Archive for category テーマ

Date: 11月 16th, 2021
Cate: 新製品

新製品(マッキントッシュ MC3500・その4)

MC3500が業務用アンプであり、
今回のMC3500 Mk IIが家庭用アンプとして開発されたものであることは、
マッキントッシュのMC3500のサイトの写真からもはっきり伺える。

新旧二台のMC3500が並んで写っている。
MC3500は、当然古いわけだけど、ここでの写真では、
どこかで使っていたMC3500を持ってきてそのまま撮影している感じである。

冷却ファンをもつMC3500の内部はホコリがたまりがちである。
写真のMC3500は、まさにそのとおりであって、
写真撮影にあたって内部のクリーニングを行っていない。

そのとなりに新品のMC3500 Mk IIである。

この写真をみて、二台のMC3500は、
出力こそ、そしてアンプとしての規模こそ同じであっても、別物であることを、
マッキントッシュは提示している、と感じた。

だからこそ新型のMC3500は、
フロントパネルにもリアにも、型番の表記がMC3500 Mk IIではなく、MC3500なのだ。

MC3500 Mk IIとするのであれば、
業務用のMC3500の改良版でなければならない。

今回発表されたMC3500は家庭用アンプである。
いまのマッキントッシュは、MC3500を発表した時のマッキントッシュはとは違い、
業務用アンプメーカーではなく、家庭用アンプの専業メーカーである。

Date: 11月 16th, 2021
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その14)

その7)で,6月からAmazon Music HDも利用している、と書いている。
いまは、というと、10月にAmazon Music HDは契約解除した。

TIDALよりも日本語の歌に関しては揃っている。
Amazon Music HDで聴くのは、ほぼ日本語の歌だけになっていた。

それでも月々の支払い額は高いわけでもないから、
そのまま使っていてもいいと思ったけれど、
9月、10月になるとほとんど聴かなくなっていた。

また聴きたいと思うようになったら、その時また契約すればいいし、
それも簡単に行えるのだから、それでいい。

結局、私のシステムでは、Amazon Music HDはそれほどいい音とは思えなかった。
TIDALがMQAにさらに積極的になってくれたことも関係している。

TIDALで聴く時間がほんとうに長くなってきている。
楽しくて楽しくて、といった感じで聴いている。

この楽しいという感じが、Amazon Music HDには私の場合、感じられなかった。
まったくなかった、とはいわないが、薄いなぁ、と思っていた。

TIDALという書店とAmazon Music HDという書店。
どちらも規模は大きく、ラインナップもまったく違うというほどではない。

それでも楽しい、という点において、私はTIDALという書店をとる。
Amazon Music HDという書店は、思い出したようにふらっと入ればいい。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その18)

「トイレのピエタ」。
手塚治虫が死の前日、日記に書き残した作品のタイトルであり、
その構想が「トイレのピエタ」である。

インターネットで検索すれば、いくつかの記事がヒットする。

癌患者が入院先の病院のトイレの天井画を描き始める──。

映画「MINAMATA」の最後のシーン。
あの写真の撮影シーン。
あれもピエタである。

あの写真は、私だってずっと昔に見て知っている。
そのくらいよく知られている写真だ。

手塚治虫が知らなかったわけがない。

私には無関係とはとうていおもえない。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、グレン・グールドのこと(その5)

昨晩遅くに、グールドのハイドンを聴き始めた。

グールド初のデジタル録音であるハイドンは、最初LPで買って聴いていた。
それからCDを買って聴いていた。

今回MQA Studioで聴いていると、LPで聴いていたころを思い出す。
結局、最後まで聴いていた。

こうやって夜更かしの日が続いていくわけだ。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: 四季

さくら餅(その6)

すやの栗きんとんのことを書いている。
ひとつだけ補足しておきたい。

私がよく買っていたころは、毎年9月2日に発売が開始されていた。
おそらくこれはいまも同じだろう。

以前の記憶では、11月になると味が落ちる。
9月、10月の栗きんとんの色と11月の栗きんとんの色は違う。
ほのかな感じの色が、そうでなくなってくる。

旬のものだから、その変化は仕方ないわけで、
早い時期に食べるのがおすすめである。

おそらく、このこともいまも変っていないはずだ。

Date: 11月 15th, 2021
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その4)

EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップの、
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
──もう何度も引用している。

引用するたびに思っていることは、
ここでの音楽とは、
孤独な人にむかって「僕がここにいる」といってくる音楽とは、
レコード(録音物)を再生しての音楽を指しているように感じることだ。

スミ・ラジ・グラップがレコード会社のプロデューサーだったから、
そう思うわけではない。

少し考えてみればわかることだ。
孤独に陥っている人が、コンサート会場に音楽を聴きに行くだろうか。
行く人もいよう。
それでも、ほんとうに孤独を強く感じている、まさにその時に、
都合よくコンサートが行われているなんて、稀なことだ。

それに聴きたい音楽、心が必要としている音楽が、
そのコンサートで演奏されるか──、これはもっと可能性が低くなる。

それでもゼロではないだろうが、
そこでの演奏が素晴らしいかどうかの保証もない。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
それはオーディオを介して聴く音楽である。

Date: 11月 14th, 2021
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーとデザイン(その6)

絢爛たる混淆。

四年前の(その5)の最後に、そう書いた。
オーディオ・アクセサリーは、そのころもいまも絢爛たる混淆のままと感じる。

賑やかと華やかは、ずいぶん違うものだ。

先日、すやの栗きんとんをひさしぶりに食べたことを、
別項「さくら餅(その5)」で書いた。
そこで、すやの栗きんとんは、これから先もずっと装飾されることはないはず、とも書いた。

それについてはいまも変らずそう思っているのだが、
もしすやの栗きんとんが饅頭ほどの大きさだったら、どうなっているだろうか。
そんなことを想像していた。

すやの栗きんとんは、栗とほぼ同じくらいか、ちょっと小さいかなというぐらいの大きさだ。
小粒である。

味もそうなのだが、大きさ的にも装飾を拒否している、ともいえる。
けれど世の中には、実にさまざまなことをやる人がいるものだ。

すやの栗きんとんを前にして、もっと美味しく食べる方法があるはずだ、と、
独りよがりな創意工夫をする人がいてもおかしくない。

それでも小粒なすやの栗きんとんを十粒ほどを一粒にまとめてしまい、
そこに装飾的なことをする人がいるかもしれない。
そして、ほら、こんなに豪華でしょう、と誇らしげに自慢するかもしれない。

Date: 11月 14th, 2021
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その7)

マスターテープに記録されている音をそのまま再現できれば、
素晴らしい音が得られるし、音楽的感動も得られる──、
オーディオに興味をもった人ならば、少なくとも一度はそう考えたことがあるだろう。

私もそう考えていたことがある。

再生機器というか再生系において何の色づけもなされず、
そして何の欠落も生じずに、
さらにまったついじることなく、
マスターテープに記録された音そのままを再生(再現)できれば、
それははたして、ほんとうにいい音、
それだけでなく聴いて感動する音が得られるのか。

いまだかつて、誰一人として、その音を聴いているわけではない。
それにマスターテープにどんな音が記録されているのか、
それを正しく把握している人がいるのだろうか。

菅野先生がよくいわれていた。
自分が録音したマスターテープであっても、どんな音が録音されているのか、
はっきりとはわからない、と。

さらにオーディオマニアはマスターテープの音が最上だと思っている人がいるけれど、
きちんとつくられたレコードならば、そっちのほうが音がいい、と。

録音した人ではない者が、マスターテープの音について語る。
それがオーディオの世界といってしまえば、それ以上いうことはないのだが、
オーディオ機器の開発に携わっている者が、大真面目に、
しかもまったく疑うことなく、そう主張しているのをみると、
一つだけ、その人に訊きたくなることがある。

マスターテープの音そのままの再生(再現)ならば、
音量はどうするのか、である。

音量調整をした時点で、音をいじったことになるわけなのだが、
こういう主張をする人にかぎって、そのことを無視している。
そのことに気づいているのか、気づいていないのか、
そこまでは私にはわからないけれど、音量調整は、
音をいじることではない、とでも思っているのだろうか。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その12)

十年前、「確信していること(その20)」で書いたことを、くり返す。

瀬川先生のオーディオ評論家としての活動の柱となっているものは四つある。
これは本のタイトルでいったほうがわかりやすい。

「コンポーネントステレオのすすめ」(ステレオサウンド)
「虚構世界の狩人」(共同通信社)
「オーディオABC」(共同通信社)
「オーディオの系譜」(酣燈社)

それぞれのタイトルが本の内容をそのまま表わしている、といえる。

「コンポーネントステレオのすすめ」は、
オーディオがプレーヤー、アンプ、スピーカーをそれぞれ自由に選んで組み合わせることが当り前のことになって、
その世界の広さ、深さ、面白さを伝えてくれる。

組合せは、他のオーディオ評論家もやっているのでは? といわれそうだが、
組合せに関して、瀬川先生ほど積極的に取り組まれていた人はいなかった、と私は感じている。
それに瀬川先生の組合せは、興味深いものが多かった。
それは単に読み物として興味深いだけでなく、
実際に自分で自分にとっての組合せを考えていく上でのヒントにつながっていくものがちりばめられていた。

瀬川先生の組合せのセンスは、他の方々とはあきらかに違う。
この違いを感じているのかどうかは、読み手次第としかいいようがない。

「虚構世界の狩人」には説明は要らないだろう。

「オーディオABC」はタイトルからいえばオーディオの入門書ということになるが、
瀬川先生の平易な言葉で書かれた文章は、決して表面的な入門書にはとどまらず、
確か岡先生が書評に書かれていたように「オーディオXYZ」的な内容でもある。
オーディオを構成しているものについて学んでいくには最適の本のひとつである。

「オーディオの系譜」は、オーディオの歴史を実際の製品にそって語られている。

もちろんこの四つ以外に、オーディオ雑誌での製品評価、新製品紹介もあるのだが、
これはオーディオ評論家として誰もがやっている柱であるから、あえて加えない。

でも、オーディオ評論家と呼ばれている人が誰でもやっている柱、
とつい書いてしまったが、この一本の柱すら、まともにやれていない人もいる。

そういう人は、オーディオ評論家としての柱はない、ということになるのか。
それとも私には見えていない柱を持っているだろうか。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: Glenn Gould, ディスク/ブック

グレン・グールドのモーツァルトのピアノ・ソナタ

13歳の秋、「五味オーディオ教室」に、こうあった。
《モーツァルトの、たとえば〝トルコ行進曲〟の目をみはる清新さ》──、
グレン・グールドのことだ。

まだ、この時は、グールドのトルコ行進曲は聴いていなかった。

《目をみはる清新さ》、
この時は勝手に、こんな演奏なのかしら、と想像していた。

実際のグールドの演奏は、聴きなれていた演奏とは大きく違っていたし、
想像とも違っていた。

それからずいぶん月日が経った。
くり返し聴いた日々もあったし、
まったく聴かなくなったころもあった。

SACDでも出たので手に入れた。
SACDでも聴けるし、いまではTIDALでMQA Studioでも聴ける。

ついさっきまで聴いていた。MQA Studioで聴いていた。
聴いていて、いままで感じたことのないことを考えていた。

なにかものすごいつらい状況に追いやられた時、
音楽を聴く気力すらわいてこない時、
とにかく尋常ではない時に聴ける音楽は、こういう音楽なのではないか、と。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その21)

書き上がった原稿を最初に読む人は誰だろうか。
編集者の場合が多いように思うが、書く人によって、少し違ってくる。

家族が最初の読者だ、ということがある。
黒田先生は書き上げた原稿を、編集者に渡す前に奥さまに読んでもらう──、
黒田先生から、そう聞いている。

黒田先生だけではなく、他にもそういう方はいるとは思うけれど、
それでも編集者が最初の読者であることが多いのではないのか。

編集者が最初の読者。
このことを書き手はどれだけ意識しているのだろうか。

そのことを意識しすぎた原稿は、その原稿が掲載される雑誌の読み手からすれば、
つまんないと感じることが多いのではないだろうか。

ボツになった原稿に、原稿料は支払われないだろう。
ボツにならなくても、編集者に気に入られない原稿を書いていれば、
そのうち仕事の依頼が来なくなるかもしれない。

ここで問題となるのは、考えたいのは編集者が気に入る原稿とは、
どういう原稿なのか、である。

Date: 11月 12th, 2021
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その28)

先週末はインターナショナルオーディオショウだった。
今週末はオーディオセッション in OSAKAの開催である。

オーディオショウを見終ったあとは、
仲間たちとの食事会・飲み会をやった(予定している)人もいよう。

久しぶりに会った人と、共通の趣味の話をする。
ここではオーディオの話なわけだ。

どこの店でそんな話をする。
話は隣の席にも漏れ聞こえる。
隣の席にいる人たちは、そんなオーディオマニア同士の会話を、
どんなふうに受け止めているのだろうか。

スイングジャーナル1972年1月号掲載の座談会「オーディオの道はすべてに通ず!」がある。
岩崎千明、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏による。

そこで菅野先生が、こう発言されている。
     *
菅野 われわれのように、いわゆる道楽者が音の話をしていると、よく他の話に取違えられるんだね。この前も、こちらは音の話をしていたのに、バーの女の子がゲラゲラ笑っているんだよ。何を笑っているのかと思ったら、始めから終りまで猥談だと思っていたというんだね。まあ、その道の話というのは必ずすべての道に通じる話になるわけで、逆にそうでなければ、核心をついた話ではないよね。
     *
隣の席の人たちは、漏れ聞こえてくる話を猥談だと思うだろうか。
それとも、なにか小難しいことを話している、と思うのだろうか。

オーディオに関心のない人に猥談に聞こえるようでは、
それはオーディオの核心をついていない──、
菅野先生とは反対の考えの人も、いまでは多いのかも知れない。

Date: 11月 11th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2021年をふりかえって(その5)

私が選んだのは、ACT-Threeだ。
ACTシリーズのウェブページを何度見ても、ACT-Threeだけがひときわ目を惹く。

ACT-Tree。
つまり第三幕である。

そうか、第三幕か。
強引に自分の人生にこじつけるならば、
ACT-Threeにしてからの日々は、第三幕ということになるのか。
だとしたら、第一幕はどこからどこまで、
第二幕はいつからだったのか──。

そんな、どうでもいいことを考えていた。
なんとなく、そういうことなのかぁ、という予感だけはある。

その予感が当っているのならば、第三幕を迎えることができよう。

第三幕を迎えられたとして、第四幕は始まるのか、それとも第三幕で終るのか。

Date: 11月 11th, 2021
Cate: 新製品

新製品(マッキントッシュ MC3500・その3)

ステレオサウンドで働くようになる数ヵ月前に、
ある会社で一ヵ月ほどアルバイトをしたことがある。

店舗の音響機器の面倒を請け負っている会社だった。
社長が一人、あとはアルバイトが数人。小さな規模の会社だった。

その仕事で赤坂見附にあるナイトクラブに行ったことがある。
仕事はすぐに終った。

そのクラブにはステージがあって、仕事はそこで行っていたのだが、
ふと横をみると、巨大なアンプがある。
マッキントッシュのMC3500だった。

MC3500の写真は見たことがあったが、実物を見たのは赤坂見附のクラブが最初だった。
いまでこそMC3500を超える規模のパワーアンプは珍しくないが、
当時はMC3500は最大規模のアンプであった。

業務用ということは知っていたけれど、
実際に使われている実例は、私はここだけしか知らない。

1981年のことだった。
MC3500は1971年まで製造されていたわけだから、
最低でも十年は使われ続けているMC3500である。

そのMC3500はラックに収められていたわけではなく、
床に無造作にごろんと置かれていた。

こういう使われ方が可能な管球式アンプが、MC3500である。

Date: 11月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen(その2)

私にとって、マーラーの「さすらう若人の歌」といえば、
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラーのアルバムが真っ先に浮ぶわけだが、
新しい録音の「さすらう若人の歌」をひさしく聴いていない。

いまは、誰の録音が評価が高いのか。

Kindle Unlimitedで、レコード芸術のバックナンバーが一年分読める。
いまちょうど名曲名盤500をやっているところだ。
マーラーは2021年5月号で取り上げられていて、Kindle Unlimitedで読める。

「さすらう若人の歌」は、
クリスティアン・ゲルハーヘルとケント・ナガノ/モントリオール交響楽団による
ソニー・クラシカルから出ているアルバムが一位である。

二位には、クーベリックとのフィッシャー=ディスカウの二回目の録音が入っている。
フィッシャー=ディスカウとフルトヴェングラー盤は、
ハンプソンとバーンスタイン盤と同じ三位である。

けっこう変ってきているのだな、と思って、コメントを読むと、
フィッシャー=ディスカウ/フルトヴェングラー盤は不動の一位だったことがわかる。

前回三位だったゲルハーヘル/ナガノ盤が、今回初の一位とのことだ。
そうなると「さすらう若人の歌」に関しては、
フィッシャー=ディスカウ/フルトヴェングラー盤を聴かずして、
何を聴くのか──、そう思っている私でも、
ゲルハーヘル/ナガノ盤を聴きたくなる。

TIDALにある。
ソニー・クラシカルだから、このアルバムもMQA Studio(44.1kHz)で聴ける。