Archive for category 所有と存在

Date: 1月 8th, 2020
Cate: 所有と存在

所有と存在(その17)

黒田先生の「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話がでてくる。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章、
ほぼ50年前に、フィリップス・インターナショナルの副社長は、こういっている。

サブスクリプション(subscription)を、よく目にする時代になった。
音楽関係においても、頻繁に目にするようになってきた。

○○解禁、というふうに、サブスクリプションについて語られる。
○○には、日本人のミュージシャンの名前、グループ名が入る。

フィリップス・インターナショナルの副社長の発言からほぼ50年経って、
「ディスクという物を売る会社」ではなく「音楽を売る会社」へとなりつつある、ともいえる。

当時のフィリップス・インターナショナルの副社長は、いまも存命なのだろうか。
ようやく、そういう時代が訪れたな、と思っているのだろうか。

黒田先生の「なるほどなあ」は、いまならば、どういうおもいがこめられただろうか。

Date: 9月 18th, 2019
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「芋粥」再読(その3)

9月17日の夜、
Amazon Music HDが開始になった。

数百万曲が、いわゆるハイレゾで聴けるわけだ。
6,500万曲以上を配信していて、そのうちの数百万曲という表示は、
なんとも曖昧すぎるが、まぁ、かなりの曲数がハイレゾで配信されている、ということのはず。

昨晩、だからfacebookのaudio sharingのグループに、
サービスが開始になったことを投稿したところ、コメントがあった。

その方は、TIDALを契約されている。
契約当初は、片っ端から、さまざまな音楽を聴き漁った、とある。
ところが、何時でも、ほとんどの曲が聴けるようになったという事実の前に、
BGMとしてのストリーミングになっていた──、ということだった。

TIDALが、どれだけの曲数を配信しているのか正確には知らない。
Amazonよりも多いのか少ないのか。
どちらでもいいように思う。

Amazonの数百万曲以上にしても、十分過ぎるというか、
おそらく、私が聴きたい、と思うのは、一割もないはずだし、
そうでなくとも、貪欲に、ありとあらゆる音楽を聴いていこうと決心したとして、
すべてを聴けるかというと、それだけの時間は、50をすぎてしまうと、ないのではないか。

《余生を娯しむには十二分のものがある》のをはるかに超えている。
「芋粥」的といえよう。

コメントを読みながら、そう思っていた。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(余談)

昨日「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」を観てきた。

私の世代は、ゴジラやガメラの映画を観て育ったし、
テレビでは、仮面ライダー、ウルトラマンなどを見て育った、といえる。

いわゆる特撮ものをよくみていたわけだ。

別項「実写映画を望む気持と再生音(その1)」で書いたように、
「ターミネーター2」を観て、
マンガ「寄生獣」が実写化できる、と思った。

「ジュラシックパーク」の一作目を観たときは、
理想のゴジラ映画が誕生する、そう思った。

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、理想のゴジラ映画に近い。
なのに観ている途中で、「芋粥」の心境だな……、と思っていた。

何か大きな不満があったわけではない。
日本のゴジラ映画のスタッフたちがやりたかったことをすべてやっているのではないか、
そう思わせるほどの内容であり、映像のすごさである。

なのに、というより、だからこそなのだろうが、
そして私が日本人ということも関係してくるのだろうが、
「芋粥」の心境なのか……、そんなことをぼんやり思いながら観ていた。

このことはいずれ別項できちんと書くつもり。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その2)

以前のCDボックスは10枚組くらいだったのが、
いつのころからか、全集の名の元に50枚くらいは当り前になってきて、
80枚、それ以上の枚数のボックスも珍しくなくなってきている。

価格もそう高くはない。
一枚当りの価格は、そうとうに安くなっている。

CDボックスの多くはいわゆる再発にあたるわけだから、
安くなるのはわかるし、買う側にしてもありがたいことである。

あまりにも安いと、なんだか申しわけなく感じたりもするが、
それでも安価なのを否定はしない。

だからCDボックスが溜ってくる。
好きな演奏家のCDボックスであっても、一気にすべてのCDを聴いてしまえる人は、
どのくらいいるのだろうか。

50枚組のCDボックスを購入したとして、一日一枚ずつ聴いても二ヵ月近くかかる。
その二ヵ月間に、他のCDを一枚も購入しないということは、まずない。
しかも、その間に、別のCDボックスを購入してたりもする。

クラシックの場合、そのくらいCDボックスが次々に登場してくる。
だから未聴のCDボックスが溜ってくる。

CDボックスを、そんなふうに次々と買ってしまうのは、
ある年代よりも上であろう。

40代ならば、平均寿命まで生きられるとしたら、まだまだ残り時間はある。
50代ならば、そう長くはない、といえよう。

安岡章太郎氏の「ビデオの時代」に書かれているように《余生を娯しむには十二分のものがある》。
そんなことはみなわかっている。
なのに、CDボックスが出ると、つい購入ボタンをクリックしてしまう──、
クラシック好きの多くはそうだろう、と思っている。

CDボックスはインターネットで購入、
届くのを待つだけの人が多いはずだ。

レコード店で購入し、重い思いをして持って帰れば、
購入も少し控えるのかもしれないが、いまの時代はそうではない。

Date: 4月 12th, 2018
Cate: 所有と存在

所有と存在(その16)

「この瞬間は永遠だ」
小説やドラマ、映画などで、目にしたりきいたりしている、と思う。

シチュエーションによっては、とても陳腐にきこえたりもする「この瞬間は永遠だ」。
けれど音と真剣にむき合ってきた(対決してきた)オーディオマニアであれば、
「この瞬間は永遠だ」とおもえる音をなんどか聴いている、と私は信じている。

その瞬間はそうおもえなかった音であっても、
ずっと心に焼きついている、深く刻み込まれていることがある。
その存在に、いつの日かふと気づく(気づかされる)ことがある。

Date: 11月 11th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その15)

盃と酒。
酒に月が映っている。
その「月」を武士が呑む。

そういうシーンを、時代劇で何度か見ている。

盃は、(さかずき)であって(さかづき)ではない。
それでも、そんな時代劇のシーンを見ると、(さかづき)なのかもしれないとふと思う。

月はひとつしかない。
盃の中の酒にある月は、ほんとうの月ではない。
あくまでも映った月であっても、それを呑む。

盃だけでは、そこに月は映らない。
酒という液体があってこそ、月が映り、呑める。

盃は器だ。
オーディオも、その意味で器である。
月は、原音と考えることもできる。

酒は、なんなのか。

Date: 4月 24th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その14)

虚構の「構」は木偏に冓と書く。
木をうまく組んで前後平均するよう組み立てること、と辞書にはある。

その構から始まる言葉には、
構想、構造、構築、構成などがある──、と考えていると、
別項「atmosphere design」でふれた「空なる実装空間」、
この川崎先生による言葉が浮んできて、結びつく。

Date: 4月 21st, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その13)

虚構の「虚」とは、くぼんで、中があいているさま、と辞書にはある。
虚構とは、辞書には、
事実でないことを事実らしく作り上げること、また,作り上げられたもの、作りごと、とある。

虚構の世界には、何も満ちていいないのだろうか。
そうだとしたら、虚構世界であるオーディオに、感動することがあるのか。

──そんなことを考えていたら、上村一夫の「同棲時代」が浮んだ。
「同棲時代」の、もっとも知られているであろうシーンである。

男と女が向いあっている。
ふたりの横顔のあいだに、独白がある。
どちらかのセリフというわけではない。
     *
愛はいつも

いくつかの過ちに
満たされている

もしも愛が
美しいものなら

それは男と女が犯す
この過ちの美しさに
ほかならぬであろう
     *
虚構世界も、もしかすると過ちに満たされているのか──、
そう思いたくなる。

過ちの美しさがあるからこそ、なのかもしれない。

Date: 4月 18th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その12)

私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
他の人が、そんなことはない、現実に所有できる、と思われていようと、
それはそれでいい、と思っている。

人は人である。

といいながらも、やはり気になる人がいる。
瀬川先生は、どうだったのだろうか、
五味先生は……、と考えてしまう。

ステレオサウンド 24号「良い音とは、良いスピーカーとは?」で、こんなことを書かれている。
     *
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
     *
瀬川先生は、著書の「虚構世界の狩人」というタイトルを気に入られていた、ときいている。
上の文章にも、レコードには、再生音という虚構のみが実在する、と書かれている。

はっきりと、どこかに音は所有できない、音楽は所有できない、と書かれているわけではない。
少なくとも私がこれまで読んできた中には、なかった。

けれど、少なくとも音は所有できない、と思われていたのではないだろうか。

Date: 4月 7th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その11)

どちらが正しいという類のことではない──、
そう書いておきながら、私自身が毎日こうやって書いているのは、
正しい答を求めての行為なのか、と自問するわけだが、
少なくとも、この項で問うていることについては、
正しい答ではなく、完璧な答を求めて──といえる。

正しい答ではなく完璧な答。
こう書いてしまうと、よけいに何を言っているのか、と思われそうだが、
正しい答とはいわば客観的な答なのではないだろうか。

そんな答を求めているわけではない。
あくまでも主観的な答であり、
その答は己が心底納得できるのであれば、それは私にとって完璧な答であり、
その完璧な答と、いま思えたことが、十年後も二十年後も納得できるのであれば、
私にとっての完璧な答であり、それでいいと思っているのだから、
世間一般の「完璧な」からイメージされるのと違い、
あくまでも主観的な、徹底した主観的な答としての完璧な答。

それがあればいい。
自恃とはそういうことだろう。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その10)

「ただの音楽愛好家にもどられた」なのか、
「真の音楽愛好家になられた」なのか、
どちらが正しいという類のことではない。

その人の立脚点が違うだけのことである。
その立脚点も、どちらが正しいとか、そういうことではない。

ただただ立脚点が違う、というだけのことだ。
それゆえの解釈の違いである。

このことはこの項のタイトル「所有と存在」にかかってくる。
ここで音は所有できない、音楽も所有できない、と書いてきている。

「音は所有できるのか」というタイトルは、まったく考えなかった。
あくまでも「所有と存在」である。

音は所有できない。
でも存在するものがある。
そう考える私は、オーディオマニアである、ということ、
そこから解釈している、ということだ。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その9)

「これで充分じゃないか」
そう心でつぶやく。

オーディオと格闘してきたながい時間をもつ者も、
まったくオーディオに理解を持たない者も、
「これでじゅうぶんじゃないか」という。

「じゅうぶん」は充分とも書くし十分とも書く。
後者のいう「これでじゅうぶんじゃないか」がどちらなのかはわからない。

音楽が好きで、好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい──、
と思い行動するのがオーディオマニアだ、とながいこと思っていた。

でも十年ほど前から、どうも違うようだと感じつつある。
好きな音楽をいい音で聴くための、いわば行き過ぎた行為をする人を、
世間ではオーディオマニアと呼ぶ。

けれどそれだけではオーディオマニアか、どうかは判断できない。
そのことに気づいた。

システムにかけたお金の多寡でもないし、
専用のリスニングルームを建てたかどうかでもない。
そんな視覚的に捉えれることでは何も判断できない。

では出している音なのか。
いい音を出しているからといって、オーディオマニアだろうか。
音楽が好きでいい音で聴きたいと思っている人たちと、
オーディオマニアはどうも違う。

オーディオマニアでない前者の人たちの呼び方を考える時期なのかもしれない。

五味先生が病室で聴かれたシステム。
それで満足されていた、ということを読み、どうおもうかによって、
オーディオに関心と理解があっても、オーディオマニアがどうかがわかる、
いい音を出していても、オーディオマニアではないことがわかる。

むしろその方が幸せなことだと思う。
オーディオマニアではないことが幸せだろう。

この人たちは、五味先生はさいごに「ただの音楽愛好家に戻られた」というであろう。
オーディオマニアでないのだから、出てくることばである。

どうしようもなくオーディオマニアである私は、
「ただの音楽愛好家に戻られた」がひっかかる。

「ただの」がまずひっかかる。
「戻られた」にひっかかる。

オーディオマニアの私は、絶対にこうはいわない。
あえていうのであれば、「真の音楽愛好家になられた」である。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その8)

五味先生は病室で、テクニクスのSL10とSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンで、音楽を聴かれていたことは、
当時のステレオサウンドを読んできた者は知っている。

オーディオのことに心を患わすことなく、音楽を聴かれていた──、のであろう。
この時、《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめ》ていたのか。

解釈はひとつではない。
そうともいえるし、そうでもないともいえる。

いい音をひたすら求めて、音とオーディオと格闘されたながい日々が背景にあったからこそ、
テクニクスの小型のアナログプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンというシステムで、
音楽のみを聴かれていたのではないだろうか。

同じ、もしくは同じような体験は、ながくオーディオをやってきている人ならばあるはずだ。
マルチウェイの大型システム、
アンプはセパレートで、さらにはマルチアンプという人もいる。
おおがかりなシステムを丹念に調整してきて、満足のいく音を出せるようになる。

そんなある日、もっと簡潔なシステムで、
たとえばフルレンジと真空管アンプの組合せから鳴ってくる音、
いまではiPhoneに、ちょっと良質のヘッドフォン(イヤフォン)を組み合わせた音、
その音に、「これで充分じゃないか」と思ってしまう一瞬はあろう。

私は何度もある。
オーディオの仲間も、そんなことがあった(ある)といっていた。

でも、それは彼も私も、それまでオーディオと取り組んできた経験が背景にあるからこそ、
そういうシステムで音楽を聴いても「これで充分じゃないか」と思えるわけである。

それまでの経験がなんらかの作用をしての「これで充分じゃないか」のはずだ。
そう考えると、オーディオから離れて……、とはいえない。

私はそう考える。
いまはそう考えている。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その7)

ステレオサウンド 39号。
瀬川先生の「天の聲」の書評が読める。
     *
「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。
     *
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
これはあくまでも、「天の聲」を読み進むにつれて──、のことである。

それでも……、と考える。

(その5)で引用したこととの関係だ。
     *
さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。
     *
そう、ここのところだ。
この時、《そっくり頭の中で鳴ってしまう》音楽は、
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽》ではないはずだ、ということをおもう。

レコード(録音物)で音楽を聴く人すべてがそうとは思っていない。
そのレコードを鳴らしたオーディオとは無関係の音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいるだろうし、
そのレコードを鳴らしたオーディオと深く関係した音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいよう。

後者がオーディオマニアなのだろう。

Date: 3月 16th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その6)

《──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう》
と書かれている。

LPを大切に扱っていても、何かの拍子に疵をつけてしまうことがある。
青くなる瞬間だ。

買いなおそうと思いつつも、学生のころは買いたいレコードとふところ具合を勘案して、
そのまま聴き続けることもあった。
針飛びするほどならば買いなおすけれど、それほどでもない。

LPの疵。
カチッ、カチッという疵音。
五味先生が書かれている。
     *
 フランクのソナタは、言う迄もなく名曲である。LP初期のころ、フランチェスカッティとカサドジュのこのイ長調のソナタを聴きに、神保町の名曲喫茶へよく私は行った。昭和二十七年の秋だった。当時はLPといえば米盤しかなく、たしか神田のレコード店で一枚三千二百円だったとおもう。月々、八千円に満たぬ収入で私達夫婦は四畳半の間借り生活をしていた。収入は矢来町にある出版社の社外校正で得ていたが、文庫本を例にとれば、一頁を校正して五円八十銭もらえる。岩波文庫の〝星〟ひとつで大体百ページ、源泉徴収を差引けば約五百円である。毎日、平均〝星〟ひとつの文庫本を校正するのは、今と違い旧カナ使いが殆どだから大変な仕事であった。二日で百ページできればいい方だ。そういう収入で、とても三千円ものレコードは買えなかった。当時コーヒー代が一杯五十円である。校正で稼いだお金を持って、私はフランクのソナタを聴きに行った。むろん〝名曲喫茶〟だから他にもいいレコードを聴くことは出来る。併し、そこの喫茶店のお嬢さんがカウンターにいて、こちらの顔を見るとフランクのソナタを掛けてくれたから、幾度か、リクエストしたのだろう。だろうとはあいまいな言い方だが私には記憶にない。併し行けば、とにかくそのソナタを聴くことができたのである。
 翌年の一月末に、私は芥川賞を受けた。オメガの懐中時計に、副賞として五万円もらった。この五万円ではじめて冬用のオーバーを私は買った。妻にはこうもり傘を買ってやった。そうして新宿の中古レコード屋で、フランクのソナタを千七百円で見つけて買うことが出来た。わりあい良いカートリッジで掛けられたレコードだったように思う。ただ、一箇所、プレヤーを斜めに走らせた針の跡があった。疵である。第三楽章に入って間なしで、ここに来るとカチッ、カチッと疵で針が鳴る。その音は、私にはこのレコードを以前掛けていた男の、心の傷あとのようにきこえた。多分、私同様に貧しい男が、何かの事情で、このレコードを手離さねばならなかったのであろう。愛惜しながら売ったのだろう。私の買い値が千七百円なら、おそらく千円前後で手離したに違いない。千円の金に困った男の人生が、そのキズ音から、私には聴こえてくる。その後、無疵のレコードをいろいろ聴いても、第三楽章ベン・モデラートでピアノが重々しい和音を奏した後、ヴァイオリンがあの典雅なレチタティーヴォを弾きはじめると、きまって、架空にカチッ、カチッと疵音が私の耳にきこえてくる。未知ながら一人の男の人生が浮ぶ。
(フランク『ヴァイオリン・ソナタ』より)
     *
《勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ》とも書かれている。
そのとおりである。
けれども……、である。
それでも……、だ。