「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その3)
十年は経っていないと記憶しているが、
twitterで、信頼できるオーディオ評論家は○○さんだ、というツイートをみかけた。
ツイートした人をフォローしていたわけではなかったので、
誰かのリツイートで見たのか、検索しての結果であるのだが、
その○○さんの名前を見て、世の中にはそういう人もいるんだな、と思うしかなかった。
○○さんの試聴記を、私はまったく信じてなかったし、いまもそうだし、
○○さんは、いまもステレオサウンドに書かれている人だから、誰なのかははっきりさせないが、
意外ではあった。
その理由も書かれていた。
特定のディスクの、この部分がこんなふうに鳴った、と具体的に書かれるからだ、と。
だから、わかりやすい、と。
このツイートをした人がどんな人なのかは、全く知らない。
私よりも若そうだな、くらいには思った。
この人が瀬川先生の試聴記を読んだら、まったくわかりにくい、というのか。
信頼できない、というのか、そんなことを考えていた。
特定のディスクの、この部分がこんなふうに鳴った、というのは、
具体的でわかりやすい──、と思いがちだ。
同じディスクを、同じところを聴いてみれば、よくわかる、という人もいよう。
でも、同じディスクを鳴らしても、
試聴環境が、○○さんが聴いているのとはまったく違うのだから、
具体的であっても、試聴したオーディオ機器の音を伝えていることにはならない。
瀬川先生も、特定のディスクの、ある部分がどんなふうに鳴ったか、という書き方はされている。
私が先生とつけるオーディオ評論家の人たちも、そういう書き方をされることはある。
でも、○○さんとはっきりと違うのは、そこから先にどういうことを書くかである。