Date: 7月 18th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性
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「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その8)

アクースティック蓄音器まで遡らなくとも、
オーディオは、元来盆栽的であった。

それが電気が加わり、さまざまな技術が進歩して加わっていくことで、
その盆栽のスケールは拡大し、
場合によっては園芸的ともいえるほどの再生も望めるほどになってきている。

といってもオーケストラに関しては、いまだに盆栽的である。
もっと小編成の演奏の録音ならば、
たとえばピアノと歌手といったスケールならば、それはもう園芸的といえる再生が望める。

そこまで小編成でなくとも、リスニングルームがそこそこ広くて、
音量も気兼ねなく鳴らせるのであれば、演奏者の人数がもう少し多くなっての演奏でも、
園芸的再生は、かなりのレベルに達してもいよう。

それでもオーケストラになれば、それはどこまでいっても盆栽的世界である。
このことが、今回のステレオサウンド編集長である染谷一氏の謝罪の件に関係している──、
私はそう考えている。

今回の(本来は不要な)謝罪の件は、
avcat氏のツイートから始まっている。

avcat氏の一連のツイートで感じたのは、
あまりクラシックを聴かない人かもしれないであって、
本人は、いや、聴いている、といわれるかもしれないが、
少なくともオーケストラ再生に真剣に取り組んでいるとは感じなかった。

avcat氏のツイートに欠けていた視点は、ここでもある。
つまり園芸的であって、盆栽的視点はそこからは感じなかった。

柳沢功力氏の試聴記には、盆栽的視点が多分に感じられる。
なのに盆栽的視点を持たない人が、そういう試聴記を読んでも、
それは不満を感じたりや不愉快になったりするのも当然といえば当然だ。

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