Archive for category テーマ

Date: 6月 5th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その1)

AV⋄Head-fi Show(香港オーディオショウ)は、いまのところ、
予定通り8月7〜9日開催するようである。

でも、本当に開催されるのか、と思っている人もいる。
コロナ禍の現状では、晩秋よりも真夏の開催のほうが、少しは安全なのかもしれない。

AV⋄Head-fi Showが開催されたとしても、
11月開催のインターナショナルオーディオショウが、
予定通りに行われる可能性が高くなる、というわけではない。

1月開催のCESはどうなるのだろうか。
楽観視している業界の人は少ないのではないだろうか。

先のことをはっきりとわかっている人は、誰もいない。
今年は無理でも来年はできるかもしれないし、
だからといって再来年も安心できるとはかぎらないだろう。

コロナ禍が、ほんとうに終息したとしても、
新たな感染症が発生するかもしれない。

今回のコロナ禍を機に、リモート試聴ということを真剣に考えていく必要が出てきているような気がする。
リモート試聴なんかで、こまかな音の違いがわかるわけない、
そんなアホなこと考えるだけムダ、
こんなことを言い捨てたら、そこまで、である。

リモート試聴には、まったく可能性がないのだろうか。
YouTubeには、かなり以前からスピーカーの音をマイクロフォンで拾った音を公開している動画が、
けっこうな数ある。

インターナショナルオーディオショウをはじめ、
オーディオショウのブースの様子も公開している人がいる。

全部がそうだとはいわないが、意外にも、大掴みには、
その場の音の雰囲気を伝えてくれているように感じる。

友人のAさんはオーディオショウには行かないけれど、
YouTubeで、そういった動画をけっこう見ている。

オーディオショウに行った私と、各ブースの話になったときに、
けっこう音の印象は一致している。
大きな違いがあったことは、いまのところない。

Date: 6月 4th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ

7月のaudio wednesdayは、1日。

火曜日は、別項で書いているようにAさんのところに、
昨日の水曜日は喫茶茶会記に、メリディアンの218を持ち込んでいた。

218+αになってから、218だけでなく、いくつかものも持っていくことになった。
5月のaudio wednesdayから、200Vへの昇圧トランスが加わって、そこそこ重くなってきた。

それでもバッグに入れて運べる大きさと重さ。
電車以外持ち運ぶ手段のない私は、助かっている。

そして、こうやって違う環境で鳴らすことのおもしろさも味わっている。
特に今回は二日続けて、違う環境で聴けたのは、個人的には収穫があった。

次回のテーマは未定だが、これまで通り218は持参する。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 2nd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいグルダのモーツァルトの協奏曲(その5)

CDで聴いていても、グルダとアバドのモーツァルトは素晴らしい、と感じていた。
それでも、バルトークやベルクに感じたすごさまでではなかった。

それがMQAで聴いて、己の聴き方の未熟さを感じた。
ハイレゾリューションになっているから(192kHz、24ビット)、
MQAだから……、
これらのことが、どれだけ音楽の、ここでの二人の演奏の本質に関ってくるのか。

ここで、そのことについて触れていくと、延々と書き続けることになりそうなので省くが、
とにかく、MQAで聴いて、協奏曲のおもしろさが、ほんとうにわかったような感じがした。

愛聴盤のなかに、いくつかの協奏曲はある。
それでも協奏曲は、それほど多い数ではない。

どこか、協奏曲に対して夢中になれない気質のようなものが、私にあるからなのか。
それでも、いくつかの協奏曲は愛聴盤になっているのは、
ほんとうにそれらの演奏が、とびぬけてすごいからである。

グルダとアバドのモーツァルトは、そこまでではなかった。
MQAで聴く前までは、そうではなかった。

グルダの、ここでのモーツァルトへの姿勢が、アバドの演奏をここまでにしているのか。
それともアバドのモーツァルトへの姿勢が、グルダをここまでむきにしているのか。

(その1)を書いたころは、
MQAで20番と21番は出ていなかった。

だから、MQAで聴きたい、とタイトルにつけているわけだが、
すでにリリースされているし、聴いているのだから、
聴ける、とか、聴いた、に変えた方がいいかな、と思うのだが、
変えるのであれば、聴ける、でも、聴いた、でもなく、
聴いてほしい、である。

「MQAで聴いてほしいグルダのモーツァルトの協奏曲」である。

Date: 6月 2nd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいグルダのモーツァルトの協奏曲(その4)

グルダとアバドのモーツァルトのピアノ協奏曲 第20番、21番は、
すでにe-onkyoで購入してMQAで聴いている。

6月3日のaudio wednesdayにもっていく予定でいるから、
その日まで書かずにおこう、と思っていた。

来られた方に、何の先入観ももたずに、このモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いてもらいたい、
そう思っているからだ。

それでも昨晩、また聴いていて、やっぱりすごい、と思っていた。
あと二日待てないほどに、このことを伝えたい、と思うほどに、素晴らしい。

CDで初めてきいたとき以上で、
MQAで、メリディアンの218を通して聴いて、驚きを新たにしているだけでなく、
驚きと感動は深まっていく。

クラウディオ・アバドという指揮者を、好きか嫌いかでわければ、好きな方である。
でも、ものすごく好きな指揮者なわけではない。
なので熱心な聴き手ともいえない。

アバドの録音のすべてを聴きたい──、とは思っていない。
こんなことを書いていいのなら、アバドははずれのない指揮者である。
この人の録音で、ダメなものはないだろう。

というより、ほとんどが優れた演奏である。
それでも夢中になって聴きたい、とはあまり思わないのは、
私の音楽の聴き方の偏りゆえなのだろう、とは自覚はしている。

それでもアバドの録音をそれでも聴き続けているのは、
時に、すごい演奏があるからだ。

ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲を、真っ先に挙げる。
ここでの演奏を聴いているからこそ、
アバドの演奏(録音)に関心をもち続けている、ともいえる。

それからベルクの「ヴォツェック」。
これもほんとうに、すごい。

他にもいくつもあるけれど、こういう演奏にであえるから、アバドを聴く。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・コメントを読んで)

(その4)へのコメントが、facebookにあった。
そこには、非の打ち所のない音であったとしても、
その音から生きた演奏が聴こえてこなければ、テレビの音と大差ないのでは?
ということだった。

ちょっと考え込んでしまった。
コメントにあったような音、つまり精度が高くても、
オーディオマニアがチェック項目とするすべての要素で、
ほぼ満点といえる音。

そうであったとしても、生きた演奏に聴こえてこなければ、
私は、そこに何ら価値を認めないし、意味もないことだと思う。

けれど、そこでテレビの音と大差ないのでは? となると、考え込むわけだ。
以前書いているように、テレビのあった生活よりもない生活のほうが、二倍くらい長い。

つまり私にとってのテレビの音とは、どうしても昔のテレビの音のことなのだ。
いまの、薄型のテレビのなかには、ひどく音の悪いモノがあるのは、
実際に聴いて知っている。
最近は少しはまともになった、という話も聞いている。

それでも、最近のテレビの音とは、こういうもの、というイメージが、ほぼないといっていい。
わかっていても、テレビの音=以前の、ようするにブラウン管時代のテレビの音である。

しかも私が小学校に入るか入らないころ、わが家のテレビは真空管式だった。
それがトランジスターになり、カラーになり、モノーラルからステレオになった。
そこまでが、私にとってのテレビである。

つまり、これらのテレビについていたスピーカーは、
10cmから16cm前後のフルレンジユニットであり、
いまの薄型テレビとは違い、スピーカーのキャビティは、ずっと確保されていた。

確かにナロウレンジの音である。
Netflixやamazon Prime Videoで、そんな昔のテレビが公開されているのを見て感じるのは、
こんなにもナロウレンジの音だったのか、である。

スピーカーユニットの特性が、という話ではなく、
元の録音そのものがナロウレンジであることに気づく。

なのでコメントされた方のいわれるテレビの音のイメージと、
私がもつテレビの音のイメージがずいぶん違っているはずだ。

なので、あくまでも、そんな古いテレビの音のイメージだけでいえば、
ナロウレンジであったけれど、活き活きとした音とまではいわないまでも、
十分に生きた演奏は聴こえてきていたのではないだろうか。

コメントにあった、生きた演奏が聴こえてこなければ……は、
ここでのテーマよりも、別項のテーマに関係してくることでもある。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その4)

ここでのアパッチとは、アメリカインディアンの部族名である。

「死の舞踏」がアパッチの踊りでは困るわけだが、
それでも実演であっても、どれだけ「死の舞踏」たりえているのかは、
当時でも疑問に感じていた。

けれどレコードを疑っていては、オーディオはできない。
それに「死の舞踏」を、バーンスタインのマーラーの録音から、
つまり旧録音から五味先生は感じとられていた、ということだ。

少なくとも五味先生のリスニングルームでは、
《悪魔が演奏するようにここは響いて》いるわけだ。

だからこそアパッチの踊りでは困る、とされている。

でも、いま読み返して、アパッチの踊りならば、まだいいほうじゃないか、と思っている。
(その2)で書いた人のリスニングルームでは、
バーンスタインの第五(新録音)が、
どう聴いてもウィーンフィルハーモニーが演奏しているとは思えないし、
それこそチンドンヤのように鳴っているだけである。
響いてもくれない。

別項「五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか」で、
《他人(ヒト)とは違うのボク。》と書いた。

確かにオーディオの自作の理由、大義名分はこれである。
けれど、出てくる音までが、極端に《他人(ヒト)とは違うのボク。》になってしまうと、
バーンスタインのマーラーの第五がチンドンヤ的に成り果ててしまう。

そこで、何を疑うのか。
自作スピーカーで聴いている、その人は、スピーカーの出来に自信をもっている。
それは悪いことではない。

けれど、バーンスタインのマーラーを「ラウドネス・ウォーだね」といってしまったのは、
明らかに自身のスピーカーではなく、
本来疑うべきではないレコード(録音)を疑ったことになる。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その3)

書いていくことで思い出すことが次々と出てくることがある。
今回も「五味オーディオ教室」にあったことを思い出した。
     *
 最近、私は再生装置がもたらす音楽に、大変懐疑的になった。これまでずいぶん装置を改良するのに無駄金をつかい、時にはベソをかきながらつかい、そのたびによくなったと思ってきた。事実よくなっているらしい。人さまのどんな装置を聴かされても、うらやましいとはもう思わないし、第一、音がよかったためしがない。私ごとき音キチにこれは大変なことで、要するに、わが家の再生音は家庭でぼくらが望み得るもっとも良質な音のひとつを響かせているからだろう。
 が、装置のグレード・アップが、果たしてレコードの《音楽》そのものをグレード・アップしているか。いい演奏、いい録音、いい再生装置——これらは家庭で音楽を鑑賞するわれわれに重要な三条件だと、そう単純に私は考えてきたが、どうやら違う。
 いい演奏者といい録音、これはまあレコード会社にまかせるしかないが、どういう装置を選択するかで、究極のところ、演奏と録音をも選んでいる──その人の音楽的教養(カルショーの言う審美眼)は、再生装置を見ればうかがえると、私は思ってきた。しかし間違っていたようである。
 芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じに鳴る傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
     *
「五味オーディオ教室」を最初に読んだのは、13歳のとき。
マーラーの交響曲も何ひとつ聴いていなかった。
バーンスタインの名前は知っていても、
バーンスタインの演奏も何ひとつ聴いていなかった。

なので、そういうこともあるのか……、と思いつつ読んでいた。
「死の舞踏」がアパッチの踊りに変じてしまうのか。

そして、この時は、KLHがどういうスピーカーなのかも知らなかった。
上杉先生が鳴らされていたKLHは、屏風状のコンデンサー型スピーカーであることを知ったのは、
「五味オーディオ教室」から、そう経たずに手にした「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻末にリスニングルームがいくつか紹介されていた。

そこにKLHのスピーカーが写っていた。
といっても、上杉先生の部屋ではない。

それでもKLHがどういうスピーカーなのか、
少なくとも見た目だけはわかったし、
そのころには、ヴォーカルや弦の再生には、コンデンサー型が向くようなことは、
何かで読んでいた。

だから、「五味オーディオ教室」を何度目かの読み返しのときには、
それでも「死の舞踏」がパッチの踊りに変じてしまう、その理由について考えていた。

それにだが、
レコードから《悪魔が演奏するようにここは響いてくれ》るような音が鳴ってくるのか。
そういう音を鳴らすことそのものが、そうとうに難しいことなのではないのか。

そんなことを「五味オーディオ教室」をくり返し読むたびに考えていた。
ひたすら想像するしかなかったころのことだ。

Date: 5月 31st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その2)

バーンスタインのウィーンフィルハーモニーとのマーラーの交響曲第五番には、
バーンスタインによるマーラーならではの毒がある。

けれど、その毒を腑抜けにしてしまう音も、世の中にはある。
そういう音を好む人も、世の中にはいる。

そういう音を好む人が少なからずいるから、
私が、まったくいいとは思わない演奏が、世の中にはけっこう多くあるのか──、
とも思う。

ここでも、毒にも薬にもならない、ということを考えるわけだが、
そういえばと思い出すことを(その1)に書いていた。

四年前に書いている。
その時は、(その1)とはつけていなかった。
「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五」がタイトルだった。

いま「毒にも薬にもならない」音について書いている。
昨晩、また違う意味での「毒にも薬にもならない」音になるのか、と思い出したから、
タイトルに(その1)とつけて、今日、この(その2)を書いている。

その音は、個人のリスニングルームでの音だった。
自作のスピーカーシステムだった。
(その1)にも書いているように、
中高域での機械的共振が著しくひどい構造であり、
オーケストラが総奏で鳴ると、もうどうしようもないくらいに聴感上のS/N比が悪くなる。

けれど、このスピーカーを自作した人は、そのことに気づかずに、
バーンスタインのマーラーの第五の録音を「ラウドネス・ウォーだね」と一言で決めつける。

スピーカーは耳の延長だ、ということがいわれる。
どういうスピーカーで聴くか、ということは、使いこなし以前に、
己の耳だけでなく、音楽を聴く感性をも、歪めてしまうことだってある。

その人が「ラウドネス・ウォーだね」といいたくなる気持はわからないではなかった。
そんな感じを人に与えるような音で、バーンスタインのマーラーが鳴っていた。

けれど、それは録音の所為ではない。
自作スピーカーの所為であることは明らかなのだが、本人だけが気づいていない。

そんなスピーカーから鳴ってきたバーンスタインのマーラーの第五には、
もう毒はなかった。
毒が抜かれてしまった、というのではなく、毒が変質してしまっていた。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

巧言令色鮮矣仁とオーディオ(その1)

別項で、「毒にも薬にもならない音」について、何度か書いてきている。

巧言令色鮮矣仁といえる音もまた、毒にも薬にもならない音であろう。

以前、「音を表現するということ(その4)」で、
優れたアナウンサーが、優れた朗読家とはかぎらない、と書いた。

アナウンサーはannouncer、つまりannounce(告知する、知らせる)人であり、
アナウンサーに求められるのは、情報の正確な伝達である。

ならばアナウンサーは、巧言令色鮮矣仁であってもいいのではないか。
巧言令色鮮矣仁がアナウンサーの理想なのかについては考えなければならないが、
仮にそうだとしたら、もっとも理想的なアナウンサーは、
これから先、AIがますます発達してきたら、人が読むよりも、
AIに読ませたほうが、より巧言令色鮮矣として、
より正確に情報を伝えてくれる可能性も考えられる。

アナウンサーは、人である。
男性か女性か、どちらかである。

けれどAIの発達は中性のアナウンサーを、見事につくりあげてくれるかもしれない。
中性的な男性、中性的な女性、そんな雰囲気の人はいても、完全な中性なわけではない。

完全な中性とは、どういうものだろうか。
両性具有が、完全な中性とは思えない。
性器をもたない者こそが、完全な中性だとしたら、
それはAIによるもののはずだ。

一方、朗読は、announceではなく、recite。
音楽や朗読などの少人数による公演は、recital(リサイタル)である。

ここに巧言令色鮮矣仁は、どれだけ求められるのだろうか。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(コメントを読んで)

(その12)に、facebookでコメントがあった。

ガソリン臭くて、燃費が悪くて、音がいっぱい出る、
そんな野性味溢れた車が好き──、
そういうことをいった人がいる、という内容だった。

クルマ好きのなかには、そういう人がいるのは確かだろう。
このコメントで私が興味深いと感じたのは、「燃費が悪くて」のところだった。

野性味溢れるクルマは、燃費が悪い、というイメージが、私にはある。
免許を持たない私の印象だから、事実かどうかはなんともいえないが、
スーパーカーと呼ばれるクルマであっても、昔のスーパーカーと現在のスーパーカーでは、
燃費に関しては改善されているはずだ。

この燃費は、いわば変換効率であって、
スピーカーに関しては、昔のスピーカーのほうが変換効率は高かった。
いわば燃費のいいスピーカーといえるわけだ。

このことは、ここでのテーマよりも、
別項「拡張と集中」に深く関係してくることでもある。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その9)

トロフィー屋としか呼べないようなオーディオ店で、
オーディオ機器を購入する──。

そこで扱っているオーディオ機器は、ひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルにしてもひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルなどのアクセサリーを含めたシステム・トータルの価格は、
数千万円はあたりまえで、ときには一億円前後にもなる。

そういう、まさしくトロフィー屋でオーディオ機器を買う、
買える、ということは、優越感を満たしてくれるはず。

まして、そこの常連ともなれば、まさしく優越感がそうとうに満たされることだろう。
そのこと自体を否定するつもりは、さらさらない。

買える人は、どんどん買えばいい。
けれど、どれだけ優越感をえられたとしても、それは幸福とはいえないはずだ。
どこまでいっても、優越感は幸福にはつながらず、快感でしかない。

快感はどれだけ重ねようと、
どれだけエスカレートさせようと、快感でしかない。

快感を幸福と思える人ならば、それでいい。
けれど、そういう人はオーディオマニアではない。

少なくとも五味先生と同じオーディオマニアではない。
まるで別種のオーディオマニアなのかもしれない。

Date: 5月 29th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その12)

精度の高い音。
それを実現するのは悪いことではない。
いいことではある。

でも、それだけでは満足できないのを、
精度の高い音のスピーカーシステムを聴くたびに、感じてしまう。

精度の高い音を聴いていると、論語の巧言令色鮮矣仁が自然と浮んでくる。
まさしく巧言令色鮮矣仁といえる音が、意外にも多い。

こんなことを思っていたら、黒田先生が書かれていたこともおもいだす。
「音楽の礼状」で、こう書かれている。
     *
 ぼくらは、この頃、「論語」でいうところの、あの巧言令色鮮矣仁の教えを忘れすぎているように思われてなりません。
 みんながみんな、巧言の刃を研ぐことに専心して、そういえば仁などという野暮なものもあったっけな、といった感じです。たかができの悪い駄洒落としか思えないようなものを考えだしただけの広告文案家が時代の寵児になり、女優と浮名をながし、まんざらでもなさそうな様子で小鼻をひくつかせているのなどは、笑止千万です。しかし、それが、残念ながら、現代です。口八丁は、いつの頃からか、恥ずべきことではなくなったようです。ぼくの中学の校章は桃の花をあしらったものでした。当時、校長は、ことあるたびごとに、生徒たちを集めては、桃の木は美しい花を咲かせるので、その木の下にはおのずと道ができます、みなさんも、そういう、桃の木のようなひとになって下さい、というようなことをいっていました。生意気ざかりのニキビ面が校長のたれる、およそ新鮮とはいいがたい教訓に耳をすますはずもなく、横の列の女生徒のうなじでもつれている髪の毛など、ぽんやりながめていました。それでも、校長が口をすっぱくしてはなしたのは無駄ではなかったようで、ほんとうにすぐれているものは、自分からあれこれけたたましくいいたてたりしない、という程度の世間をみる場合の知恵となって、ニキビ面の頭脳にしみつきました。
 ニキビ面にもあれこれあって、それなりに生活などというものをはじめてしばらくたち、ふと、あたりをみまわしてみると、巧言が仁を圧倒し、あるはずの桃の木は、切り倒されたのか焼きはらわれたのか、影も形もありませんでした。なにからなにまで、真偽のほどはともかく、それなりに氏素性を誇り、しかるべき能書きで武装していました。高級料理屋でだされる料理では、彩りのために皿にそえられた笹の葉にまでそれなりのいわくがあったりして、よせばいいのに、それをまた、恩着せがましく口にするお節介な仲居がいたりします。冗談じゃない、俺は、パンダではないんだから、笹には興味ない!
 音楽家だけ、そのような時代の風潮から無関係でいられるはずもありませんから、硬・軟いずれの音楽界でも、まず、レコード会社なりコンサート・エージェントの考えだしたキャッチフレーズが、呼び込みの役割をはたします。音楽の世界にあっても、桃の木はみあたらず、巧言の輩ばかり跋扈するのか、とあやうく絶望しかかったりしますが、そこで絶望するのは粗忽者です。
(中略)
 この時代はスターの時代なのだそうです。そういう時代の要請をうけてと考えるべきでしょうか、ジャーナリズムとコマーシャリズムが結託して、似非スターや疑似スターを量産しつづけています。クラシック音楽の世界も例外ではないようです。似非スターも擬似スターは、いずれ無残にもメッキがはげ、忘れられていきますが、それでも、しばらくは時代の波にのって浮遊します。クラシック音楽の世界でもまた、似非スターや擬似スターのための、それなり効果的なキャッチフレーズを考えだし、「商売にする」時代です。かくして、ここでもまた桃の木をみつけるのが難しくなっています。
 鳴物入りで登場したニュースターの演奏をきいて、これはちょっとおかしいぞ、と思ったとき、ぼくは、いつでも、いわゆるスター性などという虚飾をとっくの昔に捨て、静かに音楽を紡ぎだすことにだけ専心しつづけているあなたがたの演奏に耳をすますことにしています。そのときのぼくの気持は、なにか困ったことにぶちあたって、遠い日に教えをうけた恩師の門をたたく落第坊主の気持に似ています。
 いい音楽には独特の静けさがある、と思います。おそらく、いい音楽には、巧言令色がないためです。ぼくは、あなたがたの独特の静けさをたたえた演奏が、大好きです。
     *
ボザール・トリオについて書かれたものだ。
音楽について語られているわけだが、そのままスピーカーについてもあてはまるし
オーディオ業界についてもそうである。

Date: 5月 29th, 2020
Cate: audio wednesday

第112回audio wednesdayのお知らせ(untitled)

2000年の終りごろにステレオサウンドから出た「音[オーディオ]の世紀」。
巻末に「21世紀に残したい至宝のディスク100選」がある。
十人の筆者が十枚ずつ、音楽ジャンルに関係なく選んだ記事だ。

菅野先生は、次の十枚を選ばれている。
 カルロス・クライバー/ウィーンフィルハーモニーによるベートーヴェン
 グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲(1981年録音)
 ジャン・ベルナール・ポミエのベートーヴェンのピアノソナタ全集
 シモン・ゴールドベルグの芸術の第一集、第二集
 ハリー・ベラフォンテの「BELAFONTE AT CARNEGIE HALL」
 ソニー・ロリンズの「SAXOPHONE COLOSSUS」
 カウント・ベイシーの「THE CANSAS CITY 7」
 アート・ペッパーの「Art Pepper meets The Rhythm Section」
 綾戸智絵の「life」

ジャン・ベルナール・ポミエ、シモン・ゴールドベルグは、
菅野先生らしい、と思った。
意外に感じたのは綾戸智絵だった。

そこには、こう書かれていた。
    *
本誌のテスト取材で朝沼予史宏さんの推薦で知ったCDだが、この人の弾き語りを聴いて唸った。まいった。テストに使ったトラックはスマップの「YOZORA NO MUKOU」で、僕は何を隠そうスマップのファンなのだが、彼女のこの曲の完全な消化と昇華はどうだ! 以来、このミュージシャンのファンになったのだ。綾戸智絵という生きてきた過去と生きる現在のすべてを、数分の音楽に完全に表現てきることができる天才だ! 録音は若干のノイズがあるが大変よい。これが彼女のアルバムのなかでは一番好きである。
     *
「life」は1999年の録音にもかかわらず、アナログ録音であり、SACDも出ていた。
私が「音[オーディオ]の世紀」を手に入れたのは、ずいぶん経ってからということもあって、
このCDも買い逃していた。

e-onkyoにも、これまで綾戸智絵のアルバムはいくつかあった。
けれど「life」はなかった。
いつか出るのか、と待っていたところ、
5月29日に配信がはじまった五枚のアルバムのなかに「life」があった。

96kHz、24ビットで、flacとWAVしかない。
ちょっと残念なのだが、MQAはない。

それでも嬉しい。
綾戸智絵の「life」も、6月3日のaudio wednesdayに持っていく。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 5月 28th, 2020
Cate: オーディオのプロフェッショナル

オーディオのプロフェッショナルの条件(その6)

オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)。
数年前から、こう書いてきているだけでなく、
現在オーディオ評論家(職能家)はいなくなった、とも書いている。

オーディオ評論家(商売屋)と、その人たちのことを思っているけれど、
それでも読評よりは、ずっとまとも、というか、
少なくとも自分の立ち位置だけは明らかにしている。
それがオーディオ評論家(商売屋)であったとしてもだ。

別項で「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」を書いている途中だが、
オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)をいっしょくたに捉えるのは、
ミソモクソモイッショである。

オーディオ評論家(商売屋)と読評に関しても同じだ。
いっしょくたに捉えては、やはりミソモクソモイッショである。

私が小学生だったころと記憶しているが、
一億総評論家といわれていた。

いつごろいわれていたのか検索してみたところ、
いまの時代も、そう呼ばれていることを知った。

個人的には、十年以上まえから、
一億総アーティストだと感じているし、
だからといって、一億総芸術家とは呼びたくない気持がある。

いまの時代が、再び一億総評論家時代なのは、
インターネットの普及、SNSの普及があるのは明白だ。

そういう時代に、オーディオの世界で読評があらわれてきた。
私が読評と呼んでいる人からは、一億総アーティスト臭がしている。
私一人がそう感じているだけなのかもしれないが。

Date: 5月 27th, 2020
Cate: audio wednesday

第112回audio wednesdayのお知らせ(untitled)

6月3日のaudio wednesdayには、
クインシー・ジョーンズの「BACK ON THE BLOCK」を持っていく。

1989年に出たアルバムだ。
当時、録音の仕事をしていた友人が「音、いいよ」と聴かせてくれたのが出合い。

友人が勤めていた小さなスタジオのスピーカー(ヤマハのNS10M)で聴いた。
音がいい。
確かにいい。
びっくりするほど、いい音に聴こえた。

買おう、と思ったけれど、このころはまったくといっていいほど仕事をしていなかった。
一枚三千円ほどのCDを買うのも躊躇うほどだった。

少し余裕ができたら買おう。
こんなことを思っていると、余裕ができた時にはほかのCDを買ったりする。
結局、買いそびれてしまった。

すると、今度は廃盤になっていたため、しばらく手に入らなかった。
縁がないCDなのか。

再発になったようだけど、その時は「BACK ON THE BLOCK」への興味をなくしていた。

4月、5月とほとんど出掛けずにいたら、
ふと「BACK ON THE BLOCK」を聴きたくなった。

インターネットにアクセスすれば、多少の音の悪さを我慢すれば聴ける。
でも、三十年ほど前の、あの音の感激はほんものだったのか、
それを確かめたくもなった。

喫茶茶会記のアルテックで、まったく気兼ねすることなく音量を、
どこまでもあげて聴きたい、と思うようになった。

こんなことを思ってしまうと、無性に聴きたくなってくる。
タワーレコード、HMVでも、いまのところ入手ができないようだ。

以前だったら、また縁がなかったのか……、と諦めるところだが、
新品にこだわらなければ、いまはいくらでも簡単に探せる。
ヤフオク!で検索してみると、けっこう出てくる。

いま聴くと、そうでもなかった、と思うのか、
それとも、やっぱり! と思うのか。

一週間後のaudio wednesdayが楽しみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。