Archive for category 人

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その13)

菅野先生がピアニストを目指されたことは、
古くからの読み手であればご存知のはず。
ピアニストへの途を諦められたり理由についても書かれている。

ここに関係してくる発言が、ステレオサウンド 47号にある。
     *
菅野 そうですね。私はできれば一次表現をしたいんですが、自分の仕事は一次表現をする仕事ではない。一次表現をする演奏家が厳然として存在するわけです。そこで録音を通じての橋渡しをする。いってみれば、「録音再生」という二次表現かもしれません。その時、私は聴き手の代表である。
     *
この菅野先生の発言に対して、保柳健氏は「そこが違うんです」と返されている。
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読めばわかることだが、
録音という仕事をされているふたりであっても、その立場、考えかたは、
共通するところもありながらも、大きく違うところもある。

どちらが録音家として優れているのか、
すぐに優劣をつけたがる人がオーディオマニアのなかには少なからずいるが、
そういう次元のことではなく、録音はたんなる記録ではないし、
録音家もたんなる記録係ではない、ということだ。

菅野先生はつづけてこう発言されている。
     *
菅野 そこで演奏されるものを、自分でこう聴いたということを盛りこんで、たとえば、よくいわれることですけど、ジャズの、大きなホールでの演奏会も盛んになっちゃって、楽器のPAが進んでしまったから、ちょっとピンと来ないかもしれないんですが、ジャズの演奏の場合、本来ならウッドベースの音は非常に小さいわけです。もし、ステージで、ピーターソンでもエバンスでも、ピアノ・トリオの演奏を忠実に捉えるならば、当然そこで鳴っている音量バランスが基準になって、見謹慎具されるわけですね。ところが、私の場合は全くそうではなくて、ピアノ、ベース、ドラムスを対等の音量でとってこないと、もし自分が、ピアニスト、ベーシスト、ドラマーを率いてプロデュースするとしたら、聴衆に聴かせないと思うのが対等の音量で響かせることだから、自分の考える録音表現にならないわけです。
     *
このことは「THE DIALOGUE」もそうだ。
一曲目のドラムスとベースとの対話での、両者の音量は対等だ。
本来ならば、ベースがあれほどの音量で鳴るわけがない。

だからベースで、音出しの音量を決めてしまうと、
かなり低い再生音量になってしまう。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その12)

実は、この奇妙なピアノの録音については、別項「耳はふたつある(その4)」で触れている。

そこに、マイクロフォンが水平にセッティングされていなかったのかもしれない、と書いた。
(その11)へのコメントが、facebookにあった。
奇妙なピアノの録音も、
その人の判断でマイクロフォンをセッティングしたのだろうから、
その人が「そこで聴いた音」を録音したのであろう、と。

そういう見方もできるが、それだけとは思わない。
奇妙なピアノの録音をした人が、マイクロフォンを水平にしていたのかどうかはわからないが、
生録の現場で水平ではなく、無頓着に斜めにしていた人は、
そこでの音を聴いていない人のはずだ。

つまり機械にまかせっきりにしていた人であり、
そういう録音である。

奇妙なワンポイント録音をした人も、
ワンポイント録音だから、いい音でとれる、という思い込み、
それに使っている器材が優秀なモノだから、という思い込み、
つまりまかせっきりの録音の可能性が高い。

録音の場にいて、録音をしているのに、
聴いていないなんてことはありえない、と思う人もいるだろうが、
たとえば写真や動画でも、撮るのに夢中で見ていなかった、という例はある。

撮っているのだから、見ているはず。
そうであるはずなのに、撮るのに夢中で……という人は、
ほんとうに記憶していない。

記録はしていても記憶はしていない。
奇妙なワンポイント録音をした人も、そうではないのか。
録音という記憶はしていても、記憶していない。
記憶していない、ということは、聴いていない。

そして「そこで鳴っている音」には、
もっと突っ込んだ意味も含まれている。

Date: 4月 15th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その11)

菅野先生は何を録ってられたのか。
これもステレオサウンド 47号からの引用だ。
     *
菅野 最近考えていることの一つなんですが、録音というのは、そこで鳴っているのをとるのと、そこで聴いた音をとるのとあるんですね。
保柳 なるほど。
菅野 非常にオーバーラップしてもいますが、これは違う姿勢である。自分の場合を考えてみると、「そこで聴いた音」をとるわけです。
保柳 ははあ。
菅野 というより、録音する人間は、所詮「そこで聴いた音」しかとれないんだという考えなんですね。「そこで鳴っている音」をとるというのは、非常に物理的でありまして、つまり一時いわれたように、機械が進歩すれば、生の音が再現できるという考え方から生まれてくるのではないかと思います。
保柳 うん。
菅野 録音場と再生音場の差ということがよくいわれるでしょう。まあ、これはコンサートホールにしても、スタジオにしても家庭の部屋とは非常に違う。レコード音楽というものは、原則として過程で聴くものであって、そのような二つの音場を考えたときに、すでにそこには動かし難い録音再生の特質が存在するという事実がありますよね。その点から考えてみても、二つの音場の差をよく知った耳で、技術的には、そこで聴いた音をとると、こういうように考えるわけです。
     *
「そこで聴いた音」と「そこで鳴っている音」。
オーディオマニアには、ワンポイント録音こそ最高の録音手法である、
そう思い込んでいる人がいる。

数年前、あるところで、そういう人が録音したピアノを聴いた。
なんとも奇妙な音がした。

聴かせてくれた人(録音した人ではない)によると、
ワンポイント録音だそうだ。
しかもオーディオマニアによる録音だったし、
録音の結果にも満足している、とのこと。

録音した人のことを知っているわけではない。
だけど、録音されたピアノの奇妙な音を聴いていると、
「そこで鳴っている音」をとろうとしての失敗だったように思うのだ。

Date: 4月 6th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その4)

藤崎圭一郎氏が講師の五回目について書いているのに、
ここで石黒浩氏が講師の四回目について書くのは、
往年の女優のモノクロ写真を十枚ほど見る機会があったからだ。
そして色と構図について、思い出していた。

別項で「音の色と構図の関係」を書いた。
まだ(その1)だけで、続きを先延ばしにしているが、
色と構図は、今年一年の、個人的なテーマである。

KK適塾以前に「音の色と構図の関係」は書いていたけれど、
四回目のときに、このことを思い出すことはなかった。

アンドロイドには色がついている。
人間に酷似しているタイプ(ジェミノイド)は、
人間と同じに色をもっている。

けれど、この色をすべて廃して、モノクロ写真のようにしてしまったら、
それを見て、人はどう感じるのだろうか、と考えてしまった。

モノクロ写真的色調のジェミノイド。
そこに独自のリアリティはあるのだろうか。

Date: 4月 3rd, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(五回目・その2)

藤崎圭一郎氏の話は、解像度と変異体ということで、
変化朝顔の写真から始まった。

変化朝顔については説明しない。
Googleで検索してみればわかることだから。

そのあとスクリーンに映し出されたのは、機動戦士ガンダムだった。
ガンダムについても説明しない。

そこでガンダムシリーズに登場するモビルスーツのいくつかが大映しされる。
ガンダムはこれまではいったい何作つくられてきたのか、
すべてを見るほどのガンダムのファンでないため知らないが、
いくつかは見ているし、けっこうハマったシリーズもある。

そのひとつが機動戦士ガンダムSEEDと機動戦士ガンダムSEED DESTINYである。
そのSEEDシリーズに登場しているモビルスーツが、スクリーンに映された。

解像度と変異体にぴったりの例であるからこそなのだが、
藤崎圭一郎氏は、SEEDシリーズを見られていたのか、と勝手に思っていた。

変化朝顔につづいてのガンダム。
首をかしげたくなる人もいたかもしれないが、
藤崎圭一郎氏と同世代(ともに1963年生れ)の私は、共感がもてるつながりである。

解像度と変異体の話をききながら、
私が思っていたのは、石森章太郎のマンガと、日本のオーディオ(製品)のことだった。

Date: 3月 30th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017が終って……

昨年度のKK適塾も、3月30日が最後だった。
今年度のKK適塾は終った。

昨年度の最後と違っていたのは、スクリーンに「最終回」という映ったことだ。
今年度のKK適塾が終っただけではない、ということだ。

多くの人がいうことがある。
「最後とわかっていれば行ったのに……」

こんなことを口にする人は、ずっと言い続けている、
「最後とわかっていれば行ったのに……」と。

Date: 3月 30th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(五回目・その1)

KK適塾 2017五回目の講師は、藤崎圭一郎氏。

藤崎圭一郎氏は、二回目(2月2日)の講師だった。
二回目と三回目は中止になった。
藤崎圭一郎氏の話は聞けないのかと思っていたら、
今回の講師、濱口秀司氏の事情で無理ということで、藤崎圭一郎氏である。

濱口秀司氏の話も面白く、興味深い。
今回も聞いてみたいとおもっていたけれど、
まだ一度も聞いていない藤崎圭一郎氏の話を、できれば聞きたいと、
中止になった時から思っていただけに、今回のKK適塾は特に待ち遠しかった。

藤崎圭一郎氏は、評論について直接離されたわけではなかったが、
四つのキーワードをもつクロスの図を使って話は、
評論そのものが、どうあるべきなのか、でもあった。

いまオーディオ評論家と自称している人たちは、
なぜKK適塾に来ないのか。
少なくともオーディオ評論家としてプロフェッショナルであろうとするならば、
今回の藤崎圭一郎氏の話は、聞き逃してはならない内容だった。

こういうことを書いたところで、誰も来ないことはわかっている。
結局、彼らはオーディオ評論家(商売屋)であって、
オーディオ評論家(職能家)でありたい、とは思っていないのだ。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その3)

石黒浩氏のアンドロイドに関しての話を聞くたびに毎回思っているのは、
High Fidelity Reproduction(ハイ・フィデリティ・リプロダクション)のことだ。

日本では昔からHigh Fidelity Reproductionイコール原音再生、
もしくは限りなく原音に近い音の再生、というふうに捉えられている。

これは誤解といえる。
この点に関しては、瀬川先生がステレオサウンド 24号(1972年)、
「良い音は、良いスピーカーとは?(3)」で書かれている。
     *
それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
 ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
     *
「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」こそが、High Fidelity Reproductionである。
瀬川先生も書かれているように、ここは非常に重要なところだ。

昨年秋から何回にわたって波形再現について書いてきた。
波形再現を否定するつもりはないが、私がSNSで見かけた波形再現は、ひとりよがりだった。
取り組んでいる本人は、客観的に追求しているつもりてあっても、
いくつもの大事なところが抜け落ちている。

石黒浩氏の話で興味深く感じたのは、
アンドロイドの皮膚を剥ぐときの現実感について、である。
おそらく来場者のほとんどが、このところには強い関心をもたれたのではないだろうか。

皮膚を剥ぐという、現実ではほぼありえないシチュエーションでの現実感というか、
アンドロイドの人としての実在感があるということは、
オーディオマニアならば、再生音において、同様のことがあるのではないか、と思うだろうし、
思いあたることがあるはずだ。

KK適塾の終りには、質問の時間がある。
石黒浩氏にひとつ訊きたいことがあった。
でも、KK適塾での話とは直接関係のないことであり、
他の人にとってはどうでもいいことであろうから、
石黒浩氏に、オーディオマニアではないことを確かめたかったけど、しなかった。

おそらくオーディオマニアではないだろう。
けれど石黒浩氏の話をきくたびに、
この人がオーディオマニアだったら……、と思う。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その2)

石黒浩氏の話に、美人は左右対称だ、ということが出た。
美男美女といわれ、テレビ、映画に登場する人の顔をみていれば、
完全な左右対称ではもちろんないが、
美男美女といわれない人と比較すれば、かなり左右対称の顔であることは、
以前から気づいている人はけっこう多いはずだ。

とはいえ、美人の定義として左右対称、そう客観的なことといえるのだろうか。
来場者からも、そのことについて質問があった。

石黒浩氏と質問者のやりとりを聞いていて私が思っていたのは、
美人イコール美しい人ではない、ということである。

美男美女でもいい、
美男が美しい男、美女が美しい女とは、私は思っていない。

美人は、左右対称の顔ということが如実にあらわしているように、
きれいな人という域でしかない。

きれいな男、きれいな女、左右対称の顔なのであって、
美しい人が左右対称の顔なのではない。

ではなぜ石黒浩氏がアンドロイドの顔を左右対称にされるのかについては、
ここでは触れない。

これは私のなかだけの定義すぎない。
美人はきれいな人であって、必ずしも美しい人というわけではない。
美人でなくとも、美しい人はいる。
少なくとも、私はそう捉えているし、主観である。

音も同じだ。
美音イコール美しい音ではない。

Date: 3月 24th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その1)

3月23日は、KK適塾 2017の四回目だった。
2月に予定されていた二回目と三回目は中止だった。
一回目が12月22日だったから、三ヵ月ぶりのKK適塾だった。

三ヵ月のあいだに、暖かくなっていた。
桜も咲いている。
なのでずいぶんとひさしぶりの感じもしていた。

四回目の講師は、石黒浩氏。
石黒浩氏の講演はKK塾、KK適塾での二回に加えて、
2015年秋に六本木にある国際文化会館でもきいている。

石黒浩氏の話をききながら考えていたのは、
前日(22日)に書いた「ハイエンドオーディオ考を書くにあたって」だったし、
黒田先生の文章も思い出していた。

石黒浩氏のアンドロイド(人型ロボット)には、
人間に酷似しているタイプ(ジェミノイド)と、
テレノイドと呼ばれているタイプとがある。

ジェミノイドが酷似型であるために、性別や年齢、背格好など、見る人に意識させるのに対し、
テレノイドは性別も年齢も特定される外観を持たず、
見る人によって男にも女にも、子供にも大人にも見える、外観を簡略化したタイプである。

いわば観察(ジェミノイド)と想像(テレノイド)である。
このふたつのことは、これまでの石黒浩氏の話で知っていたけれど、
前日に黒田先生の文章を書き写したこともあって、
いままで以上に、このふたつのアンドロイドの対比が、
ほぼそのままオーディオの世界、音にもあてはまりそうな気がしていた。

Date: 3月 21st, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(3月30日)

グレン・グールドの演奏は「解答」だ。

「解答」だからこそ、グレン・グールドはコンサート・ドロップアウトした。

「解答」のために必要な場は、コンサートホールではなくスタジオであり、録音である──。

KK適塾を聴くことで、強くそう確信するようになった。

23日はKK適塾四回目、30日は五回目が行われる。
五回目の受付も始まっている。

Date: 2月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(3月23日)

今年度のKK適塾の四回目は、3月23日に行われる。
受付が始まっている。

KK塾、KK適塾に行って毎回おもうのは、
もっとオーディオ関係者が来てほしい、ということだ。

オーディオ関係者とは、オーディオ業界の人だけを指すわけではない。
オーディオ好きの人を含めて、の意味だ。

平日の昼、時間を都合するのがたいへんな人もいよう。
それでも、オーディオ好きの人は、一度来てほしい。

四回目の講師は石黒浩郎氏である。

Date: 2月 20th, 2018
Cate: ワーグナー, 瀬川冬樹

ワグナーとオーディオ(ワーグナーと瀬川冬樹)

ワーグナーの音楽と、瀬川先生が好まれて聴かれていた音楽とは、
少々印象が一致しない面があるようにも感じていた。

ワーグナーと瀬川先生ということで、
私が真っ先に思い出すのは、ステレオサウンド 38号の、黒田先生のこの文章だ。
     *
 普段、親しくおつきあいいただいていることに甘えてというべきでしょうか、そのきかせていただいたさわやかな音に満足しながら、もっとワイルドな音楽を求めるお気持はありませんか? などと申しあげてしまいました。そして瀬川さんは、ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」の合唱曲をきかせてくださいましたが、それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない。
 たしかに、そういうことは、いえるような気がします。日本でこれほど多くの人にバロック音楽がきかれるようになった要因のひとつに、日本での、決してかんばしいとはいいがたい住宅環境があるというのが、ぼくの持論ですから、おっしゃることは、よくわかります。音に対しての、あるいは音楽に対しての好みは、環境によって左右されるということは、充分にありうることでしょう。ただ、どうなんでしょう。もし瀬川さんが、たとえばワーグナーの音楽の、うねるような響きをどうしてもききたいとお考えになっているとしたら、おすまいを、今のところではなく、すでにもう大音量を自由に出せるところにさだめられていたということはいえないでしょうか。
     *
ここにワーグナーが出てくる、「さまよえるオランダ人」も出てくる。
そして《それをかけて下さりながら、瀬川さんは、このようにおっしゃいました──さらに大きな音が隣近所を心配しないでだせるようなところにいれば、こういう大音量できいてはえるような音楽を好きになるのかもしれない》
と瀬川先生がいわれた──、
ここを読んでいたから、ワーグナーの音楽と瀬川先生の好まれる音楽が結びつきにくかった。

ついさっきまでKさんと電話で話していた。
彼によると、瀬川先生はNHK FMで放送されているバイロイトをエアチェックして聴かれていた、とのこと。

当時ラックスのショールームで定期的に行われていたなかでも、
常連の方とワーグナーについて熱心に語られていた、という話も聞いた。

聞いていて、意外だな、というおもいと、やっぱり、というおもいとが交錯していた。

瀬川先生は世田谷に建てられたリスニングルームでは、ワーグナーを聴かれていたのだろうか。

Date: 2月 1st, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その10)

(その9)での引用の続きを書き写しおく。
     *
保柳 実をいうと、菅野氏録音をですね、最近ちょっとやってみたのですけれど自分の音じゃないと思うんです。
菅野 そうでしょう。だからそこを聞きたい。
保柳 オーケストラを、LPで13枚作らされたわけです。オーケストラは変る、ホールは変る。ところが、シリーズとして出すんだから、一つの統一された音色がなければならない。私のやり方だと普通はそうじゃないわけです。そのホールとオーケストラのムードを出さなければならないわけです。たとえば、その使ったホールが、聴いた人にイメージアップするようなホールを使っていこうとするわけです。この13枚が一つのシリーズとなって出てくるんですね。再生される音は同じじゃなきゃ困るわけです。そのため、全部オンマイクになっているわけです。気分的に落ち着かないですよ。名古屋、東京、埼玉でとったのですが、それを同じ音にしていく。自分でいつも使っている反対の手法でいくわけです。非常に落ち着かなかった。しようがないので、実をいうと、最後の整音段階で、自分のイメージの中にある、一番きれいなホールをイメージアップする。好きな席に坐って聴いたその音を頭の中に入れておいて、全部その音に統一していくというやり方をするわけです。
菅野 私には、そのホールの響きを計るなど、そんな考えは頭からないんです。今思い出したのですが、私は盛んに青山タワーホールを使う。あれまでは、誰も使いませんでした。使うことを決めたときも、ずいぶんと反対意見が出ました。マイクロフォンのためには、あのホールを利用できるのです。ホールの響きをとったわけじゃない。つまり利用して、ある程度、自分の意図通りに成功したわけです。それから、あのホールがやたらと使われはじめた。そして、中には、実に変な録音があるんです。つまり、あのホールの音をとろうとして、アプローチしたのは全部失敗しているのですよ。
保柳 そうでしょうね。あのホールは、決していい音のホールではない。そこなんだな。あるホールでは、リサイタルを仕方がなくとったことはあるが、決して録音のために使おうという気はしないですね。
菅野 だから、あのホールでとったものは、中には非常に成功したものもありますが、失敗したものも多いですね。もし私と同じようなアプローチでいけば、あのホールも使えますよ。
     *
40年前に読んだときも、上に引用した箇所は強く印象に残っている。
40年前はまだ高一だった。
音楽の録音をやったことはなかった。
録音の基礎的な知識を、文字だけで知っていたころであっても、
この箇所は大事なところだな、と思っていた。

菅野先生の《ホールの響きをとったわけじゃない》と、
ピアノ録音におけるマイクロフォンの向きとが、
同じことを語っているように感じられる。

Date: 1月 31st, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その9)

江崎友淑氏の話は、曲と曲とのあいだだけだったから、
トータルしてもそれほど長くはなかった。
正直もっと話を聞きたいと思うほど、興味深い内容だった。

ピアノ録音についての話があった。
これは初めて聞くことだった。

どんな人でも、アマチュアであろうとプロフェッショナルであろうと、
ピアノを録音しようとした際、マイクロフォンの正面をピアノに向ける。

マイクロフォンの高さや角度、ピアノとの距離などは人によって違ってきても、
ピアノに向けずに、という人はいないだろう。

江崎友淑氏が菅野先生とピアノ録音をやったとき、
マイクロフォンのセッティングは江崎友淑氏がやられた。
その時、菅野先生が「こういうセッティングはどうだろう」とやられたのは、
マイクロフォンの正面をピアノではなく床に向けてのセッティングだった。

ピアノ録音については、ステレオサウンド 47号「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」で、
保柳健氏と対談をされている中でも語られている。
     *
保柳 あなたのピアノのとり方を見ていると、確かに私なんかより、ずっとピアノに接近しているのですね。いつだったか、それこそ、深町純のピアノをいろいろな形でとってもらった。全体に私より、イメージがアップなんてす。あの場合スタジオでしたから、まわりの雰囲気というのは全くないわけです。
菅野 雰囲気でしょ、あなたは。そこが違うんです。私は雰囲気ではないんです。響きのよいホールでは、スタジオよりマイクロフォンを遠くへ置きます。それは雰囲気をとるためじゃないのです。それは、そういう音をとるためなのです。良いソノリティを持った複雑な成分、間接の成分を持ったホールの場合には、雰囲気ではなくて、そのようなホールで鳴っているピアノの音を、そうした方が良い音になるから、そうする。決して雰囲気のためではない。あなたをホールへ導きますよとか、こういうホールで鳴っているんですよと伝えるために、やっているのではないのです。だからスタジオへ行くと、全然楽器の響きを助けないわけです。無駄ですからね。むしろ、楽器そのものの音をとろうと、アップになります。
     *
この対談は47号だけでなく、48号、49号の三回連載であり、濃い内容だ。
40年前、ステレオサウンドは、こういう記事をつくっていたのだ。

この対談からは、もう少しばかり引用していく。