Archive for category ジャーナリズム

Date: 8月 27th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その8)

これまで書いてきたことを読まれた方の中には、
私が、そのベテラン筆者に対して怒っている、と誤解、勘違いされている方もいるような気がする。

くどくなるのはわかっていても書いておくと、
そのベテラン筆者を批判したり、怒っているというわけではない。
それはもちろん、もう少し注意をはらってほしかった、という気持はある。
けれど、私の怒り(というよりもやや失望に近い)は、編集部に対してのものであることを、
もう一度はっきりさせておく。

今回のことは防げたことである。
それは難しいことでもなんでもない。
編集部が編集部として機能していれば、防げて当然のことが、
そのまま活字になってしまったことに対して、私は書いている。

誰にでも勘違いはある。
私も毎日ブログを書いていると、いくつかは勘違いがあり、
コメント欄で指摘をもらって訂正したことがある。

なぜ勘違いが起るのか、その発生のメカニズムが完全にわかればいいけれど、
勘違いが発生する理由は、その時によってさまざまである。

筆者の勘違いが編集部が編集部として機能していないから、活字になってしまう。
誰かひとりでよかった、そのひとりが気づいて筆者にすぐさま連絡していれば、
筆者も自分の勘違いに気づき、原稿を訂正する。

こういう地味で細かなことを筆者との関係において重ねていくことが大事だということに、
その関係が生むものに気づいていれば、
原稿を受けとったとき、最初に原稿を読むときの姿勢に変化があらわれる。

Date: 8月 19th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その7)

これもまたずっと以前の話になるが、
黒田先生は、試聴テストに参加する自分のことを、モルモットと表現されていた。

黒田先生の職業は音楽評論家である。
レコードで音楽を聴くことも大好きな黒田先生は、オーディオ、音ということにも強い興味をもち、
ステレオサウンドの試聴テストにも参加されていた。

オーディオに強い興味・関心はあっても、
当時のステレオサウンドで活躍されていたオーディオ評論家を基準とすれば、
オーディオに関しての知識はないに等しいわけだからこそ、
オーディオの技術的なこと、ブランドの歴史や知名度のことなどはいっさい考慮せずに、
ただひたすらスピーカーから出てくる音に素直に反応する、という意味でのモルモットである。

音楽への理解が深く、耳のいい人、
つまり黒田先生、
それから黒田先生の教え子であり、一時期ステレオサウンドの試聴テストに参加されていた草野次郎氏、
こういう人がいてくれる(いてくれた)ことは、編集者にとっても企画をたてていくうえで、
刺戟でもありありがたい存在でもある。

だが黒田先生、草野氏が、だからといって、
ステレオサウンド・グランプリやベストバイの選考に加わるということは絶対にない。
選考委員になるということは、はっきりとオーディオ評論家であるべきなのだから。

こういう賞は、それだからこそ本来の意味があるのだから……。

Date: 8月 19th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その6)

ずっと以前の記事である。
だから、いまのステレオサウンドの編集者が、あの号が出た時に読んでいないことだって考えられる。
けれど、ステレオサウンドの編集者は会社にいけば、過去のステレオサウンドはすべて揃っているわけだから、
いままで読むことができなかった過去の号もじっくりと読むことができる。

その号を、いまの編集部の人たちが、誰かひとりでもいいから、きちんと読んで理解していれば、
今回のことは編集部で防ぐことができた。
これは、なんら難しいことでも、特別なことでもない。

編集者ならば、当り前のことである。
その当り前のことをやらなかったのか、やれなかったのか、は部外者の私にはわからないが、
とにかく活字として世の中に出てしまった。

もしかすると、編集者は小さな記事のちいさなミス程度に思っているのかもしれない。
これも部外者の私にはわからないことだが、
すくなくとも、今回のことは、これまでステレオサウンドを積み上げてきたものをこわすことにつながっていく。
そして、ベテラン筆者のキャリアをも傷つけていくことになる。

さらには、その筆者はベストバイ、ステレオサウンド・グランプリの選考委員でもある。
結局、この人はオーディオの技術のことはなにもわかっていなんじゃないか、
そう思われてしまったら、そういう人が選考委員をしている賞とは、いったい何なのか……、
ということにもなっていくと思う。

オーディオ評論家は、耳がよければそれでいいじゃないか、
技術のことは素人でもいいのではないか、
そう考える人もいるかもしれないが、
そういう人は、いわばオーディオのテスターであり、いわばモルモットである。
(これは決して否定的な意味でのモルモットということではない)

Date: 8月 19th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その5)

1976年に、スレッショルドのデビュー作、そしてネルソン・パスの最初のアンプ、800Aが日本に入ってきた。
ファンによる空冷方式をとっていたけれど、A級動作で200W+200Wの出力をもつというふれこみだった。

そのころパイオニアのExclusive M4がやはりA級動作で、
しかもM4もファンによる空冷方式をとりながらも、出力は50W+50Wだから、
800Aの200W+200Wは驚異的な値だった。

詳しい技術内容が伝わってこなかったから、
最初はA級アンプということだったが、のちに可変バイアス方式のアンプであることが判明、
そしてこの回路技術は日本のアンプメーカーに大きな刺戟となっていった。

いくつものA級動作を謳う回路方式が誕生した。
高能率A級というえる回路もあったし、ノンスイッチングという意味でのA級という呼称をとっているものもあった。

この時期、ステレオサウンドでも、各社のバイアス回路を中心に、これらの回路技術の解説の記事をつくっている。
このときの筆者が、実は今回A級動作のアンプの発熱量に関しては、まったくのでたらめを書いた人だった。

ずっと以前のことだから、いまのステレオサウンドの読者の中には読んでいない人もいても不思議ではない。
だが、この記事を読んでいて、記憶のいい人ならば、
いったい、あの記事はなんだったのか……、という思っていることだろう。

結局、あの記事は本人が理解して書いていたのか、
そうだとしたら、なぜ今回のような間違いを犯してしまうのか、と思う。

あの記事は、当時、私はいい記事だと思っていた。
各メーカーの技術者に、他社の回路をどう見ているのか、まで取材してあり、
いま読み返しても、良心的な記事と呼べる。

だからいっそう、今回のことが不思議でならない。

Date: 8月 18th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その4)

2011年からステレオサウンドの編集長は新しい人になっている。
新編集長になり、すでに10冊のステレオサウンドが出ている。
二週間たらずで、新編集長による11冊目のステレオサウンドが出る。

新編集長が誌面を変えよう、としているのは誰の目にも明らかなことだ。

「最近のステレオサウンド、変ってきてますよね、良くなってますよね?」という声をきいた。
変ってはきている。
だが、良くなっているかどうかは、人によって判断が分れる。
私は、ここでも厳しいことを書いてしまうが、
変ってはいるけれど良くなっているとはいえない、と受けとめている。

それは、前編集長の時から気になっていたことだが、
いいかげんなところ、だらしないところが、以前本づくりに携わってきた者としては気になる点があった。
それは誤植といったことではなく、今回のことのような問題が、
それは多くの人は気がつかずに通りすぎてしまうようなことなのだが、
細部を疎かにしていることが気になっていた。

編集長が変ってのステレオサウンドに、私がまず期待していたのは、その点だった。
それは地味なことである。
気がつかない人の多いともいえることを、きちんとプロの編集者として、
そのプロの編集者の集合体としての編集部として仕上げていってほしい──、
そう思い、期待していたわけである。

無理に誌面を変えようとしなくてもいい、
そういう点を見逃さずにきちんとしていくようになれば、誌面は変るのではなく、自然と良くなっていく。

本を良くしていく、とは、そういうことである。
だが実際のステレオサウンドは違った。

Date: 8月 18th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その3)

今回のことは、間違いを書いてしまった筆者に全責任があるんじゃないか、
そのことで編集部を責めるのはおかしいんじゃないか、と思われるかもしれない。

編集者、その集合体である編集部はなぜ必要なのか。
いまの時代、電子書籍による出版が、やろうと思えば個人でもできるようになってきている。
そういう時代になってきたからこそ、
編集者、その集合体である編集部の役割がクローズアップされてくる、ともいえる。

たとえば今回のことがポッと出の新人筆者によることだとしたら、
次号から、その筆者を切ってしまえば、それで済むといえば済む。
だが今回のことは、そんな新人筆者によることではなく、少なくともベテラン筆者と呼べる人によることである。

だから、今回のことが起った、ともいえるだろう。
この人が書いていることだから、ずっとステレオサウンドに書いている人だから、
そんなことを理由にして、編集者は「読む」ことを放棄してしまったのではないのか。

とにかく今回のことが活字になり世の中に出廻った。
私が問題としている箇所を読んだ人、
それらの人の中でメーカーの技術者、読者の中でも基礎知識をきちんと持っている人ならば、
すぐに、そこにはでたらめが書かれていることに気づいている。

気づいた人は、どう思い、どう考えるだろうか。
そのことを編集者、その集合体である編集部は、どう受けとめるのか。

Date: 8月 18th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その2)

オーディオに関心のある人で、ステレオサウンドを読んでいない、買っていない人はいても、
ステレオサウンドの存在を知らない人はまずいない。

そういう存在のステレオサウンドで、
A級動作のパワーアンプの発熱量は、
数Wの出力時には皆無に等しい、というまったくのでたらめを載せてしまうということは、
それをそのまま信じてしまう人が出てくる、ということでもあり、
このでたらめが、ステレオサウンドに書いてあった、ということで、
事実として広まっていくことだってないわけではない。

最新技術や特殊な技術について、ときに誤りを書いてしまうことはないわけではない。
でも、A級動作のパワーアンプの発熱に関してはずっと古くからの、
いわば一般常識といえる類のことである。

なぜ、こういう初歩的なこと誤りが誌面に出てしまうのか。
理由は、ひとつではないはずだ。

それでもあえてひとつだけ、大きな理由として考えられることを挙げれば、
それは編集部が筆者の原稿を「読んでいない」からだろう。

校正作業はやっている。
でもそのとき、本来の意味での「読む」ことをやっているとは思えない。
ただ文字を見ているにすぎないのだと感じてしまう。

正しく読んでいれば、今回私が取り上げていることは、
すくなくともオーディオ雑誌の編集者ならすぐに気がつくことである。
それが、できていない。できなくなってしまったのか。

Date: 8月 17th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その1)

こんなことを書くと、
また古巣のステレオサウンド批判(叩き)をやっていると受けとめられる人がいるのはわかっていても、
見過せないことは、やはりあって、それについては何といわれようが書いていく。

誰が、とか、いつの号、とか、どの機種についてはあえて書かない。
個人攻撃をしたいわけではなく、こういう一見些細なことと思われがちなところまで、
編集部が手を抜くことなく、しっかりと本づくりをやってほしい、と思うから、である。

一年ほど前のステレオサウンドに、あるブランドの新製品のパワーアンプの記事が載っている。
出力の具体的な数値を書くと特定されやすくなるから書かないが、
現在のパワーアンプとしては一般的な値の、そのパワーアンプはA級ということらしい。

それにしてもヒートシンクがさほど大きくない。
このパワーアンプの紹介記事を書いた筆者は、そのことに疑問をもたれたのか、
発熱に関して、手で触れないような熱さにはならない、ということを書かれている。

その人は、なぜか、ということについては書かれていない。
これについては私は何かをいいたいわけではない。
おそらく、この筆者は、発熱の少なさに疑問をもたれたのだと思う。
でも、それがなぜなのかまではわからなかった。
だから、あえて発熱について、さらっと書かれている──、
そう私は理解した。

この記事が載った数号あとに出たステレオサウンドに、
別の筆者が、このパワーアンプの発熱について書かれている。

そこには、こんなことを書かれていた。

このパワーアンプの発熱がA級の、ある程度の出力をもったアンプとして多くないのは、
最大出力は大きくても、出力音圧レベルの高い、同じブランドのスピーカーシステムと組み合わせると、
その場合の出力は数W程度だから、発熱は皆無に等しい、とあった。

出力音圧レベルの高いスピーカーシステムと組み合わせれば、確かに出力は大きくとも数Wにおさまる。
だが、それで発熱が皆無に等しい、ということは技術的に間違った説明である。

B級アンプならば、出力の値と発熱量はある程度比例関係にある。
だが、このパワーアンプはA級動作を謳っている。

A級動作のパワーアンプの発熱量どういうものであるのかは、
オーディオの技術的な知識としては、ごく基本的なことである。
それを、正反対のことを、まるで正しいこととして書いている。

でも、この筆者を攻めたいわけではない。
誰だって不得手なことはある。勘違いもある。
オーディオ評論で喰っているのだから、プロとしての文章を書いてほしい、とは思うけれど、
もう、現場をみて、そこまでいまのオーディオ評論家といわれる人たちに要求するのは酷なのかもしれない。

でも編集者はそうであってはいけない。
編集者が、たったひとりならば……、そこまでいまの編集者に求めるのは酷だと思う。
けれど編集者はひとりではない。何人もの編集者がいて、誰もこのあきらかな間違いに気がついていない。

編集部というのは、本をつくっていく組織のはずだ。
そのことが稀薄になっているのではないのか。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その27)

頭をかすめることが多くなってきたことは、
オーディオについて、あれこれ思索することの楽しみを放棄している人が増えている気がする、ということだ。

これは世代には関係あるようで、実はないようにも思えてきた。
私と同じ時代、それよりも前の時代のステレオサウンドを読んできた人でも、
いつのまにか思索する楽しみから離れてきているのではないのか。

先日もそう感じたことがあった。
直接的なことではなかった。
あることについて訊ねられて、それについて答えた。
そして、なぜそうなのかについて説明しようとしたら、
それについてはまったく耳を貸そうとされない。

ただ答だけが、その人は欲しかったわけである。

なぜそうなるのかについては、多少とはいえ技術的なことを話さざるを得ない。
訊ねてきた人にとっては、そんな技術的な細かなことはどうでもよくて、
ただ答がわかれば、それで用事は済むわけだ。

それが効率的といえば効率的という考え方はできる。
とはいえ、答だけを知っていても……、と私は思う。

何がいいのか、何が正しいのか、
その答だけを知りたいから、お金を出して本を買う。
そういわれてしまうと、私が読みたいと思っているオーディオの本、
私がつくりたいと思っているオーディオの本は、面白くない、ということになっても不思議ではない。

答がすべて、答がすべてに優先する。
正しい、確実な答をはっきりと提示してほしい、という読者が多数になれば、
編集者はそういう本をつくっていくしかないのだろうか。

むしろ逆かもしれない。
そういう読者を増やしていく方が、本づくりは楽になる。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その26)

ステレオサウンド 43号の「私はベストバイをこう考える」から読みとれる菅野先生と井上先生の、
ベストバイ(Best Buy)、この誰にでも意味が理解できると思えることについて考え方の違い、
そして重なるところ、このへんについて書いていくと本題から外れていくので、このへんにしておくが、
とにかく、この時代のステレオサウンドは、読者に考えさせる編集だった。

それが意図していたものなのか、それともたまたまだったのかははっきりとはしない。
けれど読者にとっては、内部のそんな事情はどうでもいい、といえる。
面白く、そしてオーディオについて、オーディオに関係するさまざまなことについて、
考えさせてくれる、考えるきっかけ、機会を与えてくれる本であれば、なにも文句はいわない。

私は、そういう時代のステレオサウンドを最初に読んでいままで来た。
だから、いまもステレオサウンドに、そういうことを求めてしまう……。

けれどそういう時代のステレオサウンドを読んでこなかった読者にとっては、
ステレオサウンドに求めるものが、私とは大きく違ってきても当然である。

私は、いまのステレオサウンドを、そういう意味での面白い、とは思わないけれど、
私とは大きく違うものをステレオサウンドに求めている人にとっては、
いまのステレオサウンドは面白い、ということになり、
私がここで書いていることは、旧い人間がどうでもいいことを言っている、ということになろう。

編集者も旧い人間ばかりがいては……、ということになる。
組織を若返らせるためにも、血を入れ換えるように人を採用する。
その採用された人が、そういう時代のステレオサウンドではなく、
そういう時代の良さを失ってしまった時代のステレオサウンドを読んできた人であれば、
そういう時代のステレオサウンドの良さを読者に届けるのは、もう無理なことかもしれない。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(はっきり書いておこう)

岩崎千明という「点」があった。
瀬川冬樹という「点」があった。

人を点として捉えれば、点の大きさ、重さは違ってくる。

岩崎千明という「点」が書き残してきたものも、やはり「点」である。
瀬川冬樹という「点」が書き残してきたものも、同じく「点」である。

他の人たちが書いてきたものも点であり、これまでにオーディオの世界には無数といえる点がある。

点はどれだけ無数にあろうともそのままでは点でしかない。
点と点がつながって線になる。

このときの点と点は、なにも自分が書いてきた、残してきた点でなくともよい。
誰かが残してきた点と自分の点とをつなげてもいい。

点を線にしていくことは、書き手だけに求められるのではない。
編集者にも強く求められることであり、むしろ編集者のほうに強く求められることでもある。

点を線にしていく作業、
その先には線を面へとしていく作業がある。
さらにその先には、面と面とを組み合わせていく。

面と面とをどう組み合わせていくのか。
ただ平面に並べていくだけなのか、それとも立体へと構築していくのか。

なにか、ある事柄(オーディオ、音楽)について継続して書いていくとは、
こういうことだと私はおもっている。
編集という仕事はこういうことだと私はおもっている。

Date: 4月 11th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その8)

どんな本にも誤植が完全になくなるということは、ないのかもしれない。
大出版社であろうと小出版社であろうと、誤植のある本を一度も出したことはない、ということはまずない。

どんなに細心の注意を払って、何人もの人が何度も校正したとしても、
不思議とすり抜けてしまう誤植がある。

しかも、そういう誤植は、これまた不思議と本に仕上ってしまうと、
いとも簡単に見つかってしまうことも多い。

初版で見つけた誤植は、次で直せればいいけれど、
雑誌はそういうわけにはいかない。第二版、第三版などは雑誌にはない。

ステレオサウンド 185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
いわゆる誤植ではない。
これはすり抜けさせてはいけない間違いである。

過去のステレオサウンドに、間違いがひとつもなかったかというと、そうではない。
私がいたときも間違いはあった。
それ以前もあったし、それ以降もある。

でもそういう間違いと、185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」とでは、
少々事情が異る。

技術的な事柄に関しては、
特に海外製品の場合、ほとんど資料がないこともあるし、
資料があったとしても抽象的な表現で、何が書いてあるのか(言いたいのか)はっきりしないこともある。
またそこに投入された技術が新しすぎて、理解が不充分なこともある。
それでも新製品の紹介記事では、少しでも情報を多く読者に伝えようとするあまり、
間違いが起きてしまうことだってある。

そういう間違いを見つけても、ことさら問題にしようとは思わない。
185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
本来なら間違えようのないことで、編集部はミスを犯してしまっている。

なぜ「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けて活字になってしまったのか。

新製品ページの担当編集者は、高津修氏から原稿を受けとる。
そこで当然もらった原稿を読み、朱入れが必要ならそうする。
その原稿を編集長がチェックする。それで問題がなければ次の段階に進む。

以前は、この段階を「写植にまわす」といっていたけれど、いまはなんというのだろうか。
写植があがってきたら、コピーにとり、そのコピーを編集部全員が読み校正する。
そして青焼きが、次の段階であがってくる。

ここでも私がいたときは文章のチェックをしていた。

本来ならば、青焼き以前で校正はしっかりと終えておかなければならないのだが、
写植の段階の校正ですり抜けてしまう誤植やミスがあるから、ここでも校正する。

時にはけっこう大きなミスがあって、
バックナンバーの版下を取り出してきて、活字を切貼りしたこともある。
常に締切りをこえて作業していたから、自分たちで最後は手直しということになってしまう。

いまはパソコンでの処理が大半だろうから、
細部では違いがあっても、原稿を届いて青焼きを含めて、
編集部全員によって複数回の校正がなされるわけだ。

にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けてしまったのは、
考えられないことである。

これがトーレンスのプレーヤーではなく、
新進メーカーの、新技術を投入したアンプであれば、
技術的なことは触っただけではわからないのだから、仕方ない面もあるのだが、
何度も書くけれど、トーレンスのプレーヤーについては触ればわかることだし、
オーディオ雑誌に携わっている者、オーディオを趣味としている者ならば、
トーレンスのプレーヤーがどういう構造なのかは、すくなくとも言葉の上ではわかっているのが当然である。

ここに編集部のシステムとしての問題がある。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その7)

現在のステレオサウンドの編集部のオーディオの知識がどれだけのレベルなのかはわからない。
けれど、トーレンスのプレーヤーがフローティング型かどうかは、
よほどの初心者でない限り間違えようがない。

仮に勘違いで高津修氏の原稿を編集部が
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書き換えたとしよう。
そうなると編集部は高津修氏に断りもなく書き換えたことになる。

高津修氏に事前に、ここがおかしいと思うので書き換えたい、という旨を伝えたのであれば、
高津修氏が「TD309はフローティング型だよ、資料を見てごらん」といったやりとりがあるはず。
それで編集部が資料にあたるなり、TD309の実機にふれるなりすれば、すぐにフローティング型ということはわかる。
にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字となって、
ステレオサウンド 185号に掲載されている。

私がいたころは、その記事の担当者が試聴に立ち合うし、試聴記の操作も行う。
このシステムが、いまのステレオサウンドでは違うのだろうか。
試聴室で試聴に立ち合う人と記事の担当者が別とでもいうのだろうか。
だとしても、トーレンスのプレーヤーがフローティング型であることは、あまりにも当り前すぎることであり、
仮にフローティング型でなかったとしたら、高津修氏の原稿も、
トーレンスがフローティング型ではなくなったことから書き始めるのではないだろうか。

この件は考えれば考えるほど、ほんとうに奇妙なことである。
私が考える真相は、もう少し違うところにあるのだが、それについてはここで書くことではないし、
書きたいのは、なぜ
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字になってしまったかである。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その6)

ステレオサウンドのサイトに、昨年の12月10日、
季刊ステレオサウンド185号(2012年12月11日)に関するお詫びと訂正」が載った。

そこには、185号の新製品紹介のページに掲載されているトーレンスのTD309について、
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」という、
事実とは異る記述があるというもので、
「これは編集部の校正ミス」ということになっている。

185号発売日の前日に、これが載ったということは、
おそらく見本誌を見た輸入元から事実と異るというクレームがあったから、だと思う。

このお詫びと訂正に気づかれていた人も多いだろう。
でも、この「お詫びと訂正」はよく考えれば、実に奇妙なところがある。

校正ミスとある。
これをバカ正直に信じれば、TD309の試聴記事を書かれている高津修氏が書かれているわけだが、
高津修氏の原稿に「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあり、
そのことを編集部が見落していた、ということになろう。

でも、そういうことがあるだろうか。
トーレンスのプレーヤーはフローティング型で知られているし、
試聴で実際に触れれば、すぐにフローティング型がそうでないかとわかる。
資料がなくても、すぐにわかることであり、誰にでもわかることである。

つまり高津修氏の原稿に
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあったとは考えにくい。
となると編集部が高津修氏の原稿を書き換えた(それも間違っているほうにへと)ということになる。
でも、これも考えにくいことである。

Date: 4月 9th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その5)

いくつかの呼称がある。
オーディオマニア(audio mania)という呼称が一般だったが、
maniaの意味は、熱狂的性癖、……狂だから、これを嫌う人たちもいて、
1980年代にはいってから、もっとスマートな呼称としてオーディオファイル(audio phile)が登場してきた。
(それにしても最近の「性癖」の使い方は間違っていて、性的嗜好の意味で使われることが目につく)

そして菅野先生によるレコード演奏家も生れてきた。

古くには音キチという呼び方もあった。
音キチガイの略であって、いまこれを使っている人は稀であろう。

オーディオに、一般的な人には理解不能なぐらい情熱をかたむけている人をどう呼ぶか(呼ばれたいか)。
人によって違う。
私などは、何者か? と問われれば「オーディオマニア」とためらうことなく答えるけれど、
オーディオファイル、オーディオ愛好家という人もいるし、
私はそう名乗ることはないけれど、レコード演奏家と口にされる人もいる。

どう呼ばれるかには、こだわりがあるのだろう。
だからいくつもの呼び方が登場しているわけだ。

山口孝氏による「オーディスト」が、そこに加わるかたちとなった。

雑誌の編集者の仕事は実に雑多で多岐であり、
その仕事の中には、新語・造語に対しての判断も含まれている。

ステレオサウンド編集者は、179号の時点で、
山口孝氏からの原稿を届いた時点で、「オーディスト」について調べ、
すでに存在している言葉であるのならば、その意味を確認する必要があったわけだ。

けれどステレオサウンド編集者は、それを怠った。
なぜ怠ったのか。

それは山口孝氏の熱心な読み手と同じだったからではないのだろうか。