Archive for category テーマ

Date: 3月 13th, 2022
Cate: 「オーディオ」考
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オーディオにおける「かっこいい」とは(その5)

別項「情景」(その10)」に、Tadanoさんのコメントがあった。

そこに、この項に関係してくることがある。
    *
 一般の芸能ファンの女性に「このステレオで聴けば、君の大好きな西条クンの塗れた唇が、すぐそこに現れてくるよ。」「ほらほらほら見てごらん。わー、すごい・・・、光る汗が見えるようだね。」「あー、すごい!ツイーターとツイーターを結ぶこの中央の位置で聞いてごらん、あふれ出す煮汁のように西条クンの汗が噴き出して見えるよ」などとそそのかして聞かせたとしても、それはそれは煙たがられるわけです(笑)。
 私のパートナーに言わせると「菅野沖彦くらい色男が言うのならば許されるが、クリープなマニアたちに言われたらぞっとする」のだそうです。彼女はZ世代のまったく新しいオーディオ・ファイルですが、21世紀のオーディオ・ファイルに一番言いたいことは「たのむからカッコつけて」ということでした。また、こうも言います。「ライダーマンのマシンが何キロ出るとか、どのジェダイが一番強いのかと論じている男の子は確かにかわいい。だけど、私たち(女性)はそこに着目しない。そうではなく、なぜライダーマンは半分人間なのか、ルークはどんな悲しみを背負っているのかという話が聞きたい。」
     *
Z世代とは、1990年代中盤から2010年代序盤までに生れた世代のことだから、
Tadanoさんのパートナーは、若い女性だ。

そのTadanoさんのパートナーが「たのむからカッコつけて」と、
21世紀のオーディオファイルにいいたい、とある。

オーディオがカッコいい、とは思っていないというオーディオマニアもいる。
意外と多いようにも感じている。

その3)で書いているように、
オーディオの普及のためには、
オーディオを何も知らない人がみて、かっこいい、と思われないとダメだ──、
そんなことをソーシャルメディアに投稿している人もいる。

かっこいい、と思われないとダメだ、という人が思っているかっこいいと、
Tadanoさんのパートナーが感じるかっこいいとは同じではないように思う。

それに──、いくつかの例をあげようと思ったけれど、ばっさり省いてしまった。

いくつものズレを感じてしまう。

Date: 3月 13th, 2022
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その15)

昨年12月、「2021年をふりかえって(その17)」を書いた。

オーディオマニアがオーディオ機器を購入する。
そのオーディオ機器が自宅に届くことを、着弾と表現するのは、
違和感をおぼえることでしかなかった。
そのことを書いている。

昨年は着弾を目にすることが多かった。
私がソーシャルメディアでフォローしている人もだが、
そのフォローしている人がリツイートしている投稿でも、何度も見かけた。

今年は、それが増えていくことだろう……、と昨年末は思っていた。

いまのところ、あまり見かけていないどころか、
2月24日以降、まったく見かけていない。

私が眺めている範囲においてではあるのだが、着弾という表現を使う人はいない。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その28)

いまあなたの目の前にあって、音を鳴らしているスピーカーは、
あなたにとって良友なのか、それとも悪友なのか。

悪友といえるスピーカーを鳴らしてきた人と、
悪友といえるスピーカーとは無縁のオーディオを送ってきた人。

どちらがしあわせなのだろうか。
いや、どちらが不幸なのだろうか。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景
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情景(その10)

グラシェラ・スサーナの歌が、私に情景を見せてくれる。
だからといって、他の人もそうだとは思っていない。

人それぞれだから、グラシェラ・スサーナではなくて、別の歌手だったりするし、
その歌で描かれている情景なんて浮ばない──、という人もいて当然だし、
情景が浮ぶことが音楽の聴き手として優れているとも思っていない。

ただ私にはグラシェラ・スサーナは、そういう存在であった、
そしてメリディアンのULTRA DACでMQA再生によって、
いまもそういう存在である、といえる──、それだけのことだ。

私は昨年から、心に近い音についてしばしば書いているのは、
このことがあってのことだ。

音を追求してきて、グラシェラ・スサーナの歌から情景を失ってしまった。
そのことに気づき、ULTRA DACとMQAとの出逢いがあった。

他の人はどうだか、私はわからないが、
すくなくとも私に限っては、耳に近い音を追求した結果、
情景を失ってしまった、といえる。

心に近い音といっても、なかなかに理解しがたいかもしれないが、
私にとってのグラシェラ・スサーナのように、
その歌が描いている情景を見せてくれる歌手をもつ聴き手ならば、
心に近い音がどういう音なのか、いつかわかると思う。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その9)

グラシェラ・スサーナの歌が、
ハイ・フィデリティ再生になるほど──、といったことを書いているが、
ここでのハイ・フィデリティ再生とは、情感たっぷりに歌ってくれることでもある。

私の目の前でグラシェラ・スサーナ本人が歌っているかのような、
しかも情感豊かな歌を聴かせてくれようとも、
情景が浮んでこない、という状況をどう受けとったらいいのだろうか。

結局、ラジカセでミュージッテープを聴いていたときの情景は、
私が勝手につくりあげた妄想、もしくは錯覚だったのか。

そのことを確認したい、という気持があって、
ヤフオク!でグラシェラ・スサーナのミュージックテープ、
それも中学生のころ聴いていたミュージックテープが安価で出品されていたら、
入札しては手に入れていた。

五本ほど集まった。
でもラジカセを買うまでにはいたらなかった。
買おうかな、と思って、量販店のラジカセのコーナーを何度か見てまわったことはある。

まったく食指が動かなかった。
だからといって昔のラジカセを探し出してまで買おう、という気もなかったのは、
もしかすると情景が浮ばなくなったのは、こちら側のせいなのか。
ようするに老化してしまったからなのか……。

けれどそうでないことを確認できた。
2018年9月8日、audio wednesdayで、
グラシェラ・スサーナのMQA-CDを.メリディアンのULTRA DACで聴いて、
そうでないことを確認できた。

情景がふたたび浮んできた。

Date: 3月 12th, 2022
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(ジャズ喫茶の描写・その7)

その4)で、マンガ「リバーエンド・カフェ」について書いた。
1月3日の時点では、全九巻中四巻までがKindle Unlimitedが読むことができていた。

昨晩、ふと見たら九巻までKindle Unlimitedで読めるようになっている。
いつからそうなったのかはわからない。
昨日からなのか、もう少し前からだったのか。

「リバーエンド・カフェ」は2010年3月11日から始まる物語だ。
だからなのかもしれない。

Date: 3月 11th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その8)

ラジカセからコンポーネントになり、
モノーラルからステレオになり、音はよくなっていく。

唇の動きが、舌の動きまでわかるようだ、という表現がある。
音がよくなっていくと、そういう感じが現出してくるようになる。

歌っている表情すら目に浮かぶような感じにもなっていく。
これらは音がよくなっていっていることの確かな手応えである。

けれど、これらはすべてグラシェラ・スサーナがスタジオで歌っているシーンを、
できるだけハイ・フィデリティに再生(再現)しようとする方向である。

間違っているわけではない。
グラシェラ・スサーナはライヴ録音以外はスタジオで録音しているのだから、
それらの録音がそういうふうに鳴ってくれるということに、
何の文句をいうことがあろうか。

けれど、そんなふうにグラシェラ・スサーナの歌がなってしまうとともに、
いまふり返ると、聴く時間が減ってきた。

ハイ・フィデリティ再生になればなるほど、
情景が浮ばなくなってくる。

このことは音に関係しているのか。
ラジカセので聴いてきた時に、そう感じていたのは、
聴き手である私の勝手な妄想にすぎない──、そうともいえることはわかっている。

けれど確かに、あのころは情景が浮んでいた。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その7)

いわゆるコンポーネントステレオで、LPで、
グラシェラ・スサーナを聴くようになって、
確かにステレオになったし、ラジカセとは比較にならない音で聴けるようになった。

さらにカートリッジを買い替えたり、ケーブルを交換したり、
スピーカーのセッティングをあれこれ試してみたりしながら、
音は少しずつ良くなってくる。

それにともないグラシェラ・スサーナの歌(声)もよく聴こえるようになる。
そのことが嬉しかった。

ステレオサウンドで働くようになってからは、
使えるお金も学生時代とは比較ならぬほど増えるわけで、
システムも高校生のころとは、まったく違う。

音は良くなってきた。
スタジオで歌っている感じの再現は、ラジカセ時代では無理だった。
つまりラジカセよりも、ハイ・フィデリティになってきているわけだ。

なのにグラシェラ・スサーナを聴くことが減っていった。
聴く音楽の範囲が拡がっていくのにともない、聴く時間は限りがあるわけだから、
それも自然なことと、当時は思っていた。

けれどステレオサウンドをやめて、それからいろいろあってシステムをすべて手離した。
そのあたりから気づいたことがある。

グラシェラ・スサーナの歌から、情景が消えていたことに気づいた。
ラジカセで聴いていたころに、あれだけ浮んでいた情景を、
どこかでなくしてしまったようである。

Date: 3月 9th, 2022
Cate: 書く

毎日書くということ(たがやす・その3)

このブログを終りにすると決めてから、
これまでどれだけたがやしてきたのだろうか、とふと考える。

同時に、新しいブログを始めるということは、
たがやすという視点ではどういうことなのだろうか、とも考える。

たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。

(その1)、(その2)で書いたことをまたくり返している。

audio identity (designing)を始めるときには、たがやす、という考えはなかった。
五年ほど書いてきて、たがやすということに気づいた。

新しいブログは、最初から、そのことを意識してのスタートとなる。

Date: 3月 8th, 2022
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(余談・その4)

その3)で書いている西荻窪のけい太もそうなのだが、
それまでのとんかつのイメージとは違ってきているとんかつ店がぽつぽつ登場してきている。

そういうとんかつもいいのだけれど、私は白いご飯によく合うとんかつが好きであって、
白いご飯によく合うとんかつ店をさがしている。

先月、たまたま見つけたとんかつ店は、まさしく白いご飯とよく合うとんかつを食べさせてくれる。

伊藤先生は、ステレオサウンド 42号「真贋物語」で、
《とんかつぐらいラーメンと共に日本人に好かれる食いものはない。何処へ行っても繁昌している。生の甘藍(きゃべつ)がこれほどよく合う料理もないし、飯に合うことは抜群である》
と書かれている。

昭和のころは、浅草の河金によく通っていた。
河金を教えてくれたのは、サウンドボーイ編集長のOさんだった。
河金のことはステレオサウンドの編集後記にも書かれている。

Oさんは伊藤先生から教えてもらった、とのこと。
その河金も、いまはもうない。
昭和の時代に閉店してしまっている。

浅草近辺には、河金という名の店はある。
のれんわけの店である。

二度ほど、行ったことがある。ずいぶんと前のことだ。
基本的には河金なのだが、どこか私がよく通っていた河金とは違い、足が遠のいた。

それからというものの、いろんなとんかつ店に行った。
菅野先生に教えてもらった荻窪の店にも行った。

荻窪の店は気に入っていた。
特に豚汁が美味しい。

それでも、河金のとんかつを懐かしむことがある。
でも先月見つけたとんかつ店のおかげで、もうそんなことはなくなるかもしれない。

この店、ロースカツがおいしい。
脂身が甘い。
とんかつといえばヒレよりロースカツを好む私は、
しばらく頻繁に、このとんかつ店に通うことになりそうだ。

Date: 3月 8th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その3)

パッシヴ型フェーダーを構成する部品の数は少ない。
ポテンショメーター(フェーダー)、筐体、入出力端子、内部配線材、ツマミ、
それからセレクターが必要であれば、これもである。

パッシヴ型フェーダーにくらべて、コントロールアンプとなると、
構成する部品の数は桁が一つではなく、二つ以上に多くなる。

部品の数は増やそうと思えば、かなり増えてくるものだ。
部品の数が多ければ、そのコントロールアンプが高性能かといえば、
そんなことはない。

部品の数によって、そのコントロールアンプの性能が決定されるわけではない。
とにかくコントロールアンプには、非常に多くの部品が使われている。

(その2)で、パッシヴな部品であっても、プリミティヴな部品であっても、
何かが失われ、何かが加わる、と書いた。

部品の数が少ない方が、何かが失われ、何かが加わることに関しては優位であり、
コントロールアンプよりもパッシヴ型フェーダーが、
その点に関しては優位といえば優位のはずなのだが、
実際にパッシヴ型フェーダーとコントロールアンプ(といってもピンキリなのだが)、
音の夾雑物が少ないといえるのは、確かにパッシヴ型フェーダーなのだが、
部品の数の多さのわりには、コントロールアンプもまた優秀といえる面もある。

なので、時々こんな妄想をしてみることがある。
コントロールアンプの部品は、それぞれに何かが失われ、何かが加わるを、
互いにうまく補っているようなところがあるのではないだろうか。

すべてのコントロールアンプで、そんなふうに感じるわけではないが、
優秀なコントロールアンプを聴いていると、こんな妄想をしている。

Date: 3月 8th, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その16)

自分を叱ってくれる人がいるのが、若いということなのだろう。
別項「不遜な人たちがいる」で書いている、そういう人たちには、
叱ってくれる人がいなかったのだろう。

叱ってくれる人がいなくなった時から、老いは本格的に始まる。
そんな気がしてならない。

Date: 3月 7th, 2022
Cate: ディスク/ブック

Ses Enregistrement 1930 – 1956

“Ses Enregistrement 1930 – 1956”は、
イヴ・ナットの録音を集めた15枚組のCDボックスである。
2006年に発売になっている。

TIDALを使うようになって、わりとすぐにイヴ・ナットは検索している。
2019年11月のことである。
けれど、その時、“Ses Enregistrement 1930 – 1956”はMQAで聴けなかった。
私の記憶違い、見落しの可能性もあるが、MQAではなかった、と記憶している。

さきほどふと見てみたら、MQA(44.1kHz)で聴けるようになっている。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタも、もちろん含まれている。

イヴ・ナットのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、
菅野先生の愛聴盤でもあった。

イヴ・ナットに師事していたフランスのピアニスト、ジャン=ベルナール・ポミエの全集も、
ナット以来の愛聴盤となった、とステレオサウンド別冊「音の世紀」で書かれていた。
     *
ドイツ系の演奏も嫌いではないが、ベートーヴェンの音楽に共感するフランス系の演奏家とのケミカライズが好きなのだ。ベートーヴェンの音楽に内在する美しさが浮き彫りになり、重厚な構成感に、流麗さと爽快さが加わる魅力とでも言えばよいか?
     *
ポミエのベートーヴェンもMQA(44.1kHz)で聴ける。

Date: 3月 7th, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その10)

「2021年をふりかえって」の(その6)と(その8)で、
MQAの音を、秘伝のタレをかけた音、と酷評する人が、オーディオ業界には数人いる、と書いた。

ここでの秘伝のタレとはネガティヴな意味で使われている。
秘伝のタレで、なにもかも一色に塗りつぶしてしまうような意味である。

秘伝のタレという表現を、揶揄する意味で使うことは、
実際に秘伝のタレを日々使い、数十年、それ以上守り続けている飲食店に対して、
失礼ではないか、とも思う、とも書いている。

でも、そのことにあえて触れなかったのは、
そういう人たちは秘伝のタレの使い方に指摘すれば、
今度は化学調味料に置き換えるであろう、とも書いている。

実際にそうだった。
これまで秘伝のタレという表現で、MQAを揶揄していた人が、
今度は化学調味料に置き換えていた。

MQAに技術的に否定的である立場をとる人がいてもいい。
MQAを私は肯定する側だが、
だからといって、MQAの技術的なところを完全に理解しているわけではないし、
MQAそのもの完璧な技術ではないと捉えているからだ。

きちんとした技術的な反論ならば、私自身、MQAへの理解を深める上でも役に立つ。
けれどMQAを否定するのに、秘伝のタレとか化学調味料といった表現で否定する。

おそらく読む人にわかりやすく、ということでの料理への喩えなのだろうが、
こういう喩えは、オーディオではたいてい何の役にもたたないどころか、
むしろ誤解を招くだけである。

そして的外れな否定でもある。

Date: 3月 6th, 2022
Cate: コントロールアンプ像
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パッシヴ型フェーダーについて(その2)

別項「情景(その5)」に、tadanoさんからのコメントがあった。
鮮度についてのコメントである。
かなり長いので、ここでは引用しないがぜひ読んでもらいたい。

Tadanoさんのコメントの終りに、
パッシヴ型フェーダーを使うことでコントロールアンプを排除したり、
信号経路の短縮化による音の変化についてのメリット、デメリットについて、
私の意見をきかせてほしい、とある。

なので、この項のタイトルを少しばかり変更して、十年以上経っての(その2)である。
その1)は、2008年9月に書いている。

プリメインアンプのトーンコントロール回路をバイパスしたり、
パッシヴ型フェーダーを使うことで、CDプレーヤーとパワーアンプを結ぶ。

そうすることでの音の変化は、一般的には鮮度があがる、というふうに表現されることが多い。
ほんとうに鮮度があがるのか、鮮度があがる、という表現が適切なのか、ということでいえば、
音の夾雑物が減る、といったほうがいいと私は考えている。

オーディオは、信号が何かを通るごとに、何かが失われ、何かが加わる。
ケーブルであっても、コネクターであっても、
パッシヴな部品であっても、プリミティヴな部品であっても、
何かが失われ、何かが加わる。

これは、少なくとも私が生きている間は、変ることはないはずだ。