Archive for category High Fidelity

Date: 5月 1st, 2016
Cate: High Fidelity, 再生音

ハイ・フィデリティ再考(現象であるならば……)

High Fidelity Reproductionは高忠実度再生であり、
何に対して高忠実度なのかというこで、原音に、というこで原音再生でもある。

ここでの原音の定義は人により違うこともある。
高忠実度再生とは原音に高忠実度であることを目指しているわけだが、
高忠実度再生とは原音の追求なのだろうか、それとも原音を模しているだけなのか。

そんなことを考える。
原音を高忠実度に模す──、
高忠実度再生ではない、とはいえない。

ならば……、と考える。
音楽の理想形ということを。

音楽の理想形を追求しているのか、それとも模しているのか。
音楽の理想形を模すこともまた高忠実度再生といえるのではないのか。

このブログを始めたころに「再生音とは……」を書いた。
そこに「生の音(原音)は存在、再生音は現象」とした。
直感による結論であり、この結論が間違っていなければ、
再生音は現象であり、それは模すことのはずだ。

Date: 11月 24th, 2015
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その1)

誰なのかはあえて書かない。
オーディオの仕事をしていた人がいた。
彼はスピーカーを買おうとしていた。

彼は気に入っているスピーカーをすでに鳴らしていた。
それでも彼はスピーカーを買おうとしていた。
つまり買い足そうとしていたのだ。

彼自身の音の好みを無視してでも、
オーディオを仕事としている以上、仕事にふさわしいスピーカーを買おうとしていたわけだ。

心がけとして立派と言えるかもしれない。
彼は何にすべきか、少し迷いがあった。
彼はある人に相談した。

相談を受けた人は、オーディオの世界の大先輩である。

彼は候補を二、三あげた。
いずれも世評の高いスピーカーであった。

どれを選んだとしても、
彼の要求に応えてくれるだけの性能の高さを持っていた。

相談を受けた人は言った。
どれも仕事の音だ、と
音楽を聴いて楽しい音のスピーカーではない、と。

七、八年前の話だ。
相談をした人も受けた人も知っている。

相談をした人から直接聞いた話だ。
なぜ彼はこんな相談をしたのか。

どんな答が返ってくるのか、おそらく彼はわかっていたはずだ。
彼自身も同じように感じていたのだと私は思っている。

私もそんなことを相談されたら同じことを答えたはず。
彼が候補としたスピーカーは、確かに優秀なモノだ。ケチをつけられるようなところは、ほとんどない。

細かな点を疎かにせずひとつひとつクリアーにしていくという開発をとっていて、それが音にも結実している。

だがそれは手本のような音だ、といえるように思っている。

Date: 9月 5th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その3)

ふたりの絵描きは、アンプにもたとえられよう。

マッキントッシュの真空管式パワーアンプ、MC3500とMC275。
このふたつのアンプのことを「五味オーディオ教室」を読んで知った。

MC3500は、 
《たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。
絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。》
MC275は、
《必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。》

MC3500は、ここでの花が造花であれば、造花として忠実に描くことだろう。
《音のすみずみまで容赦なく音う響かせている》のだから。

MC275は、たとえ造花であっても《簇生の美しさを出す》、そんな鳴り方をしてくれることだろう。

このふたつのアンプは、ずいぶん前のこと。
いまのアンプの多くは、世の趨勢はMC3500の側にある。

どんな音であっても、些細な音であっても、
音のひとつひとつを大事にするのであれば、つまりおろそかにしないのが正しいのであれば、
MC3500はMC275よりも優秀なアンプということになる。

事実、優秀なアンプといえるだろうし、
そういう意味では、現代にはもっともっと優秀なアンプが存在している。

情報量が多くなることで、ときとして人は音を「聴こえる」としか感じなくなるのかもしれない。
もしくは「聴かされている」となるかもしれない。

音はきくものである。
スピーカーから出てくる「音」は、聴く対象である。
ならば「聴こえる」、「聴かされている」としか感じなくなる音は、正しいといえるのだろうか。

石井幹子氏の言葉」を読み返した。
かわさきひろこ氏の言葉」も読み返した。

Date: 7月 16th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(差延 différance)

以前から読もうと思っていた本、ジャック・デリダの「声と現象」を手に取っている。
差延という、デリダによる造語が出てくる。

私がいま読みはじめたちくま学芸文庫の訳註には、差延について次のように書かれてある。
訳者は林好雄氏。
     *
差延(ディフェランス)「差異 différence」に対して「差延」は différance と綴られるが、フランス語の発音上は区別できない。フランス語の動詞 différer には、「異なる、同一ではない」という意味と「延期する、遅らせる」という意味があるが、その名詞である「差異 différence」には後者の意味がないことから、この両者の意味を生かすために考え出されたダリダの造語。
     *
訳註はまだまだ続くし、訳註だけを読んでも……、というわけですべては引用しない。
それに私自身、差延の意味を完全に把握していない。

それでも「差延 différance」は、ハイ・フィデリティを考えていくうえで、
とても重要なことにつながっていく予感がしている。

差異ではなく差延。

「声と現象」を読み終り、しばらく時間をおいたら、この続きを書いていきたい。

Date: 6月 22nd, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その2)

UREIの813の音を、瀬川先生は《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と表現されているが、
これが岡先生となるとどうなるのか。

瀬川先生と岡先生の音の聴き方はずいぶん違っているところがあるのは、
ステレオサウンドを熱心に読んできた読み手であれば承知のこと。

UREI 813が登場したステレオサウンド 46号の特集記事に岡先生も参加されている。
解説と試聴記を担当されている。

その試聴記には音の色合いに関しては、特に書かれていなかった。
46号は1978年3月に出ている。この年暮に出た「コンポーネントステレオの世界 ’79」で、
岡先生は813を使った組合せをつくられている。

そこでは、こう述べられている。
     *
UREIモデル813というスピーカーは、かなりコントラストのついた音をもっています。たとえていえば、カラー写真のコントラストというよりも、黒と白のシャープなコントラストをもった写真のような、そんな感じの再生音を出してくるんです。
     *
《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と《黒と白のシャープなコントラスト》、
瀬川先生の評価と岡先生の評価、
それぞれをどう受けとめるか。

私は、というと、実のところ813は聴く機会がなかった。
ステレオサウンドの試聴室で聴いた813は813Bになっていた。
輸入元も河村電気研究所からオタリテックに変っていた。

メインとなるユニットもアルテックの604-8Gから、
PAS社製ウーファーとJBLの2425Hを組み合わせた同軸型に変っていた。

オリジナルの813の音は聴けなかった。
いまも、ぜひとも聴いてみたいスピーカーのひとつである。

おそらく私の耳には、《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》と聴こえるだろう。
だからといって、《黒と白のシャープなコントラスト》と聴こえる人の耳を疑ったりはしない。

ここに音の色の、人によっての感じ方の違いがあるからだ。

Date: 6月 21st, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(違う意味での原音・その1)

オーディオの世界で原音といえば、
その定義は生の音、もしくはマイクロフォンがとらえた音、マスターテープに記録された音、
さらにはアナログディスクやCDとなって聴き手に提供されるメディアにおさめられた音、
こんなふうになる。

色の世界で原色といえば、辞書には三つの意味が書かれている。
①混合することによって最も広い範囲の色をつくり出せるように選んだ基本的な色。絵の具では赤紫(マゼンダ)・青緑(シアン)・黄,光では赤・緑・青。
②色合いのはっきりした強い色。まじり気のない色。刺激的な,派手な色。
③絵画や写真の複製で,もとの色。

つまりオーディオの世界での原音は、三番目の意味の原色にあたる。
ならば一番目、二番目の意味の原音はあるのだろうか。
あるとしたら、それはどういう音なのだろうか。

例えばUREIの813というモニタースピーカーがある。
ステレオサウンド 46号で、その存在を知った。

UREI 813のスタイルは、少なくとも私には初めて見るスタイルであった。
ウーファーが上に、中高域のユニットが下にあるのはJBLの4311もそうなのだが、
UREI 813は迫力が違った。

音はどうだったのか。
瀬川先生は46号の試聴記の冒頭に、《永いこと忘れかけていた音、実にユニークな音》と書かれている。
そしてこうも書かれている。
     *
たとえばブラームスのP協のスケールの雄大な独特な人工的な響き。アメリカのスピーカーでしか鳴らすことのできない豪華で華麗な音の饗宴。そしてラヴェル。「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」とでも言いたい、まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ。だがそれを不自然と言いきってしまうには、たとえばバッハのV協のフランチェスカッティのヴァイオリンで、自分でヴァイオリンを弾くときのようなあの耳もとで鳴る胴鳴りの生々しさ。このスピーカーにはそうしたリアルな部分がある。アルゲリチのピアノのタッチなど、箱の共鳴音が皆無とはいえず、ユニット自体も中域がかなり張り出していながらも、しかしグランドピアノの打鍵音のビインと伸びきる響きの生々しさに、一種の快感をさえおぼえて思わず口もとがほころんだりする。だが何といっても、クラシックのオーケストラや室内楽を、ことに弦の繊細な美しさを、しみじみ聴こうという気持にはとうていなれない。何しろ音がいかにも楽天的で享楽的であっけらかんとしている。スペンドールの枯淡の境地とはまるで正反対だ。
     *
《「パリのアメリカ人」ではなくて「パリジャン・イン・アメリカ」》、
《まるでコダカラーのような色あいのあざやかさ》、
こういう音は、二番目の意味の原色的原音といえるのではないのか。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音・「夜のラジオ」を読んで)

谷川俊太郎氏の「夜のラジオ」を読んだ。
どきっ、としたところがある。
     *
どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ
     *
どきっ、としないオーディオマニアがいるだろうか。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・絵に描いた餅ならば)

「絵に描いた餅」なのはわかっていて、あえて餅の絵を描く人と、描かない人とがいる。
描く人はオーディオマニアであり、
描かない人は音楽が好きで、いい音でききたいと思っていてもオーディオマニアではない──、
そう思えてきた。

Date: 1月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(絵に描いた餅ならば)

ハイ・フィデリティは高忠実度であり、
何に対して高忠実度かといえば、いちおう原音ということになっている。

その原音とはなんなのか。
録音の現場で鳴っていた音なのか、マスターテープに収録された音なのか、
アナログディスクならば、そこに刻まれた音なのか、
CDならばピットとして記録された音なのか。

菅野先生は自身で録音されたものについても、
マスターテープに収録された音は、はっきりとはわからない、といったことを何度も発言されていた。
ましてカッティングで、別の要素がそこに加わる。
アナログディスクに刻まれた音は、さらにはっきりとはわからなくなる、ともいえよう。

なんとこころもとない高忠実なのだろうか。

こんなことは私がいう以前から指摘されていたことでもある。
だから、原音再生は絵に描いた餅である──、
そういう表現をつい最近もみかけた。

絵に描いた餅とは、感心するほど見事に描かれた餅の絵であっても、
絵である限りは食べられない、腹の足しにはならない。
つまり何の役にもならないこと、もしくは本物・実物でなければ意味がない、というもの。

オーディオにおける原音再生は、確かに「絵に描いた餅だ」といわれれば、確かにそうだ、とうなずく。
うなずくけれど、こう問い返したくもなる。

その餅を描いてみたことがありますか、と。

絵に描いた餅だとわかっていても、
一度は、絵に描いて、いうべきなのではないか。

Date: 11月 18th, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(Good Reproduction・その2)

High Fidelity ReproductionとGood Reproduction、
どんなに言葉でことこまかに定義してもすべての人から同意が得られるわけではない。

あるスピーカーシステムについて、ある人はハイ・フィデリティだと感じ、
私はグッドリプロダクションだと感じることだってある。反対のことだってあるだろう。

例えばタンノイのKingdomというスピーカーシステムがある。
現在のKingdom Royalではなく、1996年にタンノイ創業70周年記念モデルとして登場したKingdomのことだ。

30cm口径同軸型ユニットを中心に、低域を46cm口径のウーファーで、高域をドーム型トゥイーターで拡張した、
実に堂々としたフロアー型システムである。

ここまで大型のシステムとなると、
物量投入型システムが多いアメリカの製品であって、これだけの規模のモノとなると数は少ない。
Kingdomがイギリスのスピーカーシステムとして、
ヴァイタヴォックスの業務用のBass Binを除けば最大規模といえよう。

Kingdomの重量は170kg。外形寸法こそBass Binよりも小さいけれど、Bass Binの重量も170kgと発表されている。
このKingdomは、ハイ・フィデリティなのだろうか。

Kingdomをハイ・フィデリティかグッドリプロダクションかでわけるとすれば、
ハイ・フィデリティとする人が多いかもしれない。
私は、それでもKingdomはやはりグッドリプロダクションのスピーカーシステムだと捉えている。

確かにこの時代のタンノイの他のスピーカーシステムと較べればHigh Fidelityである。
ということはHigher Fidelityではないのか。
ならばKingdomはハイ・フィデリティではないのか。

それでもKingdomは、はっきりとグッドリプロダクションと言い切る。

Date: 11月 11th, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(Good Reproduction・その1)

High Fidelity ReproductionとGood Reproduction、
高忠実度再生と心地よい再生、
では、グッドリプロダクションに分類されるスピーカーシステムは、ハイ・フィデリティではないのか。

決してそんなことはない。
ハイ・フィデリティ指向のスピーカーであれ、グッドリプロダクションのスピーカーであれ、
いいスピーカーであれば、どちらも充分にハイ・フィデリティと呼べるクォリティを持っている。

ならば、ハイ・フィデリティとグッドリプロダクションの違いは、どこにあるのか、
どんな理由によってわけるのか。

そのスピーカーのブランドでわけるのか、
スピーカーの形式でわけるのか、
スピーカーに投入された物量でわけるのか、
それとも価格でわけるのか。

結局は音、ということになるわけだが、
ではどういう音がグッドリプロダクションなのか
グッドリプロダクションでなければ、ハイ・フィデリティ指向ということになるのか。

グッドリプロダクション(心地よい音)といっても、
万人に共通した心地よい音は存在するのか。
あるひとりの人物に対してでも、クラシックを聴く時とジャズを聴く時、ロックを聴く時、
すべてにグッドリプロダクションでありうる音はあるのか。

グッドリプロダクションにははっきりとした定義はあるのようでないような、
そんな曖昧さが残ったまま、語られているところがある。

では何をもってわけるのか。
ハイ・フィデリティ指向はHigh Fidelityに留まらないものだと捉えている。
High Fidelityの上、つまりHigher Fidelity、
さらにはHighest Fidelityであろうとしているスピーカーはハイ・フィデリティ指向であり、
充分にハイ・フィデリティでありながらもHigher Fidelityではない、
こういうスピーカーこそがグッドリプロダクションと呼べるのではないか。

Date: 11月 10th, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その35)

菅野先生から何度かきいたことのひとつに、
マスターテープの音よりもレコード(アナログディスク)の音がいい、ということがある。

一般的というべきか、オーディオマニアの多くがマスターテープこそが最上であり、
最高の音が聴けるものという、いわば幻想を抱いているけれど、決してそうじゃない、
と菅野先生は強調されていた。

この話をしても、なかなか信じてもらえなかったり、反論がある場合もある。
そうなってしまうのは、マスターテープこそが絶対的存在として認識されているからではないのか。

そしてマスターテープの音こそが絶対的基準となっているようにも感じてしまう。
それがいつしか最高の音となっていくのではないか。

菅野先生はいうまでもなくオーディオ評論だけでなく、録音、レコード制作も仕事とされていた。
自身のレコード会社であるオーディオラボだけでなく、他のレコード会社でも録音を残されている。

いくつものマスターテープの音を聴き、
そのマスターテープからつくられたレコードの音も聴かれてきた経験から、
マスターテープの音よりもレコードの音がいい、といわれていることを、思い出してほしい。

そしてもうひとつ大事なことは、それはレコード(アナログディスク)である、ということだ。
プログラムソースとしてディスクだからのことであり、
これがテープであればダビングによって複製がつくられていく。
それであればマスターテープの音こそが……、というのはもっともなことである。

だが話はあくまでもレコード(アナログディスク)である。

Date: 5月 16th, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(モーツァルトのレクィエム)

モーツァルトのレクィエムを聴きおわると、よくおもうことがある。

私達が聴けるレクィエムは、誰かの補筆が加わっている。
ジュースマイヤーであったり、バイヤーであったり、ほかの人であることもある。

モーツァルトの自筆譜のところと誰かの補筆によるところとの音楽的差違はいかんともしがたいわけだが、
ならばその音楽的差違をはっきりと聴き手に知らせる(わからせる)演奏が、
ハイ・フィデリティなのだろうか、と思う。

そこには音楽的差違がある以上、
それをはっきりと音にするのが演奏家としてハイ・フィデリティということになる──。

それでも思うのは、誰かの補筆が加わっていてもモーツァルトのレクィエムとして聴きたい気持があるからだ。
音楽的差違をはっきりと示してくれる演奏よりも、そうでないほうがいいとも思う。

Date: 3月 1st, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その2)

ふたりの絵描きがいる。
絵描きは、いわばオーディオのことでもある。

造花を造花として忠実に描くオーディオがある。
造花を造花としてではなく、ほんものの花のように描くオーディオがある。

一般的にハイ・フィデリティと評価されるのは、
造花を造花のまま描くオーディオである。
造花をほんものの花として描いては、それはオーディオによる色づけ、もしくは歪曲ともいえるだろう。

ここで考えなければならないのは、録音された音楽というのは、造花にあたるかどうかである。

Date: 11月 16th, 2013
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×三十二・原音→げんおん→減音)

つまりはこうである。

五味先生が書かれていた、マッキントッシュのMC275の音の描写、
「もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、
簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある」
こういう音の美をほんとうに理解できるようになるためには、
MC3500の音の描写、
「簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている」音をまず出せるようになってからではないのか。
そう考えるようになったからである。

若いうちから、この手の音を求めていく。
当時ステレオサウンドの連載記事スーパーマニアに登場されていた人たちは、
若い時分にそうとういろいろなことをされて、行き着く先に、
高能率のスピーカーシステムと真空管アンプという組合せにたどり着かれている、のを読んでいた。

シーメンスのオイロダインに伊藤先生のアンプを使われているスーパーマニアの方もいた。
最終的にこういう境地にたどりつくのであれば、
最初からこの世界に手をつけていれば──、という考えも少しはあった。
いいとこだけをやろうとしていた。

だが、オーディオはそんなことでうまくいくようなものではない。
シーメンスのコアキシャルと真空管アンプの組合せ、
これをあの時からずっと続けていれば、
20代前半のころよりもずっといい音で鳴らしている、とは思う。

だがシーメンス・コアキシャルの世界からあえて離れて、
いわゆるハイ・フィデリティと呼ばれるオーディオをやってきたからこそ、
もしいま当時と同じシステムを鳴らすことになったとしたら、
ずっと鳴らしつづけてきた音よりも、ずっといい音で鳴らせる。