Archive for category 真空管アンプ

Date: 10月 10th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その69)

ヒーターを定電流回路で点火することが、じつはいちばんいいのかもしれない。
そんなふうに考えはじめる1年半ほど前に、スタックスからCA-Xというプリアンプが登場している。

国産のプリアンプには、当時としては珍しく外部電源方式を採用。しかもその電源の規模が、とにかく大きい。
数10W程度の出力のパワーアンプ程度のシャーシーに、
スーパーシャント電源と名づけられた定電圧回路がおさめられていた。

CA-Xの特徴は、なにもスーパーシャント電源だけでなく、銅をけずり出して作った空気コンデンサー、
徹底した左右独立シャーシー構造──ボリュウムも左右独立していて、
メカニカルクラッチで左右同時に調整することも、別個に調整も可能──など、
スタックスの意地を見せつけてくれる内容のプリアンプだった。

スーパーシャント電源は、特にラジオ技術誌で話題になっていた記憶がある。
このスーパーシャント電源を、パワーアンプに採用した自作記事も掲載されていたくらいだ。
いったいどれだけの発熱量だったのだろうか。

スーパーシャント電源は、一般的に使われることの多いシリーズ電源が、
制御トランジスターが電源ラインに直列におかれているのにたいし、並列におかれている。

これより前に私が読んでいた「安定化電源回路の設計」(著者:清水和男 CQ出版)には、
損失の大きさを理由は、わずか2ページほど、シリーズ型との比較があるだけで、
「以後の回路ではすべて直列制御式について述べることにします」とあった。

その並列制御式(シャント型)を、定電流回路と組み合わせて、ほぼ理想に近い電源と謳ったのが、
スタックスのCA-Xだった。

Date: 10月 10th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その68)

真空管のヒーターの点火は、まず交流点火と直流点火にわけられる。
直流点火は、非安定化電源による点火か安定化電源による点火にわけられる。
安定化電源も、またふたつに分けられる。

電圧の安定化をはかるのか、それとも電流の安定化をはかるのか、に分けられる。

電圧と電流──。

ステレオサウンド 56号の「スーパーマニア」に登場されている小川辰之氏が語られている。
     *
固定バイアスにしていても、そんなにゲインを上げなければ、過大振幅にならなくて、あまり寿命を心配しなくてもいいと思ってね、やっている。ただ今の人はね、セルフバイアスをやる人はそうなのかもしれないが、やたらバイアス電圧ばかり気にしているけれど、本来は電流値であわせるべきなんですよ。昔からやっている者にとっては、常識的なことですけどね。
     *
このときは、まだ真空管アンプをつくった経験はなかったけれど、
この小川氏のことばの、重要なことは直感的に受けとれた。

「電流値であわせるべき」──、ならばヒーターも同じであろう。

Date: 10月 10th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その67)

いちどでもヒーターの点火方法の違いによる音の差を聴いてしまうと、
三端子レギュレーターなんて、と全面否定したくなるところだが、
それでも安易な使用の三端子レギュレーターとしたのは、もうひとつ別の体験があるからだ。

もうずいぶん前のことだから書いてもいいだろう。
ステレオサウンドでEMTの管球式イコライザーアンプの製作記事を掲載していたときの話だ。
この記事を読まれた方は、カウンターポイントの協力によって、この企画は実現したことを知っておられるだろう。
このときプロトタイプのSA139stのヒーターは、いわゆる安易な三端子レギュレーターの使用だった。
それを長島先生が、カウンターポイントの主宰者マイケル・エリオットに電源に関しても、
じつに細かいアドヴァイスをされて、いくつかのノイズ対策処理をがおこなわれた電源でを聴くことができた。
三端子レギュレーターの使用をやめたわけでなく、小容量のコンデンサーをいくつか後付けを中心とした改良だった。

そこにかかった費用も手間もそれほどのものではない。でも、出てきた音は大きく変化していた。

もちろん長島先生による電源部の改良はヒーター回路だけでなく、高圧のB電源に対しても行なわれていたから、
その音の違いはヒーター回路の違いだけではない。それでも、ヒーター回路への改良がもたらした面も大きいはずだ。

SA139stの製品版の外付け電源の内部を見る機会はなかった。
だから、私が聴いたのと同じことが施されているはずだが、はっきりとしたことはわからない。

Date: 10月 9th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その66)

ついつい非安定化電源よりも定電圧電源(安定化電源)のほうが、性能(安定度)の高さだけでなく、
使用部品点数も格段に多くなり、音質的にもメリットがあると思いたくなる。

増幅回路のヴァリエーションがじつに多彩なのと同じように、定電圧電源の回路にもいろいろある。
だから、すべての定電圧電源が非安定化電源よりも勝っているわけではないし、
十分に練り上げられた定電圧電源でも、音質面で非安定化電源よりも優れているとは、必ずしもいえない。
それこそじつにさまざまな要素が絡み合ってのことだから、
いまもって結論は出ていない……、私はそう受けとっている。

三端子レギュレーターは、もっとも手軽に定電圧電源がつくれる。
実験用としては便利な部品のひとつである。
けれど、便利だからといって、ただそのまま何の工夫もせずに使ってしまっては、
よりよい音を求めようとしたときには、いくつか問題がある。

要は使い方が大事なのだが、ヒーターなんて直流点火さえしておけば十分、
さらに定電圧化しておけば、もうなにも問題はない、
そんな発想からヒーターの点火回路に三端子レギュレーターを使っているアンプは、
ずいぶんと、真空管アンプの音の特質を損なっている、と私の試聴した経験からいえることだ。

三端子レギュレーターの安易な使用より、
非安定化電源(つまり整流ダイオードと平滑コンデンサー、それに抵抗を組み合わせたπ型フィルター)が、
すっきりとした、清々しい音を聴かせる。
それは、頭の中で、傍熱管であってもヒーターの点火方法は重要なことだとわかっていても、
実際に耳にする音の差には、多くの人が驚くと思う。

そして、誰しもが、直熱管のフィラメントだったら、
もっとこの違いはより大きくはっきりとするのか、と思うはず。

Date: 10月 2nd, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その65)

真空管アンプでS/N比を高くするためには、ヒーター、フィラメントの直流点火がもっとも手っとり早い方法である。

けれど、以前から、直流点火よりも交流点火のほうが、ノイズは多いけれど音は良い、という人が少なくなかった。
プッシュプルアンプではハムは打ち消されるものの、シングルアンプでは、交流点火はノイズの増加だけでなく、
ハム対策もめんどうになってくる。
それでも、交流点火にこだわる人たちはいなくならない。

この項の(その25)で使った「遅れてきたガレージメーカー」がつくる管球式コントロールアンプでは、
三端子レギュレーターを使って定電圧の直流点火している。

交流点火よりも非安定化(定電圧回路を使わない)の直流点火、それよりも定電圧電源による直流点火のほうが、
リップル除去率は高くなるし、一見、ノイズは減っているように受けとめられている。

だが昔からの真空管アンプのマニアになればなるほど、三端子レギュレーターによる直流点火は、最悪だという。
最悪なのは、もちろん音に関して、である。
それも直熱管におけるフィラメントの点火だけでなく、傍熱管のヒーターの点火に関しても、
三端子レギュレーターに対して、ひじょうに厳しい。

直熱管における点火方法の違いによる音の変化は実際に試聴したことはないが、
傍熱管(電圧増幅管)では、その機会があった。

たしかに三端子レギュレーターでの直流点火の音は、聴くとがっかりする。

Date: 9月 30th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その64)

真空管アンプは、ソリッドステート(半導体)アンプにくらべて、真空管そのものの構造から、
どうしても物理的なノイズに関しては不利な面がいくつかある。

その代表的なひとつが、ヒーターおよびフィラメントの存在であり、その点火方法であろう。

ときどき、こんな記述をみかける。
「EL34のフィラメントが赤く灯り……」
書いているご本人は、ヒーターと表記せずに、あえてフィラメントとすることで、
言葉の雰囲気に酔われているのかもしれないが、真空管においてヒーターとフィラメントは異る。

フィラメントとは熱電子源である。つまり直熱管においてのみ、フィラメントは存在する。
ヒーターは熱源ではあるが、熱電子源ではない。ヒーターで熱せられたカソードから熱電子が放出されるからだ。

EL34やKT88などは、傍熱管だからヒーターであって、フィラメントは持たない。
ECC82、ECC83といった電圧増幅管も傍熱管だから、フィラメントはない。

これもチョークコイルを、わざわざチョークトランスと呼ぶ人がいるのと同じことなのかもしれない。
トランスは “transformer” であり、”transformer” の意味を調べれば、
チョークはコイルであってトランスではないことはすぐにわかる。

ヒーターよりもフィラメントと、コイルよりもトランスと、とあえて誤記することが、
字面のうえでかっこいい、と思っているのだろうか。

意味さえ通じれば、そんなこまかなことはいいじゃないか、という反論もあろうが、
そういうこまかなことをきちんとせずに、おろそかに取り扱っていたら、それはその人の音に出てしまう。

Date: 5月 16th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その63)

高級なノイズストレッチャー回路を通したような、とてもよく磨かれた汚れのないクリアーなイメージがある。
一種人工的な美しさといったらいいだろうか。

つづけて瀬川先生は、こんなふうに書かれている。あるパワーアンプについての記述である。
こういう音は、清潔感のある音、と表現されることも少なくない。

あるレベル以下の微小レベルの音をなくしてしまっているけれど、
ノイズはそれ以上になくしているから、ノイズという汚れのない、きれいな音であることはまちがいない。
この手の音のアンプは、気配を感じとりにくい。気配の再現力が弱かったりする。
だから、ときに、音楽が、いきなり唐突に鳴ってくる。
それを、静寂の中に音楽のみが現れた、とも表現することはできる。

けれど、私はそういう音に満足できない。
私だけではない、長島先生もそうだった。瀬川先生もそうであろう。

とにかくノイズを聴くのが嫌という人もいる。
ごくごく微小レベルの音が失われても、それ以上にノイズが減って、
耳につかなくなればそのほうが好ましい、とする人。

一方で、ノイズが多少出ていても、できるかぎりどんな微小レベルの音であろうと再現してほしい。
とにかく鳴ってくれれば、ノイズの中に埋もれがちであろうと、
耳を澄ますことで聴きとることができるから、という人。

ノイズの中から音を拾っていく。それは慣れていないと、しんどい。
理想は、ノイズのみがない音である。いっさい微小レベルの、どんなこまかな音も失われない音。
かなり近づきつつあるものの、それでもまだ、一部の高S/N比のアンプと評価をもらっているアンプの中には、
微小レベルの音を、きれいさっぱりなくしてしまっているものがあるように感じている。
もちろん、瀬川先生が書かれた時代からすると、「あるレベル」はずっと低いところにまできているけれど……。

Date: 5月 16th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その62)

瀬川先生が、こんなことを書かれている。
     *
ドルビー(ただし一般的なBタイプでなくプロ用のAタイプ)をはじめとするノイズリダクションシステムを通すと、ヒスノイズを含めてそこにまつわりつく何かよごれっぽい雑音がきれいさっぱりと除かれると共に、極めてわずかながら音の余韻の最後のデリケートな響きをあるレベル以下できっぱり断ち切ってしまうようなところもある。
     *
長島先生も、表現は異るものの、同じことをよく言われていた。

アンプ内部には、ドルビーシステムのようなノイズリダクション回路は存在しないが、
トランジスターや真空管といった増幅素子の並列仕様によるノイズの打ち消しにも、こういう面がある。

真空管アンプの場合、S/N比を高めるために、安易にヒーターをDC点火する。
なかには三端子レギュレーターを使い、より低インピーダンス・低リップルの直流点火を行っているものがある。
たしかにハムやノイズは低下する。きれいさっぱりな音になり、S/N比は測定上も、一聴すると聴感上も、向上している。

なにもハムやノイズが盛大に出ているのがいい、と言いたい訳ではない。
もちろんハムは確実に、ノイズもできるかぎり減らしていくべきではある。
けれど安易にノイズを減らすことだけに集中してしまうと、なぜノイズを減らすのかを忘れてしまっている。
そんな印象を受けるアンプがある。

大事なのは微小レベルの音、
瀬川先生の言葉をかりると「音の余韻のデリケートな響き」のきわめてわずかなところを、
どこまでクリアーに聴きとれるようにするか、である。

Date: 3月 2nd, 2010
Cate: 真空管アンプ, 音楽性

真空管アンプの存在(その60・余談)

モーツァルトのレクィエムを、はじめて聴いたのは、
カール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるディスク。
それからは、ワルター/ウィーン・フィル(ライヴ録音のほう)、カラヤン/ウィーン・フィル、
クイケン、バーンスタイン、ジュリーニ、ブリュッヘン、クリップス、ヨッフム、
それにブリテンなどを、聴いてきた。
ここにあげた以外にも少なからず聴いてきた。

すべてのディスクが、いま手もとに残っているわけではない。
どれが残っていて、どれを手ばなしたか、は書かない。

残ったディスクを見て思うのは、この曲において、どのディスクを手もとに置いておくのか、
それで、その人となりが、わずかとはいえ、くっきりと現われているのではないか。

もちろん、ほかの曲のディスクでも同じことは言えるのだが、
クラシックを主として聴くひとの人となりを、
モーツァルトのレクィエム、それとバッハのマタイ受難曲は、ひときわ明確にする。

そういう怖さがあり、この2曲において、「なぜ?」と思う演奏を好んで聴いているひとを、
信用しろ、というのは土台無理なことだ。

Date: 2月 26th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その61)

昨夜の(その60)を書きながら、タイトルは、
「Noise Control/Noise Designという手法」に変更しようかと迷った。

通常、ブログを書く時は、タイトルを書いて本文を書き始める。
新しいテーマのときは、その逆もあって、本文を書いている途中、書き終えたあとに、
タイトルを考え、つける。

続き物を書いているのに、途中でタイトルを変えることはないにもかかわらず、
昨夜は、どっちにしようかと迷ったし、
あえてほぼ同じ本文を2本書き、それぞれのタイトルをつけて、
最後の数行のみを変えるということも、ちらっと考えた。

モーツァルトのレクィエムにただよう、ある種の官能性を、オーディオ側でなくしてしまうのは、
やはり「ノイズ」とのかかわりのあることだと、書きながら思っていたからだ。

この項(その60)も、その意味では、境界が曖昧なところがある。

真空管アンプ(もちろんよくできたモノにかぎる)の良さ、
そのなかでも、ウェスターン・エレクトリックの真空管(もちろんすべてのモノではない)の独得の味わい、
これらは、ノイズと深く関わっている、と、ここ数年考えるようになってきた。

だから、高S/N比を実現するために、安易にノイズを打ち消すことは、避けるべきこと、と言い切ってしまおう。

長島先生が、ノイズの打消し手法について否定的だったのも、同じ理由からで、まちがいないはずだ。

Date: 2月 25th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その60)

モーツァルトの最後の作品、K.626には、ある種の官能性が感じられる演奏に出逢うときがある。

そういう官能性が希薄な演奏も、また多い。
どちらが優れた演奏なのかは、ここでは語らないが、
私個人としては、官能性が希薄な演奏には惹かれない傾向がある。

官能性といっても、この曲の性格からして、みょうにべとついていては困る。
官能性のうちに、清潔感がなくてはならない、とも思う。

薄汚れてしまっている官能性も困るが、消毒しすぎてしまっては、おわりだ。
ただ、この官能性は、演奏だけの問題にとどまらず、アンプの性格によっても変ってくる。

アンプによっては、官能性をきれいさっぱり洗い流してしまうものがある。

Date: 1月 12th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その59)

「きれいさっぱり」という表現がある。

きれいさっぱりに洗った、という場合には、汚れの落とし忘れもなく、清潔なこと。
きれいさっぱりあきらめた、という使い方もある。
潔くあきらめて、さっぱりしている、という意味だ。
また、何もかも失ってしまったときにも、きれいさっぱり、を使うこともある。

洗濯の例のようによい意味で使われることもあれば、そうでない使い方もある。

バーンスタインのマーラーには、きれいさっぱり、という表現はまったく無縁だ。
インバルのマーラーには、きれいさっぱり、という言葉を使いたくなる、なにかを感じる。
というより、何かがたりないから、そう感じる、といったほうが正しい。

きれいさっぱりな音のアンプ、は、褒め言葉ではない。
そう受けとる人もいるかもしれないが、音の表面的な綺麗さにこだわるあまり、
なにか大事なものまで捨ててしまった音、そんな意味が含まれている。

バーンスタインの感情移入の凄まじさは、ある種のノイズなのかもしれない。
その「ノイズ」は、人によっては、音の汚れとして、または、きわどい音として受けとめるのか……。

バーンスタインのマーラーの第5番を「チンドンヤみたい」と受けとめた編集者にとっては、
バーンスタインの発する「ノイズ」は、単なる汚れにしかすぎなかったのか。
だから、その種の「ノイズ」をきれいさっぱりと洗い流したインバルのマーラーを選ぶのか……。

その一方で、きれいさっぱりなものに物足りなさを感じる者も、またいる。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その58)

絶対にあり得ないことと、はじめにことわっておくが、もし長島先生が、
バーンスタインよりもインバルのマーラーを高く評価される人だとしたら、
この項の(その50)(その51)に書いた国産パワーアンプを、高く評価されていただろう。

私にしても、インバルのを好む耳(感性)をもっていたとしたら、
その国産パワーアンプの欠点には気がつかずに、「いい音だ」と満足していただろう。

インバルの演奏(音といいかえてもいいと思う)と、その国産パワーアンプの音には共通するものがある。
先に、ピアニシモの音に力がない、と書いたが、これに通じることでは、
音の消え際をつるんとまるめてしまう、そんな印象をも受ける。
それに力がないから、だらっとしている。消えていくより、なくなっていく。

だから、ちょい聴きでは、「きれいな音」だと感じるが、決して「美しい音」とは、私は感じない。
長島先生も、「美しい」とは感じられないはずだ。

この手の音を、「ぬるい」「もどかしい」と感じるところが私には、どうもあるようだ。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その57)

同席していた編集者の一人は、バーンスタインのマーラーを聴いてひとこと、
「チンドンヤみたい」と呟いた。
そのときは、いきおいで、長島先生とふたりして、
「マーラーをわかっていないな」と、彼に対して言ってしまったが、
バーンスタインの感情移入の凄まじさを拒否する人もいるだろう。
そういう人にとっては、インバルのマーラーのほうが、ぴったりくるのかもしれない。

彼には彼なりのマーラーの聴き方があっただけの話だ。
だから、バーンスタインとインバル、どちらのマーラーが演奏として優れているのか、
普遍性をもち得るのか、を議論しようとは思わない。

聴き手の聴き方が違うだけのことであり、この聴き方の違いが、「音は人なり」へとつながっていくと思う。

同じ環境、同じ装置を与えられても、私と、バーンスタインのマーラーを「チンドンヤ」といった編集者とでは、
そこで響かせる音は、正反対になってとうぜんだろう。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その56)

長島先生が来られた。
試聴に入る前に、とにかくバーンスタインのマーラーを聴いてもらう。

さっき聴いたばかりの第5番をもういちど鳴らす。
冒頭のトランペットの鳴り出した瞬間から、長島先生が身を乗り出して聴かれている。
途中でボリュウムを下げる雰囲気ではない。1楽章を最後までかけた。

満足された顔で、どちらからともなく「インバルのをちょっと聴いてみよう」ということになり、
インバルのCDをかけた。すぐにボリュウムをしぼった。
長島先生と私は、インバルのマーラーを「ぬるい」と感じていた。もどかしい、とも感じていた。

インバルのマーラーは、バーンスタインのマーラーの前では聴く価値がない、といいたいわけでなはい。
長島先生と私が求めていたマーラーは、バーンスタインの演奏のほうだったというだけである。