Archive for category ジャーナリズム

Date: 8月 9th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その3)

受動的試聴と能動的試聴。
このふたつがあるのはわかっている、当然じゃないか、という反論があるかもしれない(ないかもしれない)。

いまのステレオサウンド編集部が、受動的試聴と能動的試聴に気づいていて、
その違いがどういうものかわかっているかもしれない。
可能性がまったくないとはいわない。

けれどもいまのステレオサウンドの誌面を見るかぎりは、
いまのステレオサウンド編集部はこのことに気づいていない、と判断できる。
気づいていて、その違いがわかっていたら、ああいう誌面構成にはならないからだ。

では以前のステレオサウンド編集部は気づいていたのか、わかっていたのか。
私がいたころの編集部では、受動的試聴、能動的試聴という言葉では一度も出なかった。
気づいていなかった、といっていいだろう。

それ以前の編集部はどうだろうか。
はっきりとはわかっていなかった、と誌面を見る限りはそう思える。
けれど、いまのステレオサウンド編集部よりは、なんとなくではあっても感ずるものがあったのではないか。

それは編集部が、というよりも、筆者がなんとなく気づいていた、というべきなのかもしれない。

私はそういう誌面構成のステレオサウンドをもっとも熱心に読んできた。
だからこそ、組合せの記事に対する違和感は、人一倍感じるのかもしれない。

──と書いているが、私が受動的試聴、能動的試聴に気づき、はっきりと考えるようになったのは、
そんなに以前のことではない。数年前のことだ。

川崎先生が、応答、回答、解答についてブログで書かれている。
これを読んでから、である。

Date: 8月 8th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その2)

アンプの試聴の場合、
アンプ以外のオーディオ機器、
スピーカーシステム、CDプレーヤー(もしくはアナログプレーヤー)をそのままである。
アンプだけを換え、他はいっさい変えないようにして試聴を行う。

組合せの場合はどうだろうか。
スピーカーの選択から始まることもある。
スピーカーが決っていれば、アンプの候補をいくつか選び、それらをつなぎ替えて聴いていく。
アンプが決ったら、いくつかのCDプレーヤーの候補を聴いていく。

すべての組合せの試聴がそうだとは限らないが、
おおまかな流れとしてはアンプを決める。

ということはアンプを決めるための試聴は、
ステレオサウンドが行っているアンプの徹底試聴となにが違うのか、ということになる。

スピーカーシステムは、一般的な試聴の場合には試聴室に常備されているリファレンススピーカーで行う。
組合せの場合は、対象となるスピーカーが変る。

つまり組合せにおけるアンプの選択のための試聴はと、
一般的なアンプの試聴との違いは、スピーカーが違うということだけなのか。

ならばアンプが決ったあとにCDプレーヤーをいくつか聴くのは、
いつものCDプレーヤーの試聴とはアンプとスピーカーが違うだけなのか。

つまり組合せの試聴とは、
いつもの試聴とは使用機材が違うだけなのか──、そういえる面がある。

それでも一般的な試聴と組合せの試聴には、大きな違いがある。
一般的な試聴は、いわば受動的な試聴であり、
組合せの試聴は、能動的な試聴である。

ここで勘違いをしないでほしい。
受動的試聴より能動的試聴のほうが上だとか、受動的試聴はいらない、といいたいわけではない。

受動的試聴、能動的試聴、どちらも必要なことである。

Date: 8月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その1)

このブログをお読みになっている方で、私よりも若い世代だと、
もしかすると、昔はそんなによかったのか、いまはそれほどでもないのか、
そんなふうに受けとめられているようにも思っている。

私は、私が体験してきた昔がよかった、
だからいまは昔よりももっとよくあるべきだと思っている。

オーディオ機器に関しては、悪くなっているところもあるし、そうでないところある。
よくなっているところもある。

だから、オーディオの行く末に絶望はしてはいないし、希望ももっている。
けれど、オーディオジャーナリズムに関してはそうとはいえない。

短期的にみれば悪くなったり良くなったりする。
でも長期的にみればよくなっている──、
そうであってほしいと願っているのだが、確実にひどくなっていると断言できる。

オーディオジャーリズムに携わっている人たちは、そんなことはない、というであろう。
それでも断言しておく、ひどくなっている、と。

ステレオサウンドは194号の特集で、黄金の組合せを行なっている。
194号は春号ということもあってだろう、誌面を刷新している。
そういうなかでの特集なのだから、編集部も力が入っているとみていいだろう。

しかも「黄金の組合せ」である。
少しは期待していた。
けれど期待はやはり裏切られた。

ひどい特集とまではいわない。
けれど間違っている編集である、といっておこう。

194号の特集を見て、ステレオサウンド編集部、そしてオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
組合せをどう考えているのか、そして組合せの試聴をどう捉えているのか。
そのことについて考えてしまった。

同時に編集部も組合せの捉え方が、私が面白いと感じながら読んでいたころの組合せの記事の時代とは、
あきらかに違ってしまっている。

違っていることは必ずしも悪くなっていることとはいえない。
けれど、ステレオサウンド 194号の「黄金の組合せ」を見ると、間違っているといえるし、
組合せという試聴と、いわゆる一般的な試聴との違いも編集部ははっきりと把握していない。
残念ながらそうとしか思えない記事づくりであった。

いままでオーディオジャーリズムについて書く時、
意識的にぼかしていたところがある。
何がどう悪くなったのか、なぜ悪くなったのか、
ではどうすればいいのか。そういったことはぼかしていた。

それはオーディオジャーリズムに携わっている人たちが自ら気づくべきことであって、
他から指摘されたところで改善はしない、という考えからであった。

でも194号の「黄金の組合せ」を見て、少しははっきりとさせていこうと考えを改めた。
それはひどいからではなく、間違っているからである。

Date: 7月 12th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その10)

その8)で引用した瀬川先生の発言。
これに対して、井上先生はこう語られている。
     *
井上 ここまで夢中になってやってきて、ひとつ区切りがついた、といったところでしょう。この十三年間をふりかえってみると、いちばん大きく変化したのは、オーディオ観そのものであり、オーディオのありかたであり、そしてユーザー自体ということですよね。その意味で「ステレオサウンド」がどうあるべきかということを、このへんで、いちど考えなおす必要がある、という瀬川さんのご指摘には、ぼくもまったく同感です。
 ただ、それが、熱っぽく読ませるためにどうかということでは、ぼくはネガティブな意見です。つまり、そういった意識そのもが、かなり薄れてきている時代なんだと、ぼくは思っているのです。
     *
これを受けて、瀬川先生は、
熱っぽく読む、というのはひとつの例えであって、
今後も熱心に本気に読んでもらうためにはどうしたらいいのか、ということだと返されている。

このあとに菅野先生、山中先生、岡先生の発言が続く。
詳しい知りたい方は、ステレオサウンド 50号をお読みいただきたい。

岡先生の発言を引用しよう。
     *
 ひとついえることは、創刊号からしばらくの時期というのは、われわれにしても読者にしても、全部新しいことばかり、まだ未知の領域ばかり、といった状態だったわけでしょう。だからなんとなく熱っぽい感じがあったんですよ。それがしだいに慣れてきた、というか繰り返しのかたちが多くなって、そのためにいかにも情熱をかたむけてやっている、という感じが薄くなったことはたしかでしょう。
     *
井上先生の発言にある、ひとつの区切り。
50号は1979年3月に出ている。
36年が、50号から経っている。

この36年間に、いくつの区切りがあっただろうか。
業界にも、オーディオマニアにもそれぞれの区切りがさらにあったはず。

そして岡先生の発言に出て来た「慣れ」。
長くやっていれば、どうしても慣れは生じてくる。

瀬川先生は、ほかの方の発言をどういうおもいで聞かれていたのだろうか。
もどかしさがあったのではないだろうか。

この「もどかしさ」は、(その9)で書いたもどかしさとは違うもどかしさではなかったのか。

ステレオサウンド 50号を手にしたとき、私は16だった。
そのころはなんとなくでしか感じられなかったことが、いまははっきりと感じられる。

同時に、瀬川先生と仕事をしたかったという、いまではどうしようもできない気持がわきあがってくる。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その5)

オーディオの想像力の欠如が硬直化を生むのは、
それぞれの役割を正しく認識していないせいで、化学変化がおこらないからだろう。

Date: 6月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その4)

オーディオの想像力の欠如も、
タキトゥスの言葉がいまも通用する理由のひとつになっている。

Date: 6月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(タキトゥスの時代から……)

《真実は調査に時間をかける事によって正しさが確認され、
偽りは不確かな情報を性急に信じる事によって鵜呑みにされる。》

タキトゥスの言葉だ。
タキトゥスが生きていた時代からずっとそうだったのか、と思ってしまう。

《新たな情報を得たときには、確認という聖なる儀式が済むまで鵜呑みにしてはならない。》
ヴォルテールも同じことを言っている。

いつの時代も、どの国でも変っていない。

タキトゥスの時代よりもヴォルテールの時代の方が情報の伝達は速かった。
ヴォルテールの時代よりも現代はもっともっと速くなっている。

速くなればなるほど比例して量も増えていく。

現代はヴォルテールの時代よりも、タキトゥスの時代よりも、
鵜呑みにしてしまう時代ともいえる。

オーディオ雑誌、つまり出版物は、
どんなにがんばってもインターネットのレスポンスには到底かなわない。
だからこそ、時間をかけ正しさを確認していくことが、その役目といえるのだが……。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その50)

ステレオサウンド 49号からはじまったState of the Art賞は、
Components of the yearとなり、
いまはStereo Sound Grand Prix(ステレオサウンド・グランプリ)となっている。

この賞の名称の変化と、
昨日から書き始めた「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」でとりあげていく、
オーディオ評論家の敬称として「先生」とつけることは、
別のことではなく、根っこは同じことだと私は見ている。

ここにステレオサウンド編集部の狡さが、はっきりとある。
狡さ、と書いた。
実は他の表現もいくつか思いついていた。
それらをすべて書くのは気が引けたから、ひとつだけ「狡さ」を選んだ。

この狡さに、ステレオサウンド編集部は気がついているのだろうか。
意識して、賞の名称を変え、オーディオ評論家を先生とつけて呼んでいるのであれば、
ステレオサウンドはいつかは変っていけるかもしれないと、淡い期待ももてないわけではない。

けれど「狡さ」を無意識のうちにやっているのであれば、
ステレオサウンドは終ってしまった、といわざるをえなくなる。

この「狡さ」については、
「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」の中で書いていく。

Date: 3月 12th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その3)

オーディオの想像力の欠如が生むのは、硬直化であり、
硬直した企画・規格であり、ここから何が生じるのかははっきりとしている。

Date: 3月 7th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その2)

オーディオの想像力の欠如が端的にあらわれたのが、
「名作4343を現代に甦らせる」の記事であり、その試聴記である。

Date: 3月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その1)

オーディオの想像力の欠如が生むものが、現在のオーディオ界である──、
そうは思いたくない。

けれど、完全に否定できずにいる。

オーディオに関わっている人すべてから、オーディオの想像力が欠如しているわけではない。
けれど、欠如しているとしか思えない人が、少なからずいる、と思える。

Date: 1月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その49)

State of the ArtとStereo Sound Grand Prixまでの、
ステレオサウンドが行っている賞の名称の変更は、わかりやすくなってきている。

わかりやすいことが善だととらえる人にとっては、
State of the ArtよりもComponents of the year、
Components of the yearよりもStereo Sound Grand Prixのほうがより直接的でわかりやすいのだから、
賞の名称変更は善(よかった)と受けとめるだろう。

だがわかりやすいは、ほんとうに善なのだろうか。
つねに善といえるのだろうか。

オーディオにおけるジャーナリズム(その11)」でも、このことは書いた。
     *
わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。

最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。

一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。

わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。

わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。

わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
     *
いま賞ほどわかりやすいものはない──、
そんな時代になっている。
けれど、賞とは本来そういうものではなかったはずだ。

Date: 1月 24th, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その9)

ずっと以前からの私にとっての課題であり、
このブログを始めてからは、よりはっきりとさせなければと考えている課題が、
私自身は、何によってどう影響されてきたのか、である。

オーディオに関することで、何かに対してある考えを持つ。
その考えは、これまでのどういうことに影響されて導き出されてきたのか。

そのことが、こうやって書いていると、以前にもましてはっきりさせたいと思うようになってくる。

それをはっきりさせる意味もあって、私はたびたび引用している。

世の中には、すべて自分自身の独自の考えだ、みたいな顏をしている人がいる。
彼は、誰の影響も受けなかったようにふるまう。
ほんとうにそうであれば、それはそれでいい。
けれど、ほんとうに誰の影響も受けていない、と言い切れるのか。

その精神に疑問を抱く。
私はいろんな人の影響を受けている。
それを明らかにしていくよう努めている。

誰の影響も受けずに、これは自分自身の考えだ、みたいな書き方をしようと思えば、たやすくできる。
でも、それだけは絶対にしたくない。
それは恥知らずではないか、と思うからだ。

誰とはいわない、どの文章がとはいわない。
オーディオ雑誌に書かれたものを読んでいると、
これはずっと以前に、あの人が書いていたこと、と気づく。

それをどうして、この人はさも自分自身の考えのように書いているのだろうか、とも思う。

もちろん、その人は以前に書かれていたことを知らずに書いている可能性はある。
けれど、その人はオーディオ雑誌に原稿料をもらって書いている、
いわばプロの書き手である。アマチュアではない。

アマチュアであれば、そのことにとやかくいわない。
だがプロの書き手であれば、少なくとも自分が書いているオーディオ雑誌のバックナンバーすべてに、
目を通して、誰がどのようなことを書いているのかについて把握しておくべきである。

人は知らず知らずのうちに誰かの影響を受けている。
そのことを自覚せずに書いていくことだけはしたくない。

Date: 1月 24th, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その8)

そんな違いはどうでもいいじゃないか、と思われるようと、
私がここにこだわるのは、
私にとっての最初のステレオサウンドが41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」ということが関係している。

41号の特集は世界の一流品だった。
スピーカーシステム、アンプ、アナログプレーヤー、テープデッキなど紹介されている。
オーディオに関心をもち始めたばかりの中学生の私にとって、
世の中には、こういうオーディオ機器があるのか、と読んでいた。

いわば41号は、現ステレオサウンド編集長がいうところの、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ともいえる。

「コンポーネントのステレオの ’77」は巻頭に、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」があることがはっきりと示すように、
これは《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》
という編集方針の一冊ではなく、
はっきりと《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》の編集方針の一冊である。

私はたまたまではあるが、同じようにみえて実のところ違う編集方針のステレオサウンドを手にしたことになる。
38年前、私が熱心に読みふけったのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。

Date: 1月 22nd, 2015
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その7)

編集方針が変っていくのが悪いとはいわない。
ステレオサウンドが創刊された1966年と2015年の現在とでは、大きく変化しているところがあるのだから、
オーディオ雑誌の編集方針も変えてゆくべきところは変えてしかるべきではある。

私がいいたいのは、変っているにもかかわらず、創刊以来変らぬ、とあるからだ。
そのことがたいしたことでなければ、あえて書かない。

だが編集方針は、少なくとも活字となって読者に示されたところにおいては、変ってきている。
その変化によって、オーディオ評論家の役目も変ってきている。

《「聴」の世界をひらく眼による水先案内》としてのオーディオ評論家と、
《素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、
演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい》ためのオーディオ評論家、
私には、このふたつは同じとはどうしても受けとられない、やはり違うと判断する。

現ステレオサウンド編集長の2013年の新年の挨拶をそのまま受けとめれば、
どちらもオーディオ評論家も同じということになる。

オーディオ評論家は読者の代表なのか、について考えるときに、
同じとするか違うとするかはささいなことではない、むしろ重要なことである。