Archive for category 複雑な幼稚性

Date: 7月 24th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その3)

十年は経っていないと記憶しているが、
twitterで、信頼できるオーディオ評論家は○○さんだ、というツイートをみかけた。

ツイートした人をフォローしていたわけではなかったので、
誰かのリツイートで見たのか、検索しての結果であるのだが、
その○○さんの名前を見て、世の中にはそういう人もいるんだな、と思うしかなかった。

○○さんの試聴記を、私はまったく信じてなかったし、いまもそうだし、
○○さんは、いまもステレオサウンドに書かれている人だから、誰なのかははっきりさせないが、
意外ではあった。

その理由も書かれていた。
特定のディスクの、この部分がこんなふうに鳴った、と具体的に書かれるからだ、と。
だから、わかりやすい、と。

このツイートをした人がどんな人なのかは、全く知らない。
私よりも若そうだな、くらいには思った。

この人が瀬川先生の試聴記を読んだら、まったくわかりにくい、というのか。
信頼できない、というのか、そんなことを考えていた。

特定のディスクの、この部分がこんなふうに鳴った、というのは、
具体的でわかりやすい──、と思いがちだ。

同じディスクを、同じところを聴いてみれば、よくわかる、という人もいよう。
でも、同じディスクを鳴らしても、
試聴環境が、○○さんが聴いているのとはまったく違うのだから、
具体的であっても、試聴したオーディオ機器の音を伝えていることにはならない。

瀬川先生も、特定のディスクの、ある部分がどんなふうに鳴ったか、という書き方はされている。
私が先生とつけるオーディオ評論家の人たちも、そういう書き方をされることはある。

でも、○○さんとはっきりと違うのは、そこから先にどういうことを書くかである。

Date: 7月 23rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その2)

前々から気づいていたけれど、
今回ステレオサウンド 207号を久しぶりに買って読んで、
あらためてそうだな、と感じたのは試聴記のパターンである。

試聴ディスクが、鉤括弧(「」)で括られている。
しかもそれだけでなく、試聴記のほとんどにほほ万遍なく鉤括弧付きでディスク名が出てくる。

これはほぼ間違いなく編集部からの要望というか指示なのだろう。
鉤括弧付きのディスク名がない試聴記は、
柳沢功力氏のB&Wの802D3、KISOアコースティックのHB-G1、
ソナス・ファベールのIL Cremoneseだけである。

これらを眺めていると、どことなく気持悪さを感じる。
ステレオサウンド編集部が、こういう試聴記がわかりやすいと考えているのか。

Date: 7月 23rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その1)

2009年4月にこんなことを書いている。
     *
わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。

最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。

一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。

わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。

わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。

わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
     *
自分の書いたものを引用するのはあまりやりたくないけれど、
そういいながら、これで三回目である引用をまたやっているのは、
今回の件とも関係していると思い出したからである。

こうやって引用することで、引用した文章を書いた時の気持も思い出している。
この時は、怒りを感じていた。

Date: 7月 22nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その54)

そのスピーカーの輸入元の担当者はオーディオ関係者である。
同時にステレオサウンドの読者でもある。

オーディオ業界で仕事をしているから──、
ということは望めないということを、私はこの件で知った。

たった一件のこととはいえ、そういう人がいるという事実は変らない。
オーディオ業界にいる人だから、しっかり読んでくれる人なわけではない。

最初は柳沢功力氏の意図を汲み取って読まれていた、と思われるのに、
誰からにいわれただけで、ころっと変ってしまう。

この人には、その人なりの読み方がないのか(私よりも年上である)。
一度、拘泥した読み方にはまってしまうと、そこから抜け出せないのか。

編集部にいると、たまに読者の方からの電話を受けることがあった。
ただ何かを話したい、という人もいたし、
相談にのってほしい、という人もいた。

なかには、上記のような担当者のような読者もいた。
どうしたら、そういう読み方になるんだろうか、と理解に苦しむこともあった。

電話の向うにいる人が、どういうオーディオマニアなのかはほとんどわからない。
声でなんとなく、このくらいの年代の人かな、と思うくらいである。
でも、それすらもどの程度当っていたのかもわからない。

いえるのは、読者一人一人みな違う、ということだけである。
その違いは、実にさまざまで、
おそらくこれを読まれている方が想像されているよりもずっと大きい(はずだ)。

Date: 7月 22nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その53)

メーカー、輸入元といった関係者よりも、
ステレオサウンドの読者はずっと数が多いし、
ほとんどの読者と編集者とはなんの面識もない。

数だけでなく、年齢層も読者の方が広い。
私がステレオサウンドを読みはじめた13の時だが、
もっと早くからステレオサウンドを読みはじめた人も知っている。
それでも中学生あたりが下限で、上は60、70、もっと上の人も読んでいよう。

それだけ広く多いのだから、読者のレベルもさまざまである。
長く読んでいるから──、というのはまったく通用しない。

ある単語ひとつにこだわりすぎて、前後の文章がまったく目に入っていない人もいた。
そこまで読み込んでくれているのか、と嬉しくなることもあった。

少なくとも平均的な読者像なんて、まず無理だと思っている。
オーディオという狭い趣味を対象としたオーディオ雑誌でもそうである。

別項「輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その2)」でも書いている。

あるスピーカーの新製品の記事に対し、輸入元からクレーム的なことがきた。

柳沢功力氏が、そのスピーカーを担当されていて、
記事に「悪女の深情け」と書かれていた。

もちろんいい意味で使われていた。
けれど、「悪」という一文字が使われていたのが輸入元の気に障ったようだ。

悪女の深情けは、ありがた迷惑だという意で使う、と辞書にはあるが、
そこでは、情の深い音を聴かせる、という意でのことだった。
そのことは前後の文章を読めばすぐにわかることにも関わらず、クレーム的なことが来た。

柳沢功力氏の話だと、最初は輸入元の担当者も喜んでいた、
けれどとある販売店から、何かをいわれたそうである。
それをきっかけに、ころっと態度が変ってしまった、ということらしい。

とにかく悪という漢字一文字が気にくわない、というのか、
そんな漢字を使うな、といわんばかりのようだった。

当惑とは、こういうことなのか、と当時思っていた。
書かれた柳沢功力氏も他のオーディオ評論家の方も編集部も、
放っておこう、ということで一致した。

Date: 7月 21st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(試聴における再現性の重要性)

井上先生からよくいわれたことのひとつに、再現性がある。
再現性というと、音楽の再現性といった意味にとられがちだが、
ここでの再現性とは、いわゆる実験の再現性と同じ意味での、試聴の再現性である。

あるオーディオ機器を試聴。
その試聴記が誌面に載る。
その製品のメーカー(輸入元)から、クレームが来た、とする。

その場合、どうするか。
ステレオサウンドの試聴室に来てもらい、
その製品を聴いたときの状況をできるだけ再現して、
試聴記の元になった音を、もう一度再現し、メーカー(輸入元)の人に聴いてもらう。
そうやって納得してもらう。

その重要性をくり返しいわれていた。
結局、言葉よりも、オーディオの世界なのだから、音が重要となる。
そのためには、同じ状況を高い再現性で何度もくり返せるだけのセッティングの確かさが必要となる。

同じ器材、同じ部屋、同じプログラムソースを鳴らしているのに、
セッティングするたびに、音が違っていては、誰も説得・納得させてることはできない。

その再現性が高さを身につければ、たいていのクレームには対処できる──、
そう井上先生はよく言われていたし、
そのために必要なことを井上先生から学ぶことができた。

Date: 7月 21st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その52)

また話が逸れていくのか、と思った人もいようが、
今回の件をはっきりさせるためには必要なことであるし、
広告とオーディオ雑誌については、
多くの人が考えているような関係よりも、問題は別のところにある、
と私は感じていて、そのことは別項で書く予定だ。

今回の件、
ステレオサウンド 207号の柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記だが、
これについて輸入元のアッカが編集部に対してクレームを入れているわけではない。

avcat氏という、一人のオーディオマニアが、自身のtwitterで、
柳沢功力氏の試聴記に対しての不満をツイートしただけである。

柳沢功力氏の試聴記に不満を感じて、
それに対してツイートするのはかまわない。
個人の自由である。

それにavcat氏は、一人のアマチュアであるのだから、
その行為について否定的であったり、批判したりはしない。

ただ、そのツイートが偏った、幼いものだとは思ったけれど、
だからといって、ツイートするのも自由だし、私がとやかくいうことではない。

この件について書いたものを読まれている人の中には、
avcat氏という一人の読者が、編集部に対してゴリ押ししたように捉えている人がいるようだが、
ゴリ押しではないだろう。

ツイートは、あくまでも個人のつぶやきのようなものだし、
avcat氏はアマチュアなのだから、そう捉えるのはいかがなものか。

avcat氏のツイートは、ステレオサウンドへのクレームなわけではない。
avcat氏とステレオサウンドの染谷一編集長は顔見知りのようだから、
avcat氏は、染谷一編集長が読んでいることを念頭に書いているとは思う。

それでもツイートはツイートだし、ステレオサウンドへの直接のクレームではない。
なのに染谷一編集長は、すばやく反応しての謝罪である。

私が問題にしているは、この点であり、
そこでの謝罪の際にavcat氏に伝えたことである。

この問題はいろいろなことと関係してくるため、かなり長くなっている。
だから、このことは、もう一度はっきりとしておく。

Date: 7月 21st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性
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「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その51)

オーディオ雑誌だけでなく、雑誌という形態は広告があるから成り立っている。
広告収益の方が多いのも事実だ。

だから、雑誌は広告主に逆らえない、という主張する人たちが出てくる。
短絡的に考えれば、そう思えるだろう。

でも、少しだけ深く考えてみてほしい。
メーカーや輸入元が出す広告費はどうやって得ているのか。

メーカーや輸入元が取り扱っている製品が売れるからである。
その製品を買っている人がいるからであり、
その買っている人の多くは(少なくともブームのころは)、
オーディオ雑誌の読者である。

このことを考えほしいわけだ。
もちろんブームが去って、オーディオ雑誌の売行きが落ちる。
なぜ落ちているのか。

ブームが去って、ブームに乗せられているだけの人がいなくなった、
それに人には寿命があるから、ずっとオーディオを趣味として来た人もこの世を去る。
まだ生きているし、オーディオマニアであっても、
私のようにオーディオ雑誌を買わなくなった人もいる。

いろいろな理由があって、オーディオ雑誌の売行きは落ちている。
広告もはっきりと減っている。

広告を出す側も、広告をもらう側も運命共同体である。
片方だけの力が強ければ、すぐさま衰退していく。
製品を買う人が極端に減ってしまえば、どうなるかは書くまでもない。

広告が載っているデメリットは、確かにある。
けれど、メーカー、輸入元にとって都合のいい記事ばかりで、
オーディオ雑誌の誌面が埋め尽くされたら、読者はどう感じるか。

実際、そう思えるオーディオ雑誌がある。
そんなオーディオ雑誌を買って読んでいる人もいるのも事実だ。
全体的にそうなりつつあるのも否定しない。

それでも、一部の人が考えているような、
オーディオ雑誌は、メーカー、輸入元に絶対に逆らえない、なんてことはない。

メーカー、輸入元だって、
そんなことをすれば自分たちの頚を間接的に絞めることになるのはわかっている。

自分のところだけよければ……、そういう会社もあるだろうが、
長続きはしないのではないか。

どんな経営者であれば、長く会社をやってきている者であれば、
ぎりぎりのバランスのところは感じている、と思う。

そんな擁護するようなことを書きたくなるほど、
本の編集を軽く見過ぎている人たちがいる。

そういう人たちが言いたいこともわかる。
その傾向は強くなっている。

それでも、まだ良い方向に向うのではないか、と思うからこそ、
こうやってブログを書いているともいえる。

Date: 7月 21st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その50)

ほんとうに、ステレオサウンドの編集長が謝罪して事を丸くおさめる。
そのことは誌面には載らず……、である。
そんなことは昔から行われてきたのだろうか。

読者側からだけの視点ではそんなことがけっこうあるんだろうな、と思いがちになる。
けれどメーカー側、輸入元側の立場に立って想像してほしい。

自社取り扱いの製品が、ステレオサウンドで低い評価となった。
その低い評価を、確かにそうだな、と受けとめる会社(担当者)もいれば、
不当な評価だと受けとめるところもある。

不当な評価といっても、ほんとうに不当かどうかは関係ないわけで、
メーカー側、輸入元側がそう思ったら不当な評価となることもある。

とにかく不当な評価だとメーカー、輸入元が思ったら、
どういう態度をとるだろうか。何を要求するだろうか。

編集長が謝罪に来て、それで事がおさまるか。
すでにステレオサウンド誌上に、低い評価が載っている。
メーカー、輸入元からしたら、それを取り消してほしいわけだ。

編集長がどんなに謝罪したところで、
それが表に出なければ、メーカー、輸入元の求めることとは違う。

特に特集での総テストでの低い評価の製品が、
その後のステレオサウンドに登場し、高い評価を得るということはあっただろうか。

あったとして、読者が二度目の評価を信じるだろうか。

メーカー、輸入元からしたら、なんらかの形で低い評価は間違っていたことを、
読者に示してほしい。

ステレオサウンドでの低い評価に対して、メーカー、輸入元から不当な評価だとクレームが来る──。
そんなことがまったくなかったとは私だって思っていない。

けれどそれらクレームに対して、編集長が謝罪していたとは考えにくい。
実際にそういうことがあって、編集部がつっぱねた例も知っている。
どのメーカーなのかも聞いている。

雑誌はメーカー、輸入元から広告をもらっているし、
製品の貸し出しも受けているから、絶対に逆らえない、という人がけっこういる。
そう信じたければ、それは個人の自由である。

Date: 7月 20th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(虚実皮膜論とオーディオ・追補)

スイングジャーナルの1980年ごろの、どこかの号で、
瀬川先生と菅野先生との対談のなかに、虚実皮膜論が出てくる、との話を聞いた。

図書館に行かねば。

Date: 7月 20th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その49)

ステレオサウンド 57号での結果に、オーレックス側から編集部にクレームは来たのか。
57号は1980年12月発売で、私はまだ読者だった。
どうだったのかはわからないが、
58号に「No.57プリメインアンプ特集・追加リポート」という一ページの記事がある。

これは24号の「本誌23号の質問に対する(株)日立製作所の回答」とは違い、
目次にもきちんと載っている。

「No.57プリメインアンプ特集・追加リポート」は編集部原稿である。
冒頭には、57号での測定結果に対して、多くのユーザーから編集部に問合せがあった、と。

なので編集部は秋葉原のオーディオ店でSB-Λ70を購入。
さらに東芝商事から、別のSB-Λ70を借りて、再測定を行っている。
結果はクリーンドライブの効果が見られる。

結果として、57号でのSB-Λ70は《何らかの原因で異常をきたしていたものと判断される》とある。
最後にはクリーンドライブによる音の差もはっきりと聴き分けられた、ともある。

ただしオーディオ評論家による試聴ではなく、ステレオサウンド編集部による試聴である。

今回、58号の記事を読み返して気づくのは、
編集部に問い合せたのは、読者ではなくユーザーとある点だ。

58号当時も、私はオーレックスからクレームが来たんだろうな、と思って読んでいた。
いまも、もちろんそう読めるわけだが、読者とせずにユーザーとしたところに、
編集部の何かを感じとれる。

二例をあげた。
他にももっとあるんじゃないか、と勘ぐる人もいるはずだ。

だがメーカー、輸入元にとって、ステレオサウンド編集部にクレームを入れるということは、
編集長が謝罪すればそれで済むということではないはずだ。

編集長の謝罪よりも、ステレオサウンドの誌面に訂正記事が載ることを、まず望むのではないか。

Date: 7月 20th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その48)

ステレオサウンド 57号の特集はプリメインアンプの総テストだった。
試聴だけでなく測定も行われていた。

このころスピーカーケーブルによる音質への影響を減らすために、
トリオはΣドライブ、オーレックスはクリーンドライブ、
といった技術をプリメインアンプに搭載していた。

スピーカーケーブルまでもアンプのNFBループに入れてしまう技術である。
測定は当然、ノーマル状態とそれぞれの機能をオンにした状態で行われている。

Σドライブは測定結果にその違いが出ていた。
つまり効果があった。
試聴記にも、その効果にについては書かれていた。

トリオのKA800の瀬川先生の試聴記の一部である。
     *
まずスピーカーコードを2本のまま(一般的な)接続では、これといった特徴のない、わりあい平凡な音がする。そこで4本の、トリオの名付けたシグマ接続にしてみる。と、一転して、目のさめるように鮮度が向上する。いわゆる解像力が良い、というのだろうか、とくにポップス系の録音の良いレコードをかけたときの、打音の衝撃的な切れこみ、パワー感の凄さにはびっくりさせられる。
     *
オーレックスのSB-Λ70はどうだったのか。
     *
クリーンドライブというキャッチフレーズ通り、たいへんきれいな音。トータルバランスはいくぶん細みで、ややウェットなタイプということができる。低域や高域を特に強調するというタイプではなく、その点いくぶん、中域の張った音と聴こえなくもないが、全帯域にわたって特に出しゃばったり引っこんだりというところはなく、バランスは整っている。
 このアンプの特徴であるクリーンドライブには、ON-OFFスイッチがついているが、いろいろなレコードを通じて切替えてみても、私の耳には気のせいかという程度にしかわからなかった。
(中略)
オーレックス独特のクリーンドライブをキャッチフレーズにする、スピーカーのマイナス端子からアンプにフィードバック・コードをつなぐ、3本接続の特殊な使いこなしを要求するアンプだが、私のテストに関する限り、クリーンドライブ接続の効果はあまり認められず、このためにスピーカーコードを3本にする必要があるかどうか、むずかしいところ。
     *
SB-Λ70の上級機SB-Λ77はどうだったのか。
こちらもそっけない。
     *
クリーンドライブとそうでない時の音の差はきわめてわずか。この差のために1本のよけいな配線の必然性については、やや首をかしげたくなる。
     *
SB-Λ70、SB-Λ77のアンプとしての、音質を含めた性能をどう捕えるかは人によって違ってくるだろうが、
少なくとも売りのひとつであるクリーンドライブは、測定でも試聴でもあまり効果がないと57号は伝えていた。

Date: 7月 20th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その47)

その46)にfacebookでコメントがあった。

ステレオサウンドの編集長が謝罪して事を丸くおさめる。
そのことは誌面には載らず……、である。
そんなことは昔から行われてきた、と思っている、とコメントにはあった。

やはり、そう思われているわけだ。
そう思っている、と言葉にして伝えてくれた人はいまのところ二人だけだが、
黙っているだけで、そう思っている人は他にも少なからずいる。

そう思っている人は、今回の件がなくとそう思っていた人もいることだろう。
以前からそう思っていた人は、やっぱりそうだった! となる。

ほんとうにそんなことは昔からずっと行われてきたことなのか。

かなり昔のことになるが、ステレオサウンド 24号の巻末に、一ページだけの記事がある。
354ページにある、その記事は、これは記事なのか、と思わせるものだ。

事実、目次にはその記事は載っていない。
となると、この記事は広告となるのか。

この記事のタイトルは、「本誌23号の質問に対する(株)日立製作所の回答」とある。
本誌23号の特集は「最新ブックシェルフスピーカー総まくり」、
ここでLo-D(日立製作所)のHS500が取り上げられている。

この記事の冒頭に、こう書いてある。
     *
 本誌では23号のブックシェルフ・スピーカー特集の記事中に、日立HSー500に関するテストリポート(245頁)のなかで次のような一節を掲載しました。
 ──このHSー500は発売された当時にくらべて最近のものは明らかに音質が変わってきている。この辺をメーカーに質問したいですね。──
 このリポートの質問事項に対して、株式会社日立製作所からこのほど次のような回答が寄せられましたので以下に掲載いたします。
     *
ようするに23号でのスピーカーの総テストにおける試聴記に対してのLo-Dからのクレームである。
この件は、これで終っているわけではない。

五年以上経った44号。
44号と45号は二号続けてのスピーカーの総テストである。
44号でも、Lo-DのHS530が取り上げられている。

そこでの瀬川先生の試聴記の書き始めである。
     *
 このメーカーの製品は、置き方(台や壁面)にこまかな注意が必要で、へたな置き方をして評価すると、このメーカーから編集部を通じてキツーイお叱りがくるので、それがコワいから、できるかぎり慎重に時間をかけてセッティングした……というのは冗談で、どのスピーカーも差別することなく、入念にセッティングを調整していることは、ほかのところをお読み下さればわかっていただけるはず。
     *
24号当時、ステレオサウンド編集部、瀬川先生、Lo-Dとのあいだで、
どういうやりとたが行われたのかはわからない。
けれど、少なくとも誌面に、その一部は載っている。

これで事が丸くおさまったのかどうかもわからない。
わかるのは記事に対してメーカーからクレームがあり,
そのことに対しての回答を次号で掲載している、ということであり、
さらには五年経って、それとなく書く筆者(瀬川先生)がいた、ということである。

Date: 7月 19th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(虚実皮膜論とオーディオ)

二年ほど前に「虚実皮膜論とオーディオ」を書いた。

ここにもう一度、近松門左衛門の「虚実皮膜論(きょじつひにくろん)」を引用しておく。
     *
 ある人の言はく、「今時の人は、よくよく理詰めの実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。」

 近松答へて言はく、「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。なるほど今の世、実事によく写すを好むゆゑ、家老は真まことの家老の身ぶり口上が写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂、白粉を塗る事ありや。
また、真の家老は顔を飾らぬとて、立役が、むしやむしやと髭は生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間と言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。

 絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句人の愛する種とはなるなり。趣向もこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべき事多し。」
     *
現代語訳は検索すれば、すぐに見つかる。

二年前は、ここでの「芸」をオーディオにおきかえれば、
見事、オーディオで音楽を聴く行為の本質をついている──、
そんなことを書いた。

いまもそう考えているが、同時に、芸をオーディオに置き換えなくとも、
オーディオこそが「芸」でもあるからこその読み方もできる。

Date: 7月 18th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その8)

アクースティック蓄音器まで遡らなくとも、
オーディオは、元来盆栽的であった。

それが電気が加わり、さまざまな技術が進歩して加わっていくことで、
その盆栽のスケールは拡大し、
場合によっては園芸的ともいえるほどの再生も望めるほどになってきている。

といってもオーケストラに関しては、いまだに盆栽的である。
もっと小編成の演奏の録音ならば、
たとえばピアノと歌手といったスケールならば、それはもう園芸的といえる再生が望める。

そこまで小編成でなくとも、リスニングルームがそこそこ広くて、
音量も気兼ねなく鳴らせるのであれば、演奏者の人数がもう少し多くなっての演奏でも、
園芸的再生は、かなりのレベルに達してもいよう。

それでもオーケストラになれば、それはどこまでいっても盆栽的世界である。
このことが、今回のステレオサウンド編集長である染谷一氏の謝罪の件に関係している──、
私はそう考えている。

今回の(本来は不要な)謝罪の件は、
avcat氏のツイートから始まっている。

avcat氏の一連のツイートで感じたのは、
あまりクラシックを聴かない人かもしれないであって、
本人は、いや、聴いている、といわれるかもしれないが、
少なくともオーケストラ再生に真剣に取り組んでいるとは感じなかった。

avcat氏のツイートに欠けていた視点は、ここでもある。
つまり園芸的であって、盆栽的視点はそこからは感じなかった。

柳沢功力氏の試聴記には、盆栽的視点が多分に感じられる。
なのに盆栽的視点を持たない人が、そういう試聴記を読んでも、
それは不満を感じたりや不愉快になったりするのも当然といえば当然だ。