Archive for category オーディオ評論

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その2)

ここでのテーマは、別項「評論家は何も生み出さないのか」と関係している。
「評論家は何も生み出さないのか」を書き始めたから、このテーマで書き始めたともいえる。

オーディオ評論家を名乗っているのに、
周りからもオーディオ評論家と呼ばれているのに、
スピーカーをうまく鳴らすのが不得手な人が多い。

いまオーディオ評論家と名乗っている人すべてを知っているわけではないから、
全員がそうだ、とは断言できないが、現在の多くのオーディオ評論家が、
スピーカーをうまく鳴らすことに長けているとはいいがたい。

もちろん、自分のリスニングルームにおいて、
自分の好きなスピーカーを鳴らすことに関しては、そうではないだろうけど、
オーディオ評論家は少なくともプロフェッショナルであるわけだから、
それだけではアマチュアと同じでしかない。

十年ほど前か、あるオーディオ評論家から聞いたことがある。
地方のオーディオ販売店に招かれる。
たいてい音が出るように準備されている。

けれど客に聴かせられるようなレベルではないことも少なくないそうだ。
そんなときFMアコースティックのアンプが店にあると助かる、ということだった。

FMアコースティックのアンプが置いてある店なわけだし、
オーディオ評論家を招いてイベントを行うくらいだから、
最初のアンプもそこそこの評価の高いモノのはすである。

それをさらに高価なFMアコースティックにかえる。
そうするとたいていの場合、なんとかなる、ということだった。

この時はアンプについて話していたときであったから、
その流れで、この話をしてくれたのだろう。

そのことはわかったうえで、書いている。
それでも、オーディオ評論家を名乗っている以上、
アンプをFMアコースティックにかえる前にやれることは、山のようにあるではないか、
そういいたくなる。

おそらく、これに対する返事は、時間がそんなにないから、なのだろう。
そういう事情もわからないわけではない。

それでも……、とやっぱり思ってしまう。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その6)

もうすこし向坂正久氏の文章から引用しておこう。
     *
 評論とはくり返し書くが、文学の領域の仕事である。そこでは筆者の主観が、あらゆる客観的な事実に勝るのである。たとえ資料が乏しくとも、あるいはそれが不確かでであっても、その筆者のいおうとすることによって、それは枝葉末節にすぎない。ほんとうの幹は筆者の肉体だからである。
 ここでもうひとつの例をあげよう。名高い小林秀雄の「モオツァルト」には今日偽作と断定されている手紙の引用がある。研究論文ならば、すでにそのことで、この評論の価値は減少しよう。しかし、このエッセイの価値はそんなことで微動だにしないのだ。その手紙は小林にとって、ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである。
 論文と評論の差はここにある。そしてまた音楽好きの読者が、ほんとうに求めているのは客観的なものではなくて、より主観的なものであり、その主観を表現し得る技術を磨くことこそ、評論家たちが骨身を削って体得しなければならないことなのである。音楽のジャーナリズムはそのことを忘れているだけでなく、当の評論家たちさえ、そのことに悩むことが少なすぎるのである。
     *
49年前の「音楽評論とは何か」は、
音楽雑誌、レコード雑誌ではなく、オーディオ雑誌のステレオサウンドに載っている。
当時の音楽雑誌、レコード雑誌に「音楽評論とは何か」が載ることはなかっただろう。

向坂正久氏の「音楽評論とは何か」は、
ほぼそのまま「オーディオ評論とは何か」でもある。

いまのオーディオ雑誌に「オーディオ評論とは何か」は載らないであろう。

上の文章を引用していて思い出していたのは、井上先生が岩崎先生について語られたことである。
試聴のあいまに、ぼそっといわれたことを思い出す。

岩崎さんがすごいのは、
たとえばタンノイは整流器の製造からスタートした会社だった、
たったこれだけの書き出しを与えられただけでも、一本のおもしろい文章を書き上げる。
途中から、タンノイは整流器……からはまったく外れてしまったことになるだろうけど、
岩崎さんにしか書けないことを書き上げる。

そんなことを話してくださった。
そのときの井上先生の表情は、どこか羨ましげでもあった。

向坂正久氏が書かれている
《ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである》、
井上先生は、これを話してくれていた、といえる。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その5)

長島先生が、サプリームNo.144(瀬川先生の追悼号)に書かれたこと。
     *
オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、オーディオを、「音楽」を再生する手段として捉え、文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。
     *
私もそう思っている。
オーディオ評論は、瀬川冬樹から始まった、といえる。
そして、それはステレオサウンドという場が与えられたからだ、とも思っている。

それ以前の、オーディオに関する文章は解説であったり、
研究発表といえるものがほとんどすべてといえる。

そのなかにあって、藝術新潮での五味先生の文章がひときわかがやいていた。
五味先生の文章があったからこそステレオサウンドが誕生し、
瀬川冬樹によるオーディオ評論が始まった。

オーディオ評論は、50年を超えた──、
と書けるのだろうか。

たしかにステレオサウンドが創刊50年なのだから、そうとはいえる。
けれど1977年に岩崎先生が、1980年に五味先生が、1981年には瀬川先生が亡くなられている。

ここでオーディオ評論は終った──、
そうもいえる。
終ったがいいすぎならば、
オーディオ評論が始まって15年目がピークだった、ともいおう。

そんなことはない、いまもオーディオ評論は……、と思う人は、
もういちど長島先生の文章を読みなおしてほしい。

瀬川先生によって、
《単なる装置の解説や単なる印象記》から離れていんて成立したものが、
《単なる装置の解説や単なる印象記》に戻ってしまっているとしか思えない現状。

ステレオサウンド以前の《単なる装置の解説や単なる印象記》とくらべると、
現在のそれは小手先のテクニックによって、表面的にはマシにみえないこともない。

けれど、そこには感動がまったくない。

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その4)

ステレオサウンド 8号には「音楽評論とは何か」という記事がある。
音楽評論家の向坂正久氏による文章である。

四つの見出しがつけられている。
 現在の音楽評論は何故つまらないか
 客観的論文と主観的評論
 批評の尺度にも原典主義
 新しい音楽評論のために

この四つの見出しにわずかでも興味をもった人は、
ぜひ全文を読んでほしい、と思う。

向坂正久氏は1931年生れなので、
1932年生れの菅野先生、山中先生、長島先生、1931年生れの井上先生たちと同世代であり、
ステレオサウンド 8号(1968年発売)は、36か37歳。

少し長くなるが、冒頭のところを引用しておく。
     *
 すすめられるままに、私は大きなテーマを選んで書く。前号の「ナマ・レコード・オーディオ」は全体の序章のようなものだが、そこでも、すでに私は音楽評論の現状について多少の批判を加えたつもりである。自らが住するジャンルを内部批判することは、あるいは読者から見たら不可解なことに思われるかも知れないが、実は今までこうしたことがなされないために、そのつまらなさを助長させたといってもいい。
 文学畑の人から「音楽評論というのはほとんど解説ですね」といわれたことがあるが、全く演奏会やレコードの個評を除くと、知識の切り売りが圧倒的に多いのが現状である。知識が商品価値をもつのは当然だとしても、それは少くとも評論とはいえないだろう。全くの無知から出発していても、読者を感動させる文章というものがあると同時に、音楽知識をもちあわせぬ読者の心にさえ、ひびく文章というものがなくてはならぬ。評論とは文学の領域なのだから、それを基本に考えねばならないところを、音楽ジャーナリズムは知識から知識へ、言葉をかえれば頭脳から頭脳へという方向だけで、すべて事足れりとしている傾向が強い。実はこれが音楽評論をつまらなくさせている最大の原因なのである。
 音楽を素材にして、人生を語り、人間を論ずるということが、余りにも少なすぎはしないか、まるで音楽は人間が作ったものではなくて神が与えたものだといわんばかりの解説に接していては、愛好家がまともな聴き方ができなくなるのは当り前である。そしてこの五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである。音楽評論家というレッテルをつけられている人が二百人ぐらいはいると思うが、「音楽」の二字をとって評論家として通用する人が、果たして何人いるだろう。力量はあっても音楽ジャーナリズムの要求で、習い性になった人もあり、本質的に学者であり、啓蒙家である人が多すぎる。彼らの仕事も重要だが、無地の読者をも吸収できる評論が、もっと書かれてしかるべきだろう。
 では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してうまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。なるほど彼は作家で表現力があるのは当然だ、だからおまえにも面白いのだろうという人があるかも知れない。しかしその論理は逆である。表現力があるから作家になれたのだ。およそ文章で飯を食おうと思う人間は、小説であれ、評論であれ、その基準の第一は文章で人を魅する力があるか、どうかにかかっている。知識や教養は第二の条件だ。それが音楽ジャーナリズムの世界では位置が逆転している。「学」があることが第一なのだが、これでは面白くなろう筈がない。
     *
全文引用したいくらいだが、そういうわけにもいかないので、このくらいしておく。

《五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである》
向坂正久氏は、そう書かれている。

音楽評論はオーディオ評論よりも古くからある。
そのオーディオ評論も、昨秋、ステレオサウンドが創刊50年を迎えた。

Date: 7月 20th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その5)

B&Wの800シリーズについて書いていて、ふと思ったことがある。
マルチチャンネル再生をやるとしたら、
意外にもB&Wの800シリーズは候補に挙がってくるかも……、ということだった。

モノーラル時代はスピーカーシステムの数は一本、
ステレオ時代になって二本になった。

モノーラル時代には大型のホーン型スピーカーシステムがいくつも存在していた。
JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのPatrician、
タンノイのオートグラフ、ヴァイタヴォックスのCN191、
これらの他にも、いくつものモデルがあった。

これらのスピーカーシステムで、ステレオ再生(2チャンネル再生)を行う。
そのことに否定的なことをいう人ももちろんいたけれど、
これらのスピーカーシステムによるステレオ再生は、独自の世界を築いていたこともあって、
いまだその世界に憧れつづける者もいる。

でも、このことはステレオ再生が二本のスピーカーシステムだったこともあるように、
最近では考えている。

もしステレオ再生が2チャンネルではなく、
センターチャンネルを加えた3チャンネル、
リアチャンネルを加えた4チャンネル、
センターとリアの両方の5チャンネル、
そういうシステムであったなら、
モノーラル時代のスピーカーシステムで……、というやり方はうまくいかなかったかもしれない。

モノーラル時代の、これらのスピーカーシステムは大型で、しかも高価だった。
そういうスピーカーを三本、四本、五本揃えるのは、それだけでたいへんなことだが、
問題はそこではなく、スピーカーのもつキャラクターの濃さについてである。

いかなるスピーカーであっても、キャラクター(個性)がある。
そのスピーカー固有の音色がある。

そのキャラクターが、スピーカーの数が二本よりも多くなっていくときに、
問題として顕在化していくのではないだろうか。

私は4チャンネル再生の経験がない。
聴いたことがないわけではないが、オーディオに関心をもつ前であったし、
単にきいた、というだけでしかない。

4チャンネル再生の問題点は頭ではわかっているし、
定着しなかった理由は、知識として知っている。

それでも、ふとおもうのは、
当時B&Wの800シリーズのようなスピーカーシステムが存在していたら、
フォーマットの制定も行われていたら、
違う展開を見せていた可能性について、だ。

B&Wの800シリーズを鳴らしていたオーディオ評論家として、
小林悟朗さんがそうだったことを思い出した。

小林悟朗さんは800シリーズでマルチチャンネル再生を行われていた。

Date: 7月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の才能と資質(その1)

ステレオサウンド 56号に、瀬川先生がこんなことを書かれていた。
     *
 JBLの音を嫌い、という人が相当数に上がることは理解できる。ただ、それにしても♯4343の音は相当に誤解されている。たとえば次のように。
 第一に低音がよくない。中低域に妙にこもった感じがする。あるいは逆に中低域が薄い。そして最低音域が出ない。重低音の量感がない。少なくとも中低音から低音にかけて、ひどいクセがある……。これが、割合に多い誤解のひとつだ。たしかに、不用意に設置され、鳴らされている♯4343の音は、そのとおりだ。私も、何回いや何十回となく、あちこちでそういう音を聴いている。だがそれは♯4343の本当の姿ではない。♯4343の低音は、ふつう信じられているよりもずっと下までよく延びている。また、中低域から低音域にかけての音のクセ、あるいはエネルギーのバランスの過不足は、多くの場合、設置の方法、あるいは部屋の音響特性が原因している。♯4343自体は、完全なフラットでもないし、ノンカラーレイションでもないにしても、しかし広く信じられているよりも、はるかに自然な低音を鳴らすことができる。だが、私の聴いたかぎり、そういう音を鳴らすのに成功している人は意外に少ない。いまや国内の各メーカーでさえ、比較参考用に♯4343をたいてい持っているが、スピーカーを鳴らすことでは専門家であるべきはずの人が、私の家で♯4343の鳴っているのを聴いて、「これは特製品ですか」と質問するという有様なのだ。どういたしまして、特製品どころか、ウーファーの前面を凹ませてしまい、途中で一度ユニットを交換したような♯4343なのだ。
     *
まだ高校生だった私は、そういうものなのか、と思っただけだった。
スピーカーメーカーの人でも、スピーカーをうまく鳴らせるわけではないのか、と。

ステレオサウンドで働くうちに、このことは少しずつ実感をともなってきた。
スピーカーを開発・製造することと、
スピーカーをうまく鳴らすことは、同じ才能ではない、ということを実感していた。

そのころから感じていたのは、オーディオ評論家に求められる才能とは、
音を聴き分ける能力、音を言葉で表現する能力──、
これらも必要ではあるのはわかっているが、
それ以上に、そしてそれ以前に必要な才能とは、
スピーカーをうまく鳴らすことである、と。

どんなに耳がよくて、音を巧みに言葉で表現できたとしても、
誰かが鳴らした音を聴いてのものであれば、
その人はオーディオ評論家であろうか、
せいぜいがオーディオ批評家ではないのか。

いまオーディオ評論家と呼ばれている人も、
自身のリスニングルームで鳴らしているスピーカーに関しては、
うまく鳴らしているであろう。

でも、それはオーディオ評論家ではないオーディオマニアもそうだ。
自身のリスニングルームという特定の空間において、
愛用しているスピーカーをうまく鳴らすことは、
オーディオのプロフェッショナルであろうと、アマチュアであろうと同じである。

スピーカーが置かれている環境が違ってきても、
どんなスピーカーをもってこられたとしても(もちろん基本性能がしっかりしているモノ)、
オーディオ評論家を名乗るのであれば、うまく鳴らすことができること、
これがオーディオ評論家としての大事な才能であるとともに、
むしろ資質といえるような気もしている。

Date: 7月 1st, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その3)

オーディオ評論と呼ばれる仕事もしていた知人は、なぜ小説を書き始めたのか。
芥川賞が欲しいから、書き始めたのかもしれない、
書くことが好きだったから、自然と書き始めたのかもしれない、
そのへんのはっきりとしたことは私にはわからないが、
おそらく当人もよくわかっていないのではないか。

作家(小説家、画家、彫刻家、作曲家などをふくめて)は、
なぜ何かをつくるのか──、といえば、
表現したいものがあるからだろう、という答が返ってきそうだ。

表現したいもの、ということでは、
オーディオ評論家も、少なくとも私が先生と呼ぶオーディオ評論家の人たちは、
音というかたちがなく抽象的で、すぐに消滅してしまう物理現象を表現しよう、としていた。

音は言葉や絵や写真などで直接伝えることはできない。
測定結果も、どんなに多項目にわたって測定をしたとしても、まったく伝えられない。

言葉(文章)で伝えるしかない。
この行為は手を抜こうと思えば、どれだけでも手を抜ける。
文章のテクニックがあれば、体裁は整えられる。

でも、そこからは何も伝わってこない。
よく、ある特定ディスクの、この部分がこんなふうに鳴った、
別のディスクの、この部分はこう鳴った、
そんなふうにことこまかに書く人がいる。

そんな試聴記をわかりやすい、親切だ、具体的だと思っている読み手もいる。
この手の試聴記は、実は何も伝えていない。
それだけでは、なにひとつ伝えていない。

ブラインドフォールドテストとオーディオ評論(その1)

別項「ステレオサウンドについて(その38)」で、
ステレオサウンド 48号について、私の中で決着のついていない号、だと書いた。

最近、ようやく決着がついた。
別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か、を書き進める前に)」を書いて、
気づいたことがあるからだ。

ブラインドフォールドテストは、どんなに厳密に行っても、
大がかりであっても、それだけではオーディオ評論にならないからである。

これも以前に書いているが、
私はステレオサウンドはオーディオ評論の本と認識している。
このへんは人によって違ってくるところで、私と同じ人もいれば、
いわゆるお買い物ガイドとして認識している人もいる。

ステレオサウンドをどう捉えるかによって、
ブラインドフォールドテストの記事に、どんな感想を抱くかは変ってくる。

ブラインドフォールドテストは、いうまでもなく、
ただ音を聴いているだけであり、
製品批評とも、実のところいえない段階の試聴テストである。

どれがいい音なのか、ただそれだけを知りたいという人にとっては、
ブラインドフォールドテストこそが、唯一の試聴テストで信頼できるということになっても、
私にとっては、まったく違う。

ブラインドフォールドテストは試聴を行う側のオーディオの力量が、徹底して問われる。
つまりステレオサウンドにおいては、ステレオサウンド編集部の力量が問われるわけで、
試聴者の力量と同等か、それ以上でなければ、厳密な意味でのブラインドフォールドテストは成立しない。
このことに関しては、別項にてもう少し詳しく書く予定でいる。

つまり音質評価としても、場合によってはまったく信用できない結果になってしまう。
ブランドフォールドテストを否定はしない。
正しく、厳密にやれればであるが、これが難しく、
その難しさを理解していない人のほうが、
ブランドフォールドテストこそが……、といっているのが実情といえよう。

しかもくり返すが、ブラインドフォールドテストだけでは、オーディオ評論にはならない。
一工夫も二工夫もしなければ、誌面のうえにオーディオ評論として展開・提示することはできない。
ここでも、編集部の力量が、通常の試聴テスト以上に問われるし求められる。

Date: 5月 26th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か、を書き進める前に)

このテーマで、製品か商品かを書き進める前に書いておきたいことがある。

ここでは商品批評、製品批評とは書いているが、
商品評論、製品評論とは書いていない。

例えば試聴記。
ステレオサウンドでやる総テストにおける試聴記は、批評である。
商品批評なのか製品批評なのかを、ここでは書いていこうとしている。

オーディオ評論家による試聴記は、評論ではないのか。
私がオーディオ評論家と認めている人の書いている試聴記であっても、
それは批評である、と考えている。
だから商品批評なのか製品批評なのか、と考えている、ともいえる。

場合によっては、評論に近づいている試聴記もある。
評論と呼んでもよさそうな試聴記もある。
それでも、やはり批評だと感じている。

以前のステレオサウンドでは、総テストの特集の巻頭には、
それぞれの評論家による「テストを終えて」という試聴(テスト)後記があった。

このテスト後記は、評論でなければならない。
私が熱心に読んでいたころのステレオサウンドのテスト後記は、評論といえた。
いまはそうとはいえない。

試聴記という批評も、オーディオ評論家にとっては評論活動のひとつであっても、
それでも批評と評論がごっちゃにされることはなかった、と感じている。

もうひとつ例を挙げれば、ベストバイ・コンポーネントにおける各評論家のコメント。
決して長くはない、というよりも短い文章ではある。
私がいちばん面白かったと感じた43号のベストバイでも、試聴記よりも短い文章である。

だが、ベストバイの、それぞれのオーディオ機器についての文章は、
はっきりと評論でなければならない。
商品批評もしくは製品批評ではあってはならない。

それゆえにベストバイの文章は、書き手にとってひじょうに負担の大きいものである。
もともそういえるのは、ベストバイの文章が評論であると認識しているうえで、
そう書くようにつとめている人に限って、ではあるが。

瀬川先生はベストバイの原稿書きはしんどい、といわれていたそうだ。
そのはずだ。
評論でなければならないからだ。

Date: 5月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(余談・Matrix 800シリーズ)

もうながいつきあいのKさん。
彼もオーディオマニアで、録音関係の仕事もしている。
何年前だったか、B&Wのスピーカーのことが話題になった。

この項で書いていることに近いことを話していた。
Kさんがいうには「Matrixシリーズはいい」ということだった。

仕事(レコーディングのモニター)にも使えるだけでなく、
家庭用スピーカーとしても魅力的である、と。
その後も、ことあるごとにKさんはMatrixシリーズだけは違う、と力説する。

確かにレコーディングスタジオに、いまもまだMatrixシリーズが使われているところはある。
予算がないから最新モデルに買い替えられていのではなく、
あえてMatrixシリーズを使い続けているようである。

いま書店に無線と実験 6月号が並んでいる。
実はひさしぶりに無線と実験を買った。

6月号には「ソニー・ミュージックスタジオ アナログカッティングルーム完成」の記事がある。
3月にオーディオ関係のサイトでニュースになっていたから多くの方が知っているように、
ソニー・ミュージックがアナログディスクのカッティングシステムを導入している。

3月の時点では、ノイマンのカッティングシステムということはわかっても、
それらはどうやって調達したのかまではわからなかった。

ソニー・ミュージックが旧CBSソニー時代のカッティングシステムを、
どこかにしまっていたとは思えない。

無線と実験の記事には、そのあたりのことも載っている。
記事は2ページ。
10点の写真があって、その一枚にマスタリングシステムが写っている。
ここもモニタースピーカーは、B&WのMatrix 801S2である。

Date: 5月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その4)

スピーカーは、鳴らす人によって、時として別モノのように鳴る。
ずっとずっと昔からいわれ続けている。

このことを否定するオーディオ評論家はいない(はずだ)。
どのオーディオ評論家は、表現は違っても、同じ趣旨のことをいったり書いたりしている(はずだ)。

B&Wの800シリーズを高く評価しながらも、
決して自宅で鳴らそうとしないオーディオ評論家であっても、そのはずである。

B&Wの800シリーズを仕事(おもにステレオサウンドの試聴室)で聴いている。
ならばこそ、と私などは思う。
ほんとうにB&Wの800シリーズを優れたスピーカーだと高く評価して、
ステレオサウンドの誌面を通じて読者にもすすめているのであれば、
編集部が鳴らす試聴室の音よりも、
別モノのように800シリーズを自分のリスニングルームで鳴らせるはずである。

スピーカーシステムは同じでも部屋がまず違う。
アンプもCDプレーヤーなどのオーディオ機器が違う。
そしていちばんのファクターとしての鳴らし手の違いがある。

B&Wの800シリーズが優れたスピーカーであるならば、
ステレオサウンド試聴室での、いわば仕事モードでの音、
それから自分のリスニングルームでの、自分ひとりのための音、
そういう音も鳴らせるはずではないのか。

なのに「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」が、
現状であるのは、どうしてなのか。

(その2)を書いてから、理由をいくつか考えてみた。
最初に考えたのは、B&Wの800シリーズはウィントン・マルサリス的スピーカーなのか、だった。

私はウィントン・マルサリスの演奏についてあれこれいえるほど、
ウィントン・マルサリスのレコードを聴いているわけではない。
ただウィントン・マルサリスの名前を、
ジャズにあまり関心のなかった私でも耳にするようになったころ、
同じくらい耳にしていたのは、
「ウィントン・マルサリス、うまいけど、つまらないよね」的なことだった。

Date: 5月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その3)

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」、
このオーディオマニアの声は、輸入元にも届いていると思うし、
オーディオ雑誌の編集部にも、オーディオ評論家の耳にも届いているであろう。

B&Wの800シリーズの評価が高いのはここ一、二年のことではない。
結構前から評価は高かった。
ステレオサウンド試聴室のリファレンススピーカーとして800シリーズが使われるようになって、
どのくらい経つのだろうか。

誌面での評価が高く、表紙にも何度か登場している。
賞にも選ばれる。
リファレンススピーカーとしても使われる。

それだけ誌面に登場することの多くなっていくとともに、
「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」の数も多くなっていっている。
むしろ、最近ではあまり口にしなくなりつつあるような気すらする。

それでも、この項を書き始めるすこし前に、
「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」を聞いている。

あからさまに、このことを話題にしない人でも、
心のどこかに「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」がひっかかっているんだろう。
それが何かの拍子にフッと出てしまう。

初対面の人から「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」といわれた場合と、
よく話をする友人の口から「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」が出た場合、
こちらが口にする言葉は同じとはいえない。

友人の場合は、何もかも、とまではいかなくとも、
おおよそのことは察しての「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」である。

初対面の人の場合では、
どういう意図で「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」なのかを、
こちらとしては探ってしまうところがあるといえばある。

本当に疑問に感じての「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」なのか、
それとも何か裏情報のようなことを知っているんでしょう、それを聞かせてほしい、
という「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」のことだってあろう。

いっておくが、そんな裏情報のようなことは知らない。
なぜ、オーディオ評論家がB&Wの800シリーズを使わないのか──、
本音の理由を、私も訊いてみたいくらいである。

本音の理由を知らないからこそ、こうやって書いているわけだ。

Date: 5月 19th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その4)

(その3)に対して、facebookでコメントがあった。
三人の方からのコメントのうち二人のコメントに、作品という言葉があった。

作品か……、と思った。
コメントをそのまま引用しない。
上記リンクのfacebookは非公開にしている。
コメントを書かれる方も非公開ということで、ということだってある。

もちろん公開してもいい、という方もおられるだろうが、
あくまでもaudio sharingのfacegookグループは非公開であるから、
そこでのコメントを、ここでそのまま引用することは控えている。

コメントを読まないとわかりにくいところもあると思う。
非公開にしているけれど、参加希望があれば原則として誰であろうと承認している。

オーディオ機器を作品と呼ぶ場合があるし、そう呼ぶ人もいる。
呼ぶ人には、作り手側の人も使い手側の人もいる。

どのオーディオ機器を作品と呼び、呼ばないのか、
その線引きは人によって違うし、曖昧でもある。

オーディオ機器は工業製品である。
以前書いているが、レコード(アナログディスク、CD,ミュージックテープなど)も工業製品である。
大量にプレスもしくはダビングされて製造されるのだから。

同じ工業製品であり、オーディオ店、レコード店で販売される時点では商品である。
けれどオーディオは製品でもある。
レコード(録音物)はどうかというと、
音楽雑誌、オーディオ雑誌で批評の対象となる際に、製品批評とも商品批評ともいわない。

そういう違いが生じるのは、
オーディオ機器と言う工業製品とレコードという工業製品とでは、
価格の設定に大きな違いがあるからだ。

Date: 5月 18th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その3)

思い出してみると、ステレオサウンド時代、
試聴用にメーカー、輸入元に依頼することを、製品手配といっていた。
商品手配といったことはなかった。

これは私だけでなく、他の人も同じである。

製品か商品か。
そんなこと、どうでもいいことじゃないか、といってしまえば、
それでオシマイになってしまうような些細なことであろう。

でも、決してそういう違いではないということを知っていた人は昔からいる。
     *
 ほんとうに、いま、目の前で演奏しているとしか思えないほど、迫真的な音がスピーカーから再生されるのを聴けば、誰だってびっくりする。また、そんな音を自分のスピーカーから鳴らしてみたい、と思う。ナマそっくりの音を再生する。また再生してみたい。これはオーディオの大きな部分を占める楽しみにちがいない。
 けれど、オーディオの楽しみはそればかりではない。仮に音量(音の大きさ)の問題ひとつだけとりあげてみても、実演よりもはるかに大きな、また逆にはるかに小さな音量でも、音楽は別の魅力で聴こえてくる。スピーカーを通してしか、再生装置を通してしか、味わうことの出来ない魅力、それこそオーディオの魅力、ではないだろうか。あるひとつのオーディオ製品があってこそ、楽しめる音の世界がある。その製品がもしも無かったとしたら、そういう楽しい世界がありえなかったような、そんな製品がある。そのことは、いままであまり明確にされていなかったのではないだろうか。
 製品あってのオーディオの魅力、を語るためには、当り前のことだがその製品について、できるだけ詳しく語らなくてはならない。けれど反面、それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している。そのことは重々承知のうえで、あえて、そこを避けて通ることをしなかった。
     *
これは、瀬川先生の「続コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきからの引用だ。
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
とある。

「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年秋ごろに出ている。
1980年に読んでいる。
あとがきのところも読んでいる。

けれど、そのころ(17歳だった)は、
《それは製品という〝商品〟について語らなくてはならないという、きわどい問題を内包している》
このところに目は留っても、このことについて深く考えることはしなかった。

Date: 5月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その2)

製品批評か商品批評か。
そんなことを考えていたら、少し違う意味での製品か商品か、があることに気づく。

ステレオサウンド始め、オーディオ雑誌は、
オーディオ機器をメーカー、輸入元から借りて試聴し記事をつくる。

記事で取り上げるオーディオ機器をすべて購入して──、
ということは現実には無理である。

オーディオ雑誌には広告が載っている、
そんな雑誌に書かれていることは信用できない、
広告なしでつくるべきだ──、
そんな意見がいまも昔もある。

わからないわけではないが、広告なしでオーディオ雑誌をつくろうとした場合、
何が問題になるかというと、雑誌の価格が高くなるということよりも、
取材対象となるオーディオ機器を、どう調達してくるかが、非常に難しい問題となる。

まったく方法がないとはいわないが、そうとうに大変になる。

オーディオ機器は、メーカー、輸入元から借りている。
このことも、製品か商品かに関係しているように思う。

ステレオサウンドにいるときは、そんなこと考えもしなかったが、
メーカー、輸入元から借りているオーディオ機器は商品なのだろうか。

オーディオ雑誌が、オーディオ店からオーディオ機器を購入したとする。
それを試聴して記事にするのであれば、商品批評ということになっても、
メーカー、輸入元から借りたモノを聴いて──、というのは、
商品批評ではなくて製品批評ではないのか。