専門家は、ならばわかっている人なのだろうか。
もう30年ほどの前のことだ。
東京藝大でヴァイオリンを学んできた人がいた。
私よりもいくつか年上だった。
両親もクラシックの専門家だった、ときいていた。
生れたときからずっとクラシックに囲まれた環境で、
東京藝大でヴァイオリンなのだから、彼をクラシックの専門家と誰もが思っても不思議ではない。
でも彼は私に言った。
「ベートーヴェンにオペラはない」と。
ベートーヴェンにはフィデリオという歌劇がある。
クラシックを聴いてきた人ならば、誰もが知っていることである。
彼のいう「ベートーヴェンにオペラはない」は、
フィデリオという作品を知った上で、フィデリオをオペラとして認めていない、という話ではなく、
フィデリオという作品自体を知らない、というだけであった。
彼を貶めるつもりはまったくない。
彼が東京藝大で学んできたことは、おそらくヴァイオリン独奏なのだと思うからだ。
彼自身はオーケストラの一員としてのヴァイオリン奏者を目指していなかったのかもしれない。
そういう彼にとっては、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタには強い関心があっても、
それ以外の作品となると、さほどでもなかったのかもしれない。
友人の友人に、やはり東京藝大で作曲を学んできた人がいる。
私と同じ年である。
彼は卒業制作として、エレキギターを使った作品を発表したそうだ。
すると他の人たちは、きょとんとしていて、
「その楽器、なんというんですか」と訊ねてきた。
エレキギターだと答えると、
「それがエレキギターというものですか、初めて見ました、聴きました」と返ってきた。
又聞きではなく、友人の友人本人から直接聞いた話だ。
私よりもずっとずっと上の世代ならば、こんなこともあり得ると思えるのだが、
1980年代でもそうだったのである。
彼は自嘲気味に「藝大の学生は専門バカばかり」といった。
それから30年ほど経っているから、エレキギターを見たことも聴いたこともない学生はいないであろう。
でも30年前には確かにいたのである。
育った環境が違えば、そうなのである。
エレキギターの音は、テレビの歌番組から流れていた。
それでも知らない人がいるということは、環境の違いとしかいいようがない。
彼以外の学生は、みなクラシック一筋の人たちだったようだ。
彼らはそういう意味では専門バカなのだろうが、
少なくともわかったつもりの人たちではなかったようだ。
知らないこと、わからないことがあったから、彼に「その楽器は?」と訊いているのだから。