Archive for category テーマ

Date: 6月 13th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その4)

食指が動かない、といってもしようがない。
まず、MQAで聴ける三味線で、しかも独奏のタイトルということで、
一枚購入したのは「はなわちえ 津軽三味線独奏集 Vol.1」である。

flac、WAV、MQAが192kHz、24ビット、
DSFが5.6MHzと11.2MHzが用意されている。

いうまでもなく私が購入したのは、MQAである。
元は11.2MHzのDSD録音とあるから、
そこが、MQAで聴きたい私としては、すこしばかりひっかかるところなのだが、
あまりこまかなことばかりいっていると、どれも買えなくなってしまう。

そうなってしまっては、オーディオマニアゆえの癇癪みたいなものである。

とにかくひさしぶりに聴く三味線である。
自分のシステムで聴いたのは、三十年以上前のことになる。

出している音も変っているので、記憶の上での比較も何にもならない。
はなわちえという人の演奏も初めて聴くわけだから、
とにかく、いまここで鳴っている音だけに耳を傾ける以外にない。

聴いていると、はなわちえの、この三味線をコーネッタで鳴らしたら、とやっぱり思ってしまった。
コーネッタはコーナー型だから、部屋のコーナーにそうやって設置すれば、
試聴位置はかぎられてしまうし、スピーカーに近いところにもなる。

まさに一人で聴くためのかたちになるわけで、
そうやって鳴ってくる三味線(独奏)を、どう感じるのかに興味がわいてくる。

7月1日のaudio wednesdayで、鳴らす。

Date: 6月 11th, 2020
Cate: ディスク/ブック

鉄腕アトム・音の世界(その2)

鉄腕アトム・音の世界」は、5月のaudio wednesdayに持っていくつもりでいた。

でも、誰も来ないだろうことは予想できていたし、
実際に誰も来なかったのだから、持っていかないことを選択した。

6月のaudio wednesdayには持っていくつもりは、最初はなかった。
前の晩に用意していて、ふと「鉄腕アトム・音の世界」が目に留った。

200Vの昇圧トランスが持っていくモノに加わってからは、
CDの枚数は少なくしたい、と思うようになってきた。
それにiPhoneには、MQAのライブラリーが充実してきているから、
CDを持っていかなくても済むといえば、そうなりつつある。

audio wednesdayに来る人の大半は、
私と同世代か上の世代の人たちである。
「鉄腕アトム」のアニメも、きっと見ていた人たちのはずだ。

その人たちがどういう反応をするのかに興味があったし、
5月のaudio wednesdayに持っていこうとしたのは、
音楽ではなく、こういうCDをアルテックはどんなふうに鳴らしてくれるか、
という点に興味があったからだ。

喫茶茶会記のアルテックで聴いてると、私のシステムで聴くよりも楽しい。
音そのものもそうだが、いっしょに聴いている人たちの反応があるから、
よけいに楽しい。

大きな驚きがあった、という感想を伝えてくれた人がいた。
翌日、amazonで注文した、とのことだった。

「鉄腕アトム・音の世界」に収録されている音たちは、
それまで世の中に存在しなかった音である。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

audio wednesdayの場を提供してくれている喫茶茶会記は、
四谷三丁目にあるジャズ喫茶である。

そのジャズ喫茶で、タンノイを鳴らす。
タンノイでジャズ、と書くと、
!か?、もしくは!?がつくだろう。

けれど菅野先生はスイングジャーナルで、
タンノイでジャズを、という組合せをやられていた。

井上先生は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
オートグラフを、マッキントッシュのMC2300とマークレビンソンのLNP2という組合せで、
やはりジャズを鳴らされている。

すごく実体感のある音が鳴ってきた、とあるし、
実際に井上先生に訊いたこともある。

いい音が鳴った、ということだったし、
ウッドベースの音は、ほんとうに気持ちよかった、とのことだった。

なので別項「妄想組合せの楽しみ(番外・その1)」では、
ジャズ喫茶の店主だったら、という妄想を書いている。

ジャズ喫茶の店主だったら、スピーカーを何にするか。
ロックウッドのMajor Geminiにする、と書いている。

タンノイのHPD385Aを二発、
独特のエンクロージュアに搭載したモニタースピーカーである。

コーネッタで、どこまで鳴らすか、は、当日の音を聴いてからだ。
コーネッタが、どこまで鳴ってくれるのか、が、いまのところの最大の関心事の一つである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その3)

シーメンスのコアキシャルで聴いた三味線は、
数枚だったが、すべてアナログディスクだった。

これを書きながら思い出したのは、CDになってから、
自分のシステムでは三味線の録音を聴いていないことだ。

正確にいえば、三味線単独の録音を聴いていない。
余所では数度聴いてはいる。

SACDが登場してからも、三味線の録音を聴きたい、とは思わなかった。
なので、三味線のSACDが出ているのかも知らない。

なのにMQAの音を継続して聴くようになってから、
三味線は、いったいどんなふうになるのだろうか、と思うようになった。

e-onkyoでは、純邦楽ということになる。
邦楽は、歌謡曲やJ-POPのことになっている。

e-onkyoで、純邦楽+MQAで検索すれば、いくつか表示される。
純邦楽のタイトル自体、e-onkyoにはそれほどない。

e-onkyoが特別少ないというのではなく、
レコード店でも扱いは小さい。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」の記事中にもあるが、
1976年当時でも、邦楽のコーナーがないレコード店はあった。

MQAのタイトルは少ないが、
flac、WAVはそこそこある、といえなくもない。
そのなかには聴きたい、と思う録音があるが、
残念なことにMQAにはなっていない。

理由は、純邦楽を録音しているレコード会社が、
MQAに関心がない、というところだろうか。

ハイレゾリューションで三味線を聴きたいのではない。
MQAで聴いてみたいのだ。

そうなると,現在のところのe-onkyoのラインナップは、食指がなかなか動かない。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その23)

黒田先生の「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話がでてくる。
引用するのは、これで四回目になる。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章だ。

レコード会社は、確かに《ディスクという物を売る会社》ではなく、
《音楽を売る会社》である。

レコードが、いまではアナログディスクのことを指し示す言葉として扱われるようになっているが、
レコード(record)は、記録、録音といった意味であるから、
音楽を録音して売る会社が、レコード会社であり、
時代時代によって、SPであったりLPであったり、
CD、SACD、MQA-CDでもあったりする。
それだけでなく、オープンリールテープ、カセットテープなどもあった。

ならばオーディオ会社は、何を売る会社なのだろうか。
スピーカーを売る会社、アンプを売る会社、
アナログプレーヤーを売る会社……、なのだろうか。

スピーカーやアンプを売っていることは確かだ。
それは当時、フィリップスが、LPやカセットテープを売っていたのと同じことだと捉えれば、
オーディオ会社は、音を売る会社ともいえる。

オーディオショウは、ならば、音を売るためのショウとも考えられる。
そうであるならばオーディオショウのあり方は、いまのままでいいのか、とも考えなければならない。

Date: 6月 8th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その2)

「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
上杉先生が邦楽のための組合せをつくられている。

スピーカーシステムは、ヤマハのNS1000(Mが付くタイプではない)、
プリメインアンプがラックスのL309V、
プレーヤーしてステムがビクターのQL7Rで、カートリッジがエラックのSTS455Eである。

高価なシステムではないが、カラー見開きのページで、
これらオーディオ機器の集合写真は、なんとも雰囲気がよかった。
いかにも三味線、箏などの邦楽を聴くのに、ぴったりという感じが伝わってくる。

「コンポーネントステレオの世界」は、架空の読者からの手紙から始まる記事で、
架空の読者とオーディオ評論家の狙いと試聴によって、組合せができあがっていく。

邦楽での組合せでの架空の読者からの手紙には、こうある。
     *
 邦楽のレコードをきくには、たとえばワーグナーの楽劇とか、すさまじいロックのレコードをきく時のような、オーディオ的な面での、むずかしさはないかもしれません。しかし、邦楽には、独特の〝静けさ〟がどうしても必要で、レンジはせまくとも、音に対しての反応がシャープでないといけないようです。
     *
「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ時は、そういうものなのか、とおもったくらいだった。
その後、伊藤先生が三味線をきちんと鳴らすスピーカーはきわめて少ない、
その少ないスピーカーの一つが、シーメンスのスピーカーであること──、
これらのことをいわれているのを知って、たしかにそうだ、とおもった。

シーメンスのオイロダインで、三味線を聴きたかったけれど、
もうその機会は訪れないだろう。

でもシーメンスのコアキシャルでは、平面バッフルで鳴らしていたから、
三味線のレコードは聴いている。
といっても数えるほどしか聴いていない。

でも、私のなかでは、そのときのコアキシャルでの三味線の音が、
いまも聴きたい三味線の音につながっている。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

いつかはタンノイを……、
これは「五味オーディオ教室」からオーディオの世界に入ってきた私が、
ずっといだいてきたおもいである。

いつかはタンノイを……、
このタンノイとは、オリジナル・エンクロージュアのオートグラフのことである。
とはいえ、タンノイ・オリジナルのオートグラフは、
すでに製造中止になっていて、輸入元ティアックによる国産エンクロージュアになっていた。
それにユニットもHPD385にかわっていた。

スピーカーだけは新品で……、
これもずっとおもっていることだが、製造中止になっている以上、
中古で手に入れたスピーカーも、すでにいくつかある。

オートグラフの後継機として、ウェストミンスターがある。
いいスピーカーだと思っている。

それでも、オートグラフをベートーヴェンにたとえるなら、
ウェストミンスターはブラームスである。
このことは以前書いているので、これ以上はくり返さないが、
ここはどうしても譲れないところである。

もうひとつ加えるなら、オートグラフの佇まいとウェストミンスターのそれとは、
かなり違う。
ウェストミンスターを置くだけのスペースがあったとしても、
どうしても自分のモノとしたい、とは思えない理由である。

これも以前書いているが、私にとってのタンノイ本来の音は、
フロントショートホーン付きのエンクロージュアでのみ、と考えている。

こうなると、もうコーネッタしかない。
コーネッタは、「コンポーネントステレオの世界 ’77」で初めて、
その存在を知った。
といっても、詳しいことを知ったわけではない。

その二年後、「コンポーネントステレオの世界 ’79」でもコーネッタを見た。
リスニングルームの雰囲気とともに、コーネッタを欲しい、とおもった。

いつかはタンノイを……、というおもいも少しずつ変化してきている。
オートグラフだけではなくなってきている。
コーネッタを鳴らしたい、とおもう気持が、数年ごとに、わき上がってくる。

7月1日のaudio wednesdayでは、コーネッタを鳴らす。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その1)

少しは飽きてくるのかな……、と、まったく思わないわけでもなかった。
けれど、メリディアンの218で聴いていると、MQAへの関心は増す一歩である。

MQAで聴いてみたい──、
そう思うものはかなりある。

そのうちの一つが、三味線である。
といっても、三味線の世界に詳しいわけではない。
まったく知らないわけではないが、ほとんど知らない、といったほうがいい。

それでもMQAで三味線は、どんなふうに鳴ってくれるのか、ということに、
ひじょうに関心と興味がある。

こんなふうに思うのは、伊藤(喜多男)先生が、
三味線がきちんと聴けるスピーカーは、世の中にほとんどない、といったことをいわれていたからだ。

いまでこそ、あまりいわれなくなったが、
スピーカーは、その国独自の音色をもつ。

だからヨーロッパサウンド、アメリカンサウンドがあり、
ヨーロッパのなかでも、イギリス、フランス、ドイツ、デンマークなどでは違ってくるし、
アメリカのなかでも、西海岸と東海岸の音ということが盛んにいわれていた。

そこには、その国独自の音楽文化との関連性も語られていた。
ならば三味線、つまり純邦楽の再生には、日本のスピーカーなのか、
そういうことになりそうだが、伊藤先生はそう思われていなかったはずだ。

三味線にかぎらず、箏、尺八、それから(歌ではなく)唄となると、
私が思い浮べるのは、「コンポーネントステレオの世界 ’77」での上杉先生の組合せである。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その2)

いま書店に並んでいるオーディオ雑誌、
ステレオ、オーディオアクセサリー、ステレオサウンド、
いずれも特集は、試聴室で試聴をしないでもすむ企画になっている。

そうだろうな、と思うし、だからといって、次号以降も同じ、というわけにはいかない。
試聴室で試聴を行うけれど、
数人のオーディオ評論家がいっしょに試聴する、ということはしばらく影をひそめるだろう。

オーディオ評論家は一人。
あとは編集者が必要最低限の人数での試聴。
気をつけるところは、試聴中は、
試聴室にはオーディオ評論家だけ、ということもありそうである。

試聴機器を入れ替える時だけ、編集者が試聴室に入る。
これまでの試聴からすれば、なんと大袈裟な……、という印象を持つ人もいるだろうが、
そのくらい気をつけるのが、これからの当り前になっていってもおかしいことではない。

夏が終り秋になれば、メーカー、輸入元は、
オーディオ賞関係の試聴が増えてくる。

いまでは各オーディオ雑誌が、それぞれに賞をもうけていて、
それが年末号の特集になっている。

そのための試聴は、たいていはオーディオ評論家のリスニングルームに、
メーカー、輸入元の担当者が機器を持ち込んでの試聴である。

これも今年は変っていくのかもしれない。
担当者数人とオーディオ評論家だけならば、小人数での試聴とはいえ、
担当者は毎日のように、同じことをくり返していく。
外回りの、しかもある部分、肉体労働でもある。

雑誌社の試聴室ならば、搬入もしやすかったりするが、
オーディオ評論家のリスニングルームは個人宅である。
場合によっては、けっこう大変なことだってある。

感染リスクは、決して低くはない、といえる。
しかもオーディオ評論家、特にステレオサウンドに書いている人たちは、高齢者が多い。

Date: 6月 5th, 2020
Cate: 「かたち」

音の姿勢、音の姿静(その1)

「五味オーディオ教室」に、こう書いてあった。
     *
 はじめに言っておかねばならないが、再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている。これを悟るのに私は三十年余りかかったように思う。
 むろん、音を出さぬ時の(レコードを聴かぬ日の)スピーカー・エンクロージァは、部屋の壁ぎわに置かれた不様な箱であり、私の家の場合でいえばひじょうに嵩張った物体である。お世辞にも家具とは呼べぬ。ある人のは、多少、コンソールに纏められてあるかも知れないが、そんな外観のことではなく、それを鳴らすために電気を入れるとしよう。プレーヤーのターンテーブルが、まず回り出す。それにレコードをのせる以前のたまゆらの静謐の中に、すでにスピーカーの意志的沈黙ははじまる。
 優れた再生装置におけるほど、どんな華麗な音を鳴らすよりも沈黙こそはスピーカーのもてる機能を発揮した状態だ。装置が優れているほど、そしてこの沈黙は美しい。どう説明したらいいか。レコードに針をおろすのが間延びすれば、もうそれは沈黙ではない。ただの不様な置物(木箱)の無音にとどまる。
 光をプリズムに通せば、赤や黄や青色に分かれることは誰でも知っているが、円盤にそういう色の縞を描き分け、これを早く回転させれば円盤は白色に見えることも知られている。つまり白こそあらゆる色彩を含むために無色である。この原理を応用して、無音こそ、すべての音色をふくんだ無音であると仮定し、従来とはまったく異なる録音機を発明しようとした学者がいたそうだ。
 従来のテープレコーダーは、磁気テープにマイクの捉えた音を電気信号としてプラスする、その学者の考えは、磁気テープの無音は、すでにあらゆる音を内蔵したものゆえ、マイクより伝達される音をマイナスすれば、テープには、ひじょうに鮮明な音が刻まれるだろう、簡単にいえばそういうことらしい。
 私はその方面にはシロウトで、テープヘッドにそういうマイナス音の伝達が可能かどうか、また単純に考えて無音(零)からマイクの捉えた音(正数)をマイナスするのは、数式で言えば結局プラスとなり、従来のものとどう違うのか、その辺はわからない。しかし感じとしては、この学者の考えるところはじつによくわかった。
 ネガティブな録音法とも称すべきこれを考案した学者の話は、だいぶ以前に『科学朝日』のY君から聞いたのだが、その後、いっこうに新案の録音機が発表されぬところをみると、工程のどこぞに無理があるのだろう。あるいはまったく空想に過ぎぬ録音法なのかもしれぬが、そんなことはどうでもよい。
 おそらくこの学者も私と同じレコードの聴き方をしてきた人に相違ないと思う。ひじょうに密度の濃い沈黙——スピーカーの無音は、あらゆる華麗な音を内蔵するのを知った人だ、そういう沈黙のきこえる耳をもっている人だ、と思う。
 レコードを鑑賞するのに、針をおろす以前のこうした沈黙を知らぬ人の鑑賞法など、私は信用しない。音楽が鳴り出すまでにどれほど多彩な楽想や、期待にみちびかれた演奏がきこえているか。そもそも期待を前置せぬどんな鑑賞があり得るのか。
 音楽は、自然音ではない。悲しみの余り人間は絶叫することはある。しかし絶叫した声でメロディを唄ったりはすまい。オペラにおける“悲しみのアリア”は、この意味で不自然だと私は思う。メロディをくちずさむ悲しみはあるが、甲高いソプラノの歌など悲しみの中で人は口にするものではない。歌劇における嘆きのアリアはかくて矛盾している。
 私たちがたとえば“ドン・ジョバンニ”のエルヴィーラの嘆きのアリア「私を裏切った……」(Mi tradi……)に感動するのは、またトリスタンの死後にうたうイゾルデに昂奮するのは、言うまでもなくそれが優れた音楽だからで、嘆くのが自然だからではない。厳密には理不尽な矛盾した嘆き方ゆえ感動するとも言えるだろう。
 そういうものだろう。スピーカーは沈黙を意志するから美しい。こういう沈黙の美しさがきこえる耳の所有者なら、だからステレオで二つもスピーカーが沈黙を鳴らすのは余計だというだろう。4チャンネルなど、そもそも何を聴くに必要か、と。四つもの沈黙を君は聴くに耐えるほど無神経な耳で、音楽を聴く気か、と。
 たしかに一時期、4チャンネルは、モノがステレオになったときにも比すべき“音の革命”をもたらすとメーカーは宣伝し、尻馬に乗った低級なオーディオ評論家と称する輩が「君の部屋がコンサート・ホールのひろがりをもつ」などと提灯もちをしたことがあった。本当に部屋がコンサート・ホールの感じになるなら、女房を質においても私はその装置を自分のものにしていたろう。神もって、これだけは断言できる。私はそうしなかった。これは現在の4チャンネル・テープがプログラム・ソースとしてまだ他愛のないものだということとは、別の話である。他愛がなくたって音がいいなら私は黙ってそうしている。間違いなしに、私はそういう音キチである。
 ——でも、一度は考えた。私の聴いて来た4チャンネルはすべて、わが家のエンクロージァによったものではない。ソニーの工場やビクターやサンスイ本社の研究室で、それぞれに試作・発売しているスピーカー・システムによるものだった。わが家のエンクロージァでならという一縷の望みは、だから持てるのである。幸い、拙宅にはテレフンケンS8型のスピーカーシステムがあり、ときおりタンノイ・オートグラフと聴き比べているが、これがまんざらでもない。どうかすればオートグラフよりピアノの音など艶っぽく響く。この二つを組んで、一度、聴いてみることにしたわけだ。
 ただ、前にも書いたがサンスイ式は疑似4チャンネルで、いやである。プリ・レコーデッド・テープもデッキの性能がまだよくないからいやである。となれば、ダイナコ方式(スピーカーの結合で位相差をひき出す)の疑似4チャンネルによるほかはない。完璧な4チャンネルは望むべくもないことはわかっているが、試しに鳴らしてみることにしたのだ。
 いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
 試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
 私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
 ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
 私は知った。これまで音をよくするために金をかけたつもりでいたが、なんのことはない、音の歇んだ沈黙をより大事にするために、音の出る器械をせっせと買っていた、と。一千万円をかけて私が求めたのは、結局はこの沈黙のほうだった。お恥ずかしい話だが、そう悟ったとき突然、涙がこぼれた。私は間違っていないだろう。終尾楽章の顫音で次第に音が消えた跡の、優れた装置のもつ沈黙の気高さ! 沈黙は余韻を曳き、いつまでも私のまわりに残っている。レコードを鳴らさずとも、生活のまわりに残っている。そういう沈黙だけが、たとえばマーラーの『交響曲第四番』第二楽章の独奏ヴァイオリンを悪魔的に響かせる。それがきこえてくるのは楽器からではなく沈黙のほうからだ。家庭における音楽鑑賞は、そして、ここから始まるだろう。
     *
さらに五味先生は《無音はあらゆる華麗な音を内蔵している》とも書かれていた。
13のときに「五味オーディオ教室」と出逢って、44年。

「音の姿静」だと、やっと気づいた。

Date: 6月 5th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その1)

AV⋄Head-fi Show(香港オーディオショウ)は、いまのところ、
予定通り8月7〜9日開催するようである。

でも、本当に開催されるのか、と思っている人もいる。
コロナ禍の現状では、晩秋よりも真夏の開催のほうが、少しは安全なのかもしれない。

AV⋄Head-fi Showが開催されたとしても、
11月開催のインターナショナルオーディオショウが、
予定通りに行われる可能性が高くなる、というわけではない。

1月開催のCESはどうなるのだろうか。
楽観視している業界の人は少ないのではないだろうか。

先のことをはっきりとわかっている人は、誰もいない。
今年は無理でも来年はできるかもしれないし、
だからといって再来年も安心できるとはかぎらないだろう。

コロナ禍が、ほんとうに終息したとしても、
新たな感染症が発生するかもしれない。

今回のコロナ禍を機に、リモート試聴ということを真剣に考えていく必要が出てきているような気がする。
リモート試聴なんかで、こまかな音の違いがわかるわけない、
そんなアホなこと考えるだけムダ、
こんなことを言い捨てたら、そこまで、である。

リモート試聴には、まったく可能性がないのだろうか。
YouTubeには、かなり以前からスピーカーの音をマイクロフォンで拾った音を公開している動画が、
けっこうな数ある。

インターナショナルオーディオショウをはじめ、
オーディオショウのブースの様子も公開している人がいる。

全部がそうだとはいわないが、意外にも、大掴みには、
その場の音の雰囲気を伝えてくれているように感じる。

友人のAさんはオーディオショウには行かないけれど、
YouTubeで、そういった動画をけっこう見ている。

オーディオショウに行った私と、各ブースの話になったときに、
けっこう音の印象は一致している。
大きな違いがあったことは、いまのところない。

Date: 6月 4th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ

7月のaudio wednesdayは、1日。

火曜日は、別項で書いているようにAさんのところに、
昨日の水曜日は喫茶茶会記に、メリディアンの218を持ち込んでいた。

218+αになってから、218だけでなく、いくつかものも持っていくことになった。
5月のaudio wednesdayから、200Vへの昇圧トランスが加わって、そこそこ重くなってきた。

それでもバッグに入れて運べる大きさと重さ。
電車以外持ち運ぶ手段のない私は、助かっている。

そして、こうやって違う環境で鳴らすことのおもしろさも味わっている。
特に今回は二日続けて、違う環境で聴けたのは、個人的には収穫があった。

次回のテーマは未定だが、これまで通り218は持参する。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 2nd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいグルダのモーツァルトの協奏曲(その5)

CDで聴いていても、グルダとアバドのモーツァルトは素晴らしい、と感じていた。
それでも、バルトークやベルクに感じたすごさまでではなかった。

それがMQAで聴いて、己の聴き方の未熟さを感じた。
ハイレゾリューションになっているから(192kHz、24ビット)、
MQAだから……、
これらのことが、どれだけ音楽の、ここでの二人の演奏の本質に関ってくるのか。

ここで、そのことについて触れていくと、延々と書き続けることになりそうなので省くが、
とにかく、MQAで聴いて、協奏曲のおもしろさが、ほんとうにわかったような感じがした。

愛聴盤のなかに、いくつかの協奏曲はある。
それでも協奏曲は、それほど多い数ではない。

どこか、協奏曲に対して夢中になれない気質のようなものが、私にあるからなのか。
それでも、いくつかの協奏曲は愛聴盤になっているのは、
ほんとうにそれらの演奏が、とびぬけてすごいからである。

グルダとアバドのモーツァルトは、そこまでではなかった。
MQAで聴く前までは、そうではなかった。

グルダの、ここでのモーツァルトへの姿勢が、アバドの演奏をここまでにしているのか。
それともアバドのモーツァルトへの姿勢が、グルダをここまでむきにしているのか。

(その1)を書いたころは、
MQAで20番と21番は出ていなかった。

だから、MQAで聴きたい、とタイトルにつけているわけだが、
すでにリリースされているし、聴いているのだから、
聴ける、とか、聴いた、に変えた方がいいかな、と思うのだが、
変えるのであれば、聴ける、でも、聴いた、でもなく、
聴いてほしい、である。

「MQAで聴いてほしいグルダのモーツァルトの協奏曲」である。

Date: 6月 2nd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいグルダのモーツァルトの協奏曲(その4)

グルダとアバドのモーツァルトのピアノ協奏曲 第20番、21番は、
すでにe-onkyoで購入してMQAで聴いている。

6月3日のaudio wednesdayにもっていく予定でいるから、
その日まで書かずにおこう、と思っていた。

来られた方に、何の先入観ももたずに、このモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いてもらいたい、
そう思っているからだ。

それでも昨晩、また聴いていて、やっぱりすごい、と思っていた。
あと二日待てないほどに、このことを伝えたい、と思うほどに、素晴らしい。

CDで初めてきいたとき以上で、
MQAで、メリディアンの218を通して聴いて、驚きを新たにしているだけでなく、
驚きと感動は深まっていく。

クラウディオ・アバドという指揮者を、好きか嫌いかでわければ、好きな方である。
でも、ものすごく好きな指揮者なわけではない。
なので熱心な聴き手ともいえない。

アバドの録音のすべてを聴きたい──、とは思っていない。
こんなことを書いていいのなら、アバドははずれのない指揮者である。
この人の録音で、ダメなものはないだろう。

というより、ほとんどが優れた演奏である。
それでも夢中になって聴きたい、とはあまり思わないのは、
私の音楽の聴き方の偏りゆえなのだろう、とは自覚はしている。

それでもアバドの録音をそれでも聴き続けているのは、
時に、すごい演奏があるからだ。

ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲を、真っ先に挙げる。
ここでの演奏を聴いているからこそ、
アバドの演奏(録音)に関心をもち続けている、ともいえる。

それからベルクの「ヴォツェック」。
これもほんとうに、すごい。

他にもいくつもあるけれど、こういう演奏にであえるから、アバドを聴く。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・コメントを読んで)

(その4)へのコメントが、facebookにあった。
そこには、非の打ち所のない音であったとしても、
その音から生きた演奏が聴こえてこなければ、テレビの音と大差ないのでは?
ということだった。

ちょっと考え込んでしまった。
コメントにあったような音、つまり精度が高くても、
オーディオマニアがチェック項目とするすべての要素で、
ほぼ満点といえる音。

そうであったとしても、生きた演奏に聴こえてこなければ、
私は、そこに何ら価値を認めないし、意味もないことだと思う。

けれど、そこでテレビの音と大差ないのでは? となると、考え込むわけだ。
以前書いているように、テレビのあった生活よりもない生活のほうが、二倍くらい長い。

つまり私にとってのテレビの音とは、どうしても昔のテレビの音のことなのだ。
いまの、薄型のテレビのなかには、ひどく音の悪いモノがあるのは、
実際に聴いて知っている。
最近は少しはまともになった、という話も聞いている。

それでも、最近のテレビの音とは、こういうもの、というイメージが、ほぼないといっていい。
わかっていても、テレビの音=以前の、ようするにブラウン管時代のテレビの音である。

しかも私が小学校に入るか入らないころ、わが家のテレビは真空管式だった。
それがトランジスターになり、カラーになり、モノーラルからステレオになった。
そこまでが、私にとってのテレビである。

つまり、これらのテレビについていたスピーカーは、
10cmから16cm前後のフルレンジユニットであり、
いまの薄型テレビとは違い、スピーカーのキャビティは、ずっと確保されていた。

確かにナロウレンジの音である。
Netflixやamazon Prime Videoで、そんな昔のテレビが公開されているのを見て感じるのは、
こんなにもナロウレンジの音だったのか、である。

スピーカーユニットの特性が、という話ではなく、
元の録音そのものがナロウレンジであることに気づく。

なのでコメントされた方のいわれるテレビの音のイメージと、
私がもつテレビの音のイメージがずいぶん違っているはずだ。

なので、あくまでも、そんな古いテレビの音のイメージだけでいえば、
ナロウレンジであったけれど、活き活きとした音とまではいわないまでも、
十分に生きた演奏は聴こえてきていたのではないだろうか。

コメントにあった、生きた演奏が聴こえてこなければ……は、
ここでのテーマよりも、別項のテーマに関係してくることでもある。