Archive for category オーディオ評論

Date: 5月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その1)

川崎先生が、KK適塾でくり返し話されていた「製品と商品」。
5月4日のブログ「金網越しに道にまで花がある、その製品化と商品化」でも、
製品化と商品化について書かれている。

製品か商品か。
オーディオ評論が対象としているのは、どちらなのか、とその度に考えてしまう。

オーディオ評論の中には、個々のオーディオ機器の批評がある。
ここでのオーディオ機器を、
批評する側の人間(オーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者)は、
製品として見ている(聴いている)のか、
それとも商品としてなのか。
それとも、こんなことまったく意識していないのか。

批評の難しさがある。
広告があるオーディオ雑誌でのオーディオ批評には、それゆえの批評の難しさがさらにある。

製品批評の難しさと商品批評の難しさは、まったく同じとはいえないはずだ。

Date: 4月 28th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その2)

B&Wの800シリーズの評価は、常に高い、といっていいし、
新型が出るたびに評価はあがっていく。
にも関わらず、オーディオ評論家で自家用として鳴らしている人はいない。

ここでいうところのオーディオ評論家とは、
私の場合、主にステレオサウンドに執筆している人ということになる。
他のオーディオ雑誌に執筆されている人に関しては触れないことにしている。

800シリーズは、ステレオサウンドでの評価が最も高いといえるし、
ステレオサウンドではリファレンススピーカーとしていること、
それに他のオーディオ雑誌に執筆している人のシステムに私が詳しくないこともある。

こういうことを指摘すると、
たいていは、こんな答が返ってくる。
「仕事用のスピーカーと趣味用のスピーカーは違うから」

これももっともらしい答で、これで納得する人もいるかもしれないが、
そんなお人よしな性格のオーディオマニアは少ないのではないか。

まずオーディオ評論家にとって、
自身のリスニングルームは、ひとりの音楽愛好家として音楽を聴く場であるとともに、
オーディオ評論家としての仕事場でもある。

そこにメーカーや輸入元からアンプやCDプレーヤーその他を持ち込まれて試聴もする。

もちろん、ここでも、こんなことはいえる。
B&Wの800シリーズの音を聴くと、仕事モードの耳になってしまうから、と。

ならば自家用として鳴らしているスピーカーでは、仕事モードの耳にならない、とでもいうのか。
それでは自宅に持ち込まれたオーディオ機器の試聴はできない、という道理になる。

でも実際にはそうではない。

それに仕事モードの耳とは、どういうことなのか。
細かな音の違いを聴き分けようとする耳のはずだ。

これはオーディオを仕事としていない人でも、そういうモードの耳で聴くことは当り前にある。

それとも仕事モードの耳は、もっと違うことなのか。
このメーカーの製品はほめておかなければならない、とか、
そういったことを考えながら聴く耳が、仕事モードの耳とでもいうのか。

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その1)

数ある現行スピーカーシステムの中で、
もっとも欠点の少ないモノとして挙げるならば、B&Wの800シリーズとなろう。

800シリーズの新製品が出るとなると、オーディオ雑誌はページを割く。
モノクロ1ページではなく,カラーで数ページは割かれる。

オーディオ雑誌のウェブサイトでも、800シリーズの取り上げ方は力が入っている。

ユーザーの注目度も高い、と毎回感じる。
800シリーズの新製品の音に触れるたびに、興奮気味に語る人がいる。

それだけに800シリーズの新製品が、
オーディオ雑誌の賞に漏れることはない。必ず選ばれる、といえる。

けれど800シリーズを自宅で鳴らしているオーディオ評論家はいない──、
このことを指摘するオーディオマニアは、以前からいる。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」
事実を語っているだけであっても、言外にほのめかすのは、
人によっては違っているところもあるようだ。

ステレオサウンドの試聴室では、昔はJBLがリファレンススピーカーとして使われていた。
私が働き始めたころは4343から4344に切り替るタイミングで、
私がいた七年間の大半は4344が使われていた。

4344は上杉先生が使われていたし、
4343は瀬川先生、黒田先生がそうだった。

4341から始まったJBLの4ウェイ・スタジオモニターの年数と、
B&Wの800シリーズの年数は、もうB&Wの方が長い。

けれど誰も使っていない。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」には、
リファレンスとして頻繁に聴く機会があるから、も含まれているわけだが、
それでも、ほんとうに惚れ込んだスピーカーならば、買ってしまうわけだ。

Date: 4月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その2)

オーディオ評論と呼ばれる仕事もしていた知人は、小説も書いていた。
何本かは読ませてもらった、というか、読まされたことがある。

彼は芥川賞が欲しい、とストレートに語っていた。
そのための努力といえることは熱心にやっていたように見えた。

でも、どこか的外れの努力にしか見えなかったけれど、
彼は芥川賞が欲しいから小説を書いているのか、
小説を書くことが彼にとって、なんらかの意味を持つことだからなのか、が、
いつのころからか曖昧になっていたように思う。

彼は才能ある男だ、と自分でも思っているし、
少なからぬ周りの人たちもそう思っていたようだ。

私は、彼は周りの人たちの才能を部分的にトレースするのが得意な人と見ていた。
それもひとつの才能であろう。

彼がトレースしたものを知らない人にとっては、
彼は才能ある男ということになるが、
その元を知っている人たちは、彼のことをそうは見なかった。

彼がその後どうなったのかは良くは知らない。
小説を出版できたのだろうか。

小説家になっていたとして、彼は何かを生み出したといえるのだろうか。

Date: 4月 8th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その1)

先日、facebookでのコメントに、
批評家は何も生み出さない──、といった趣旨のことが書かれてあった。

このことは昔からいわれていることでもある。
批評家(評論家)は、他人がつくったものを批評するだけ。
批評家は、だから作家ではない、と。

確かにそうとはいえる。

小説を、詩を、歌を、音楽を……、
文化面だけでなく自動車やスピーカーやアンプといったハードウェア、
ほぼすべての分野に批評家・評論家と呼ばれている人たちがいて、
何かを書いたり発言している。

批評家・評論家(ここではあえて区別はしない)の書いたものは、
一応彼らが生み出したものといえなくはないが、
もちろんここでの、「何も生み出さない」という意味とは違うといえばそうである。

でも、ほんとうにそうだろうか、と思うわけだ。
ここではオーディオ、音楽の批評家・評論家が何も生み出さないのかについてだけ書く。

現在のオーディオ評論家と呼ばれている人たちについてはあまり知らないが、
私が先生と呼んでいる人たちは、実のところ、いくつかのオーディオ機器を生み出している。

生み出している、とまでいえないとしてもかなり深く携わっている例をいくつも知っている。
その中にはかなりベストセラーになったモデルもあるし、
そのメーカー独自の技術と呼ばれているものもある。

公になっていれば具体的に挙げるのだが、ここでは控えておく。

とはいえ、そういうのは例外だろう、といわれれば、そうかもしれない。
事実、いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちが、そういうことをやっているとは聞かない。

Date: 3月 17th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その23)

今日facebookを見ていたら、数年前に見た話がまた登場していた。
数年前にも、そして今日も、そこには「実話」とある。

タイトルは
【実話】満員バスの中、赤ちゃんが泣き止まないため降りようとしたお母さんに、運転手さんがこう言った…

いい話だ、心暖まる話だ、と読む人の方が多いのだろう。
でも東京に住んでいる人ならば、違和感にすぐ気づくはず。

この記事の2ページには、こうある。
     *
そのお母さんが運転手さんの横まで行き
お金を払おうとしますと運転手さんは

「目的地はどこまでですか?」

と聞いています。
     *
このバスは中野坂上方面から新宿に向うバスである。
この経路のバスで運賃後払いはない。
前乗り、後降りであるから、
運転手のところまで料金を払おうとする必要はない。

前のドアから乗車する際に料金は払っている。
この記事の冒頭に16年前とあるが、16年前も、ずっと前から先払いである。

この話がまったくの創作なのか、
どこかで似たような話があったのを東京に置き換えただけなのか、そのへんはわからないが、
少なくとも実話とはいえない。

にも関わらず数年おきにインターネットに登場してくる。

これもpost-truthであるし、
「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」の例のひとつともいえる。

Date: 12月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その22)

イギリスの英オックスフォード大学出版局が、
今年注目を集めた言葉として「post-truth」を選んだことはニュースにもなった。

客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ということだ。

私の中では、このpost-truthが、
「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」と深く重なってくる。

そしてこのことが現代の資本主義における広告とも密接に絡んでくる、
と受けとめている。

post-truth、
願望に基づく理解、
現代資本主義の広告。

じっくり考える必要がある。

Date: 12月 20th, 2016
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その3)

オーディオ雑誌の編集者は、何をわかっているべきなのだろうか。
そのことを考えることが多くなった。

ステレオサウンドをはじめ、オーディオ雑誌がつまらなくなった、
もっといえばダメになっているからだ。

ダメになったオーディオ雑誌に何を期待する?
と言われようが、私はやはりおもしろいオーディオ雑誌を読みたい。

オーディオには読む楽しみが確実にある。
その楽しみを満たしてほしい、と思いながら、ブログを書いているところがある。

おもしろいオーディオ雑誌に、いまあるオーディオ雑誌がなってくれたら、
ブログを書くのは終りにしてもいい、と思っている。

残念ながら、その傾向は感じられないから、書いている。
今日も書いている。

書き手には書き手の気持がある。
読み手には読み手の気持がある。
時として、書き手と読み手の気持が重なるところに発する光がある、
私はそう感じている。

その光を感じたいのだ、オーディオ雑誌に、オーディオ評論に。

Date: 12月 19th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その21)

沖縄でのオスプレイの不時着。
このニュースで放送された海中の写真。
オスプレイの残骸のひとつに、計測用のマークがあった。

円を四等分して黒と黄色で塗り分けたマークである。
このマークを放射性物質のマークと捉えた人がいて、
SNSでオスプレイには放射性物質が積まれていた、
そのことを多くの人に知ってもらうために拡散してほしい、と書いている人がいた。

「オスプレイ 放射性物質」で検索すれば、
その後、その人がどういう訂正(とはいえない手直し)を行ったかもわかる。

計測用のマークと放射性物質を表すマークは色だけが共通しているだけで、
図そのものは大きく違う。
にも関わらず、その人は計測用のマークを放射物質のマークと捉えた。

これも願望に基づく理解である。
その人にとっての願望とは沖縄からの米軍の徹底であろうし、
そのためにオスプレイを貶めることでもあろう。

そういう願望のもとに、計測用のマークを見れば、
放射性物質のマークという理解になるのかもしれない。

Date: 12月 17th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その20)

わかっている──、
理解とはどういうことなのか。

2004年に公開された映画「イノセンス」に出てくるセリフが忘れられない。

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」
映画序盤での荒巻大輔のセリフである。

このセリフを聞いて、何も感じない人は、考えようとしない人は、
つまりこのセリフがひっかかってこない人は、
わかっているつもりで留まっていると断言してもよい。

ここでの願望とは、誰の願望なのか。
私の願望に決っている。

私には私の願望があり、別の人には別の願望があり、
その願望に基づいての理解であることが、すべてとまではいわないまでも、
ほとんどといっていいのかもしれない。

Date: 12月 14th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その19)

専門家は、ならばわかっている人なのだろうか。
もう30年ほどの前のことだ。

東京藝大でヴァイオリンを学んできた人がいた。
私よりもいくつか年上だった。
両親もクラシックの専門家だった、ときいていた。

生れたときからずっとクラシックに囲まれた環境で、
東京藝大でヴァイオリンなのだから、彼をクラシックの専門家と誰もが思っても不思議ではない。

でも彼は私に言った。
「ベートーヴェンにオペラはない」と。

ベートーヴェンにはフィデリオという歌劇がある。
クラシックを聴いてきた人ならば、誰もが知っていることである。

彼のいう「ベートーヴェンにオペラはない」は、
フィデリオという作品を知った上で、フィデリオをオペラとして認めていない、という話ではなく、
フィデリオという作品自体を知らない、というだけであった。

彼を貶めるつもりはまったくない。
彼が東京藝大で学んできたことは、おそらくヴァイオリン独奏なのだと思うからだ。
彼自身はオーケストラの一員としてのヴァイオリン奏者を目指していなかったのかもしれない。

そういう彼にとっては、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタには強い関心があっても、
それ以外の作品となると、さほどでもなかったのかもしれない。

友人の友人に、やはり東京藝大で作曲を学んできた人がいる。
私と同じ年である。
彼は卒業制作として、エレキギターを使った作品を発表したそうだ。
すると他の人たちは、きょとんとしていて、
「その楽器、なんというんですか」と訊ねてきた。
エレキギターだと答えると、
「それがエレキギターというものですか、初めて見ました、聴きました」と返ってきた。

又聞きではなく、友人の友人本人から直接聞いた話だ。
私よりもずっとずっと上の世代ならば、こんなこともあり得ると思えるのだが、
1980年代でもそうだったのである。

彼は自嘲気味に「藝大の学生は専門バカばかり」といった。
それから30年ほど経っているから、エレキギターを見たことも聴いたこともない学生はいないであろう。

でも30年前には確かにいたのである。
育った環境が違えば、そうなのである。
エレキギターの音は、テレビの歌番組から流れていた。
それでも知らない人がいるということは、環境の違いとしかいいようがない。

彼以外の学生は、みなクラシック一筋の人たちだったようだ。

彼らはそういう意味では専門バカなのだろうが、
少なくともわかったつもりの人たちではなかったようだ。
知らないこと、わからないことがあったから、彼に「その楽器は?」と訊いているのだから。

Date: 12月 13th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その18)

この項でとりあげている「わかったつもり」は、実にやっかいな問題である。

わかったつもりで留まっている人は、そこかしこにいる。
読み手にも残念ながらいる。
書き手には、当然のようにいる。
そしてオーディオ雑誌の作り手(つまり編集者)もだ。

わかったつもりで留まるのは、何度も書いているように楽である。
読み手をわかったつもりにさせるのも楽である。

楽であるからこそ、読み手をわかったつもりのレベルに留まらせておくほうが、
作り手にとっては好都合なのだ。

わかったつもりのレベルで、本をつくっていけるのだから。
とはいえ、オーディオ雑誌の編集において、オーディオがわかる、とはどういうことなのか。

オーディオの世界は広いし深い。
私は、オーディオのすべてをわかっているとは、到底言えない。
わかっていないことの方が、わかっていることよりも多いし、
いまわかっていることは、はっきりとわかっていることといえるけれど、
それはほんのわずかなのかもしれない。

私より、オーディオの技術的な知識の豊富な人はいる。
そういう人でも、技術的な知識が豊富なだけであって、
オーディオのことがどれだけわかっているかとなると、話は違ってくる。

ようするに誰もよくわかっていないのだ、私を含めて。
だからこそ、みなオーディオに真剣に取り組んでいる、ともいえる。

その17)の最後に引用した
《そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。》
黒田先生が書かれていること、
感覚的に理解できるようになることこそが、わかるの出発点のはずだ。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その3)

前書きがながくなってしまった。
というより前書きの方がながいかもしれない。
ここからが、最初に書こうと考えていたことだ。

岡先生が飯島正氏について書かれているところを書き写しておく。
     *
 四十年ぐらいむかし、ぼくは映画に夢中になっていた。映画批評家を志そうなどとはまだ考えてもみなかったけれど、いろんな雑誌や本を読んで映画の勉強をしていたのは、そうすることにわけもなく情熱を感じていたからである。その頃、飯島正さんの書くものに一ばん共感し尊敬していた。その気持はいまでもかわらないけれど、当時飯島さんが〝ぼくの批評はコンマンテール(注釈)だ〟というようなことを書いていた一行が、いまだに頭にこびりついてはなれない。批評が注釈だということには、いろいろな解釈があるかもしれないし、そういった飯島さんの真意がどこにあったのかはぼくにはわからないけれど、訓詁注釈の原典批判に通ずるものではないかとおもう。そのへんは辰野隆、鈴木信太郎という二大学殖の門に学んだ飯島さんの言葉らしいとおもうし、批評の方法論のひとつのありかたとして立派なものだとおもうのだ。訓詁注釈のありかたもいろいろあるが、物事を相対的に考え判断のデータをできるだけ幅ひろく検討するということでなければなるまい。
     *
私が、今回のことを書こうと思ったのは、
〝ぼくの批評はコンマンテール(注釈)だ〟に惹かれたからだ。

岡先生の文章を読んで、読んでみようと思っているところだが、
私は飯島正氏の映画批評を読んでいない。
あまり映画評論・映画批評を読むほうでもない。

手元にある映画批評の本といえば、ポーリン・ケイルのものだけだ。
「映画辛口案内──私の批評に手加減はない」、「今夜の映画で眠れない」である。
しかも「今夜も映画で眠れない」は友人に貸したまま戻ってきてない。

ポーリン・ケイルの本を読んで、批評とはここまであるべきなのか、と感嘆した。
岡先生のことだからポーリン・ケイルのこともご存知だったはずだ。

ポーリン・ケイルの「映画辛口案内」(1990年発行)を読んで、
当時のオーディオ評論のなまぬるさに吹きだしたくなったほどだ。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その2)

「オーディオ評論のあり方を考える」は、まったく広告に結びつかない企画である。
地味な記事ともいえる。
写真もない、ただただ文章だけのページが、12ページ続く。
いまこれだけの文章を書ける人が、ステレオサウンドにいるだろうか、と思うとともに、
いま掲載したとして、どれだけの人がきちんと最後まで熟読するだろうか……、とも思う。

岡先生は批評と評論の違いについて書かれ、
英語のcriticとreviewの違いについても書かれた後に、こう続けられている。
     *
いずれにせよ、評論あるいは評論家という言葉の曖昧さが、一億総評論家時代、などというふうに使われることになって、評論そのものの権威的な意味はうすれてしまっているのが今日のジャーナリズムのありかたのようにおもう。
 オーディオについて何か書いたり意見をいうひとはすべてオーディオ評論家だということになっていることを、何もべつに問題にしないというのが現状であるようだ。そういう曖昧なオーディオ評論に〝ありかた〟をもとめるということ自体が、何ともおかしなものだ、とおもうわけである。
     *
ステレオサウンド 26号は1973年春号である。
そこから43年経ち、オーディオ「評論」の現状は、どうなっていったか。
評論そのものの権威的な意味はうすれてしまった、というよりも、
なくなってしまった、というほうがぴったりくる。

だから各オーディオ雑誌が年末に賞を与える記事を連発している、ともいえる。
賞の名称の変化にしてもそうだ。
どこかでなんとか権威的な意味を維持しようとしているのが、現状のオーディオ雑誌の賞である。

ステレオサウンドは創刊50周年、200号を迎えた。
ならば、この岡先生の「オーディオ評論のあり方を考える」を、
いま一度掲載し、それぞれの現在の書き手がどう読んでどう感じ考えたのかを記事にしたらどうだろうか。

広告に結びつくような企画ではないから、やるはずがない。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その1)

飯島正氏はいうまでもなくオーディオ評論家ではなく、映画評論家である。
飯島正氏のことを、岡先生がステレオサウンド 26号に書かれている。
岡先生も映画評論をやられていた。
映画雑誌「映画世界」の編集長、「映画の友」の編集次長もつとめられていた。

岡先生は、評論家という言葉をきらわれていた。
これもステレオサウンド 26号にある。
     *
 ぼくは評論家という言葉がきらいである。日頃、映画評論家といわれたり、音楽評論家といわれたり、オーディオ評論家といわれたりしているわけだが、そのたびに背筋に冷たいものがはしるヘンな気持になってしまう。そうじゃありませんというと、ではなんだということになる。それについて自分の考えていることを説明すると、ひじょうにながくなるので、いつもめんどうくさくなってやめてしまおうという気持におそわれるのだ。だから、評論家などといわれると、何となくニヤニヤして、まあそんなところでしょうというような表情をしているより仕方がない。〝評論〟とか〝評論家〟という言葉はおよそ便利なものだ。わけのわからない曖昧な言葉だ。
 映画のことを書いていた頃、自分は映画批評家のつもりであった。その後、音楽やオーディオのことを書くようになった頃、自分では批評家だという意識をもったことはかつてない。批評というに値するほどの文章は書いたおぼえがないからである。意見をのべるということがそのまま批評の同義語として通ずるものであるなら、こんな楽なことはない、といささか後ろめたい思いがするほどである。映画のことは本気になって勉強したつもりであったが、音楽やオーディオの方はもともと好きが昂じて、何やかと書いていたというにすぎない。雑文家の程度と自分ではおもっているのである。ただし、そんな雑文でなにがしの原稿料をちょうだいしてゆくからには、それだけの勉強めいたことはいささかしたつもりだ。けれど、批評というに値するような文章を意識して書くには、もっと勉強しなければダメである。だから、ぼくは、映画批評家だと思ってきたけれど、音楽批評家だともオーディオ批評家だとも、つゆ思ったことがない。
     *
これは26号から短期連載が始まった「オーディオ評論のあり方を考える」の冒頭からの引用だ。
この連載は27号が菅野先生、30号が上杉先生、31号が岩崎先生である。

26号の岡先生の文章には、大見出しというか副題として、
「オーディオ機器は音楽に奉仕するべきものだということについての管見」となっている。

管見とは、管の穴から見る意であり、見識がせまいこと、
自分の知識・意見をへりくだっていう語、と辞書に載っている。

岡先生が、あえて管見と使われている。
岡先生のことを黒田先生は、こう書かれていた。
     *
岡さんは、決して大袈裟な、思わせぶりなことをいわない。資料を山とつみあげて苦労の末さがしあてた事実をも、さらりとなにげなく書く。
 この本はそうやって書かれた本である。一行一行がどしりと重い。したがってこの本は、その重さを正しく計って読むべき本である。レコードについて多少なりともつっこんで正確に考えようとする人にとって、この本は、常に身近におくべき本である。そして、ことあるたびごとに、くりかえし読みたくなる本である。
     *
ステレオサウンド 60号に載っている「岡さんの本」からの引用だ。
岡先生がどういう人であったのかは、ぜひ60号の黒田先生の「岡さんの本」を読んでいただきたい。

JBLのジョン・アーグルは、岡先生のことをDr.Oka(ドクター岡)と呼んでいた、と聞いている。
日本に行けば岡先生と会える、それをジョン・アーグルは楽しみにしていた、とも聞いている。