Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム
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オーディオの「本」(考える人・その5)

川崎先生のブログ《広報誌がまだジャーナリズムである》には、こう書いてある。
     *
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
     *
《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ステレオサウンドを見ていても強く感じている。
別にステレオサウンドだけではない、他のオーディオ雑誌も同じなのだが。

そんなことはないだろう、
ステレオサウンドは別冊として、過去の記事まとめたムックをけっこうな数出版しているんじゃないか、
そんな反論が返ってきそうだが、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない。

ただ思うのは、《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ジャーナリズム側だけの問題なのだろうか、という疑問だ。
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していたのは、
物語を読みとろうとする読者が消滅しつつあるからなのかもしれない、と思うからだ。

もっともこの問題は、鶏卵前後論争にも似て、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったから、読者もそうなっていったのかもしれないし、
読者がいつのまにか雑誌から物語を読みとろうとしなくなってきたから、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったのかもしれない。
オーディオの雑誌に関するかぎり、そのようにも感じてしまう。

そういうおまえはどうなんだ、と問われたら、
《過去を大きな物語として語れる編集者》としてはまだまだと答えるしかないが、
それでもこのブログを、私は自己表現とは考えていない。
別にこのブログだけではなく、文章を書くことが自己表現だとは考えていない。

私自身が読みとった・気づいた小さな物語をいくつも書いている。

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