Date: 12月 13th, 2016
Cate: オーディオ評論
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ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その18)

この項でとりあげている「わかったつもり」は、実にやっかいな問題である。

わかったつもりで留まっている人は、そこかしこにいる。
読み手にも残念ながらいる。
書き手には、当然のようにいる。
そしてオーディオ雑誌の作り手(つまり編集者)もだ。

わかったつもりで留まるのは、何度も書いているように楽である。
読み手をわかったつもりにさせるのも楽である。

楽であるからこそ、読み手をわかったつもりのレベルに留まらせておくほうが、
作り手にとっては好都合なのだ。

わかったつもりのレベルで、本をつくっていけるのだから。
とはいえ、オーディオ雑誌の編集において、オーディオがわかる、とはどういうことなのか。

オーディオの世界は広いし深い。
私は、オーディオのすべてをわかっているとは、到底言えない。
わかっていないことの方が、わかっていることよりも多いし、
いまわかっていることは、はっきりとわかっていることといえるけれど、
それはほんのわずかなのかもしれない。

私より、オーディオの技術的な知識の豊富な人はいる。
そういう人でも、技術的な知識が豊富なだけであって、
オーディオのことがどれだけわかっているかとなると、話は違ってくる。

ようするに誰もよくわかっていないのだ、私を含めて。
だからこそ、みなオーディオに真剣に取り組んでいる、ともいえる。

その17)の最後に引用した
《そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。》
黒田先生が書かれていること、
感覚的に理解できるようになることこそが、わかるの出発点のはずだ。

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