Archive for category テーマ

Date: 5月 21st, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その20)

1984年にでたカルロス・クライバーの、
バイエルン国立管弦楽団とによるベートーヴェンの交響曲第四番は、
ライヴ録音ということもあって、最後に聴衆のブラボーもそのままおさめられている。

演奏が終って、すぐに発せられるブラボーではなく、
少し間があってのブラボーだった。

おそらく若い男性なのだろう、感極まってのブラボーであり、
だからということもあって叫び声でも掛け声という感じでもなかった。

好ましい印象のブラボーだった。

こういうブラボーは、実際の演奏会ではまずない。
いつのころからか、クラシックのコンサートでは、
誰よりも早くブラボーと叫びたい人が、必ずといっていいほどいる。

100m走のスタートダッシュを極めるかのような感じでのブラボーがある。
よくいわれているように、
最後の音の余韻が残っているのに、ひときわデカイ声でのブラボーには、
閉口している人は多かったから、何度となく、いろんなところで、
ブラボーについての否定的な意見が出てきていた。

すみだトリフォニーホールが、
7月開催予定の公演についてのお知らせを公開している。

新型コロナ感染予防として、いくつかのことが挙げられている。
そのうちの一つに、こうある。
     *
「ブラボー」等の掛け声は禁止とさせていただきます。
     *
英断だ。
私だけでなく、ブラボーにうんざりしていた人は、みなそう思うはずだ。

いまのところ7月の演奏会だけのようだが、
ぜひとも8月も9月も、ずっとずっとブラボー等の掛け声は、禁止のままであってほしい。
そしてすみだトリフォニーホールだけでなく、
ほかのホールにも波及してほしい。

Date: 5月 19th, 2020
Cate: audio wednesday

第112回audio wednesdayのお知らせ(untitled)

次回のaudio wednesdayは、6月3日。
4月は中止で、3月は常連の人が一人。
5月は誰も来なかった、というわけで、
ほとんどの方が最低でも四ヵ月ぶりとなるaudio wednesday。

今月末には緊急事態もとかれるかもしれない。
それでも常連の人たちがみなこられるとは思っていない。

6月のaudio wednesdayも、ごくわずかの参加だろう。
ひさしぶりに何人かが集まる。
それだけで充分楽しい、といえばそうである。

だから、テーマは決めないことにした。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 5月 19th, 2020
Cate: オーディオのプロフェッショナル

オーディオのプロフェッショナルの条件(その5)

読評のはしりといえる人は誰なのか。
実名を出そうかどうか、ちょっと迷っている。

オーディオベージックはすでにないから、いまさらその人の名前を出しても……、
というところはあるし、いまではオーディオ評論家めいたことをやっているのだろうか。

オーディオ雑誌を丹念に見ることがなくなったこともあって、その人の名前を目にすることがない。
いまもオーディオ評論家めいたこと(つまり読評)をやっているのであれば、
名前を出すところだが、そうではないようなので控えておこう。

それにオーディオベージックを読んでいた人ならば、誰のことかすぐにわかる。

その人は、おいしいとこ取りをしようとしていた人だった。
少なくとも私の目にはそう映ったし、
そのころあるオーディオ業界の人と、オーディオベーシックの話になったとき、
同じ印象をもっている人がいることがわかった。

それにオーディオベーシックに一時期執筆していた人から、
編集部の様子をきいたときも、やっぱりそうなのか、と思ったことがある。

読評のはしりといえるその人は、
オーディオ評論家のおいしいところ、
編集部のおいしいところ、
読者のおいしいところだけを取ろうとしていた(といまでも思う)。

おいしいとこ取りが悪いわけではないが、
おいしいとこではないこと、つまりまずいことは拒否していたようにみえる。

立場を曖昧にしたままで、それぞれの立場のおいしいとこ取りをしていく。
本人はそんなつもりはまったくなかった、というだろう。

その人と親しい人も、そういってかばうかもしれない。
そんなつもりはなかったのかもしれないが、
読み手であるこちらには、そうみえた。

意識して、おいしいとこ取りしていたほうが、まだましだ。
無意識にそうやっていたとしたら……。

別に、その人のせいで、オーディオベーシックにダメになったかというと、
間接的にそういえても、直接的には、その人をずっと、
それも積極的に関ってきた編集長のせいだ、といいたい。

Date: 5月 19th, 2020
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

窓のない試聴室と窓のある試聴室(その1)

1976年12月にでたステレオサウンドが、私にとって最初のステレオサウンドで、
具体的には41号と別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
組合せの試聴中の写真が何枚も掲載されている。
それらをみて、ステレオサウンドの試聴室の雰囲気を知った。

1982年1月に、初めてステレオサウンドの試聴室に入ることができた。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」で見て知っていた試聴室と、
少しの違いはあったけれど、ほぼ同じだった。

それからステレオサウンド編集部で働くようになって、バックナンバーをみていくと、
29号で、新試聴室完成という記事がある。
そこでの写真をみると、窓がないのに気づく。

ずいぶん雰囲気の試聴室が違う。
このとき、窓のある試聴室でよかった、と思ったことをおぼえている。

私が辞めたあと、ステレオサウンドは二回引っ越ししている。
試聴室が二回かわっているわけだ。

その後の試聴室の写真をじっくりみているわけではないが、窓はないようだ。
ステレオサウンド以外のオーディオ雑誌の試聴室も、窓のないところが多いようである。

メーカーの試聴室も、すべてを知っているわけではないが、
窓はないところのほうが多いはずだ。

窓は音響的には、あまりよくない。
なので試聴室という、生活とは区切られている環境では、窓はない方がいい──、
のは間違っていない理屈である。

正しい、ともいえるのかもしれない──、と思いつつも、
個人的には窓のある試聴室がいい。

Date: 5月 18th, 2020
Cate: オーディオのプロフェッショナル

オーディオのプロフェッショナルの条件(その4)

読モという略称がある。
読者モデルのことである。

ここ数年思っているのは、読評である。
読者評論家を略したものだ。

読モもひどい略称だと感じるが、読評は、もっとひどいな、と思う。

読モはインターネットの普及以前から登場していたとのことだが、
これほどの脚光を浴びるようになったのはインターネットの普及も関係している、とのこと。

読評が現れるようになったのは、はっきりとインターネットの普及、
さらにはSNSの普及のおかげある。

Wikipediaによれば、
読モの魅力は、
読者からみてお手本にできる親しみやすさ、
スターというより友達感覚といった親近感に集約される、とある。

オーディオにおける読評もそういえる気がするだけでなく、
ここ十年ほどは個人サイトをほとんど見なくなったためはっきりとはいえないが、
それ以前は、積極的に個人サイト、ブログをやっている人のなかには、
オーディオ評論家をめざしているんじゃないのか──、
そんなふうに感じさせる人が何人もいた。

すでに休刊(廃刊)になってしまったオーディオベーシックという季刊誌があった。
共同通信社が出していた。別冊FMfanの成れの果てだ、と私は思っている。

ひどいことをいうヤツだ、と思われようが、そうとしか思えないし、
別冊FMfanが、こんなふうになってしまったのは、
読評のはしりといえる人を積極的に活用したからだ、とも思っている。

Date: 5月 17th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるベートーヴェン 交響曲全集(その5)

CDであろうと、ファイル配信であろうと、
クリュイタンスのベートーヴェン全集が売れているのは、嬉しいことである。

嬉しいのは確かなんだけれども、
MQAで聴いていると、以前との印象に違いあるような気がしてならない。

昔聴いたのは、随分前だし、四番と八番を聴いているだけだ。
今回はすべて聴いている。
システムも違っている。

違っているところが多すぎるうえに、
記憶のうえでの比較なのだからあてにならない、と自分でも思うのだが、
MQAで聴くクリュイタンスのベートーヴェンは、思っていた以上に聴き応えがある。

昔聴いた印象では、なぜベルリンフィルハーモニーが、
カラヤンではなくクリュイタンスを、初の全集録音の指揮者に指名したのか。
その理由が、聴いているだけでは掴めなかった。

今回聴いて、はっりきと掴めた、とまではいわないが、
わかるような気はしてくる。

昔とは、リマスターされているかどうかの違いが大きいのか。
別項で書いたカルロス・クライバーのシューベルトもそうなのだが、
MQAだと、音がいいとか、いままで聴きとれなかった音が聴こえるとか、
そういうことではなくて、音楽の表情が豊かになる。

ここは、こんな表情をしていたのか、という発見が、
さんざん聴いたレコードなのに、ある。

クリュイタンスのベートーヴェンに関しては、CDボックスを買ってきて、
極力試聴条件を等しくして聴いてみれば、もっとはっきりとしたことがいえるようになるはず。

それをやるのもいいけれど、いまはもっともっとMQAで、
ベートーヴェンを聴いていくほうを優先したい。

Date: 5月 17th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるベートーヴェン 交響曲全集(その4)

e-onkyoで購入できるクリュイタンス/ベルリンフィルハーモニーによるベートーヴェンは、
2,306円である。交響曲と序曲あわせて、この値段である。

十分安いわけだが、
これがCDで輸入盤で発売されているのだが、こちらはさらに安く千数百円で買える。
CDは、もちろん44.1kHz、16ビット。

e-onkyoでは、flac、MQAともに96kHz、24ビットである。
なので価格差があってもいいのだけど、
どちらを買う人が多いのだろうか、とふと思う。

クリュイタンスとベルリンフィルハーモニーによるベートーヴェンは、
いつかはすべて聴きたい、と思っていた。

メリディアンの218があるから、迷うことなMQAを購入したが、
218がなければ、満足のいくMQAの再生環境がなければ、CDを迷うことなく買っていたはずだ。

千円ちょっとなのだから、買う。
いずれMQAの再生環境が整ったら、その時にMQAを買えばいい。
配信では廃盤(配信中止)ということは、あまりないことだろうから、それでいい。

こんなふうに考える人はいるはずだ。

それにしてもCDの価格は、いったいどうなっているのか。
以前も書いているが、安いをこえて安すぎる、と思うことがしばしばある。

クリュイタンスのベートーヴェンは五枚組。
今回のCDは、20117年に発売されたCDボックスと同じマスターが使われている。
96kHz、24ビットである。

おそらくe-onkyoでの配信も同じマスターであろう。
だとすれば、CDのほうがコストはかかっている。

プレスしてパッケージして出荷するわけだし、
それが輸入され、日本の店頭に並ぶのだから。

クリュイタンスのベートーヴェンは、
e-onkyoでのアルバム ランキングで、最近でこそ落ちてきたものの、
ずっとかなり上位だった。

CDボックスも売れていたのだろうか。
そんな気がする。

Date: 5月 17th, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(常識の消失)

スーパーの精肉売場に行くと、
「豚肉はしっかりと火を通してください」という注意書きがある。
一つの店ではなく、何箇所かでみかけた。

豚肉はしっかり火を通す、というのは、昔からよくいわれていた。
いわば常識である。

けれど、その常識中の常識といえるこのことであっても、
常識すぎる、と思って、誰もいわなくなると、いつのまにか知らない人たちが出てきてしまうのか。

スーパーの注意書きは、つい最近になってみかけるようになった。
豚肉に関する常識を知らない人が増えてきたからなのだろうか。

周りに、豚肉はしっかりと火を通してから、ということをいってくれる人がいなければ、
知る機会もほとんどないのだろう。

つい常識だから、と思ってしまうことが、オーディオにあるはずだ。
でも、こちらにとっては当り前すぎる常識という認識があるから、
相手が、その常識を知っているものと、つい思ってしまいがちになる──、かもしれない。

そうやっていくつものオーディオの常識が、すでに忘れられつつあるのかもしれない。

そんな常識なんて、オーディオには要らない、という人もいるかもしれない。
でも、SNSを眺めていると、必要な常識と不必要な常識とがあることに気づかされる。

どちらにしろ、オーディオの常識は消失しつつあるようだ。

Date: 5月 17th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その19)

コロナ禍によって、次々とオーディオショウが中止になっている。
ショウ雑感というテーマなのに、今年はコロナ禍雑感になってしまっている。

先日、facebookの投稿で知ったのだが、
JELCO 市川宝石株式会社が、4月から休業しているだけでなく、
どうも廃業するようだ、とのことだった。

海外のオーディオ関係のサイト、What Hi-Fi?では、
五日ほど前に記事になっている。

JELCOのサイトは、こうなっている。
     *
新型コロナウイルス感染拡大の影響により、JELCO製品の受注は在庫限りとさせていただきます。また、当分の間生産を見合わせ製造ラインを休業致します。ユーザーの皆様・関係者の皆様におかれましては、ご不便をお掛けいたしますが、ご理解賜りますよう宜しくお願いいたします。
     *
廃業なのかどうかは、いまのところはっきりしない。
けれど休業がしばらく続くのは事実である。

What Hi-Fi?の記事にもあるように、
ラックスのアナログプレーヤーに搭載されいてるトーンアームは、JELCO製だし、
OEMがメインのメーカーなのだから、単にJELCOブランドの製品がなくなるだけではすまないはず。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その14)

インターネット以前の、互いの音を聴くという行為は、
自分の音をみつめなおすことであった。

そこには、自分の音を認めてほしい、という気持もあったはずだが、
一部の人の、いまほどには大きくなかったのではないか。
それをインターネットが肥大させてしまった。

肥大だけではなく、目覚めさせてしまったところもあるように思える。

オーディオは外に持ち出せるわけではない。
高価なクルマ、時計、バッグなどは外に持ち出せる。
不特定多数の人の目にふれる。
見せびらかすつもりがなくても、そうすることができる。

オーディオは、それは無理だった。
誰かにリスニングルームに来てもらってこそのところがあった。

いまもそのことはまったく変らないけれど、
オーディオ雑誌に掲載されることなく、多くの人の目にふれるようになった。

アクセス数の多い個人サイトをやっている人に来てもらえば、
ほぼ必ずオフ会の様子が公開される。

世間に広く知らしめてほしい、という欲求がある人にとっては、
インターネットはまさしく、その願いをかなえてくれる。

ひどい音であったとしても、ひどい音でした、と書く人は、ほとんどいない。
それは礼儀といえるのか。

五味先生はステレオサウンドの「オーディオ巡礼」で、
ひどい音の場合、一刀両断といえるほどの斬りかたをされる。

それは五味先生ほどの人だからできる、ということではなく、
五味先生自身、斬りかえされることを覚悟してのことだから、と思う。

悪くいった相手から斬りかえされることよりも、
そうでないところからの斬り返しはある──、
そう思っていた方がいい。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その13)

まったくよさのない音は、ないのかもしれない。
だからAさんによるBさんの音についての表現は、まったくの創作というわけではない。

それにしても、僅かな美点をそうとうにふくらませての表現であり、
そうでないところにはまったくふれていない。

これはいったい何になるのか。
Bさんにとって励みになるのか、といえばそうだろう。
自分のやってきた音は間違っていないどころか、正しかったとすら思うはずだ。
誇らしげに思っても不思議ではない。

AさんとBさんは親しい関係だ。
BさんはAさんを、人生の先輩、オーディオの先輩として尊敬しているところもある。
それはけっこうなことではあるが、
BさんはAさんの本音を知らないままだ。

知らないまま、その道をつきすすむ。
その結果の音を私は聴いて、絶句した。
それは別項で書いている「間違っている音」であった。

オーディオは自分自身の世界に閉じこもろうとすれば、どこまで閉じこもれるものかもしれない。
だから、昔から人に聴いてもらえ、とか、人の音を聴け、的なことがいわれている。

否定はしない。
しないけれど、そのことはインターネットの登場・普及によって変質してしまった。

以前ならば、聴きにいったり聴きに来てもらったりしたことは、
その二人のあいだのことに留まっていただろう。

それが不特定多数の人に向けて発信できるようになった。
そうなることで変ってしまった。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その12)

ある人(Aさんとしておこう)が、ある人(Bさん)のところに行った。
ずいぶん前のことだ。

もちろん二人ともオーディオマニアで、そのころはどちらも自分のサイトを持っていた。
Aさんが、Bさんの音について、自身のサイトで、オフ会の様子を公開した。
ずいぶん褒めているな、と感じた。

Aさん、Bさんとも知人だった。
どちらの音も聴いている。
だからBさんの音を、Aさんは、こんなふうに評価するのか、と不思議に思った。

それからしばらくしてAさんと話すことがあった。
Aさんいわく「 Bさんの音、あれじゃダメだね」と。

サイトで公開したこととずいぶん違うじゃないか、とはいわなかった。
Bさんの音は、確かに、そういう面を多分にもっているからなのだが、
それにしても、この人(Aさん)は、彼のサイトを読んでいる人に対して、
どういう気持で、オフ会のこと、Bさんの音について書いたのだろうか。

親しき仲にも礼儀あり、ということなのかもしれない。
いくらひどいと感じても、そのまま相手に伝えたり、
サイトで、その音について書いたりするのは憚りがある──、と考えてのことだろうか。

ならば黙っておけばいいじゃないか、と私は思う。
社交辞令的な美辞麗句を、自身のサイトで公開する。

Aさんの、その文章をとうぜんだがBさんも読む。
Bさんは嬉しく思ったはずだ。

Bさんを直接知らない、Bさんの音を聴いたことのない、
Aさんのサイトを読んだ人は、Bさんの音は、なるほど素晴らしいのか、と思う。

それは読み手の勘違いではなく、書き手がそう書いているからだ。

これは私が知っている一例なのたが、
ほんとうに一例にすぎないのだろうか。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その11)

5月19日発売のステレオの特集は「巣ごもりオーディオ」とのこと。
こういう状況下ゆえの特集と考えていいだろう。

とはいえオーディオという趣味は、本来巣ごもりではないか、とも思うから、
あえて巣ごもりとつけなくてもいいのだが、
インターネットの登場・普及、SNSの登場・普及によって、
そのあたりも変化してきたとも感じているから、巣ごもりとつけるのもわかる。

それから、いまではインターネットのおかげで、家から一歩も出ずとも、
いろんなモノを買えるし、商品が届く。

たしかに巣ごもりな面は強化されつつある。

インターネットが普及し、個人のオーディオサイトがいくつも登場したころから、
オフ会が、オーディオという趣味の世界でも活発になっていった。

それ以前も、親しいオーディオマニア同士で、互いの音を聴きにいくことはあった。
それがインターネットによって、一気に拡大してしまった。

あのころ(二十年くらい前になるか)は、
オーディオのオフ会花盛り、といえた。

オフ会をやった、オフ会に行った、素晴らしい音だった──、
そんなことがあふれていた。

読んでいると、こんなにも素晴らしい音が世の中にあふれているのか、と疑いたくなる。
社交辞令なのか、それとも本音だったのかは読んだだけではなんともいえないが、
もしかすると書いている本人も、そのへんのところが曖昧になっていたのかもしれない。

オフ会自慢、どれだけ多くのオフ会に参加したのかを自慢気に語る人もいた。

いまはこういう状況下だけに、オフ会も自粛気味らしい。
寂しがる人もいるようだが、むしろいいことだ、と思う。

Date: 5月 16th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その10)

瀬川先生は、若い書き手を育てよう、
もっといえば鍛えようとされていた──、
私はそう思っている。

くり返すが、後継者を育てようという意識はなかった、とも思っている。

そのうえで、鍛えた若い書き手から、
なにかを吸収しようとさえおもわれていたのではないか、そんなことすらおもっている。

ほんとうのところは、もうわからない。
瀬川先生と親しかった人にきいたところで、わかることでもない。

私の勝手な思い込みにすぎないのかもしれないが、
それでも、はっきりといえることは、
瀬川冬樹の後継者になりたい、とすること、
そんなことをおもった時点で、もう絶対に後継者たり得ることはない、ということだ。

瀬川先生がいて、瀬川先生に鍛えられた若い書き手がいて、
互いに触発されることがあってこその、オーディオ評論なのだ、と考える。

けれど瀬川先生は、もういない。
鍛えられた若い書き手も、いない。

Date: 5月 15th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その9)

オーディオ評論という仕事は、ほんらいプロフェッショナルであるだけでなく、
ひじょうにパーソナルなものなのかもしれない。

パーソナルなものであることを切り離してのオーディオ評論は存在しないのかもしれない。
パーソナルなんてものはいらない、
プロフェッショナルであれば、それで十分という読者もいることだろう。

けれど、いまのオーディオ評論家で、どれだけプロフェッショナルといえる人がいるのか。

別項「皆川達夫氏のこと」で、
サプリーム No.144掲載の「瀬川冬樹氏のための〝ラクリメ〟」を掲載した。

そこに《そうした表情のわたくしに、あなたは半分いたずらっぽく半分は照れながら、「これはあまり大きい声では言えませんが、オーディオの専門家だからといって誰にでも出来るというものではないんですよ」と、心に秘めた自信のほどを冗談めかしに垣間見せてくださったのも、今ではなつかしく、そして悲しい思い出になりました》
とある。

そうだろう、とおもう。
オーディオの使いこなしでプロフェッショナルといえる人は、ほんとうに少ない。
ケーブルを替えたり、いろんなアクセサリーを使うのが、オーディオの使いこなしではない。

いまオーディオ評論家を自称している人たちすべてに会ったことがあるわけではない。
けれど会ったことのある人の使いこなしの実力(というか程度)は知っている、
会ったことのない人でも書いていることを読んでいると、なんとなくは掴めるところがある。

使いこなしでプロフェッショナルといえる人は、もういない。
使いこなしでプロフェッショナルでない人が、
はたしてきちんとオーディオ機器を、その実力を聴くことができるのか。

このことについて書いていると、長くなって逸れてしまうので、このへんにしておくが、
プロフェッショナルでもない、パーソナルなものではない仕事として、
オーディオ評論をやっている人ばかりのようにしか思えない。

瀬川先生は後継者を育てようとは考えていなかった──、
私はそう思っている。

若手の書き手を育てようとはされていただろう。
だからといって、育てようとしていた人たちを後継者だと考えていたのかは、違うことだろう。

それに後継者を育てようと考えた時点で、
その人はそこで終ってしまうのではないのか。