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Date: 12月 2nd, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏とスピーカーのこと

瀬川先生がいまも生きておられたら、スピーカーは何を使われていたのかについて、
別項「瀬川冬樹氏とスピーカーのこと」で書いているところである。

このことを考えていく上で、実はとても重要なことが、
岩崎先生がいまも生きておられたら──、ということである。

岩崎先生は1977年に亡くなられる数年前から、
JBLのパラゴンをはじめ、エレクトロボイスのパトリシアン、JBLのハーツフィールドなど、
モノーラル時代のアメリカの大型スピーカーシステムを導入されている。

そういう岩崎先生は、いま何を鳴らされているのだろうか。
このことを考えてみることも、瀬川先生が何を鳴らされたであろうかに大きく関係してくる気がする。

すこし前にも瀬川先生と岩崎先生はライバル同士だった、と書いた。
岩崎先生自身、瀬川先生をもっとも手強いライバルであり、オーディオの良き仲間として意識されていた。

岩崎千明と瀬川冬樹──、
このふたりは鳴らされる音量、聴かれる音楽、鳴らされていたスピーカーは対照的でありながら、
実に多くの共通点も見出せる。

ふたりの残された文章を丹念に読んでいくと、
多くのことが共通していることに気づき、驚く。

だから1977年3月24日以降も、1981年11月7日以降も、
岩崎先生と瀬川先生が生きておられたなら、どこかでクロスオーバーするポイントがきっとある、と思う。

それを見落していては、瀬川先生のスピーカーがどう変遷していったのか、について書くことはできない。

今日12月2日は、岩崎先生の84回目の誕生日である。

Date: 11月 30th, 2012
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーについて(コメントを読んで)

昨晩書いた「菅野沖彦氏のスピーカーについて(その9)」にコメントがあった。

EddieMunsterさんのコメントは、こうだった。
「JBLとマッキンは同じ穴の狢と感じているのは私だけ^^;」

1行だけのコメントで、EddieMunsterさんがどういう方なのか、私はまったくわからないし、
EddieMunsterさんのコメントにあるJBLとマッキントッシュが指しているのは、
昨晩私が書いたDD55000とXRT18(XRT20)のことなのか、
それとももっと広くJBLのスピーカーシステム、
マッキントッシュのスピーカーシステムすべてを含むのかもわからない。

それにコメントの最後に、顔文字(それも汗を書いている)がついていて、
このコメントを、どう受け取ったらいいものかと、すこし考え込んでしまった。
EddieMunsterさんのコメントを読んでおもったことを書いてみたい。
とりとめのない文章になっていくだろうが……。

「同じ穴の狢」とある。
これの意味は、関係のないようにみえても、実は同類・仲間であること、と辞書には載っているし、
「同じ穴の狢」が使われるときは、いい意味ではなく悪い意味でのことが圧倒的に多い。
なのでEddieMunsterさんも、悪い意味で使われていると仮定して書いていく。

ということは、EddieMunsterさんにとって、
JBLもマッキントッシュのスピーカーも、どうでもいい音のスピーカーということになる。
だとしたら、EddieMunsterさんにとっては、
それが表現(XRTシリーズ)であっても、忠実な変換機(JBLのスピーカー)であっても、
どうでもいい、ということになるのだろう……(ここもはっきりとはわからない)。

EddieMunsterさんにとって、JBL、マッキントッシュよりも、音楽を聴く上でずっと信頼できる、
いい音と思えるスピーカーが、なにかあって、
そのスピーカーとの比較においては、JBLとマッキントッシュも「同じ穴の狢」ということなんだろう、
と勝手に思っている。

そのスピーカーがなんなのかでもわかれば、
EddieMunsterさんが「同じ穴の狢」という表現をつかわれた意図も少しははっきりしてくるのだが、
EddieMunsterさんがどういう人で、どういう音楽を好み、どういう音を鳴らされているのか、
そのために使われているスピーカーがなんなのか、はまったくわからない。

わからないから、もしかするとヨーロッパのスピーカーを愛用されている人もかもしれない、
ハイエンドスピーカーと呼ばれているモデルを使われているのかもしれない、
他にもいくつも考えられるが、考えたところで、何かがいまのところ返ってくるわけではない。

JBLのエンジニアは「忠実な変換機」をつくっている、といっている。
忠実な変換機としてのスピーカーは、技術が進歩していくことによって、
その時点時点では忠実な変換機であっても、
いずれその忠実度は、新しいスピーカーの忠実度よりも劣ることになる。

前の世代が超えられなかった壁を、後の世代にとってはそれは壁ではなくなっている、
そういうことだってある。
けれどスピーカーは、前の世代のものであっても、後の世代のものであって、
いまだ完璧というにはほぼ遠いところにある。

後の世代が出し得ない音を、前の世代はたやすく出していることもある。
そういう例は長くオーディオをやっている人ならば、実感されているはず。
だから、ここではあえて旧い世代とはいわず前の世代としたし、
新しい世代とはせず後の世代とした。

スピーカーがいまの形態(原理、構成など含めて)のままでいるかぎり、
画期的な発明がスピーカーにおいてなされて、スピーカーの能力が飛躍的に向上し、
前の世代のスピーカーだけでなく、
いまの世代のスピーカーをふくめてすべてを旧い世代といってしまう日もいつかはくるだろう。
でもそれまでは、いまあるスピーカーすべて「同じ穴の狢」なのではなかろうか。

Date: 11月 29th, 2012
Cate: 菅野沖彦
1 msg

菅野沖彦氏のスピーカーについて(その9)

私にとってマッキントッシュのXRTシリーズのスピーカーシステムといえば、
XRT20とXRT18だけ、ともいえる。

その2機種の後に型番にXRTのつくスピーカーシステムはいくつも登場しているから、
それらも当然マッキントッシュのXRTシリーズのスピーカーの範疇に含まれるといえば、
たしかにそうであるけれど、個人的にはXRTシリーズのもつ特色が色濃く音に反映しているのは、
XRT20とXRT18であり、XRT26、XRT25は形こそXRTシリーズではあるものの、
何かが変ってきてしまったようにも感じてしまう。

XRT20、XRT18とXRT26、XRT25のあいだに登場したXRT22は、
XRT20の後継機といえばそういえなくもないのだけれど、
私としては、なんとなくふたつのXRTシリーズの境界線付近に位置するモデルのようにも見えてしまう。

なぜ、そう感じてしまうのか。

XRT18は、ステレオサウンド 77号(特集はComponents Of The Year)で、
JBLのDD55000、ダイヤトーンのDS10000とともに、ゴールデンサウンド賞に選ばれている。

その座談会で、菅野先生の発言がじつに興味深い。
     *
これはJBLのエンジニアが言った言葉なのですが、マッキントッシュのスピーカーはマッキントッシュの『表現』であると。それに対して我々(JBL)は、忠実な変換機をつくっている、と言うんです。これはある面とても当たっていると思うんです。ですから、マッキントッシュは、自分たちの表現したい方法が見つかれば、変換機としてのオーソドックスなセオリーから外れたとしても、積極的に採用していくという姿勢でしょう。その点で、JBL等の歴史の長いスピーカー専業メーカーとは体質がまったく違う。
(山中先生の発言をはさんで)
ものとしての存在感はJBLの方につよく感じて、マッキントッシュにはものとしての存在よりも、その音の世界の存在を感じますね。
XRT18だと各ユニットの存在は、そのスピーカーの中にある。けれど、JBLはユニットの存在感が強烈にあって、スピーカー全体も大きな存在になっている。それにしてもJBLの人間はうまい表現をしたと思う。
     *
菅野先生も最後にいわれているように、
JBLのエンジニアの、
マッキントッシュにはスピーカーはマッキントッシュの「表現」、
JBLは忠実な変換機をつくっている、は,まさにそのとおりだと思う。

XRT20、XRT18はマッキントッシュの見事な表現であり、
そこのところにおいて、XRT26、XRT25はそこから忠実な変換機でもあろうとし、
マッキントッシュの「表現」に不徹底なところが出てきてしまった……、
そんなふうに私は解釈してしまう。

Date: 11月 26th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その9)

ほんとうのところは、まだまだスピーカーとアンプの関係性について書いていきたいのだが、
そうするといつまでも本題である「瀬川冬樹氏とスピーカーのこと」に移れなくなるのでこのへんにしておく。
けれど、スピーカーのアンプの関係性については書きたいことだけでなく、
考えていきたいとも思っているので、項を改めて書く予定ではある(といってもいつになるかは……)。

なぜ少しばかりの脱線とはいえないくらいアンプのことを書いてきたのは、
瀬川先生が最後に鳴らされていたJBLの4345から、
もしいまも存命だったら絶対に鳴らされているはずのジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットまで、
いったいどのスピーカーを鳴らされていたのかを考えていくのに、
スピーカーのことだけを考えていては、答に近づけないと思うからである。

リスニングルームの条件も考慮しないといけない。
瀬川先生が砧に建てられた家から移られたのは目黒のマンションである。
ここは決して広いとはいえないスペースだった、と聞いている。
そこに4345を置かれていた。

1981年以降、瀬川先生はどの程度のリスニングルームのスペースを確保されただろうか……。
そういうことも勘案していく必要がある。

それにアンプのこともある。

1981年の初夏にステレオサウンドから出たセパレートアンプの別冊の巻頭に掲載されている文章、
いま、いい音のアンプがほしい」を読んでいくと、
瀬川先生が求められている音にも変化があり、
マークレビンソンのアンプの音にも変化があり、
このふたつの音の変化は同じところを向っていないことが感じとれる。

瀬川先生は、アンプは何を選ばれただろうか──、
このことも考えていかなければ、スピーカーに何を選ばれたのかについての確度の高い推察はまず無理であろう。

このスピーカーとアンプの関係性からみていくときに、
この項の(その2)で書いているアルテック620Bとマイケルソン&オースチンのTVA1の組合せ、
それにずっと以前の、604Eをおさめた612AとマッキントッシュのC22とMC275との組合せ、
このふたつの組合せのもつ意味を考えていく必要がある、と私はそう確信している。

Date: 11月 26th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その8)

D40は、ステレオサウンド 44号の新製品紹介のページで登場している。
井上先生と山中先生が試聴されていて、次のようなことが語られている。
     *
井上 この場合は、スペンドールのスピーカーを鳴らした場合には、という条件つきでないとこのアンプの本来の姿を見失ってしまいますね。ある一つのスピーカーを鳴らすことに的を絞ってアンプを開発した場合は、特別な回路構成をとらないでも、コントロール機能を必要なものに簡略化してしまっても、スピーカーを含めたトータルな再生音のクォリティは非常に高い水準に持っていけるという好例として注目できます。
     *
私はD40を他のスピーカーで聴く機会はなかった。
でも、聴いたことのある人の話では、BCIIと同系統のスピーカーではよかったけれど、
そうでないスピーカーとの組合せでは、精彩を欠いてしまう、と。

そうだと思う。
一般的なアンプの常識では、優秀なアンプとは考えられない。
D40の音は、不思議にいい音であって、その意味では優秀なアンプとは言い難い。
なのに優秀なアンプで鳴らしたBCIIよりも、BCIIの魅力を抽き出し弱いところをうまく補うアンプはない。

もうすこし引用しておく。
     *
山中 このアンプでスペンドールのスピーカーを鳴らしてみますと、他のアンプで聴いたときの印象と違って、かなり中音域が充実して聴こえます。
井上 そうなんですね。以前にいろいろなアンプで聴いたスペンドールのスピーカーの音は、大変バランスがいいといってもやや中域がエネルギー的に不足している部分に感じられたのです。またそれがデリケートで微妙なニュアンスの再現性に優れた、特有の音色と結びついていたともいえるのですが場合によっては神経質な音といった感じに聴こえてしまうこともありました。このD40で鳴らすとその辺をうまく補って、中域にある種のエネルギー感がついて、全体的な音のまろやかさ、余裕といったものが出てくるようです。
山中 もちろん中域のエネルギー感が加わったといっても大変元気な音になったというわけではないですね。スペンドール独得のひめやかな、雰囲気のある音はやはりベースになっています。
     *
D40は優秀なアンプではないし、アンプの理想像に近いわけでもない。
それでもアンプは単体でなにかをするものではない。スピーカーを鳴らしてこそアンプの存在があり、
つねにスピーカーとの関係において語っていくものとしたら、
スペンドールのスピーカーシステムとD40の関係は、
スピーカーとアンプの関係のひとつの理想に近いものといえるところがある。

Date: 11月 25th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その7)

スペンドールのD40は、
スペンドールの設立者であるスペンサー・ヒューズの息子、デレク・ヒューズの設計となっている。

スペンドールのスピーカーシステムの型番は、
たとえばBCシリーズは、
ウーファーの振動板のベクストレンとトゥイーターに採用されているセレッションを表しているし、
小型のSA1は、
自社製のウーファーとフランス・オーダックス製のトゥイーターを採用していることからつけられている。

そういう型番のつけ方をしているスペンドールだから、
D40のDは、デレク・ヒューズの設計を表している、と考えていいはず。

D40はコンパクトなプリメインアンプで、
機能も最小限度のものしかついていない。
入力セレクター、バランサー、レベルコントロールだけ。
外形寸法はW33.2×H9.6×D22.3cm、重量は6kg。
出力は型番からわかるように40W+40W。

回路についての技術的な説明はなにもない。

D40についての製品解説をしようと思っても、あまり書くことが見当たらない、
そういうプリメインアンプである。

けれど、このD40は、スペンドールのスピーカーシステムと組み合わせたとき、
なぜ、こんなつくりのアンプなのに、と思いたくなるほどの音を聴かせてくれる。

私はいちどだけBCIIとの組合せで聴いたことがある。
D40よりも物量を投入したプリメインアンプ、セパレートアンプのいくつかでBCIIを聴いたことはある。
そのどれよりも、D40で鳴らしたときに、BCIIは、こういう音も鳴らせるのか、という驚きがあった。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その6)

300Bのアンプのことについては何度か書いてきている。
そのたびに、具体的な300Bのアンプについて書けないもどかしさを感じている。
市販品でなんとかおすすめできる300Bアンプがあれば、そのアンプを例にとって話をしていけるのに……、
というもどかしさがある。

300Bという真空管の名称は、真空管にさほど興味のない方でも、
いちど聞いたことのある、そういう誰もが名前だけは知っている真空管である。
なのに、そのもっとも有名な真空管を使ったアンプの音について、
なんらかの共通認識があるのかといえば、ないとしかいいようがない。

ウェスターン・エレクトリックの、ほんとうの300Bは格別の球であることは断言できる。
だからといって、ほんとうの300Bを出力段に使ったからといって、
それだけでどんなアンプでも、格段の音になるわけではない。

それでも300Bのアンプということが語られ謳われ、私も300Bのシングルアンプという表現を使う。
けれど、それは、おそらくみな違う音のことでもある。
伊藤アンプにかわる標準原器ともいえる300Bのアンプが登場してほしい、と、
300Bという言葉を、ここで書く度に思っている。

300Bのシングルアンプよりも、まだ多くの人が聴いているアンプ、
それも市販されたことのあるアンプで思い出したのがひとつある。
スペンドールのプリメインアンプのD40である。

同じイギリスのスピーカーメーカーであるロジャースのアンプは知っているけれど、
スペンドールもアンプを作っていたの? と思われる方は少なくないだろう。
D40も決して多く売れたアンプではない。

でもスピーカーとパワーアンプの関係について、
パワーアンプに求められる姿について考えていくうえで、
D40はもっとも好適である。

Date: 11月 24th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その5)

スピーカーのことについて書いていくのが、パワーアンプのことについて書いている。
もう少しパワーアンプのことにつきあっていただきたい。

パワーアンプの理想とはどういうことなのか。
いかなるスピーカーシステムであろうと鳴らしきることのできるパワーアンプを優秀なパワーアンプということで、
この項を書いてきている。
けれど、その優秀なパワーアンプでは鳴らせない音を、
300Bのシングルアンプのように、優秀なアンプの定義にはおさまらないアンプが聴かせることが、
オーディオには往々にしてある。

300Bのシングルアンプといっても、市販品に推められるアンプがあるからといえば、
そうとうに妥協しても、ない、といわざるをえない。
シングルアンプが無理なら、300Bのプッシュプルアンプでは──、
やはり、ない。
海外のメーカーからも300Bのプッシュプルアンプは出ているけれど、
あのアンプの写真を見たとき、なんというデザインなんだろう……、とひどくがっかりしたものだ。
仕上げはたしかに丁寧であっても、はっきりいってひどいデザインといえる。

でもオーディオ雑誌を読むと、デザインのことで褒めている人が何人かいる。
なんなのだろうか……、と思う。
これがブランド・イメージなのか、とも思う。

音に関しては、特になにもいわないけれど、あのデザインに関してだけは、あれこれいいたくなる。
いいたいことがありすぎる。
書き始めると、それだけでけっこうな文量になってしまうし、
書く方も読まれる方も気持のいいものではないから、具体的にはあれこれ書きはしないものの、
あのアンプのデザインを褒める人の音質評価は、私はもう信じないことにしている。

オーディオ雑誌で書いている人たちは、書きにくいことがあるのは読む方だって承知している。
だからデザインについて悪く書くことができなければ、
デザインについては触れなければいいわけで、それをあえて触れて褒めているということは、
その人は、あのアンプのデザインがいいと思っていることになる。
読者はそう受けとめるだろう。私はそう受けとめた。

Date: 11月 20th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その4)

優秀なパワーアンプとは、
スピーカーシステムを鳴らしきれるだけのパワー(単に出力という意味だけでなくパフォーマンスも含めて)をもつ、
ということになるのだろう。

どんなスピーカーをであれ、鳴らしきれるパワーアンプもあることだろう、
一方で、その範囲は狭まるものの、ある種のスピーカーを鳴らしきることのできるパワーアンプもある、といえる。
この場合、前者のパワーアンプの方がより優秀ということに一般的になるけれど、
オーディオを仕事としていなければ、つまりいくつものスピーカーを鳴らすということを目的としていなければ、
自分がそのとき気に入っているスピーカーを鳴らしきってくれれば、充分でありそれ以上を求めるかどうかは、
その人次第でもある。

鳴らしきれるスピーカーの範囲が広かろうと、ある程度限られていようと、
鳴らしきることのできるパワーアンプからすると、決して優秀とは呼びにくいパワーアンプがあることも事実である。
けれど、そういうパワーアンプのすべてが、いい音がしないわけでは、決してない。

たとえばウェスターン・エレクトリックの300Bのシングルアンプ。
このアンプを優秀なアンプとは呼びにくい。

もちろん300Bのシングルアンプといってもピンからキリまであるのだから、
あくまでもここでいう300Bのシングルアンプとは、私にとっては伊藤先生の300Bシングルアンプであり、
すくなくとも同等のクォリティをもった300Bのシングルアンプということに限らせてもらう。

出力が小さいからそれに見合うだけの高能率のスピーカーと組み合わせれば……、というとこになるだろうが、
それでも感覚的には、スピーカーを鳴らしきる、というイメージにもったことはない。
鳴らしきっている、というより、うまく鳴らしている、といった感じなのである。

300Bのシングルアンプは、一方の極にある。
もう一方の極には、いかなるスピーカーであろうと鳴らしきるだけの優秀なパワーアンプ。

パワーアンプという括りではいっしょにできないほど、このふたつの極のアンプの性格は違う。

マッキントッシュのMC275は登場したときは、優秀なパワーアンプの極に属していた、ともいえる。
けれどMC275の登場から50年以上が経ち、
いまでは300Bのシングルアンプの極にぐっと近い位置にいるといえる。

Date: 11月 19th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その3)

マイケルソン&オースチンのTVA1が現代のMC275と、当時いわれたのは、
なにもKT88のプッシュプルで出力がほぼ同じということだけでなく、
シャーシーがどちらもクロームメッキ処理されているということもあった。

KT88とクロームメッキ、ということでいえば、1983年に登場したフランスのジャディスのJA80もまた、
KT88にクロームメッキ・シャーシーの組合せだった。
JA80は、けれどAクラス動作(MC275、TVA1はABクラス)で80Wの出力を得るために、
KT88を4本使用したパラレルプッシュプル。

いま、これら3機種を集めて聴き較べをしてみたら、どういう結果になるんだろうか、と関心がある。
どれも、個性の強い(というより濃い)音を特色としている。
そういう音をベースにしていても、意外にも一色に塗ってしまう音とは違う。

しなやかさをきちんと持っている。
コントロールアンプを替えれば、カートリッジやCDプレーヤーを替えたりすれば、
その音色の違いを、それぞれのアンプ固有の音色の中に反映させる、という意味でのフレキシビリティの高さがある。

意外に思われるかもしれないけれど、MC275もフレキシビリティの高いアンプである。
これは以前書いていることだが、ステレオサウンドの試聴室で、MC275を鳴らしたことがある。

鳴らしたスピーカーシステムはBOSEの901に、アポジーのCaliper Signature、
コントロールアンプはあえて使わずにCDプレーヤーを直接接続。
音量調整はMC275の入力レベルコントロールで行った。

901とCaliper Signatureは、ずいぶんと異る面をいくつも持つスピーカーシステムで、
およそ共通するところはないように見える、このふたつのスピーカーをMC275を実にうまく鳴らしてくれた。

Caliper Signatureはインピーダンスが低いため、
トランジスターアンプでは大型の電源トランスと大容量のコンデンサーによるしっかりと余裕のある電源、
それに低インピーダンス負荷においても十分な電流供給能力をもつ出力段、
そういったことが要求されるわけで、必然的に大型パワーアンプと組み合わされることが多かった。

そういったアンプからみれば、MC275の出力は少ないし、規模も小さい。
リボン型の低インピーダンスのスピーカーシステムを鳴らしきるアンプとは思いにくい。

その印象はそう間違ってはいない。
Caliper Signatureに合うパワーアンプが鳴らしきる、という印象の音なのに対し、
MC275での音には、鳴らしきっている、という印象はない。
けれど、うまく鳴らしてくれる。
鳴らしきるパワーアンプでは聴けない表情をCaliper Signatureから抽き出してくれた。

Date: 11月 18th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その2)

瀬川先生は、JBL4345とジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットのあいだに、
どんなスピーカーシステムを鳴らされていたであろうか、を考えるにあたって、いくつかの要素がある。

その中でまず浮んでくるのは、スイングジャーナルの別冊でつくられた組合せのことだ。
このブログの最初のころに書いているように、そこで瀬川先生はJBLのスピーカーではなく、
アルテックの604の最新型604-8Hをおさめた620Bを指定され、
アンプにはアキュフェーズのC240とマイケルソン&オースチンのTVA1。

この組合せは、
瀬川先生の耳の底に焼きついている音を鳴らした、
604Eをおさめた621AとマッキントッシュのC22、MC275と組合せを思い出させる。

TVA1はKT88のプッシュプル、MC275もKT88のプッシュプルで、
出力はTVA1が70W+70W、MC275が75W+75Wということもあって、
もちろんそれだけでなく音の面でも、MC275の現代版としてとらえられるところがあった。
そういうパワーアンプである。

マイケルソン&オースチンからコントロールアンプもややおくれて登場したけれど、
それほど話題にはならなかった。
TVA1の出来に比較すると、コントロールアンプの出来はそういう程度であったからだ。

まだTVA1しか登場していなかったころ、瀬川先生はアキュフェーズのC240と組み合わせされている。
そのことはステレオサウンド 52号に書かれている。
     *
 TVA1は、プリアンプに最初なにげなく、アキュフェーズのC240を組合わせた。しかしあとからいろいろと試みるかぎり、結局わたくしは知らず知らずのうちに、ほとんど最良の組合せを作っていたらしい。あとでレビンソンその他のプリとの組合せをいくつか試みたにもかかわらず、右に書いたTVA1の良さは、C240が最もよく生かした。というよりもその音の半分はC240の良さでもあったのだろう。例えばLNPではもう少し潤いが減って硬質の音に鳴ることからもそれはいえる。が、そういう違いをかなりはっきりと聴かせるということから、TVA1が、十分にコクのある音を聴かせながらもプリアンプの音色のちがいを素直に反映させるアンプであることもわかる
     *
TVA1の音の個性は、どちらかといえば濃い、といえる。MC275もそういうところをもつ。
それでいて両者とも、意外にもフレキシビリティの高さももっている。

Date: 11月 16th, 2012
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その1)

11月7日のaudio sharing例会「瀬川冬樹を語る」でも出た話題であり、
私がステレオサウンド働いていたときも辞めたあとも、なんどか出た話題が、
瀬川先生が生きておられたスピーカーは何を鳴らされているか、ということだ。

いまならば、間違いなくジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを使われている。
ジャーマン・フィジックスのスピーカーシステムにされているか、
菅野先生と同じようにDDD型ユニットを中心としたシステムを自分で組まれるか、
たぶん後者ではなかろうか、とは思うけれど、
どちらにしろジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを核としたシステムである。
これは断言しておく。

菅野先生がジャーマン・フィジックスのTrobadour40を導入されたとき、
たしか2005年5月だった。
このとき聴き終った後、
「瀬川先生が生きておられたら、これ(Trobadour40)にされてたでしょうね」、
自然と言葉にしてしまった。

菅野先生も
「ぼくもそう思う。オーム(瀬川先生の本名、大村からきているニックネーム)もこれにしているよ」
と力強い言葉が返ってきた。

私だけが思っていたのではなく、菅野先生も同じおもいだったことが、とてもうれしかった。
すこしそのことを菅野先生と話していた。

菅野先生はいまはTrobadour40からTrobadour80にされている。
ウーファーはJBLの2205、その下にサブウーファーとしてヤマハのYST-SW1000が加わり、
スーパートゥイーターとしてエラックのリボン型4PI。

瀬川先生がどういうウーファーと組み合わされるのか、
やはりスーパートゥイーターとしてエラック4PIを使われるのか、
そういう細かいことをはっきりとはいえないし、
もしかするとThe Unicornを中心としたシステムを組まれていたことだって考えられる。

それでも、ジャーマン・フィジックスのDDD型に惚れ込まれていたことだけは、確信している。

だから「瀬川先生が生きておられたら……」で考えるのは、
最後に鳴らされていたJBLの4345とジャーマン・フィジックスのあいだをうめるスピーカーについて、
ということになる。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続・おもい、について)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか──、
私は、オーディオ思想家だと思っている。

2年前、この項の(その13)で、そう書いた。

あえて書くまでもなく、思想ということばは、思う・想うと思い・想いからなる。

五味先生の、音楽、オーディオについてのことばは重たい。

そう感じない人もいよう。
それでも私には読みはじめたときから、ずっと、まちがいなく死ぬまで「おもい」。

(その13)の最後には、こう書いた。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

だから私には瀬川先生の文章も、また「おもい」と感じる。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: audio wednesday, 瀬川冬樹

第22回audio sharing例会のお知らせ(11月7日のこと)

もうこんな時間(1時40分)なので、すでに昨夜のことになってしまったが、
毎月第一水曜日に四谷三丁目にある喫茶茶会記で行っているaudio sharing例会、
今回は11月7日、瀬川先生の命日ということだったので、前回お知らせしたように、
「瀬川冬樹を語る」がテーマだった。

途中からではあったが、サンスイに当時に勤務されていて、
瀬川先生とも親しくされていた西川さんが来てくださった。

始まりは7時、終ったのは11時をすこしまわっていた。

いろんな話が出た。
そして、ひとつ確認できたことがあった。
やっぱりそうだったんだ、と。

別項「岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと」の(その7)で、
瀬川先生と岩崎先生はライバル同士であり、お互いに意識されていたはず、だと、
瀬川先生の文章を読んでも、岩崎先生の文章を読んでも、そう感じるようになっていた、ということを書いているが、
西川さんの話で、瀬川先生は岩崎先生のことを、岩崎先生は瀬川先生のことを、
もっとも手強いライバルであり、オーディオの仲間同士として意識されていたことを確認できた。

間違いのないことだとは思っていたことが、確認できた。
私にとって、そういう11月7日だった。

来年の11月7日は、33回忌になる。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その37)

ボリュウムのツマミや入力セレクターのツマミを廻したときの感触なんて、どうでもいい。
大事なのは音であって、音がよければ感触がざらざらしていようと、ガタついていようと関係ない。

こんなことをいう人もいる。
音さえ良ければ、それでいい、という考えであれば、そうなるのかもしれない。
けれど、私のこれまでの経験からいえば、ボリュウムのツマミを廻したときの感触に、
いやなものを感じたとき、そういうものは必ず音となって現れてくる。

もっといえば、コントロールアンプ、プリメインアンプのボリュウムの感触はひじょうに重要な要素であって、
おおまかにはボリュウムの感触と音の感触は、ほぼ一致する。
井上先生も、このことは指摘されていた。

滑らかな感触がツマミを通して感じられるアンプの音は、滑らかである。
ざらついた感触があるアンプの音は、どこかにそういうところが感じられる。
滑らかな感触のものでもツマミによって、その感触、質感は変化していくように、
ツマミの存在も、この感触には大きな要素となっている。

試しにツマミを外して音を聴いてみると、いい。

こんなことを書いていくと、ここでも、そんなことで音は変らない、
そんなことで音が変ると感じるのはプラシーボだとか、オカルトだとか、いいだす人がいる。

そういう人たちに、私はききたい。
水を飲むとき、同じ蛇口から汲んできた水であるならば、
紙カップで飲もうと、プラスチックのコップで飲もうと、
陶器のグラスで飲もうと、ガラスの素敵なコップで飲もうと、
どれも同じ味だと感じるのか、ということだ。

それぞれのコップ、グラスにはいっている水は同じ水、水温もまったく同じ。
異るのは容器だけである。

私は容器によって、水の味は変って感じられる、そういう人間である。

どんな容器で飲もうと、中にはいっている水が同じならば、水の味は同じである。
そういう人には、音の微妙な違いは、一生わからない。
わからない人にとって、わかる人が聴き取っている世界は理解できないものだ。

自分に理解できない世界のことを、プラシーボとかオカルトとか、と否定していてなんになろう。
なぜ、より精進して、自分の聴く能力を鍛えようとしないのか、と思う。

結局、どうでもいい理屈をひっぱり出して、そんなことでは音は変らない、というのは、
精進することを拒否している、あきらめている自分を認めたくないからではないだろうか。