Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論
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オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その3)

前書きがながくなってしまった。
というより前書きの方がながいかもしれない。
ここからが、最初に書こうと考えていたことだ。

岡先生が飯島正氏について書かれているところを書き写しておく。
     *
 四十年ぐらいむかし、ぼくは映画に夢中になっていた。映画批評家を志そうなどとはまだ考えてもみなかったけれど、いろんな雑誌や本を読んで映画の勉強をしていたのは、そうすることにわけもなく情熱を感じていたからである。その頃、飯島正さんの書くものに一ばん共感し尊敬していた。その気持はいまでもかわらないけれど、当時飯島さんが〝ぼくの批評はコンマンテール(注釈)だ〟というようなことを書いていた一行が、いまだに頭にこびりついてはなれない。批評が注釈だということには、いろいろな解釈があるかもしれないし、そういった飯島さんの真意がどこにあったのかはぼくにはわからないけれど、訓詁注釈の原典批判に通ずるものではないかとおもう。そのへんは辰野隆、鈴木信太郎という二大学殖の門に学んだ飯島さんの言葉らしいとおもうし、批評の方法論のひとつのありかたとして立派なものだとおもうのだ。訓詁注釈のありかたもいろいろあるが、物事を相対的に考え判断のデータをできるだけ幅ひろく検討するということでなければなるまい。
     *
私が、今回のことを書こうと思ったのは、
〝ぼくの批評はコンマンテール(注釈)だ〟に惹かれたからだ。

岡先生の文章を読んで、読んでみようと思っているところだが、
私は飯島正氏の映画批評を読んでいない。
あまり映画評論・映画批評を読むほうでもない。

手元にある映画批評の本といえば、ポーリン・ケイルのものだけだ。
「映画辛口案内──私の批評に手加減はない」、「今夜の映画で眠れない」である。
しかも「今夜も映画で眠れない」は友人に貸したまま戻ってきてない。

ポーリン・ケイルの本を読んで、批評とはここまであるべきなのか、と感嘆した。
岡先生のことだからポーリン・ケイルのこともご存知だったはずだ。

ポーリン・ケイルの「映画辛口案内」(1990年発行)を読んで、
当時のオーディオ評論のなまぬるさに吹きだしたくなったほどだ。

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