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Date: 10月 18th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その20)

別項でJBLの新製品SA750のことを書いている。
今年の1月にSA750が、JBL創立75周年記念モデルとして限定発売されると発表された時は、
ここまであれこれ書くことになるとは思っていなかった。

まだ書きたいことは残っている。
どこまで書いていくのか、まだ決めていないが、
書いていけば書きたいことがさらに出てくるようにも感じている。

同時に、この項のテーマも思い出していた。
オーディオ評論家は読者の代表なのか──。

ここ十年くらいのステレオサウンドを見ていると、
オーディオ評論家は読者の代表ではない、といえる。

オーディオ評論家か読者の代表であるべきかどうか。
そのことも含めて、ここでは書いていく予定でいるが、
その前に、現状はどうなのか、といえば、上に書いているように、
読者の代表とは、私は感じていない。

自分が使っているオーディオ機器、
いいと思っているオーディオ機器を、
オーディオ雑誌で褒めてくれるオーディオ評論家は読者の代表だ、と、
そんなふうに短絡的に思える人はそれでいいけれど、
読者の代表かどうかは、そういうことで決るものではない。

その19)で、ステレオサウンド 50号での座談会、
そのなかでの瀬川先生の発番を引用している。

ここでまたくり返すが、《熱っぽく読んでもらう》ことの大事さである。
いまのステレオサウンドの読者は《熱っぽく読んで》いるのだろうか。

私は、ある時期まで《熱っぽく読んで》いた。
誰よりも《熱っぽく読んで》いた自負がある。

いまはまったくそんなふうに読めなくなってしまった。
いろんな理由が浮んでくる。

その一つが、オーディオ評論家が読者の代表ではなくなったからだろう。

Date: 10月 17th, 2021
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・番外)

ゴールドムンドのEidos 20とパイオニアのDV600のことは、
どこかで書こう、とは以前から思っていた。

思ってはいたけれど、どの項で書こうかな、とは迷っていた。
今回別項「JBL SA750」を書いていて、ここに書くことにした。

Eidos 20のベースがDV600だということがインターネットで騒がれたころ、
DV600を購入して、Eidos 20に近づけよう、という人が現れた。

同じことを、私も考えていた。
DV600を二万円を切る価格で買ってきて、徹底的に改造していく。
Eidos 20と直接比較試聴してどうこうとかではなく、
ゴールドムンドがEidos 20のベースモデルとして選ぶくらいなのだから、
かなり楽しめるだろうし、いい結果も期待できるであろう、と。

DV600の改造記のウェブサイトは、二つくらいあったように記憶している。
それらのウェブサイトを見るまでもなく、
実際にゴールドムンドのように筐体をまったく別物にする、というのは、
かなりの手間であることは、やる前からわかる。

Eidos 20の内部写真では、二枚のプリント基板はDV600そのままのように見える。
少しは手を加えていた可能性も考えられるが、
それほど手の凝んだことをやっていたわけでもないだろう。

電源トランスは違っていた。
けれどいちばん大きな違いは、やはり筐体である。

CDプレーヤーは、アナログプレーヤー以上に振動の影響を受ける。
以前、20万円ほどの国産CDプレーヤーを、廃棄寸前までいじった経験からも、
これははっきりといえる。

DV600の筐体は、ペナペナといっていい。
ゴールドムンドの筐体は、しっかりとしている。
それに仕上げがまるで違う。

Eidos 20とDV600の音を聴いたことはないが、
おそらくそうとうに違っていたと予想できる。

これを金属加工の専門家でない者がやろうとすると、かなりの手間となる。
どこかに加工を依頼することになるはずだが、けっして安くはないどころか、
そうとうに高くつくことになるはずだ。

しかも一台作って、すべてうまくいく、ということはなかなかない。
試作機を二台、三台ほど作ることになったら、かかる費用はどれだけになるのか。

それに自身の手間賃をどう捉えるか。
まったくゼロとするのか、時給換算してみるのか。

日本で二万円を切る価格で売られていたDV600をベースしたEidos 20が、
約六十倍の価格になる。

このことを、ぼったくりと言い切るのは簡単だ。
私も120万円は高いな、と思うけれど、ぼったくりか、というと、
そこまでとは思っていない。

DV600の二万円は日本での価格であって、
ゴールドムンドはパイオニアから直接購入しているわけでないのだから、
しかもヨーロッパでの価格だから、二万円ということはなかったはずだ。

それをベースに、筐体がまったく別物に仕上げられてスイスから送られてくる。
価格の違いは、そうとうに出てきても別におかしくはない。
でも、くり返すが120万円はやはり高い(とは思うが、ぼったくりではないとも思う)。

ぼったくりと主張する人はそれでもいよう。
そういう人は、自分でEidos 20に近づける工夫をやってみるといい。

Date: 10月 17th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(コメントを読んで)

(その21)へのfacebookのコメントで、
SA600の価格を現在の物価で換算すると、数百万円でしょう、とあった。

数百万円で、どのくらいの価格帯を想像するのかは人によって違ってくるだろうが、
百万円台を数百万円とする人は、ほとんどいないだろう。

私の感覚では、三百万円以上が、数百万円といったときの下限であり、
五百万円以上が、なんとなくではあるが数百万円となる。

SA600の1967年当時の、日本での価格は200,100円である。
1967年当時初任給は、検索すると26,200円だそうだ。
いまは200,000円ほどだから、単純計算では1967年当時の200,100円は、
1,500,000円を超えることになる。

ちなみにSA600が特集に登場しているステレオサウンド 3号の定価は580円である。

3号の特集に登場している国産プリメインアンプで、もっとも高価なのは、
ソニーのTA1120Aで96,000円だ。
SA600の約半分の定価である。

SA600に近い価格のアメリカ製のアンプは、
マランツのModel 7Tが160,000円、Model 15が195,000円、
マッキントッシュのC22が172,000円、MC275が274,000円、
JBLのSG520が248,000円、SE400Sが143,550円などがあった。

SA600は高価なプリメインアンプであったのは確かなのだが、
現在の物価では数百万円というふうには、まったく思えないし、感じられない。

コメントは、数百万円をアンプに出す人は、JBLのアンプを選ばないでしょう、
とも続く。

数百万円もするのであれば、私も同じ感覚だが、百数十万円ならば違ってくる。
真にSA600の現代への復活を感じさせてくれるJBLのプリメインアンプであるならば、
百数十万円を払う人は、けっして少なくないはずだ。

Date: 10月 17th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その21)

ゴールドムンドのEidos 20は、ステレオサウンドの新製品紹介記事で取り上げられている。
166号あたりだったと記憶しているが、手元にないので確認していない。

モノクロ1ページの扱いだったはずだ。
傅 信幸氏が担当されていたはずだ。

Eidos 20の中身がパイオニアのDV600であることは、
ステレオサウンドの記事の前からインターネットでは話題になっていた。

だからこそ記事では、そのへんのことをどう触れているのかは、
少なからぬ人が興味を持っていたと思う。

傅 信幸氏はまったく触れていなかったわけではないが、
あくまでもさらっとした触れ方だった、と記憶している。
少なくとも問題となるような書き方ではなかった。

ここでいう問題となる、とはクライアントから苦情がくる、という意味である。

ちなみにきいたところによると、
ゴールドムンドはパイオニアから直接DV600を購入できたわけではなかった、ようだ。
市販されたモノを購入してのEidos 20であったそうだ。

とにかくレッド・ローズ・ミュージックの件も、
ゴールドムンドの件も、オーディオ雑誌は問題というふうには取り上げなかった。

Eidos 20に関しても、記事の前に話題になってしまっていたから、
傅 信幸氏は触れざるをえなかったのではないのか。
話題になっていなかったら(発覚していなかったら)、
そのことにはまったく触れずにいたように思ってしまう。

こういうことはオーディオ雑誌にとっても、オーディオ評論家にとっても、
やっかいなことでしかない。
触れずにおくのが、いちばん楽である。

触れざるをえない場合でも、さらっと触れるだけにしておく。
説明から逃げる態度こそ、オーディオ業界で喰っていくため、とでも、
彼らは口を揃えるかもしれない。

つまり、JBLの新製品であり、
JBLの創立75周年モデルのSA750は、
こういったオーディオ業界が抱える問題点を具象化し提示したモデルといえる。

JBLというよりも、ハーマンインターナショナルという大企業は、
こういったオーディオ業界が抱えている問題をあえて指摘するために、
もしくはオーディオ業界を試すなのか。

そんなふうに思ってしまうのは、SA750が単なる新製品ではなく、
75周年モデルでもあり、SA600のオマージュモデルということが前提としてあるからだ。

SA750がオーディオ雑誌で賞をとったとしよう。
そのことをJBL(ハーマンインターナショナル)を含めて、
オーディオメーカーは、どう捉えるだろうか。

SA750は存在価値というより、そういう意味で存在意義がある、といえる。
少しでも、なにかをあぶり出してくれるのか、それともまったくなのか。

そのどちらかであってもSA750の存在意義は変らない。

Date: 10月 16th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その20)

JBLのSA750とアーカムのSA30。
十数年前のことを思い出す人も少なくないだろう。

マーク・レヴィンソンがマークレビンソンを辞め、チェロを創立。
そのチェロからも離れてレッド・ローズ・ミュージックを始める。

日本に最初に紹介されたレッド・ローズ・ミュージックの製品は、
オーディオ・プリズムの真空管アンプを、
マーク・レヴィンソンがチューンした、というモノだった。

それから数年後だったか、
レッド・ローズ・ミュージックのソリッドステートアンプも出てきた。

これが中国のDUSSUNというブランドのアンプそのままだ、
というウワサが出てきた。
アンプだけでなく、レッド・ローズ・ミュージックのスピーカーシステムも、
Aurum Cantusというブランドの製品そのままだ、というウワサもあった。

DUSSUNとAurum Cantus、どちらも中国のメーカーである。
Aurum Cantusのほうは、中国での価格がどの程度だったかは知らないが、
DUSSUNのアンプは、かなり安かった。

これらにレッド・ローズ・ミュージックのブランドがつくだけで、
けっこうな価格の製品になっていた。

マーク・レヴィンソンが、多少はチューンしていたというウワサもある。
でも、当時は、インターネットで検索してみても、
内部写真の比較ができなかったので、実際はどうだったのかはっきりとしない。

同じような例で、もっと知られているのがゴールドムンドのEidos 20の件である。
Eidos 20は百万円を超えるユニバーサルプレーヤーなのだが、その内部は、
パイオニアのユニバーサルプレーヤーDV600(実売は二万円を切っていた)である、と、
こちらも十数年前に、けっこう話題になった。

Eidos 20とDV600は内部写真が、当時でも比較できた。
まったく同じではない。
それに筐体は別物である。

レッド・ローズ・ミュージックを基準に考えると、良心的といえなくもない。

これらの件を、オーディオ雑誌はどう説明しただろうか。

Date: 10月 15th, 2021
Cate:

賞からの離脱(オーディオの殿堂・その1)

ステレオサウンド 220号の染谷編集長の編集後記に、
「オーディオの殿堂」を読者参加で企画している、といったことが書かれてあった。

これを読んで、二つのことをおもっていた。
また、賞を新たにやるのか──、というあきれからくるもの、
そして、五味先生が以前書かれていたことをやろうとしているの──、である。

「オーディオ巡礼」に収められている「ラヴェル《ダフニスとクローエ》第二組曲」、
そこに、こう書かれている。
     *
 モーリス・ラヴェルのものなら、およそ揃ってないレコードはなさそうなのである。店の名前は“Editions Durand & Cie”——もしかすれば有名な楽譜出版者ジャック・デュランの店だったかも知れないが(ディアギレフの依頼で作曲したバレー曲《ダフニスとクローエ》が、当のディアギレフの気に入らず、上演の躊躇されたとき、この曲を賛美し、ぜひ舞台にかけるよう取り計らったのが出版者デュランだったという)でもラヴェルの伝記などほとんど私は知らないし、まして対応に出てくれた品のいい爺さまが、ジャック・デュランの遺族かどうか、たずねようのないことである。店内のレコードを、あれこれ、ただ私は眺め、少なくともラヴェルに関するレコードなら、ラヴェル自身のピアノを弾いた稀覯盤は言うまでもなくステレオの今日にいたるまで、およそ市販されたいっさいのレコードが揃えられているようなのに感動したのだ。
 こういう店は、ラヴェルの育ったパリにならあってふしぎはないようなものの、たとえば鴎外や漱石の暮した東京で、その全著作を(初版本以来)揃えている書店があるだろうか? 岩波あたりになら揃っていそうにも思えるが、揃っているのは全集の底本としてで、多分、他社の出版したもの全てというわけではないだろう。本とレコードでは出版される数がちがう。すべてをそろえよという方が無理かも知れないが、しかし文化の底辺の広がり、その深さといったものを私はこのことに感じた。パリがいかに文化の都であるかという実証を見たおもいがしたのである。
 レコード店は日本の都会にならずいぶんあるだろう。有名店といわれるものも東京だけで三、四ある。だが、たとえばベートーヴェンのものであれば廃盤になったのも含め、すべて揃っているような店があるだろうか。曾てあったろうか?
 レコード屋はレコード・ライブラリでは勿論ない。売れそうな盤ばかり揃えていて結構であるし、稀覯盤に類するものは骨董品的値段がついて売られるのもやむを得ない。だが全国に一店くらいは、その店へ行けば少なくともベートーヴェンの全てのレコードは揃っている——売ってもらえずとも聴くことができる——そういう店があっていいはずなのである。ベートーヴェンでは量が厖大すぎるというなら一人の演奏家のものでもいい。パブロ・カザルス、あるいはジャック・ティボー、フルトヴェングラー……個人で、好きなそういう音楽家のレコードは可能なかぎり入手してきた愛好家はいるはずである。珍重すべきそんなレコードを多分、何枚となく秘蔵する個人はいるだろう。本来なら(個人でそうなら)商売ぬきでそういうレコードを集めているレコード店主がいておかしくないはずである。だがいたためしを私は知らない。また今となっては、集めようにも容易に全てを揃えることは不可能だろう。この不可能さに、パリと東京の、少なくともクラシカル音楽での教養の差、土壌の深さの違いといったものを痛感せざるを得ない。
 同じことがオーディオでもいえそうに思うのだ。
 レコード文化に比して、はるかにオーディオ(弱電技術によるそれ)は歴史が浅い。技術の進歩とともに——レコードとちがい——古いものは先ずクォリティもわるく今日の用をなさない。だがLPとなり、ステレオとなってからもほとんど変りばえのせぬものにスピーカー・エンクロージァがある。ユニットがある。私がタンノイ・モニター15に狂喜したのは昭和二十七年だった。JBLの15吋のウーファー(32オームという変なものだが)を使ったのは昭和三十一年。今もってこれらが音響学的に劣っているとはまったく思えないし、約四十年前のウェスターンのトーキー用スピーカーを入手したいと切望している愛好家を知っている。ウェスターンのスピーカーは今なおオーディオの先哲・池田圭先生宅で群小スピーカーを睥睨するごとき美音を響かせているそうである。
 ちっとも進歩していないのだ。
 まあウェストレックスは今日では手が出ないとしても、せめて、名器と称されたパーツ——マランツ7、マランツ9、マッキントッシュMC275、マランツ10B、エレクトロボイスのパトリシアン、デッカ・デコラ、パラゴン、クリプシュ・ホーン、スチューダーC37、アンペックス300、といったものが、そこへ行けば必ず比較試聴できるオーディオ店が一軒くらい日本にあってもよかったのではなかろうか?
 だがない。新品ならどんどん入って来、どんどん消えて行くが真に名品と世評の高かったものが揃っている店は、ない。
 そういう国で、われわれはドレガイイ、コレハワルイと御託をならべている。何と底の浅いオーディオ文化か。
 各メーカーの製品でなくてもいいのである。せめて、マッキントッシュが素晴しいと思うなら、マッキントッシュの市販したすべてのアンプを今もそろえている店が一軒くらいはなかったのか? JBLを推称するならJBLの全製品をそろえた店——少なくともその大方は店頭に並べられているような店が。
     *
《何と底の浅いオーディオ文化か》と嘆かれている。

「ラヴェル《ダフニスとクローエ》第二組曲」とステレオサウンド 36号に載っている。
36号は、1976年秋号である。
それから45年。

ようやく編集主幹であり、創刊者である原田勲氏は、
五味先生が嘆かれていたことを解消するために動き出すのか。

殿堂入りしたオーディオ機器をすべて集めて、
それらはすでに製造中止になって、そうとうに時間が経ったモノばかりとなるだろうから、
コンディションもすべて整えたうえで、
《そこへ行けば必ず比較試聴できる》場をつくる。

そう期待したいし、そうであるならば、なんと素晴らしいことだ。

ただただ読者の投票によって、殿堂入りのオーディオ機器を決める──、
そんな誰もが考えそうな底の浅い企画ではないからこそ、
事前に染谷編集長が編集後記で予告している、と信じたい。

Date: 10月 15th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その19)

(その18)へのfacebookでのコメントに、OEMのことが出てきた。
過去のオーディオ機器にもOEMだったモノはいくつかある。
それらは、当時、OEMであることが、オーディオ雑誌に載ってたりしていたのか、とあった。

私が読み始めたころは、載っていた。
隠すようなことではなかったからだろう。

OEMとは、original equipment manufacturingの略であることは知られている。
私の認識では、OEMとは開発・設計などは自社で行い、
製造を他社に依託することだ。

アンプを中心につくってきたメーカーがカートリッジを手がけようとする。
けれどまったく異る部門ゆえに、カートリッジ専門メーカーと共同で開発していく。
そして製造も、そのカートリッジ専門メーカーにまかせる。

これもOEMである。

だから何も隠すようなことではないから、
すべてではないだろうが、当時は割とオープンに知られていた。

けれどJBLのSA750はOEMなのかというと、そうではない。
すでに発売されている他社の製品をもってきて、外装のみをつくりなおしただけといえる。

少なくともステレオサウンド 220号掲載のSA750の内部写真と、
インターネットで見ることのできるアーカムのSA30の内部写真を比較すれば、
同一のアンプとしかいいようがない。

他社が開発したモノが優れていて、
自社ブランドで出すことになんのためらいのない場合、
それが他社ブランドで市場に出ていなければ、
そして独占的に自社ブランドのみで売るのであれば、それも一つのやり方とは思うが、
JBLのSA750は、そういう例でもない。

まるごとアーカムのSA30といえる内容でしかない。
アーカムとJBLは、いまでは同じハーマンインターナショナルの傘下なのだから、
こういうやり方もありなのか。

ありだよ、という見方をしたとする。
それでもSA750が、単なるJBLの新製品ということであれば、まだいい。
けれどSA750は、JBL創立75周年記念モデルである。

しかもSA600のオマージュモデルということになっている。

このことが、どうしてもひっかかる。

Date: 10月 14th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その18)

ベイシーの菅原正二氏は、JBLのSA750を購入されている。
ステレオサウンドの冬号(221号)の菅原氏の連載には、
SA750のことが登場してくるであろう。

おもしろく読めることを期待している。

菅原正二氏はオーディオ評論家ではないから、
アーカムのSA30がSA750のベースになっていることなんか、
音が良ければいい、ということになるはずだ。

そんなことにはまったく触れられてはずだし、
関心もないはずだ。

菅原正二氏の場合、それでいい。
くり返すが、菅原正二氏はオーディオ評論家ではないからだ。

説明することから逃げている──。
オーディオ評論家に感じている不満の一つが、このことだ。

Date: 10月 14th, 2021
Cate: 欲する

新月に出逢う(その8)

昨日(10月13日)から19日まで、東京の丸善本店のギャラリー(4F)で、
人・形展」が開催されている。

En氏の新作が展示されている。
人形はものを言わないし、動きもしない。
けれど、なんと多彩なのか、と人形展に行くたびに感じている。

Date: 10月 14th, 2021
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(その7)

満足することと楽しむことは、近いところにありながらも同じではない。

私に限ってのことをいえば、20代のころは、少しでもいい音を出そうとしていた。
満足しようとしていた、ともいえる。

いまはどうかといえば、楽しむことをおぼえた、というか、
発見している、ともいえる。

Date: 10月 14th, 2021
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(iPhone+218・その19)

十年前の2011年10月14日にiPhone 4Sを手にいれた。
それまでソフトバンクの独占だったのが、auも取り扱うことになった。

iPhoneを使いたいがためにソフトバンクにしようかと何度も考えたけれど、
ソフトバンクという会社を信用していないので、
auかドコモが扱うようになるまで我慢していた。

やっとauも扱うことになった。
一週間前の予約開始日にauショップに並び、発売初日に手に入れることができた。

その日は、夢中になってiPhoneをいじっていて、
このブログを書きそびれそうになった。

それから十年。いま五台目のiPhoneを使っていて、
誰もそうだろうが、iPhoneに触れない日はない。

iPhone登場前から、iPodからデジタル出力を取り出してD/Aコンバーターに接続して、
ということはすでに行われていた。

ワディアから、そのためのD/Dコンバーターが出ていたし、
ゴールドムンドの試作機もあった(けれど発売には到っていない)。
オンキョーの製品もあった。

ワディアを使っての音は、聴く機会があった。
だからiPhoneでも同様に音を聴くことができるのはわかっていた。

それでもここまでiPhoneで音楽を聴く時間が増えるとは、十年前には予想できなかった。

Date: 10月 13th, 2021
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その14)

不遜な人たちが現れるようになってきたのも、
時代の軽量化なのだろうか。

Date: 10月 13th, 2021
Cate: 老い

老いとオーディオ(番外)

老いていることをどんなに否定しようとしたところで、
身体に変化は訪れるものである。

30分以上椅子に座っていて立ち上ろうとする際、
関節がかたくなっていることを実感する。

動いていれば、そんなこと感じないのだが、
じっとしていた態勢から動こうとする際には、どうしても自分の齢を感じざるをえない。

ワクチンに懐疑的な人がいる。
完全に否定する人もいる。

私も最初は懐疑的なところも持っていた。
けれどファイザー製のワクチンを二回接種した。

一回目の接種後にあらわれた身体の変化は、関節のかたさの解消であった。
いわゆる副反応といわれている症状はまったくなかった。

むしろ身体の調子は接種前よりもいい。
若返った、という実感がある。

結果としてワクチンを打って良かった。
すべての人が同じなわけではない。

打たなければ良かった──、という人もいるはずだし、
ワクチンを打たずにすめば、それがいちばんいいかもしれない、と私だって、
接種前はそんなふうに考えていた。

それでも打つ気になったのは、たまたま仕事で一緒になった70代の男の人が、
ワクチンを打ってから関節の痛みがなくなった、と話していたのを聞いたからだ。

それからもうひとつ。
これは気のせいだよ、といわれそうなのだが、音の聴こえ方も変ってきた。

Date: 10月 12th, 2021
Cate: 映画

NO TIME TO DIE

007シリーズの最新作「ノー・タイム・トゥ・ダイ」。
この映画を観終ってすぐの感想は、五味先生はなんといわれるだろうか、だった。

007シリーズは好きだから、高校生になってから上映されてきた作品は、
すべて映画館で観ている。

そういえば、そのころの007の映画は正月映画としての娯楽大作的扱いだった。
そう007は、死なないのだ。

これから先は「ノー・タイム・トゥ・ダイ」の結末について間接的に触れる。
なのでネタバレが絶対にイヤという人は読まないでほしい。

五味先生は「音楽に在る死」の冒頭に、こう書かれている。
     *
 私小説のどうにもいい気で、我慢のならぬ点は、作者(作中の主人公)は絶対、死ぬことがない所にある。如何に生き難さを綴ろうと、悲惨な身辺を愬えようと「私」は間違っても死ぬ気遣いはない。生きている、だから「書く」という操作を為せる。通常の物語では、主人公は実人生に於けると同様、いつ、何ものか——運命ともいうべきもの——の手で死なされるか知れない。生死は測り難い。まあいかなる危機に置かれても死ぬ気づかいのないのは007とチャンバラ小説のヒーローと、「私」くらいなものである。その辺がいい気すぎ、阿房らしくて私小説など読む気になれぬ時期が私にはあった。
 非常の事態に遭遇すれば、人は言葉を失う。どんな天性の作家も言葉が見当らなくて物の書ける道理はない。書くのは、非常事態の衝撃から醒めて後、衝撃を跡づける解説か自己弁明のたぐいである。我が国ではどういうものか、大方の私小説を純文学と称する。借金をどうしたの、飲み屋の女とどうだった、女房子供がこう言った等と臆面もなく書き綴っても、それは作者の実人生だから、つまり絵空事の作り話ではないから何か尊ぶべきものという暗黙の了解が、事前に、読み手と作者の間にあるらしい。ばからしいリアリズムだ。勿論、スパイ小説にあっても主人公はいかなるピンチからも脱出するに相違ない。ヒーローが敵国の諜報団にあっ気なく殺されるのではストーリーは成立しない。この、必ず生きぬけるという前提が、読者を安心させているなら、救われているのはヒーローではなくて作者である。救われたそんな作者の筆になるものだから、読む方も安心していられる。つまり死ぬ気遣いのないのが実は救いになっていて、似た救いは私小説にもあるわけだろう。どれほど「私」が生きるため悪戦苦闘しようと、とにかく彼はくたばることがないのだから。
     *
007シリーズでは、ほぼ毎回、敵の詰めの甘さがひっかかることがある。
ストーリーを成立させるためなのはわかっているから、目くじら立てることではない。

でも、後少し詰めがしっかりしていれば、野望がかなうのに……、
そんなふうに感じている人はけっこう多いのではないか。

ダニエル・クレイグ主演の007シリーズは、
「ノー・タイム・トゥ・ダイ」を観に行く前に、プライムビデオで四作品をもう一度観ていた。

それでも安心しながら観ていたのは、五味先生が書かれている通りであるからだ。
だからこそラスト近くになっての展開は、もしかして……、と思わせる。

それでも007……だからというおもいもあった。

「音楽に在る死」のなかほどで、こうも書かれている。
《死のつらさを書かぬ作者は、要するに贋者だ》。

007シリーズでは、多くの登場人物が死ぬ。
けれど、それらは死のつらさをえがいたものとは、ほとんどいえない。

「ノー・タイム・トゥ・ダイ」のあのシーンは、妙に明るくえがかれている。
だから、そこには死のつらさがない、とは思わない。

Date: 10月 12th, 2021
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その27)

その24)は、二年前の5月のこと。

2019年5月4日に起ったことを書いている。
この日、私が住んでいるところは、
こんなのが降ってくるの? というぐらいの雹の土砂降りだった。

それだけだったら止めば何の問題もないのだが、
それによる被害が生じた。
けっこう大変な状況で、こんなことが起るの? と思ってしまうほど。

(その24)に書いてるように、
この日は、写真家の野上眞宏さんから「来なよ」と誘われていた飲み会だった。

何もなければ行くつもりだった。
でも、こんなことが起ってしまって、行く気を完全になくしてしまっていた。

なのに、元号も令和にかわったことだし、という理由にもならない理由をつけて、
一時間遅れで、その会に出席した。

いまおもうと、この日、出掛けてよかった、と実感している。
この日、赤塚りえ子さんと知りあった。

大変なことにめげてでかけていなければ、赤塚さんと知りあうことはなかっただろう。

先週木曜日の集まりも、赤塚さんのところでだった。
ここでも新しい出逢いがあった。

2019年5月4日、面倒がらずに出掛けたことで、きっかけとなったのかもしれない。