Date: 9月 18th, 2019
Cate: 所有と存在, 欲する
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「芋粥」再読(その3)

9月17日の夜、
Amazon Music HDが開始になった。

数百万曲が、いわゆるハイレゾで聴けるわけだ。
6,500万曲以上を配信していて、そのうちの数百万曲という表示は、
なんとも曖昧すぎるが、まぁ、かなりの曲数がハイレゾで配信されている、ということのはず。

昨晩、だからfacebookのaudio sharingのグループに、
サービスが開始になったことを投稿したところ、コメントがあった。

その方は、TIDALを契約されている。
契約当初は、片っ端から、さまざまな音楽を聴き漁った、とある。
ところが、何時でも、ほとんどの曲が聴けるようになったという事実の前に、
BGMとしてのストリーミングになっていた──、ということだった。

TIDALが、どれだけの曲数を配信しているのか正確には知らない。
Amazonよりも多いのか少ないのか。
どちらでもいいように思う。

Amazonの数百万曲以上にしても、十分過ぎるというか、
おそらく、私が聴きたい、と思うのは、一割もないはずだし、
そうでなくとも、貪欲に、ありとあらゆる音楽を聴いていこうと決心したとして、
すべてを聴けるかというと、それだけの時間は、50をすぎてしまうと、ないのではないか。

《余生を娯しむには十二分のものがある》のをはるかに超えている。
「芋粥」的といえよう。

コメントを読みながら、そう思っていた。

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