できる音なのだろうか。
そして、もうひとつ思うことは、暗のところにこそ、
香り立つ何かがひそんでいるような、ということだ。
(その1)と(その2)で、
カルロ・マリア・ジュリーニの「展覧会の絵」とブラームスの第二交響曲について触れた。
どちらの曲も、アメリカのオーケストラとヨーロッパのオーケストラを指揮した録音がある。
昨晩、別項「素朴な音、素朴な組合せ(その26)」で、
アルカイックスマイルと四六時中口角をあげた表情の意識的につくっている人のことを書いた。
このことも、ここで書いたことに関係してくるように感じてもいる。
口角をつねに上げっ放しの表情こそ、陰翳なき音色といえる。
宿題としての一枚。
気づくといえば、若かった自分からの宿題といえる一枚もあるといえる。
あのころは、あんなふうに鳴らせていたのに……、
なぜか、いまはさほど魅力的に鳴らせないディスクがあるといえばある。
若かった自分からの宿題なのだろう。
(その1)の最後に、
試聴は、為聴なのか、と書いた。
最近では、(しちょう)は思聴でもある、と思うようになってきた。
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲を、
菅野先生からの宿題のような一枚だ、とおもっている。
宿題としての一枚は、これだけではない。
菅野先生からの宿題だけではなく、
瀬川先生からの宿題のように、こちらが勝手に受けとっている一枚もある。
数は多くはない。
愛聴盤とは、少し違う意味あいの、存在の大きなディスクでもある。
宿題としての一枚。
けれど、宿題として出してくれた人たちは、もういない。
宿題としての一枚。
持っているほうが幸せなのか、持っていない方がそうなのか。
宿題としての一枚。
持っていないのか、それともあることに気づいていないだけなのか。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、あまり聴かない。
それでも児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集は、
あと一ヵ月、入荷すれば買うに決っている。
audio wednesdayで、このディスクを鳴らせば、
そこそこの音では鳴ってくれる、と思っている。
聴いている人は、けっこういい音じゃないですか、といってくれるかもしれない。
そうであっても、私の耳に、菅野先生の鳴らされた音がはっきりといまも残っているから、
誰かが褒めてくれたとしても、埋められない何かを、強く感じとってしまうことになるはずだ。
菅野先生のところで聴いていなければ、
このディスクは、優秀録音盤で終っていたであろう。
でも、聴いているのだから、
聴かない(鳴らさない)わけにはいかないディスクでもある。
どこか、このディスクは、菅野先生からの宿題のようにもおもえてくる。
ベストバイという特集記事がある。
私にとって、最初のベストバイは、43号だった。
35号が、ステレオサウンド最初のベストバイの号である。
1975年の夏号だから、49年前のことだ。
ステレオサウンドで働くようになって、
辞めてからもそうなのだが、これまで何人かの方に、
ベストバイって、大変なんでしょうね、そんなことをいわれた。
そんなふうにきいてきた人たち皆、
ベストバイの選考にあたって、
オーディオ評論家は、ベストバイの対象となっているオーディオ機器すべてを、
スピーカーやアンプの総テストと同じように聴き直している、と思っていた。
そう思っている人がいるのか、と逆にこちらが驚いた。
43号を手にしたとき、私は中学三年だった。
43号の前に、42号と41号を読んでいた。
42号はプリメインアンプの総テストであた、
特集の巻頭には、試聴方法のページがあった。
43号のベストバイの特集には、各筆者によるベストバイ定義についての文章はあったが、
試聴方法については、当然ながらなかった。
だからというわけでもないが、ベストバイはあらためて総テストをしているわけではない、
そう理解していた。
総テストや新製品の試聴、メーカーや輸入元での試聴、
自宅の試聴、そういった機会の積み重ねから選んでいる──、
そのころからそう思っていただけに、
ベストバイの選考のために試聴をやっている──、
そう思っている人がいたのは意外でもあった。
けれど、そう訊いてきた人たちの考えていることもわかる。
ケント・ナガノ指揮、児玉麻里のピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を聴いたのは、
2008年のことだった。
別項「ベートーヴェン(その3)」で書いていることのくり返しになるが、
「これ、聴いたことあるか?」と言いながら、菅野先生はCDを手渡された。
ケント・ナガノと児玉麻里……、彼らによるベートーヴェン……、と思った。
菅野先生は、熱い口調で「まさしくベートーヴェンなんだよ」と語られた。
菅野先生の言葉を疑うつもりはまったくなかったけど、
それでも素直には信じてはいなかった。
音が鳴ってきた。
「まさしくベートーヴェン」だった。
一楽章が終る。
いつもなら、そこで終る。
けれど、もっと聴いていたい。
そう思っていた。
ほんとうにすばらしい演奏であり、その演奏にふさわしい音だったのだから。
菅野先生も、この時の音には満足されていたのか、
「続けて聴くか」といわれた。
首肯いた。
最後まで聴いた。
このベートーヴェンが、菅野先生のリスニングルームで聴いた最後のディスクである。