評論家は何も生み出さないのか(その6)
もうすこし向坂正久氏の文章から引用しておこう。
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評論とはくり返し書くが、文学の領域の仕事である。そこでは筆者の主観が、あらゆる客観的な事実に勝るのである。たとえ資料が乏しくとも、あるいはそれが不確かでであっても、その筆者のいおうとすることによって、それは枝葉末節にすぎない。ほんとうの幹は筆者の肉体だからである。
ここでもうひとつの例をあげよう。名高い小林秀雄の「モオツァルト」には今日偽作と断定されている手紙の引用がある。研究論文ならば、すでにそのことで、この評論の価値は減少しよう。しかし、このエッセイの価値はそんなことで微動だにしないのだ。その手紙は小林にとって、ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである。
論文と評論の差はここにある。そしてまた音楽好きの読者が、ほんとうに求めているのは客観的なものではなくて、より主観的なものであり、その主観を表現し得る技術を磨くことこそ、評論家たちが骨身を削って体得しなければならないことなのである。音楽のジャーナリズムはそのことを忘れているだけでなく、当の評論家たちさえ、そのことに悩むことが少なすぎるのである。
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49年前の「音楽評論とは何か」は、
音楽雑誌、レコード雑誌ではなく、オーディオ雑誌のステレオサウンドに載っている。
当時の音楽雑誌、レコード雑誌に「音楽評論とは何か」が載ることはなかっただろう。
向坂正久氏の「音楽評論とは何か」は、
ほぼそのまま「オーディオ評論とは何か」でもある。
いまのオーディオ雑誌に「オーディオ評論とは何か」は載らないであろう。
上の文章を引用していて思い出していたのは、井上先生が岩崎先生について語られたことである。
試聴のあいまに、ぼそっといわれたことを思い出す。
岩崎さんがすごいのは、
たとえばタンノイは整流器の製造からスタートした会社だった、
たったこれだけの書き出しを与えられただけでも、一本のおもしろい文章を書き上げる。
途中から、タンノイは整流器……からはまったく外れてしまったことになるだろうけど、
岩崎さんにしか書けないことを書き上げる。
そんなことを話してくださった。
そのときの井上先生の表情は、どこか羨ましげでもあった。
向坂正久氏が書かれている
《ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである》、
井上先生は、これを話してくれていた、といえる。