ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その18)
この項でとりあげている「わかったつもり」は、実にやっかいな問題である。
わかったつもりで留まっている人は、そこかしこにいる。
読み手にも残念ながらいる。
書き手には、当然のようにいる。
そしてオーディオ雑誌の作り手(つまり編集者)もだ。
わかったつもりで留まるのは、何度も書いているように楽である。
読み手をわかったつもりにさせるのも楽である。
楽であるからこそ、読み手をわかったつもりのレベルに留まらせておくほうが、
作り手にとっては好都合なのだ。
わかったつもりのレベルで、本をつくっていけるのだから。
とはいえ、オーディオ雑誌の編集において、オーディオがわかる、とはどういうことなのか。
オーディオの世界は広いし深い。
私は、オーディオのすべてをわかっているとは、到底言えない。
わかっていないことの方が、わかっていることよりも多いし、
いまわかっていることは、はっきりとわかっていることといえるけれど、
それはほんのわずかなのかもしれない。
私より、オーディオの技術的な知識の豊富な人はいる。
そういう人でも、技術的な知識が豊富なだけであって、
オーディオのことがどれだけわかっているかとなると、話は違ってくる。
ようするに誰もよくわかっていないのだ、私を含めて。
だからこそ、みなオーディオに真剣に取り組んでいる、ともいえる。
(その17)の最後に引用した
《そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。》
黒田先生が書かれていること、
感覚的に理解できるようになることこそが、わかるの出発点のはずだ。