MQAで聴けるバルバラ(その1)
昨年7月に「MQAで聴けるグラシェラ・スサーナ」を書いた。
MQA-CDでグラシェラ・スサーナが聴ける日が来る、とは、夢にも思っていなかったから、
発売リストにグラシェラ・スサーナの名前を見つけた時には、
ひとりガッツポーズをしたくらいだ。
今年10月に、またユニバーサルミュージックからMQA-CDが発売になる。
そこに、バルバラの名前があった。
またひとりガッツポーズをしてしまった。
昨年7月に「MQAで聴けるグラシェラ・スサーナ」を書いた。
MQA-CDでグラシェラ・スサーナが聴ける日が来る、とは、夢にも思っていなかったから、
発売リストにグラシェラ・スサーナの名前を見つけた時には、
ひとりガッツポーズをしたくらいだ。
今年10月に、またユニバーサルミュージックからMQA-CDが発売になる。
そこに、バルバラの名前があった。
またひとりガッツポーズをしてしまった。
誰もが、あなたのようにゴーイング・マイ・ウェイでやっていけたらいいな、と思っています。ところが、願望は願望のままでとどまることが多く、なかなか思いどおりにはいきません。
思ってはいても、なかなか思いどおりにいかない理由は、周囲の事情とかあれこれ、おそらく、いろいろあるでしょう。しかし、思いどおりにいかないもっとも大きな理由は、自分自身のなかで凛とした気性が欠如しているためのようです。あれやこれや、思いきってスパッと捨てられさえすれば、おのずとフットワークは軽くなる。にもかかわらず、望んでも、それがなかなかできない。そうとわかってはいても、実行がともなわないからです。
仕事をすれば、その仕事を、一応はまわりのひとたちにも評価されたい、と思ったりします。他人に、たとえ表面的にであっても、うやまわれたりすれば、それなりに悪い気持はしません。多くのひとたちは、ともかく課長になりたいとか、あるいは、庭のある家に住みたいとか、さまざまな願望を胸にたたんで、毎日を生きることになります。そのようなことをあれこれ思いはかりながら人生をやっていれば、まるでバーゲンセールで不必要なものを買いこみすぎたときのように、階段をおりる足もともふらつきがちで、行動の自由をうばわれます。
生活臭などというものには、不精髭ほどの愛矯もありません。しかし、そのことに無頓着なためでしょうか、髭は毎日しっかり剃るにもかかわらず、住宅ローンにやつれた顔を恥じようともしないひとがいます。ほんとうに大切なものはなんなのか、そのみきわめを怠れば、思いきりよくなにかを捨てられるはずもありません。あれもこれもと欲張るから、生活臭などという悪臭を周囲にふりまくことになります。生活臭という悪臭は、困ったことに、口臭に似て、当人はその臭いに気づかない。
(中略)
あなたの、こだわりといったものがまったく感じられない仕事ぶりは、世俗の名声とか名誉とか、あるいは財産とかあれこれ、いずれにしても一服するときに飲むコーヒーほどの意味もないものを、いさぎよく無視したところでなされているように思われます。そのようにあなたによってうたわれた歌であるがゆえに、どの歌も、静かにほんとうのことをうたいます。
残念なことに、ぼくらは、日々の生活をしていくうえで、小さな頭で姑息な計算をしつづけるウジウジした男やイジイジした女に会うことが多く、その結果、気分も、さっぱりせず、萎えがちです。そういうとき、北ヨーロッパのひとたちが輝く太陽をみたくて南に旅するときのような気持で、ぼくは、あなたのディスクをプレイヤーにセツトします。あなたのうたう、さらりと歌でありつづけている歌がスピーカーからきこえてくると、それをきくぼくは、自分のなかにも巣くっているウジウジやイジイジに気づき、これはいかん、と大いに反省したりします。
過度に男を主張することもなく、楽しみつつさらりと男をやっているあなたの歌は、ぼくにとって、いつでもすがすがしく感じられます。
*
黒田先生の「音楽への礼状」からの書き写してある。
ここでの「あなた」とは、ジョアン・ジルベルトである。
「愛の讃歌」という歌がある。
エディット・ピアフの歌である。
日本でもよく歌われる。
日本人歌手によって日本語の歌詞で歌われている。
私はグラシェラ・スサーナの歌で「愛の讃歌」を聴いた。
その後である、日本人の歌手による「愛の讃歌」を聴いたのは。
「愛の讃歌」は、いわゆる大御所といわれる歌手の人たちも歌っている。
当然、グラシェラ・スサーナよりも流暢な日本語で歌っている。
それらのいくつかは聴いている。
上手い、とはもちろん思うし、日本語も問題はない。
グラシェラ・スサーナ、ホセ・カレーラスの日本語の歌がダメな人たちは、
この人たちの「愛の讃歌」を高く評価するだろう。
けれど、私の耳にはグラシェラ・スサーナの「愛の讃歌」ほどには、心に響かない。
上手いなぁ、でいつも終ってしまう。
三浦淳史氏の「20世紀の名演奏家」にジネット・ヌヴーの章がある。
*
翌年、ヌヴーはウィーンで催された国際コンクールに参加したが、第4位にとどまった。お金の工面をしてウィーンまで出向いた母と娘にとっては大きな失望だった。ところが、彼女の演奏に感銘した審査員の一人が、名詞の裏に「ベルリンに来られたら、お嬢さんのヴァイオリン教育を私が責任をもって、無償でやらせてもらいます」としるして、ホテルに届けさせた。その人の名は、当時ヨーロッパ随一のヴァイオリン教師として知られていたカール・フレッシュだった。
すぐベルリンに行くことは、家計が許さなかった。2年後にフレッシュ宅を訪ねたヌヴーに向かって、フレッシュはこういった。「お嬢ちゃん、君は天賦の才能に恵まれている。私にできることは、純粋に技巧上のアドヴァイスをしてあげるだけだ」
*
おそらくカール・フレッシュのそれまでの教え子たちは、
技巧上的にはヌヴーよりも優れていたのだろう。
コンクールに出場する人たちも、またそうなのだろう。
だからそのころのヌヴーは、ウィーンでの国際コンクールで四位に終ってしまったのだろう。
ここが、他の教え子たちとヌヴーはまるで違うということでもある。
カール・フレッシュのことばは、演奏の本質をついている。
演奏は歌とおきかえられる。
別項「音を表現するということ(その4)」で書いたことを、昨晩思い出していた。
audio wednesdayで、ほぼ毎回グラシェラ・スサーナの歌をかける。
グラシェラ・スサーナはアルゼンチン人。
日本語を話せないわけではないが、流暢とはいえない。
グラシェラ・スサーナの歌う日本語の歌も、誰が聴いても外国人による日本語の歌とわかる。
このことは、これまでに何度となくいわれてきた。
「よく、こんな日本語の歌、聴けますね」とか「がまんできますね」とか、
そういったことを、30年以上、何度となくいわれてきているから、
こちらとしては「またか」と思うだけである。
(その2)でも書いていることだが、こういうことをいってくる人たちは、
ホセ・カレーラスの「川の流れのように」もダメなようである。
日本語で「川の流れのように」を歌っている。
日本人の歌手が歌うようには日本語として明瞭ではない。
そこのところが気になる人は少なくないどころか、
むしろ多いようにも感じている。
私はグラシェラ・スサーナもホセ・カレーラスも、まったく気にならないどころか、
日本語の歌を歌う歌手として、高く評価している。
昨今では、テレビで外国人による日本語の歌番組をやっているようである。
テレビをもたないからほとんど知らないが、
その番組に出てくる外国人のほうが、グラシェラ・スサーナよりも、
ホセ・カレーラスよりも、日本語の歌における日本語に関しては流暢であり、
まったく外国人ということを意識させない人もいるらしい。
このことを以前いわれたこともある。
暗にグラシェラ・スサーナの日本語の歌は、
その人たちの歌よりもレベルが低い、といいたかったようだ。
けれどホセ・カレーラスにしてもグラシェラ・スサーナにしても歌手である。
アナウンサーではない。
ハイレゾリューションの方式のひとつであるMQA。
まだ聴く機会はないが、すでに聴いている友人の話では、そうとうに期待がもてそうである。
ユニバーサルミュージックからMQAを採用したハイレゾCD名盤シリーズが出ている。
9月19日から邦楽30タイトルが新たに発売になる。
ラインナップを見ていた。
そこに期待していなかった名前があった。
グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」が30タイトルの中に入っている。
おぉっ、と声が出そうになった。
まったく期待していなかっただけに、よけいに嬉しい。
すぐに聴ける環境はないし、すぐに整えられるわけでもないが、
ディスクだけは購入しておきたい。
それにしても、私にとっては微妙な時期に出してくれるな、というところ。
なぜ微妙な時期なのかは、いまのところまだ書けない。
一ヵ月後くらいには、はっきりしてくるし、書けるようになるはずだ。
二週間ほど、グラシェラ・スサーナの一枚だけでも発売を早めてほしいところ。
私が好きなグラシェラ・スサーナのディスクは、
レコード店のJ-POPコーナーに、たいていは置かれている。
ずっと以前は歌謡曲コーナーだったり、
外国人歌手ということで、ポピュラーコーナーという店もあった。
タワーレコードでも、以前は、J-POPと歌謡曲とに分れていたと記憶している。
でもいまでは合せてJ-POPである。
いまはそういう時代なのだろう、と思いつつも、
毎月喫茶茶会記でアルテックのスピーカーで、日本の歌のディスクを聴いていると、
歌謡曲とJ-POPの違いについて、はっきりといえることがひとつあることに気づく。
喫茶茶会記のアルテックのスピーカーは、A7的スピーカーである。
つまりA7のようなスピーカーでうまく鳴ってくれるのが歌謡曲であり、
どうにもうまく鳴ってくれないのがJ-POPである。
歌の古い新しいでもないし、
録音の古い新しい、歌手の古い新しいでもない。
若い人で、比較的新しい録音でも、アルテックでうまく鳴ってくれるのは、
私にとっては、その日本語の歌は歌謡曲である。
以前は歌謡曲の歌手と認識していた人であっても、
新しい録音で、アルテックで聴くと冴えない鳴り方しかしないのは、もうJ-POPである。
瀬川先生の「オーディオの系譜」に、こう書いてある。
*
日本のオーディオ界と欧米オーディオ界との交流が少しずつ密になるにつれて、私自身も海外のオーディオ専門家と直接合って、彼らの意見を聞き議論する機会が増えはじめた。そして驚いたことは、アメリカやイギリスやその他の欧州諸国のオーディオの専門家たちが、「日本のスピーカーの音は非常に個性的だ」と、まるで口をそろえたようにいうことだった。
どんなふうに個性的かを、とても具体的に語ってくれたのは、例えばアメリカの業界誌『ハイファイ・トレイドニューズ』の編集長、ネルソンだった。彼はこういった。
「はじめて日本製のスピーカーの音を聴いたとき、私の耳にはそれはひどくカン高く、とても不思議な音色に聴こえた。ところがその後日本を訪問して、日本の伝統音楽(例えばカブキ)や日本のポップミュージック(演歌など)を耳にしたとき、歌い手たちの発声が日本のスピーカーの音ととてもよく似ていることに気づいて、それで、日本のスピーカーがあんなふうに独特の音に作られている理由がわかったように思った。だが、日本のスピーカーが欧米に進出しようとするなら、欧米の音楽が自然な音で鳴るように改良しなければならないと思う」
全く同じ意味のことを、イギリス・タンノイの重役で、日本にも毎年のように来ているリヴィングストンもいう。「日本のスピーカーは、日本の伝統音楽や日本のポップミュージックを再生するために作られているように私には思える。だが、もしも西欧の音楽(クラシックでもポップスでも)を、われわれ(西欧の人間)が納得するような音で再生するためには、日本のスピーカーエンジニアたちは、西欧のナマの音楽を、できるだけ多く聴かなくてはならないと思う」
同じくイギリスのスピーカーメーカー、KEFのエンジニアであり社長であるクックは、もっと簡単に「日本のスピーカーの音はとてもアグレッシブ(攻撃的)だ」とひとことで片づける。
これらの話は、もうあちこちで何度も紹介したのだが、しかし、彼らのほかにも、私が会えた限りの欧米のオーディオの専門家の中に、日本のスピーカーの音を「自然」だという人はひとりもいなかった。
*
また、こうも書かれている。
*
もう何年か前、まだ4チャンネルの話題が騒々しかったころ、イギリスの有名なオーディオメーカー数社の人たちが、研究のため、日本のあるレコード会社を訪れて、4チャンネルの録音を聴かされた。そのときのあまりの音量の大きさに、中のひとりが、「(オレたちがオーディオの専門家と知っていて、あえてこの音量で聴かせるというのは)きっとジョークに違いない」といったという、それこそイギリス人一流のジョークが伝わっているほどだ。日常、非常に穏やかな音量でレコードを鑑賞するという点で、イギリス人は世界でも一、二を争う国民かもしれない。
そうしてもうひとつ、彼らは、生の音、むき出しの音、品のない音、攻撃的にきつい音をひどく嫌う。日本のスピーカーの音を「攻撃的(アグレッシブ)だ」と指摘したKEFの社長レイモンド・クックの話は、既に書いたが、彼らイギリス人の耳には、JBLのモニターの音も、アグレッシブとまではゆかないにしても、やや耳ざわり(ハーシュ)に聴こえる、という。
*
1980年ごろに書かれたもののであり、1970年代の日本のスピーカーはアグレッシヴと、
海外のオーディオ関係者の耳には聴こえていたことがわかる。
JBLの音がやや耳ざわりで、日本のスピーカーがアグレッシヴということは、
そうとうに個性的な音を鳴らしていた。
もっとも、この傾向は、瀬川先生が亡くなられた1981年以降もしばらく続いている。
確かにそういう音を、あの時代の日本のスピーカーは出していた。
けれど、それ以前はどうだったのか。
アメリカやイギリス、ドイツなどの古い時代のスピーカーを聴く機会はあっても、
日本のスピーカーの、その時代のモノを聴く機会は私にはほとんどなかった。
なので、はっきりとしたことはいえないのだが、
輪島祐介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んでいて結びついていったのは、
現在「演歌」と呼ばれる歌が登場し、流行りだした時代とオーディオブームの到来、
そしてアグレッシヴといわれる音のスピーカーの登場は無関係ではないような気がしてきた。
“voice of…”につづくのは、
オーディオマニアならば、ほとんどの人がアルテックのA5、A7の代名詞ともいえる
“The Voice of the Theatre”を思い出す。
A5、A7は改めて説明するまでもない大型のスピーカーシステム。
このふたつとは対極的なスピーカーユニットの銘板に、
“the voice of high fidelity”と書かれている。
イギリスのジョーダン・ワッツのモジュールユニット背面の銘板に、
そう書いてある。
ここでのvoiceは、soundと同じ意味の音声かもと思いながらも、
ならば”the sound of high fidelity”とするのではないだろうか。
voiceとなっているのだから、素直に「声」という意味で受け取っていいと思う。
だとすれば、モジュールユニットの”voice”は、家庭用のVoiceであり、
これはこれでなかなか興味深い、とあたらめて思っているところ。
私が物心ついたときには、流行歌・歌謡曲は、
テレビから流れてくるもの、テレビで聴く音楽、という印象がすでにあった。
私が生れた熊本では、小学低学年までは民放局は一局だけだった。
上京するまでは二局だった。
新聞のテレビ欄に載る隣の福岡県の民放局の多さをうらやましく思っていたころでもある。
それでも当時は歌番組がつねに流れていた、という印象がある。
夏には懐かしのメロディをやっていたと記憶しているし、
大晦日には、とんでもない視聴率を誇っていた紅白歌合戦、
その他にもNHKでも民放でも、歌番組は人気盤組であった。
ベストテン、スター誕生など、歌番組もバラエティがあった。
そんな時代だったから、流行歌・歌謡曲は、
まずテレビで知り、テレビで歌詞とメロディを憶えた。
その前の時代となると、テレビではなくラジオ、
その前が、(その22)で書いたように映画館だったのだろう。
映画館からラジオにうつり、
映画館まで出掛ける必要がなくなった。
ラジオを買うためのお金は必要でも、
買ってしまえば、番組は無料で聴くことができる。
ラジオが一台あれば、映画館で聴く流行歌・歌謡曲よりも、
ずっと多くの曲が聴けて、しかもくり返し放送されるものは何度も聴ける。
テレビが各家庭に普及して、音だけの世界に歌手が歌っている姿が映し出される。
映画館で聴いていた流行歌・歌謡曲の時代とは違ってきている。
映画館で流行歌・歌謡曲を聴こう、という人はとっくにいなくなっていた。
私には、そんな感覚はすでになかった。
映画館で聴く流行歌・歌謡曲を、
テレビはずっと身近にしたといえる。
けれど、こと音に関してはどうだろうか。
ウェスターン・エレクトリックのトーキーシステムで聴く流行歌・歌謡曲と、
テレビ(ラジオ)についている小さいなフルレンジスピーカーで聴く流行歌・歌謡曲とでは、
流行歌・歌謡曲に親しむ、という表現のもつ意味も違ってくるはずだ。
この項を書くにあたって、
輪島祐介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んでいる。
昭和初期について、こんなことが書いてある。
*
流通・消費について言えば、この時期は蓄音機やレコードは高級品であり、流行のレコードを頻繁に買って自宅で聴くような聴き方は一般的ではありませんでした。
この時期のレコード歌謡の流行において、何より重要だったのは映画というメディアです。レコード歌謡と映画の内在的な結びつきは、国産ヒット第一号《君恋し》の直後にヒットした《東京行進曲》の例から明らかです。
(中略)
その後、多くのヒット曲が映画から生まれ、また、大ヒット曲はほとんど例外なく映画化されることになります。多くの人々にとって、流行歌・歌謡曲とは、映画の中で歌われ、あるいは映画館の幕間に流される音楽として聞かれていたと想像されます。
当時の新メディアということでいえば、ラジオとレコード歌謡の相性は必ずしも良好ではありませんでした。
*
輪島祐介氏の、この想像がそのとおりならば、
昭和初期の人びとは、映画館で流行歌・歌謡曲を聴いていたわけで、
それはウェスターン・エレクトリックのシステムで聴いていた、ということになる。
流行歌・歌謡曲といった日本語の歌を、
昭和初期の人たちは、映画館でウェスターン・エレクトリックの音で聴いていた。
この事実は、いまアルテックで日本語の歌を聴いていること、
それから井上先生がJBLで島倉千代子の歌に、
瀬川先生がアルテックで美空ひばりの歌に圧倒されたということとも関係してこよう。
7月22日の川崎先生のブログ「知人、友人、親友、いや話相手としての別感覚の友」、
読んでいてふと思い出した文章がある。
黒田先生が1970年の終りに書かれたもの、
レコード藝術別冊「ステレオのすべて──1971」に載っている文章を、
読んでいて思い出していた。
*
悲しいのは誰だって同じだ。肝心なのはその悲しみをうたえるかどうかではないのか。ビリー・ストレイホーンがデューク・エリントンにとっていかにかけがえのない男だったかは、少しでもエリントンの仕事ぶりを見てきた人なら判るはずだ。協力者などという安っぽい、計算のかった間柄ではなかった。デューク・エリントンはビリー・ストレイホーンによってデューク・エリントンたりえていた部分があった。誰にもましてエリントンが、それを知っていたにちがいない。ストレイホーンにめぐりあえた幸せと、彼を失った悲しみを、エリントンが、このアルバムでうたっている。
かけがえのない人を失うというのは、きっと誰にでもあることだろう。すくなくともひとりきりで生きられる強い人をのぞいては。ぼくにもあった。なにをはなしあったというのではない。なにか人にできないようなことをしたというものでもない。でも、ある時、なんの前ぶれもなくこの世の人間でなくなってしまったぼくの友人は、いなくなるということで、ぼくの中での彼の存在の大きさをぼくに教えた。
A面の六曲、B面の5極がビッグ・バンドで演奏された後、人びとのざわめきをバックに、エリントンがピアノをひきはじめる。ストレイホーンの作品「蓮の花」だ。ざわめきはしずまり、エリントンのピアノがつづく。これは、エリントンだけにうたえた、ストレイホーンへの告別の歌ではないのか。
悲しみをうたえることへのねたましさを、その時ほど感じたことはなかった。ぼくは、ぼくをおきざりにした友人に、なにがうたえたというのだ。心の中にできた空洞をもてあましているときにきいた、エリントンの、ストレイホーンへの告別の歌は、その切実さによって、たえがたかった。
少しもしめっていない。あるとすればそれは、青い空のさびしさだ。男から男にだけ通じる抒情。しかしエリントンはその伝達の手段をもっていた。彼は音楽家だった。ピアノでうたうことができた。おそらくこの「蓮の花」、レコードにおさめることを意識して演奏されたのではないだろう。つまり、エリントンのつぶやき。つぶやきが歌になり、その歌には、なつかしい人を見やるやさしい目が感じられる。
*
どのレコードなのかは、書く必要はないだろう。
こうやってオーディオのことを毎日書いていると、いろいろなことを思い出す。
直接関係のあること、直接の関係はないけれど、間接的に関係していること、
それにまったく無関係に思えることまでも思い出す。
この項を書いていて思い出したのは、井上先生が、
1993年のステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に書かれていたことだった。
*
奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオにちかい当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームであった。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚歎したのである。
*
美空ひばりは《鳥肌の立つほど嫌いな存在》、
《若さのポーズもあって》、バロックと現代音楽ばかりを聴いていた時期の若い瀬川先生は、
《歌謡曲そのものさえバカにして》いた。
ステレオサウンド 60号で、アルテックのA4について語られる瀬川先生は、
美空ひばりの体験をあげられている。
*
たまたま中2階の売場に、輸入クラシック・レコードを買いにいってたところですから、ギョッとしたわけですが、しかし、ギョッとしながらも、いまだに耳のなかにあのとき店内いっぱいにひびきわたった、このA4の音というのは、忘れがたく、焼きついているんですよ。
ぼくの耳のなかでは、やっぱり、突如、鳴った美空ひばりの声が、印象的にのこっているわけですよ。時とともに非常に美化されてのこっている。あれだけリッチな朗々とした、なんとも言えないひびきのいい音というのは、ぼくはあとにも先にも聴いたことがなかった。
*
井上先生にとっての島倉千代子とJBL、
瀬川先生にとっての美空ひばりとアルテック、
おそらく時期もそう離れていないはずだ。
毛嫌いしているといえる歌謡曲と歌手の歌を、
JBLとアルテックは、驚歎するほどの音で聴かせてくれている。
井上先生は、続けてこう書かれている。
*
しかし自らのJBLへの道は夜空の星よりもはるかに遠く、かなりの歳月を経て、175DLH、130A、N1200、国産C36で音を出したのが、私にとって最初のJBLであった。しかし、かつてのあの感激は再現せず、音そのものが一期一会であることを思い知らされたものである。
*
瀬川先生も《あとにも先にも聴いたことがなかった》といわれている。
グラシェラ・スサーナの日本語の歌と出逢ったのは1976年秋だった。
「五味オーディオ教室」とほぼ同じころに出逢っている。
そのころも歌のうまい歌手はいた。
テレビから流れてくる日本人の歌手の歌唱を聴いて、うまいと思ったことはある。
いい歌だ、と思ったこともある。
でもグラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いたとき、
これが歌なのか、とまいってしまった。
たった一枚のシングル盤を、その日を何度も何度も聴いた。
それから夢中になって聴いてきた。
聴けば聴くほど、不思議に思うことがあった。
グラシェラ・スサーナは1953年生れで、
1971年に初来日している。つまり18最で日本に来ている。
翌’72年に最初のアルバム「愛の音」が出ている。
よく知られる「アドロ・サバの女王」は’73年のアルバムだ。
グラシェラ・スサーナが18、19のころの録音である。
1970年代の終りごろ、テレビにもグラシェラ・スサーナは出ていた。
初来日から八年くらい経っていたはずなのに、日本語はたどたどしかった。
「愛の音」「アドロ・サバの女王」のころのスサーナは、
日本語はまったく話せなかったはずである。
なのに、グラシェラ・スサーナの日本語の歌に、
他のどんな歌手による日本語の歌よりも、私は感動した。
感動しながらも、なぜ? と疑問があった。
日本語が話せないのに……、という疑問である。
スサーナは、日本語の歌の「色」を感じとっていたのだろう。
最初に聴いてから40年が経っての結論である。
同時にアルテックでの日本語の歌が素晴らしかったのは、
アルテックのスピーカーが、”The Voice of the Theatre System”だから、
といってしまうと、あまりにも当り前すぎるが、
”The Voice of the Theatre System”の優れているのは、
声の明瞭度だけでなく、言葉の「色」の再現にあるのだろう。
日本語を全く解さぬ者、と書いた。
日本語の歌を録音するには日本人でなければならない、という意味ではない。
日本で生まれ、日本で育ってきた日本人でなければ、
日本語の歌を録音することはできない、などとは思っていない。
日本語が話せなくとも、見事な日本語の歌を録れる人はいるはずだ。
一方で、どんなに日本語を流暢に話せる日本人であっても、
日本語の歌を見事に録れるとはかぎらない。
ここでも、内田光子の、言葉と「色」は深く結びついている、と語っていたことが頭に浮ぶ。
言葉と「心」も切り離せない、ともいっていたことも浮ぶ。
結局、そこなのだ、と思う。
日本語の「色」を録れる人とそうでない人とがいる。
それは、日本語の「色」を感じとれない人には、日本語の「色」は録れない、ということだ。
その意味での、日本語を全く解せぬ者、である。
「音楽 オーディオ 人々」という本がある。
トリオ(現ケンウッド)の創業者である中野英男氏の著書である。
この本に「日本人の作るレコード」という章がある。
そこにアンドレ・シャルランのことが書かれてある。
*
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之——N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
*
ここに出てくる
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」
というアンドレ・シャルランの言葉は、日本語の歌にもいえることのはずだ。
6月のaudio wednesdayで聴いた八代亜紀のCD「VOICE」は、
グラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりの日本語の歌とは、はっきりと異質だった。
八代亜紀も昔の録音のCDならば、そんなことはなかったはずである。
今回聴いた八代亜紀のCDに関してのみなのか、それとも最近の録音がそうなのか。
そのへんははっきりとしないが、ふたつのスピーカーの中央から聴こえてくる八代亜紀の声には、
いわゆる肉体がなかった。
グラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりにおいて、
十全な肉体の再現ができていた、とはいわないが、
少なくとも肉体を感じたし、その気配ははっきりとあった。
そこにグラシェラ・スサーナなり、藤圭子なり、美空ひばりがいるという、
ある種のリアリティがあった鳴り方だった。
ところがグラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりよりも新しい録音の八代亜紀では、
リアリティが感じられなかった。
左右のスピーカーの中央から八代亜紀の声がしている、ただそれだけである。
しかもその日本語が不鮮明である。
音として不鮮明なのではない。
日本語ということばとしての不鮮明さがあった。
日本語を全く解さぬ者による、
しかも人の声も楽器の音も、明確な区別のないままの録音──、
そんなこと想像してしまうほど、日本語の歌を聴きたいと思っている者をがっかりさせる。
今回、八代亜紀のCDに感じたことは、J-POPと呼ばれる曲でも、
ここ最近何度か感じていた。
でも、それは、初めて聴く歌手の歌ということもあって、
そういう歌い方なのかもしれない……、と思っていた。
でも八代亜紀は、ずっと以前はテレビから流れる歌を聴いていたし、
「舟歌」はあるところでじっくり聴く機会もあった。
八代亜紀は、そういう歌い方をする歌い手ではない。
それとも八代亜紀の歌い方が変ってしまったのか……。
私はそうとは思えず、原因は録音側にあるよう気がしている。