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Date: 2月 4th, 2022
Cate: 瀬川冬樹
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瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その9)

瀬川先生にとっての「心に近い音」について考えていて、
ふと思い出したスピーカーシステムがある。

ステレオサウンド 54号に登場したグルンディッヒのProfessional 2500である。
54号の特集では、瀬川先生のほかに、菅野先生、黒田先生が試聴メンバーであった。

Professional 2500の、瀬川先生の評価菅野先生の評価がどう違うのか、は、
リンク先をお読みいただきたい。
このふたりの評価は違いについては、特集の座談会の中でもとりあげられている。

54号での試聴メンバーは三人であっても、合同試聴ではなく、ひとりでの試聴である。
ゆえに菅野先生のときのProfessional 2500の音と、
瀬川先生が鳴らされたときのProfessional 2500の音が、
違っている可能性もあるわけだが、それについては座談会のなかで、
編集部の発言として、
「このスピーカに関しては、三人の方が鳴らされた音に、それほど大きな違いはなかったように思うのです」とある。

だから評価のズレが、鳴っていた音の違いによるものではない、といってもいいだろうし、
Professional 2500が、瀬川先生にとって「心に近い音」のスピーカーシステムだった──、
そんな気がしてならない。

Date: 1月 30th, 2022
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その8)

ステレオサウンド 53号の4343研究中に登場する試聴ディスクは、
菅野先生録音、オーディオ・ラボの「ザ・ダイアログ」、
それからコリン・デイヴィス指揮のストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス録音)、
アース・ウインド&ファイアーの「黙示録」に、
チャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」である。

どのディスクも当時(1979年)、優秀録音ということで、
ステレオサウンドの別の特集の試聴テストでも、とりあげられていたディスクばかりだ。

私も、当時「黙示録」以外は買って聴いていた。
「ザ・ダイアログ」は日本盤しかないが、
「春の祭典」と「サンチェスの子供たち」は輸入盤だった。

4343研究では、レコード番号も記載されていた。
56号のロジャースのPM510の文章中に出てくるディスクは、
バッハの「無伴奏」、とあるだけだ。

演奏者の名前も、レコードレーベル、番号については何も書かれていない。
同じ56号では、トーレンスのリファレンスの記事も、瀬川先生は書かれている。

そこでは、コリン・デイヴィスの「春の祭典」、
カラヤンの「ローマの泉」についての音の印象が出てくる。

おそらくなのだが、PM510では、「ザ・ダイアログ」は聴かれていない、と思っている。
「ザ・ダイアログ」は別項でも書いているように、この時期、よく聴いていた。
それだけでなくaudio wednesdayでもたびたび鳴らしていた。

でも「ザ・ダイアログ」をPM510で鳴らしたこと、聴いたことはない。
自分のPM510、自分の部屋においてだけ、でなく、
ステレオサウンドの試聴室でもPM510で「ザ・ダイアログ」は聴いていない。

「サンチェスの子供たち」も聴いていない。
「春の祭典」は一回だけかけたことがあるが、
4343で聴くときの音量で鳴らしたわけではなく、ずっと小さな音量で、であった。

Date: 1月 29th, 2022
Cate: 瀬川冬樹
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瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その7)

その1)を書いたときには、そんなこと考えもしなかったのだが、
この項で書こうとしているのは、
瀬川先生にとっての「心に近い音」についてなのかもしれない──、
そう思うようになってきた。

なので、(その1)で引用している瀬川先生の文章を、もう一度である。
     *
 JBLが、どこまでも再生音の限界をきわめてゆく音とすれば、その一方に、ひとつの限定された枠の中で、美しい響きを追求してゆく、こういう音があっていい。組合せをあれこれと変えてゆくうちに、結局、EMT927、レヴィンソンLNP2L、スチューダーA68、それにPM510という形になって(ほんとうはここでルボックスA740をぜひとも比較したいところだが)、一応のまとまりをみせた。とくにチェロの音色の何という快さ。胴の豊かな響きと倍音のたっぷりした艶やかさに、久々に、バッハの「無伴奏」を、ぼんやり聴きふけってしまった。
     *
この文章は、ロジャースのPM510の新製品紹介記事である。
これを読んで、PM510を買おう! と決心したし、実際にPM510を手に入れることができた。

この文章だけでも、PM510こそ! と思ったはずなのだが、
ステレオサウンド 53号での瀬川先生の4343研究を読んでいたからこそ、
PM510のことがよけいに気になる存在となった。

このブログでも何度か取り上げているように、
53号で、JBLの4343をオール・マークレビンソンによるバイアンプ駆動を試されている。

その記事の最後に、こう書かれている。
     *
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
 けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音(注)は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
 だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
 そう思ってみてもなお、ここで鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。
     *
この時の音こそ、瀬川先生にとってもっとも「耳に近い音」だったのか──。
その九ヵ月後の56号での、PM510の音のこと。

そして、そこに登場するディスクのこと。

昨日の夜おそく、そして今日、
二日かけて、フルニエのバッハの無伴奏チェロ組曲を聴いていた。
MQA Studio(192kHz)で聴いていた。

Date: 1月 2nd, 2022
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その19)

瀬川先生にとってのスピーカーの「あがり」は、
グッドマンのAXIOM 80だったのかもしれない──、
と(その18)で書いた。

その14)では、
瀬川先生は、もう一度AXIOM 80を鳴らされそうとされていた、ときいている、
45のシングルアンプを、もう一度組み立てられるつもりだったのか──、
とも書いている。

AXIOM 80を45のシングルアンプで鳴らす。
その音は、いまどきの超高級ハイエンドオーディオシステムの鳴らす音と、どう違うのか。

ここでいいたいことも、「心に近い」ということに関係してくる。
AXIOM 80と45のシングルアンプが奏でる音こそ、
瀬川先生にとってのもっとも「心に近い」音なのだろう。

Date: 12月 22nd, 2021
Cate: 五味康祐

続・無題(その15)

五味先生の、音楽、音、オーディオについて書かれた文章には、
祈り(もしくは祈りに通じる)が感じられるからこそ、
「五味オーディオ教室」と出逢ってすでに四十年以上が経ちながらも、
いまも飽きずに、ということにとどまらず、新たな気持で読み続けている。

Date: 12月 20th, 2021
Cate: 五味康祐

五味康祐氏のこと(2021年・その3)

1921年12月20日が、五味先生の誕生日なのだから、
今日(2021年12月20日)で、生誕100年となる。

いくつか五味先生の文章を引用したい気持がつよくあるが、
あえて、ひとつだけとなると、やはりこの文章がすぐに浮ぶ。
     *
さいわい、われわれはレコードで世界的にもっともすぐれた福音史家の声で、聖書の言葉を今は聞くことが出来、キリストの神性を敬虔な指揮と演奏で享受することができる。その意味では、世界のあらゆる——神を異にする——民族がキリスト教に近づき、死んだどころか、神は甦りの時代に入ったともいえる。リルケをフルトヴェングラーが評した言葉に、リルケは高度に詩的な人間で、いくつかのすばらしい詩を書いた、しかし真の芸術家であれば意識せず、また意識してはならぬ数多のことを知りすぎてしまったというのがある。真意は、これだけの言葉からは窺い得ないが、どうでもいいことを現代人は知りすぎてしまった、キリスト教的神について言葉を費しすぎてしまった、そんな意味にとれないだろうか。もしそうなら、今は西欧人よりわれわれの方が神性を素直に享受しやすい時代になっている、ともいえるだろう。宣教師の言葉ではなく純度の最も高い──それこそ至高の──音楽で、ぼくらは洗礼されるのだから。私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしないでいる叔父や娘より、断言する、神を視ている。カール・バルトは、信仰は誰もが持てるものではない、聖霊の働きかけに与った人のみが神をではなく信仰を持てるのだと教えているが、同時に、いかに多くの神学者が神を語ってその神性を喪ってきたかも、テオロギーの歴史を繙いて私は知っている。今、われわれは神をもつことができる。レコードの普及のおかげで。そうでなくて、どうして『マタイ受難曲』を人を聴いたといえるのか。
     *
「マタイ受難曲」からの引用だ。
最初に読んだ時から、ほぼ四十年が過ぎた。

《神を視ている》、
このことばほど、強烈なものは、私にはない。

フルトヴェングラーは、マタイ受難曲について、
「空間としての教会が今日では拘束となっている。マタイ受難曲が演奏されるすべての場所に教会が存在するのだ。」
と1934年に書いている。

《神を視ている》も、同じことのはずだ。

Date: 12月 12th, 2021
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その16)

その15)は、もう五年前。

その冒頭に、
グッドマンAXIOM 80からJBLへ。
岩崎先生も瀬川先生も、この途をたどられている、と書いた。

岩崎先生とAXIOM 80が結びつかない──、という人はいてもおかしくない。
でも、岩崎先生はJBLのパラゴンを鳴らされていた同時期に、
QUADのESLも鳴らされていた。

そのことを知っていれば、それほど意外なことではないはずだ。
とにかく瀬川先生もAXIOM 80だった。
そしてJBLへの途である。

岩崎先生も瀬川先生も、
最初のころは、JBLのユニットを使っての自作スピーカーである。

瀬川先生は、JBLの完成品スピーカーシステムとして4341を選択されている。
岩崎先生はパラゴンである。
その前にハークネスがあるが、これはエンクロージュアの購入である。
そしてパラゴンのあとにハーツフィールドも手に入れられている。

ハーツフィールドは、瀬川先生にとって、憧れのスピーカーである。
そしてパラゴンに対しては、ステレオサウンド 59号で、
《まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。》とまで書かれている。

岩崎先生は、(その1)で引用したスイングジャーナルでの4341の試聴記である。
正しくは4341の試聴記ではなく、スタックスのパワーアンプの試聴記なのだが、
その冒頭を読んでいると、4341の試聴記なのかと思ってしまう。

4341の音を、
《いかにもJBLサウンドという音が、さらにもっと昇華しつくされた時に達するに違いない、とでもいえるようなサウンドなのだ》
とまで高く評価されている。

それだけではない、岩崎先生の4341の音の表現は、
瀬川先生の音の表現に通ずるものが、はっきりと感じられる。

Date: 12月 1st, 2021
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その13)

JBLの4343がステレオサウンドに登場したのは41号である。
41号の表紙に、そして新製品紹介の記事と特集でとりあげられている。

41号は1976年12月に発売されている。

このころのカラヤンの演奏は精妙主義だった。
録音に関しても、そういっていいだろう。

そのカラヤンも1980年代中ごろから変っていく。
ベートーヴェン全集の録音のころから、はっきりと変っていった、と感じている。

私の場合、五味先生の影響が強すぎて、
アンチ・カラヤンとまではいかないものの、熱心なカラヤンの聴き手とはいえない。
ベートーヴェンの全集にしても、すべての録音を比較しながら聴いているわけでもない。

これは聴いてみたい、とそう感じたカラヤンの録音だけを聴いてきているにすぎない。
つまり体系的に聴いている聴き手ではない。

いいわけがましいことを書いているのはわかっている。
1980年代のベートーヴェンよりも前に、
カラヤンは精妙主義から脱していた演奏があったのかもしれないが、
私が聴いて、カラヤンが精妙主義から吹っ切れたところで演奏していると感じたのは、
ベートーヴェンだった。

その後のブラームスにもそう感じた。

カラヤンの精妙主義の最後の録音といえるのが、ワーグナーのパルジファルだと思うし、
このパルジファルが、精妙主義からふっきれた演奏のスタートのようにも感じる。

何がいいたいのかというと、
精妙主義を吹っ切ったところのカラヤンの演奏を、
五味先生、瀬川先生は聴かれていないということと、
カラヤンの精妙主義全盛時代に4343は登場しているということ、
そしてマークレビンソンの登場について、である。

Date: 11月 26th, 2021
Cate: 井上卓也

marantz Model 7K, Model 9K(その4)

マランツは、Model 7、8B、9をキット化した。
それからModel 7と9は復刻版も出した。

けれどModel 10Bはキットも復刻版もない。
10Bの復刻は、そうとうに困難だろうからやらなかったのだろう。

マランツがキットを出したころ、
中古相場はModel 7よりも10Bのほうが高かった。
内部をみれば、Model 10Bが高かったのはわかる。

それから四十年ほど経ったいま、
Model 7の程度のよいものは、おそろしいほどに価格が上昇している。
それでも買う人がいるからなのだろう。

けれどModel 10Bは、それほどではない。
Model 7が逆転してしまっているどころか、
四十年前の中古の価格を知っている者からすれば、
ほとんど変っていない──、となってしまう。

あのころよりもFM局の数は増えた。
けれど、オーディオマニアにとって、FMに接する時間はずっと、というか、
もうほとんどない、という人が大半だろう。

私もFMチューナーは一台持っている。
岩崎先生が使われていたパイオニアのExclusive F3だ。
ときどき電源を入れて、動作しているのを確認するぐらいだ。

プログラムソースとしてのFMの重要性は、昔からすればずっと低くなっている。
中古製品の価格は、需要次第だ。

誰も欲しがらなければ、昔は高価だったModel 10Bも、
いまではお買い得といえる価格で購入できる。

10Bを手に入れても、きちんとメンテナンスするのは、
Model 7以上の手間と時間とお金がかかる。

Date: 11月 19th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その8)

ロマン・ロランがベートーヴェンをモデルとしたといわれている「ジャン・クリストフ」、
《人は幸せになるために生まれてきたのではない。自らの運命を成就するために生まれてきたのだ》は、
そこに登場する。

「瀬川冬樹というリアル」を書いていると、
《自らの運命を成就するために生れてきた》ということを考えてしまう。

Date: 11月 19th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その7)

(その6)で引用した文章のあとに、瀬川先生はこう続けられている。
《わたくしはこれですべてを語っているつもりですが》と。

そうだとおもう。
この短い文章にすべてが語られているわけで、
この文章をどう解釈するのかは、その人のオーディオの想像力である。

Date: 11月 18th, 2021
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その6)

ステレオサウンド 9号(1968年冬号)の第二特集は、
「オーディオの難問に答えて」である。

「〝原音再生〟の壁を破るには何を狙ったらよいでしょうか?」と問いがある。
上杉先生、菅野先生、瀬川先生がそれぞれ答えられている。

瀬川先生の答の冒頭に、こうある。
     *
 生と再生音の関係は、ただひと言で言う事ができます。それは──
〈あなた自身〉と〈写真に映されたあなた〉の関係です。
 写真とひと口にいっても、モノクロームありカラーあり、印画もスライド投影もある。ステレオ写真という「のぞき絵」もあれば、映画もある。わたくしのいう「写真」とは、広い意味での映像文化全体の将来までを含んで指しているのですが、かりに映像の技術がどこまでも進んでも、そうして写しとられたあなたがどこまであなた自身に似せられたとしても、それは決して〈あなた自身〉にはなりえず、しかも写っているのはまぎれもなく〈あなた〉に外ならない……。
     *
「瀬川冬樹のリアル」とは、こういうことでもある。

Date: 11月 12th, 2021
Cate: 川崎和男

「デザインに何が可能か」(その3)

十年ほど前、村内ファニチャーアクセスの敷地内にログハウスがあり、
そこはサンドグラスと名付けられたオーディオコーナーだった。

一般的なオーディオ店や家電量販店とはやや毛色の違うモノを扱っていたはずだ。
「村内ファニチャーアクセス オーディオ」で検索すれば、
当時のPhile Webの記事が見つかる。

今回、川崎先生の講演に行くので、
村内ファニチャーアクセスのウェブサイトをくまなく見ても、
サンドグラスは、もう止めてしまったようだった。
いつ止めてしまったのだろうか。

採算がとれなかったのだろうが、ログハウスがオーディオのコーナーというのは、
他のオーディオ店ではマネできない環境なのは確かだ。

川崎先生はオーディオマニアであり、今回の講演でも、
オーディオに関することを語られていた。
なので、村内ファニチャーアクセスで川崎先生の講演が行われたことをきっかけに、
村内ファニチャーアクセスがふたたびオーディオを取り扱ってくれることを期待したい。

第一部の川崎先生の講演のあとには質疑応答の時間がとられていたが、
鼎談のあとにはそれがなかった。
鼎談のあとに、それがあったら、村内ファニチャーアクセスの村内健一郎社長に、
サンドグラスのことを尋ねたかったし、
もう一度、オーディオを取り扱われる可能性があるのかを知りたかった。

今回の講演と鼎談はYouTubeで公開されている。

Date: 11月 10th, 2021
Cate: 川崎和男

「デザインに何が可能か」(その2)

今回の講演は、主催が村内ファニチャーアクセスで、協力・マルイチセーリング。
マルイチセーリングはWAVELET RESPECTのメーカーである。

村内ファニチャーアクセス主催というのが、よくわからないまま当日。
講演をきけば、その理由もわかるだろう、と思っていた。

今回の講演で、川崎先生とマルイチセーリングの関係もよくわかったし、
なぜ村内ファニチャーアクセスなのかもわかった。

今回の講演の第二部の「カーボンチェアへの思いとSDGs」は、
川崎先生、
マルイチセーリングの代表取締役会長の小林幸一氏、
村内ファニチャーアクセスの代表取締役社長の村内健一郎氏による鼎談だった。

デザイナー、メーカー(作り手)、家具店(売り手)による鼎談だった。

マッキントッシュのゴードン・ガウの言葉がある。

「quality product, quality sales and quality customer」。
どれかひとつ欠けても、オーディオの世界はダメになってしまう──、
とゴードン・ガウは言っていた。

quality product(クォリティ・プロダクト)は志をもつメーカー、
quality sales(クォリティ・セールス)は志をもつ販売店と訳したい。

今回の鼎談をきいていて、ますますそう思う。

志をもつメーカーは、志をもつデザイナーと組むことで、
デザイナーの志を理解し支援する。

志をもつ販売店も同じだ。

だからこそquality customer(クォリティ・カスタマー)はどうあるべきか。
それがはっきり見えてくる。

そうであるはずだし、そうあるべきだ。

Date: 11月 9th, 2021
Cate: 川崎和男

「デザインに何が可能か」(その1)

2017年3月にKK適塾が終る。
それでも2018年11月に、
「プロダクトデザインと未来」のテーマで、川崎和男×深澤直人・対談があった。

2019年9月には、WAVELET RESPECTの発表会があった。

KK適塾が終ったあとも、川崎先生の講演を聴く機会はあった。
けれど2020年はコロナ禍ということもあって、ゼロだった。
2021年もゼロだろうな、と思っていた。

残り二ヵ月を切っているのだから、あるとは到底思えなかったし、
期待もしていなかった。

11月5日、facebookを眺めていたら、11月9日に講演の告知があった。
急だな、と思ってもさっそく申し込む。

5日、帰宅後、ここに書こうかな、と思っていたら、
なぜだか、申し込みのページが削除されていたので、止めた次第。

それでも伝えたい人には伝えている。

ほぼ二年ぶりの川崎先生の講演。
「デザインに何が可能か」が第一部のテーマであり、
「カーボンチェアへの思いとSDGs」が第二部のテーマだ。

カーボンチェアとは、2019年発表のWAVELET RESPECTのことだ。
二年前の講演もWAVELET RESPECT、
今日の講演もWAVELET RESPECTである。

二年前は六本木のAXISだった。
今日は八王子・左入町の村内ファニチャーアクセスだった。

講演を聴くまでは、なぜ、村内ファニチャーアクセスなのか、と不思議に思っていた。