評論家は何も生み出さないのか(その3)
オーディオ評論と呼ばれる仕事もしていた知人は、なぜ小説を書き始めたのか。
芥川賞が欲しいから、書き始めたのかもしれない、
書くことが好きだったから、自然と書き始めたのかもしれない、
そのへんのはっきりとしたことは私にはわからないが、
おそらく当人もよくわかっていないのではないか。
作家(小説家、画家、彫刻家、作曲家などをふくめて)は、
なぜ何かをつくるのか──、といえば、
表現したいものがあるからだろう、という答が返ってきそうだ。
表現したいもの、ということでは、
オーディオ評論家も、少なくとも私が先生と呼ぶオーディオ評論家の人たちは、
音というかたちがなく抽象的で、すぐに消滅してしまう物理現象を表現しよう、としていた。
音は言葉や絵や写真などで直接伝えることはできない。
測定結果も、どんなに多項目にわたって測定をしたとしても、まったく伝えられない。
言葉(文章)で伝えるしかない。
この行為は手を抜こうと思えば、どれだけでも手を抜ける。
文章のテクニックがあれば、体裁は整えられる。
でも、そこからは何も伝わってこない。
よく、ある特定ディスクの、この部分がこんなふうに鳴った、
別のディスクの、この部分はこう鳴った、
そんなふうにことこまかに書く人がいる。
そんな試聴記をわかりやすい、親切だ、具体的だと思っている読み手もいる。
この手の試聴記は、実は何も伝えていない。
それだけでは、なにひとつ伝えていない。