Archive for category 真空管アンプ

Date: 10月 2nd, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その65)

真空管アンプでS/N比を高くするためには、ヒーター、フィラメントの直流点火がもっとも手っとり早い方法である。

けれど、以前から、直流点火よりも交流点火のほうが、ノイズは多いけれど音は良い、という人が少なくなかった。
プッシュプルアンプではハムは打ち消されるものの、シングルアンプでは、交流点火はノイズの増加だけでなく、
ハム対策もめんどうになってくる。
それでも、交流点火にこだわる人たちはいなくならない。

この項の(その25)で使った「遅れてきたガレージメーカー」がつくる管球式コントロールアンプでは、
三端子レギュレーターを使って定電圧の直流点火している。

交流点火よりも非安定化(定電圧回路を使わない)の直流点火、それよりも定電圧電源による直流点火のほうが、
リップル除去率は高くなるし、一見、ノイズは減っているように受けとめられている。

だが昔からの真空管アンプのマニアになればなるほど、三端子レギュレーターによる直流点火は、最悪だという。
最悪なのは、もちろん音に関して、である。
それも直熱管におけるフィラメントの点火だけでなく、傍熱管のヒーターの点火に関しても、
三端子レギュレーターに対して、ひじょうに厳しい。

直熱管における点火方法の違いによる音の変化は実際に試聴したことはないが、
傍熱管(電圧増幅管)では、その機会があった。

たしかに三端子レギュレーターでの直流点火の音は、聴くとがっかりする。

Date: 9月 30th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その64)

真空管アンプは、ソリッドステート(半導体)アンプにくらべて、真空管そのものの構造から、
どうしても物理的なノイズに関しては不利な面がいくつかある。

その代表的なひとつが、ヒーターおよびフィラメントの存在であり、その点火方法であろう。

ときどき、こんな記述をみかける。
「EL34のフィラメントが赤く灯り……」
書いているご本人は、ヒーターと表記せずに、あえてフィラメントとすることで、
言葉の雰囲気に酔われているのかもしれないが、真空管においてヒーターとフィラメントは異る。

フィラメントとは熱電子源である。つまり直熱管においてのみ、フィラメントは存在する。
ヒーターは熱源ではあるが、熱電子源ではない。ヒーターで熱せられたカソードから熱電子が放出されるからだ。

EL34やKT88などは、傍熱管だからヒーターであって、フィラメントは持たない。
ECC82、ECC83といった電圧増幅管も傍熱管だから、フィラメントはない。

これもチョークコイルを、わざわざチョークトランスと呼ぶ人がいるのと同じことなのかもしれない。
トランスは “transformer” であり、”transformer” の意味を調べれば、
チョークはコイルであってトランスではないことはすぐにわかる。

ヒーターよりもフィラメントと、コイルよりもトランスと、とあえて誤記することが、
字面のうえでかっこいい、と思っているのだろうか。

意味さえ通じれば、そんなこまかなことはいいじゃないか、という反論もあろうが、
そういうこまかなことをきちんとせずに、おろそかに取り扱っていたら、それはその人の音に出てしまう。

Date: 5月 16th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その63)

高級なノイズストレッチャー回路を通したような、とてもよく磨かれた汚れのないクリアーなイメージがある。
一種人工的な美しさといったらいいだろうか。

つづけて瀬川先生は、こんなふうに書かれている。あるパワーアンプについての記述である。
こういう音は、清潔感のある音、と表現されることも少なくない。

あるレベル以下の微小レベルの音をなくしてしまっているけれど、
ノイズはそれ以上になくしているから、ノイズという汚れのない、きれいな音であることはまちがいない。
この手の音のアンプは、気配を感じとりにくい。気配の再現力が弱かったりする。
だから、ときに、音楽が、いきなり唐突に鳴ってくる。
それを、静寂の中に音楽のみが現れた、とも表現することはできる。

けれど、私はそういう音に満足できない。
私だけではない、長島先生もそうだった。瀬川先生もそうであろう。

とにかくノイズを聴くのが嫌という人もいる。
ごくごく微小レベルの音が失われても、それ以上にノイズが減って、
耳につかなくなればそのほうが好ましい、とする人。

一方で、ノイズが多少出ていても、できるかぎりどんな微小レベルの音であろうと再現してほしい。
とにかく鳴ってくれれば、ノイズの中に埋もれがちであろうと、
耳を澄ますことで聴きとることができるから、という人。

ノイズの中から音を拾っていく。それは慣れていないと、しんどい。
理想は、ノイズのみがない音である。いっさい微小レベルの、どんなこまかな音も失われない音。
かなり近づきつつあるものの、それでもまだ、一部の高S/N比のアンプと評価をもらっているアンプの中には、
微小レベルの音を、きれいさっぱりなくしてしまっているものがあるように感じている。
もちろん、瀬川先生が書かれた時代からすると、「あるレベル」はずっと低いところにまできているけれど……。

Date: 5月 16th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その62)

瀬川先生が、こんなことを書かれている。
     *
ドルビー(ただし一般的なBタイプでなくプロ用のAタイプ)をはじめとするノイズリダクションシステムを通すと、ヒスノイズを含めてそこにまつわりつく何かよごれっぽい雑音がきれいさっぱりと除かれると共に、極めてわずかながら音の余韻の最後のデリケートな響きをあるレベル以下できっぱり断ち切ってしまうようなところもある。
     *
長島先生も、表現は異るものの、同じことをよく言われていた。

アンプ内部には、ドルビーシステムのようなノイズリダクション回路は存在しないが、
トランジスターや真空管といった増幅素子の並列仕様によるノイズの打ち消しにも、こういう面がある。

真空管アンプの場合、S/N比を高めるために、安易にヒーターをDC点火する。
なかには三端子レギュレーターを使い、より低インピーダンス・低リップルの直流点火を行っているものがある。
たしかにハムやノイズは低下する。きれいさっぱりな音になり、S/N比は測定上も、一聴すると聴感上も、向上している。

なにもハムやノイズが盛大に出ているのがいい、と言いたい訳ではない。
もちろんハムは確実に、ノイズもできるかぎり減らしていくべきではある。
けれど安易にノイズを減らすことだけに集中してしまうと、なぜノイズを減らすのかを忘れてしまっている。
そんな印象を受けるアンプがある。

大事なのは微小レベルの音、
瀬川先生の言葉をかりると「音の余韻のデリケートな響き」のきわめてわずかなところを、
どこまでクリアーに聴きとれるようにするか、である。

Date: 3月 2nd, 2010
Cate: 真空管アンプ, 音楽性

真空管アンプの存在(その60・余談)

モーツァルトのレクィエムを、はじめて聴いたのは、
カール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるディスク。
それからは、ワルター/ウィーン・フィル(ライヴ録音のほう)、カラヤン/ウィーン・フィル、
クイケン、バーンスタイン、ジュリーニ、ブリュッヘン、クリップス、ヨッフム、
それにブリテンなどを、聴いてきた。
ここにあげた以外にも少なからず聴いてきた。

すべてのディスクが、いま手もとに残っているわけではない。
どれが残っていて、どれを手ばなしたか、は書かない。

残ったディスクを見て思うのは、この曲において、どのディスクを手もとに置いておくのか、
それで、その人となりが、わずかとはいえ、くっきりと現われているのではないか。

もちろん、ほかの曲のディスクでも同じことは言えるのだが、
クラシックを主として聴くひとの人となりを、
モーツァルトのレクィエム、それとバッハのマタイ受難曲は、ひときわ明確にする。

そういう怖さがあり、この2曲において、「なぜ?」と思う演奏を好んで聴いているひとを、
信用しろ、というのは土台無理なことだ。

Date: 2月 26th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その61)

昨夜の(その60)を書きながら、タイトルは、
「Noise Control/Noise Designという手法」に変更しようかと迷った。

通常、ブログを書く時は、タイトルを書いて本文を書き始める。
新しいテーマのときは、その逆もあって、本文を書いている途中、書き終えたあとに、
タイトルを考え、つける。

続き物を書いているのに、途中でタイトルを変えることはないにもかかわらず、
昨夜は、どっちにしようかと迷ったし、
あえてほぼ同じ本文を2本書き、それぞれのタイトルをつけて、
最後の数行のみを変えるということも、ちらっと考えた。

モーツァルトのレクィエムにただよう、ある種の官能性を、オーディオ側でなくしてしまうのは、
やはり「ノイズ」とのかかわりのあることだと、書きながら思っていたからだ。

この項(その60)も、その意味では、境界が曖昧なところがある。

真空管アンプ(もちろんよくできたモノにかぎる)の良さ、
そのなかでも、ウェスターン・エレクトリックの真空管(もちろんすべてのモノではない)の独得の味わい、
これらは、ノイズと深く関わっている、と、ここ数年考えるようになってきた。

だから、高S/N比を実現するために、安易にノイズを打ち消すことは、避けるべきこと、と言い切ってしまおう。

長島先生が、ノイズの打消し手法について否定的だったのも、同じ理由からで、まちがいないはずだ。

Date: 2月 25th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その60)

モーツァルトの最後の作品、K.626には、ある種の官能性が感じられる演奏に出逢うときがある。

そういう官能性が希薄な演奏も、また多い。
どちらが優れた演奏なのかは、ここでは語らないが、
私個人としては、官能性が希薄な演奏には惹かれない傾向がある。

官能性といっても、この曲の性格からして、みょうにべとついていては困る。
官能性のうちに、清潔感がなくてはならない、とも思う。

薄汚れてしまっている官能性も困るが、消毒しすぎてしまっては、おわりだ。
ただ、この官能性は、演奏だけの問題にとどまらず、アンプの性格によっても変ってくる。

アンプによっては、官能性をきれいさっぱり洗い流してしまうものがある。

Date: 1月 12th, 2010
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その59)

「きれいさっぱり」という表現がある。

きれいさっぱりに洗った、という場合には、汚れの落とし忘れもなく、清潔なこと。
きれいさっぱりあきらめた、という使い方もある。
潔くあきらめて、さっぱりしている、という意味だ。
また、何もかも失ってしまったときにも、きれいさっぱり、を使うこともある。

洗濯の例のようによい意味で使われることもあれば、そうでない使い方もある。

バーンスタインのマーラーには、きれいさっぱり、という表現はまったく無縁だ。
インバルのマーラーには、きれいさっぱり、という言葉を使いたくなる、なにかを感じる。
というより、何かがたりないから、そう感じる、といったほうが正しい。

きれいさっぱりな音のアンプ、は、褒め言葉ではない。
そう受けとる人もいるかもしれないが、音の表面的な綺麗さにこだわるあまり、
なにか大事なものまで捨ててしまった音、そんな意味が含まれている。

バーンスタインの感情移入の凄まじさは、ある種のノイズなのかもしれない。
その「ノイズ」は、人によっては、音の汚れとして、または、きわどい音として受けとめるのか……。

バーンスタインのマーラーの第5番を「チンドンヤみたい」と受けとめた編集者にとっては、
バーンスタインの発する「ノイズ」は、単なる汚れにしかすぎなかったのか。
だから、その種の「ノイズ」をきれいさっぱりと洗い流したインバルのマーラーを選ぶのか……。

その一方で、きれいさっぱりなものに物足りなさを感じる者も、またいる。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その58)

絶対にあり得ないことと、はじめにことわっておくが、もし長島先生が、
バーンスタインよりもインバルのマーラーを高く評価される人だとしたら、
この項の(その50)(その51)に書いた国産パワーアンプを、高く評価されていただろう。

私にしても、インバルのを好む耳(感性)をもっていたとしたら、
その国産パワーアンプの欠点には気がつかずに、「いい音だ」と満足していただろう。

インバルの演奏(音といいかえてもいいと思う)と、その国産パワーアンプの音には共通するものがある。
先に、ピアニシモの音に力がない、と書いたが、これに通じることでは、
音の消え際をつるんとまるめてしまう、そんな印象をも受ける。
それに力がないから、だらっとしている。消えていくより、なくなっていく。

だから、ちょい聴きでは、「きれいな音」だと感じるが、決して「美しい音」とは、私は感じない。
長島先生も、「美しい」とは感じられないはずだ。

この手の音を、「ぬるい」「もどかしい」と感じるところが私には、どうもあるようだ。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その57)

同席していた編集者の一人は、バーンスタインのマーラーを聴いてひとこと、
「チンドンヤみたい」と呟いた。
そのときは、いきおいで、長島先生とふたりして、
「マーラーをわかっていないな」と、彼に対して言ってしまったが、
バーンスタインの感情移入の凄まじさを拒否する人もいるだろう。
そういう人にとっては、インバルのマーラーのほうが、ぴったりくるのかもしれない。

彼には彼なりのマーラーの聴き方があっただけの話だ。
だから、バーンスタインとインバル、どちらのマーラーが演奏として優れているのか、
普遍性をもち得るのか、を議論しようとは思わない。

聴き手の聴き方が違うだけのことであり、この聴き方の違いが、「音は人なり」へとつながっていくと思う。

同じ環境、同じ装置を与えられても、私と、バーンスタインのマーラーを「チンドンヤ」といった編集者とでは、
そこで響かせる音は、正反対になってとうぜんだろう。

Date: 9月 12th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その56)

長島先生が来られた。
試聴に入る前に、とにかくバーンスタインのマーラーを聴いてもらう。

さっき聴いたばかりの第5番をもういちど鳴らす。
冒頭のトランペットの鳴り出した瞬間から、長島先生が身を乗り出して聴かれている。
途中でボリュウムを下げる雰囲気ではない。1楽章を最後までかけた。

満足された顔で、どちらからともなく「インバルのをちょっと聴いてみよう」ということになり、
インバルのCDをかけた。すぐにボリュウムをしぼった。
長島先生と私は、インバルのマーラーを「ぬるい」と感じていた。もどかしい、とも感じていた。

インバルのマーラーは、バーンスタインのマーラーの前では聴く価値がない、といいたいわけでなはい。
長島先生と私が求めていたマーラーは、バーンスタインの演奏のほうだったというだけである。

Date: 9月 11th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その55)

旧録音の、ニューヨークフィルとのマーラーに、特別な感慨はなかったが、
それでも1970年代後半からのウィーンフィルとのベートーヴェン、
1980年代前半、デジタル録音で、やはりウィーンフィルとのブラームスを聴いて、
バーンスタインという指揮者に、つよい関心をもつにいたった。

1985年、イスラエルフィルと来日したときも、聴きにいくほど、
バーンスタインの熱心な聴き手になりつつあった。

つまり、新録音のマーラーに対して、あまり関心がないとはいいつつも、
もしかしたら、という期待ももっていた。
第1楽章の、トランペットのファンファーレが鳴る。
この時点で、インバルの演奏とは、空気がまったく違っていた。

漠然と、こういうマーラーが聴きたいと思っていた以上のマーラーが、響いてきた。
無性に嬉しかった。1楽章を聴き終えたところで、そろそろ長島先生が来られる時間となった。

Date: 9月 10th, 2009
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(その54)

バーンスタインが、ドイツ・グラモフォンにてマーラーの全集の再録音にとりかかったことは知っていた。
けれども、CBS時代の、ニューヨーク・フィルとのマーラーをいくつか聴いてみても、
すでに私がマーラーを積極的に聴きはじめたときには、もっと新しい録音で、
他の指揮者による演奏がいくつも出始めていただけに、格段魅力的な演奏とは感じなかったこともあって、

新録音には、ほとんど関心がなかった。

それでも第4番と5番が出たときには、もうインバルの演奏は聴きたくない、という反動から、
試しに買ってみるか、という軽い気持で手にした。

ちょうど午後から長島先生の試聴がはいっている日の、昼休みの時間のことである。
会社に戻り、すぐに試聴室に行く。
すでに、試聴準備は午前中にすませていたし、電源も入れっぱなしでウォームアップもしている。
CDさえセットすれば、すぐに聴ける状態になっている。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その53)

長島先生は、はっきりしておられた。
微小レベルの変化に鈍感なモノは、いくら愛情をもって使いこなそうとも、
鈍感なものは鈍感なままで、決して敏感、鋭敏になることはない。
本質は変らないからだ。

オーディオ機器だけでなく、演奏に関しても、そのことは共通していた。

1980年代後半、ステレオサウンドでも、よく試聴に使っていたエリアフ・インバルによるマーラーの交響曲。
第4番と5番は、なんど聴いたことか。
特集の試聴でも使い、新製品の試聴でも使う。
すべての試聴に立ち会っていた私は、おそらく当時、
もっともインバルのマーラー(一部だけだが)を、聴いた者だっただろう。

正反対のマーラーを聴きたいという欲求がたまりはじめていた。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: 真空管アンプ, 長島達夫

真空管アンプの存在(その52)

「音の色数」「色彩」ということばからもわかるように、長島先生は、音の変化に対して、
鋭敏であるものを好まれていたし、その点を、集中して鋭敏に聴きとろうとされていた。

「オーディオで原音再生はとうてい無理」──、そう長島先生は言われていた。
けれど、ほんのわずかな変化にも鋭敏な音がきちんと出てくれば、
「ぼくは錯覚できる、ナマを感じる」とも言われていた。

音の帯域的なバランスがすこしおかしかろうと、微小レベルの音の変化が出ていれば、
音楽にのめり込んで、聴かれていた。

だからこそ、一見きれいな音を聴かせようが、見事な帯域バランスをもっていようが、
その点に鈍感なものに関しては、手厳しい評価を下されていた。