Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論
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オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その1)

飯島正氏はいうまでもなくオーディオ評論家ではなく、映画評論家である。
飯島正氏のことを、岡先生がステレオサウンド 26号に書かれている。
岡先生も映画評論をやられていた。
映画雑誌「映画世界」の編集長、「映画の友」の編集次長もつとめられていた。

岡先生は、評論家という言葉をきらわれていた。
これもステレオサウンド 26号にある。
     *
 ぼくは評論家という言葉がきらいである。日頃、映画評論家といわれたり、音楽評論家といわれたり、オーディオ評論家といわれたりしているわけだが、そのたびに背筋に冷たいものがはしるヘンな気持になってしまう。そうじゃありませんというと、ではなんだということになる。それについて自分の考えていることを説明すると、ひじょうにながくなるので、いつもめんどうくさくなってやめてしまおうという気持におそわれるのだ。だから、評論家などといわれると、何となくニヤニヤして、まあそんなところでしょうというような表情をしているより仕方がない。〝評論〟とか〝評論家〟という言葉はおよそ便利なものだ。わけのわからない曖昧な言葉だ。
 映画のことを書いていた頃、自分は映画批評家のつもりであった。その後、音楽やオーディオのことを書くようになった頃、自分では批評家だという意識をもったことはかつてない。批評というに値するほどの文章は書いたおぼえがないからである。意見をのべるということがそのまま批評の同義語として通ずるものであるなら、こんな楽なことはない、といささか後ろめたい思いがするほどである。映画のことは本気になって勉強したつもりであったが、音楽やオーディオの方はもともと好きが昂じて、何やかと書いていたというにすぎない。雑文家の程度と自分ではおもっているのである。ただし、そんな雑文でなにがしの原稿料をちょうだいしてゆくからには、それだけの勉強めいたことはいささかしたつもりだ。けれど、批評というに値するような文章を意識して書くには、もっと勉強しなければダメである。だから、ぼくは、映画批評家だと思ってきたけれど、音楽批評家だともオーディオ批評家だとも、つゆ思ったことがない。
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これは26号から短期連載が始まった「オーディオ評論のあり方を考える」の冒頭からの引用だ。
この連載は27号が菅野先生、30号が上杉先生、31号が岩崎先生である。

26号の岡先生の文章には、大見出しというか副題として、
「オーディオ機器は音楽に奉仕するべきものだということについての管見」となっている。

管見とは、管の穴から見る意であり、見識がせまいこと、
自分の知識・意見をへりくだっていう語、と辞書に載っている。

岡先生が、あえて管見と使われている。
岡先生のことを黒田先生は、こう書かれていた。
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岡さんは、決して大袈裟な、思わせぶりなことをいわない。資料を山とつみあげて苦労の末さがしあてた事実をも、さらりとなにげなく書く。
 この本はそうやって書かれた本である。一行一行がどしりと重い。したがってこの本は、その重さを正しく計って読むべき本である。レコードについて多少なりともつっこんで正確に考えようとする人にとって、この本は、常に身近におくべき本である。そして、ことあるたびごとに、くりかえし読みたくなる本である。
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ステレオサウンド 60号に載っている「岡さんの本」からの引用だ。
岡先生がどういう人であったのかは、ぜひ60号の黒田先生の「岡さんの本」を読んでいただきたい。

JBLのジョン・アーグルは、岡先生のことをDr.Oka(ドクター岡)と呼んでいた、と聞いている。
日本に行けば岡先生と会える、それをジョン・アーグルは楽しみにしていた、とも聞いている。

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