Archive for category 所有と存在

Date: 3月 9th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その4)

音は所有できない。
同じ意味で、音楽も所有できない。

先日、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のCDを買った。
一度手離したディスクを久しぶりに聴きたいがためである。

バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のCDは四枚組である。
私が所有している(できている)のは、
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を収めた四枚組のCDである。

それはバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」という音楽を所有していることにはならない。
あくまでも四枚組のCDを所有している、ということに留まる。

CDにしてもアナログディスクにしても、他のメディアだろうが、
そのメディアに記録されている音楽を聴くためには、再生装置が必要となる。

たとえば本。
本とレコードは似ている、といえば似ている。
けれど本を読むのに、レコードを聴くのに必要な再生装置の類は要らない。

その本さえあれば、まっくら闇でもなければ読める。
本は、レコードよりも、よりダイレクトといえる。
それでも、その本におさめられている作品を所有したとはいわないし、思わない。

いま私は「3月のライオン」に夢中になっている。
単行本が手元にある。
購入した本であるが、だからといって「3月のライオン」を所有している、
所有できた、とはまったく思わない。

どんな本でもいい。
そこにおさめられている作品を所有している(できた)と思った人はいるのだろうか。

Date: 2月 2nd, 2016
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その1)

別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」には、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。

そこに、こう書かれている。
     *
 七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
 先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
 と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
 考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
     *
芥川龍之介の短篇「芋粥」は、学生のときに読んでいる。
いまでは青空文庫で、インターネットにつながるのであれば、すぐに読める。

手元に「芋粥」がおさめられている文庫本がないから、
青空文庫からダウンロードしてiPhoneで読みなおした。

長くはないから、すぐに読み終えるし、
インターネットで検索すればあらすじもすぐに読める。
それに、昔読んでいる、という人のほうが多数だろう。

主人公である五位にとっての芋粥は、現代の私たちオーディオマニアにとっては、何にあたるのだろうか。
レコードがまず浮ぶ。

LP、CD、その他の方法で入手できる録音の数々。
ずっとずっと昔にくらべれば、レコードの価格は相対的に低くなっている。
それだけでなく、ここ十年以上、各レコード会社から発売されるCDボックスの枚数と、その安さ。
同時に、購入もインターネットを通じて簡単にできるし、すぐに配達される。

このブログを読まれている方のなかには、
リスニングルームに未開封のCDボックスがあるという人もいると思う。
それもひとつやふたつではないかもしれない。

2ちゃんねるのクラシック板には、
《未聴のCDの山を見て人生の残りを考える》というスレッドがあり、かなり続いている。

Date: 8月 26th, 2015
Cate: 所有と存在

所有と存在(その3)

音は所有できない、と書いた。
この考えは変らない。
おそらく、これから先も変らない、と思う。

所有できるのは、ディスク、オーディオ機器、部屋という器だとも書いた。

音は所有できないからこそ、この「器」に何をいれるのか。

Date: 11月 17th, 2014
Cate: 所有と存在

所有と存在(その2)

できるもの、できないもの」の(その1)で、音は所有できない、と書いた。
二年前に書いた。
いまもその考えは変らない。

音は所有できない。
所有できるのは、あくまでもオーディオ機器とそれを設置し鳴らす環境でしかない。

オーディオとはオーディオ機器とその環境だと定義すれば、オーディオは所有できることになる。
オーディオとは、つまるところ「音」であるとするならば、オーディオは所有できない。

音楽に関しても同じことはいえる。
SP、LPといったアナログディスク、CD、SACDといったデジタルディスク、
これらを所有することはできる。
お金が許すかぎり、置けるスペースがあるかぎり所有できる。

これらのパッケージメディアを音楽と定義するなら、音楽は所有できるといえる。
アナログディスクは溝の刻まれた円盤でしかない、
デジタルディスクは肉眼では見えないほど小さなピットが無数にある円盤でしかない。

これらを再生するシステムを所有していても、音楽を所有できる、といえるだろうか。

所有できるのは、器である。
LPという器、CDという器、
アンプやプレーヤー、スピーカーといったオーディオ機器という器、
リスニングルームという器。

器だけである。

Date: 8月 22nd, 2014
Cate: 所有と存在

所有と存在(その1)

オーディオ愛を語る文章がある。
オーディオ愛でなくとも、レコード愛でもいい。

書いている本人はオーディオ愛、レコード愛を書いているわけだが、
読み手がそこに書き手のオーディオ愛、レコード愛を感じとれるかとなると、それは文章の巧拙とは関係がない。

たとえばオーディオに、レコードに、さらには音楽に、どれでもいいが、
対象物に恋する、と書くし、対象物を愛する、と書く。

間違っても対象物を恋する、対象物に愛する、とは書かない。

恋と愛。
これは言い換えれば、所有と存在なのではないのか。

オーディオ愛を感じられないオーディオ愛について書いてある文章は、
つまるところ、愛ではなく恋(所有)なのだろう。