いま、そしてこれから語るべきこと(その16)
映画「Minamata」が、二日前にようやく公開になった。
2020年秋公開の予定が延びた。
4月に9月公開が発表になった。
それでも、もしかするとまた延期になるかもしれない、と思っていた。
いつまでの公開なのかは、いまのところはわからない。
そんなに長くはないであろう。
来週に観に行くつもりでいる。
まだ観ていないけれど、多くの人に観てもらい。
映画「Minamata」が、二日前にようやく公開になった。
2020年秋公開の予定が延びた。
4月に9月公開が発表になった。
それでも、もしかするとまた延期になるかもしれない、と思っていた。
いつまでの公開なのかは、いまのところはわからない。
そんなに長くはないであろう。
来週に観に行くつもりでいる。
まだ観ていないけれど、多くの人に観てもらい。
インターナショナルオーディオショウでは、
新製品が中心になるわけだから、
去年、あのブースで聴いた音をもう一度と思っていたところで、
聴ける可能性はかなり低い。
それでもアクシスでの、ファインオーディオのスピーカーシステムを、
FMアコースティックスで鳴らした音は、今年も聴ける可能性はけっこうあったはずだ。
アクシスのブースにいけば、いつも聴けるわけではないが、
時間をうまく合せれば、毎年聴ける音といっていい。
そして毎年聴きたくなる音でもある。
タイムロードがジャーマン・フィジックスを取り扱っていたころは、
Unicornの音は、そんなふうに楽しめた。
いま、そういう音を出しているところは、
私にとってはアクシスのブースのみになってしまった。
それも、どのシステムでもいいわけではない。
くり返すが、ファインオーディオをFMアコースティックスで鳴らした音を聴くと、
また来年も聴きたい(おそらく聴けるであろう)と思う。
今年は私は行かないと決めていたし、
アクシスも出展しない。
(その26)で、今回の出展を辞退する会社がある、ようだと書いた。
今月13日から事前予約が始まったインターナショナルオーディオショウ。
その会場案内を見ると、いままでアクシスが出展していたブースに、
今年から復帰したハーマンインターナショナルが出展することがわかる。
このブースは、これまでずっとアクシスが出展していた。
では、今回アクシスは、どのブースを使うのかと案内図を見ても、
アクシスの名前はどこにもない。
今回出展しない会社はアクシスのことだったのか。
日本インターナショナルオーディオ協議会のメンバーは変更があって、
今年から出展する会社もあれば、常連だった会社がメンバーでなくなったりしている。
テクニクス(パナソニック)も、メンバーではないようだ。
前回(2019年)までテクニクスが使っていたブースが空いている。
でも、ここにはハーマンインターナショナルもしくはアクシスが、というわけではない。
ブースはあるのにアクシスは出展しない。
日本インターナショナルオーディオ協議会のサイトをみると、
アクシスはいまもメンバーである。
アクシスが今回は出展しない理由は知らない。
コロナ禍だからなのだろうか。
コロナ禍がおさまれば、来年以降、また出展するのだろうか。
(その1)を書いた時は、今日(その2)を書くことになるとは思っていなかった。
四年前よりも、オーディオ関係者が、
ソーシャルメディアを利用することは増えているように感じている。
そのこと自体は、けっこうなことだ。
けれど、(その1)で書いた人たちが、やはり他にもいたんだな、と思うことがある。
タイトルに「人たち」とつけた。
ほんとうに人たちだな、と思っている。
技術者が自信をもつのはいい。
けれど、なぜかソーシャルメディアを積極的に使っている技術者ほど、
自信が自慢に、いつしか変っているようだ。
(その1)でも書いたことを、またここでくり返すことになる。
オーディオの技術者ではない私だって知っていること(技術、方式)を、
「最初に発見した」、「私が最初だ」と主張する人がいる。
技術者だったら、知っていて当然と思えることを、なぜだか、知らない。
私よりもずっと若い世代の技術者ならば、少しは仕方ないかも、と思いながらも、
それでは技術者とはして未熟だろう、といいたくもなる。
けれど、今回は私と同世代か上の世代である。
なのに、あることについて「私が最初だ」と主張する。
同じことをやっているオーディオ機器は、けっこう前に登場していた。
その後にも、いくつか登場している。
マイナーなガレージメーカーの製品ではない。
ブランドと型番をいえば、誰もが知っているオーディオ機器である。
つまり、少し調べればわかることなのに、それをやらない。
なんと不誠実なのだろうか。
しかも、そういう人たちに限って、指摘されると、知らなかった、という。
確かに知らなかったのだろう。
ならば、「私が最初だ」といわなければいいことだ。
なのに自慢という主張だけはしっかりとする。
ステレオサウンド 47号は、1978年夏に出ている。
私は高校一年だった。
クラシックは聴いていたけれど、主に聴いていたのは交響曲とピアノ曲であって、
オペラに関しては、小遣いではオペラのレコードは高くて買えなかった。
つまり、高校時代、まともにオペラ全曲を聴いてはいなかった。
そんな時期に、47号掲載の「イタリア音楽の魅力」を読んでいる。
キングレコードのプロデューサーの河合秀明氏、
黒田恭一氏、坂 清也氏による座談会である。
黒田先生が語られている。
*
さっき坂さんが、物語は荒唐無稽でバカバカしいといわれたけれど、まさにそのとおりで、たとえばぼくの大好きなオペラの一つにヴェルディの『トロヴァトーレ』があるんです。このオペラなんかは、荒唐無稽さではかなり上位にくるもので、しかも作品としてよく書けているかというと、かならずしもそうではない。ところがこのオペラが、一流の歌い手、一流のオーケストラ、一流の合唱団、一流の指揮者によって演奏されたときのすばらしさは、ほかにちょっと類がないと思えるほどなんですね。
べつなことばでいうと、もともと芸術でもないでもないんだけれど、すばらしく見事に演奏され、そしてその演奏を夢中になって聴くひとがいるときに、そこにえもいわれぬ芸術的な香気とかぐわしさが生まれるわけですよね。もともと徹底的にエンターテイメントであっても、結果として、第一級の芸術になりうるんだ、ということでしょう。
*
黒田先生が語っておられることは、とても大事なことだ。
イタリアオペラに関してだけのことではない。
《その演奏を夢中になって聴くひと》の存在があってこそ、である。
高校生の私は、まともにイタリアオペラを聴いていたわけではなかった。
夢中になる、ずっと手前で踏み止まっていた。
(その13)へのfacebookへのコメントには、
個人的な経験からの結論として、
タンノイの10インチの同軸型ユニットの場合、
12インチ、15インチとは異なり、EL34の方が相性が良いような気がする、とあった。
なるほど、そうかもしれない。
そうだとしたら、EL34のプッシュプルとなると、
パワーアンプの回路は、デッカのデコラのそれをそのままコピーするという手がある。
そのことは(その4)に、ちょっとだけ書いている。
デコラのEL34のプッシュプルの回路については、
「真空管アンプの存在(ふたつのEL34プッシュプル・その1)」で触れているように、
出力段の結線が違うだけで、
ウェストレックス・ロンドンの2192Fと同じである。
伊藤先生が、
サウンドボーイ(1981年8月号〜10月号)に発表されたアンプの範となっているアンプが2192Fである。
デコラのEL34プッシュプルは三極管接続で、
2192FはUL接続である。
どちらをとるかは悩ましいところであるけれど、
個人的に多極管の三極管接続は好きではない。
技術的に、とか、性能的に、とか、そういった理由からではなく、
なんとなく好きではない(嫌いとはいえない)からだ。
これも以前書いていることなのだが、多極管を三極管接続しても、
その多極管の内部構造に変化が生じるわけではない。
三極管と多極管の音の違いは電気的性能の違いもあるけれど、
電極の構造に起因しているところも大きいと考えているだけに、
多極管は多極管として扱うのが潔いと思っている。
それでいてもデコラの音を聴いて憧れをもつ男にとっては、
EL34の三極管接続のプッシュプルの音というのも、一度は聴いてみたい。
タンノイのコーネッタを鳴らすためだけのKT88のプッシュプルの、
しかもプリメインアンプを自作するのか、と問われれば、
その可能性はかなり低い、と答える。
そうであっても、コーネッタのためのKT88プッシュプルのプリメインアンプについて、
あれこれ、回路構成、コンストラクション、デザインなどについて考えていくのは、
ほかの人はどうであろうと、私にとってはけっこうな楽しみの一つだ。
出力は50Wは欲しい、と以前書いた。
プッシュプルで50WとなるとA級動作では無理である。
なのでAB級動作となる。
プッシュプルだから、位相反転回路がどこかで必要になるわけだが、
ここで構想しているのはプリメインアンプなのだがら、
インテグレーテッドされた一台のアンプの中で、位相反転回路を設ければいい。
いまの私にとって入力は、ライン入力だけでいいともいえるのだが、
プリメインアンプと形態をとる以上、フォノ入力も当然考えている。
フォノ入力を省いてしまっては、
レベルコントロール付きのパワーアンプと何が違うのか──、
そのことを考えるはめになってしまう。
それからアンプとしてのサイズ、これも重要である。
大きすぎるプリメインアンプには絶対にしたくない。
そのために必要なことは、使用真空管の数を減らすことが、まず挙げられる。
トランスだけでも、電源トランスが一つ、出力トランスが二つ。
最低でも三つのトランスをかかえることになるのだから。
そこにフォノ入力という、微小レベルの信号を扱うことは、
かなり大きい制約となる。
フォノイコライザーは、トランス類から距離的にも遠ざけて、
しかもトランス同士の干渉も配慮して、
さらにはアンプ全体の重量バランスも重要になってくる──、
何かを優先させれば、どこかが犠牲になるわけで、
うまくバランスをとりながらパズルを完成させていくみたいなおもしろさがある。
シーメンスのオイロダインで聴く、ということは、
私にとっては、ドイツの響きを聴きたいからである。
ドイツの響き。
わかりやすいようでいて、決してそうではない。
ドイツの響きときいて、何を連想するかは、みな同じなわけではないはずだ。
ドイツの作曲家を思い出すのか、
ドイツの指揮者なのか、ドイツのピアニストなのか、ドイツのオーケストラなのか、
ドイツのスピーカーなのか、それすら人によって違うだろうし、
ドイツの作曲家と絞っても、誰を思い出すのかは、また人それぞれだろう。
ドイツの響きとは、シーメンスのオイロダインの音。
オイロダインの音こそ、ドイツの響き、
──そう書いたところで、オイロダインの印象も人によって違っているのはわかっている。
オイロダインを聴いたことがない、という人がいまではとても多いことも知っている。
何も伝わらない、といえばそうなのだが、
私にとってドイツの響きといえば、二人の指揮者である。
フルトヴェングラーとエーリッヒ・クライバーである。
(その12)のつづきとして、
1980年代に手に入れた、何枚かの初期盤のつくりについて書こう、としていた。
他にもいくつか例をあげて、パッケージメディアへの愛着について書こう、としていた。
パッケージメディアとしての魅力についても書こう、としていた。
でも、めんどうに思えてきた。
なので、私の結論のみを書いておく。
愛でると愛する、は違うということ。
そして、ステレオサウンド 49号で、
黒田先生が「サンチェスの子供たちを愛す」で書かれていること。
《好きになる相手をまちがえたらいけない。人形を恋するより、音楽のむこうに感じられる人間を愛したいと思う》
これにつきる。
ほかの人がどう考えいようと、それはそれでいい。
否定することではない。
それぞれが《音楽のむこうに感じられる人間を愛》するのに必要な選択をすればいい。
それだけのことだ。
オーディオの想像力の欠如した者のオーディオは、
バラストのないオーディオなのかもしれない。
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会で、瀬川先生が語られている。
すでに何度か引用しているから、またか、と思われるだろうが、
やはり読んでほしい、と思うのは、
ソーシャルメディアがこれほど普及してきたことも関係している。
*
そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
*
《熱っぽく》とある。
《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか》
ともある。
熱っぽく読んでもらうには、熱っぽく書くということなのだろうか。
強くそうだ、と思っているわけだが、反面、そうでもない、とも思う。
そして、この《熱っぽく》が難しいのは、
オーディオ、もしくはオーディオ機器について《熱っぽく》語っている(書いている)、
語っている(書いている)本人は、そのつもりなのだが、
それを聞いている(読んでいる)方は、
自分を《熱っぽく》語っている(書いている)だけじゃないか、と受けとっていることもある。
ソーシャルメディアには、オーディオ関係者もいる。
そういう人たちが、自身に関係するオーディオ機器(技術)について、
熱っぽく投稿していることが、けっして少なくない。
どれが、とはいわないが、その中には、
読んでいると、書き手の《熱っぽさ》に白ける、とまでいうと、
少し大袈裟なのだが、しらーっ、としてしまうことがないわけではない。
この人は、何を《熱っぽく》語っているのだろうか──。
つまるところ、自分自身を《熱っぽく》語っているのではないのか。
そんな疑問が少しでもわいてくると、またか、と思ってしまうようになる。
本人には、そんなつもりはまったくないのかもしれない。
そうであっても、受け手が必ずしもそう感じているわけではない。
《熱っぽく》語る人だ、そんなふうに受け止めている人は少なくないのだろう。
でも、私みたいに受け止めている人も、またいるはずだ。
《熱っぽく》は微妙で難しい。
いま、ふと気づいたのだが、
窓のない試聴室とリファレンススピーカーとしてのB&Wの800シリーズ。
無関係ではないような気がする。
シベリウスのレンミンカイネン組曲。
いま、誰の演奏が高く評価されているのだろうか。
ほとんど、というか、まったく知らない。
私にとってのレンミンカイネン組曲は、
ユッカ=ペッカ・サラステ/トロント交響楽団による演奏でストップしたままだ。
菅野先生のところで、このディスクを初めて知って、初めて聴いた。
驚いた。
スピーカーから、こういう表情でシベリウスが響いてくるとは、
まったく想像できていなかったからだ。
オーケストラもトロントならば、録音場所もトロントである。
なのに北欧とは、こんな感じなのか、と錯覚できるほどに、
フィンランディアによる録音は素晴らしい。
今日、ふと思い出して、またTIDALで検索したところ、
MQA(44.1kHz)で配信されている。
こんな時間なので、ヘッドフォンで聴いていたけれど、
スピーカーで、しかも大きな音で聴いてこそだ。
それでも思うのは、ピストニックモーションを追求しただけのスピーカーからは、
絶対に、あの日、菅野先生のリスニングルームで響いていたシベリウスは再現できないこと。
2014年に、マリア・カラスのEMIでのスタジオ録音すべてのCDボックスが出た。
69枚組で、25,000円ほどだった。
買おうかな、と思いつつも、他のCDを優先して買わずにいた。
2018年になって、タワーレコードからのメールで、かなり安くなったことを知る。
一万円を切っていた。
カラスのCDボックスには、139ページの本がついている。
写真やエッセイを集めたもので、附録とはいえないつくりだ。
カラスのCDもだけど、この本が見たかった(手に入れたかった)。
発売から四年経って、ようやく購入。
このCDボックスを、2019年1月のaudio wednesdayに持っていった。
マリア・カラスばかりをかけた回だった。
写真家の野上さんも来られていた。
カラスのCDボックスの本を見て、野上さんも購入されたくらいに、
この本の魅力は大きい。
いまではカラスのスタジオ録音は、TIDALで聴ける。
96kHzのMQA Studioで聴ける。
e-onkyoでも購入できる。
マリア・カラスの魅力を存分に味わいたければ、MQAで聴く。
なのでCDボックスで聴くことはなくなった。
おそらく、これからもないはずだ。
CDプレーヤーを買い替えることがあったら、
それぞれの良さを楽しむのに聴くことも出てくるだろうが、
いまのシステムでは、CDの出番は、マリア・カラスに限ってはない。
それではCDボックスを購入したのは、まったくの無駄とは思っていない。
価値が下ったとも感じていない。
それは本の存在があるからだ。