Archive for category 組合せ

Date: 11月 24th, 2015
Cate: 組合せ

石積み(その2)

石を同じ形、同じ大きさに切り出す。
それを積み上げていき、あいだにモルタルやコンクリートを流し込んですきまを埋めていく。
ようするにレンガを積んでいくにと同じようにやるのが、
石積みとしては合理的なのかもしれない。

空積みは、無駄の多いやり方になるだろう。

石を積んでいこうとする者にとって、
見事な空積みが目の前にあったとして、手本となるのだろうか。

どんなに見事な空積みであっても、
それを見ながら同じ石積みを行うことはできない。

空積みは石を加工しない。
自然の石をそのまま使い積み上げていくのだから、
似た形、大きさの石はあっても、同じ形、同じ大きさの石はないのだから。

不揃いの石を積んでいく。
モルタルもコンクリートも使わずに、不揃いの石を積んでいく。

Date: 8月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その7)

ステレオサウンド 43号の特集はベストバイだった。
このころのステレオサウンドには毎号必ずアンケートハガキがついていた。
42号のアンケートハガキは、ベストバイ・コンポーネントの投票用紙だった。

スピーカーシステムから始まって、プリメインアンプ、コントロールアンプ、パワーアンプ、
チューナー、アナログプレーヤー、カートリッジ、ターンテーブル、トーンアーム、
カセットデッキ、オープンリールデッキ、
それぞれのベストバイと思う機種のブランドと型番を記入していくものだった。

ずいぶん考えていたことを思いだす。
まだオーディオに興味をもちはじめて数ヵ月だったから、
それほど多くの機種について知っているわけではない。

記入にあたって最も参考にしたのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
スピーカーシステムは何にするか。
まずこれから考えた。

第一候補はJBLの4343だった。
このスピーカーシステムが、もっとも優れていることは感じていた。
ベストバイとはいえ、自分で買える機種を選ぶつもりはなかった。

それでも「JBL 4343」とは記入しなかった。
私が、どちらにするか最後まで迷ったのは、
キャバスのBrigantinかロジャースのLS3/5Aだった。

なぜこの二機種かといえば、「コンポーネントステレオの世界 ’77」の影響である。
井上先生の組合せを何度も読み返し、記入した。

43号には「読者の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント」というページがあった。
スピーカーシステムの一位は4343だった。505票集めていた。
発表されていたモノで票数が最も少なかったのは8票で、四機種がそうだった。

私が記入したスピーカーは8票以下だったようで、掲載されていなかった。

Date: 8月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その6)

雑誌の編集者であれば、関心・興味のない記事でも、場合によっては担当することもある。
けれど川崎先生の「アナログとデジタルの狭間で」の担当編集者は、そうではなかった。

彼は、金沢21世紀美術館で開催された川崎先生の個展に出かけている。
たしか連載が終ってからだったはずである。

押しつけられて担当していたわけではなかったはずだ。
強い関心・興味は、その時点までは少なくとも持っていたはずだ。

そのことを知っているから、どうしてもいいたくなる。
あれから約十年である。

人は生きていれば取捨選択を迫られるし、意識的無意識的に取捨選択をやっている。
十年のあいだにも、いくつもの取捨選択が、誰にでもある。
そこで何を選ぶのか。

現ステレオサウンド編集長が、十年のあいだに何を選んだのかは私にはまったくわからない。
でも、彼が何を捨て去ったのか……、
そのうちのひとつだけはわかる。

それがいまの間違った編集へとつながっていっているのではないのか。

Date: 8月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その5)

この項に関しては、(その3)までで、
言いたいことはいってしまっている。
その4)を書きながら、ここからは蛇足かもしれない、と思っていた。

受動的試聴と能動的試聴、そして川崎先生の「応答、回答、解答」のブログへのリンク。
編集を真剣に考えている人であれば、
これだけでステレオサウンドの編集の何が間違っているのかに気づくはずだから、
その先を書く必要はないといえば、そうである。

ステレオサウンド編集部が、194号の特集の何が間違っているのかに、
だから気づくのかといえば、そうではない、といわざるをえない。

なぜ気づかないのか。不思議でならない。
いまのステレオサウンド編集部には私より下の世代の人が中心のようだが、
私より少し年上の人もいる。
となれば世代の違いが原因ではないだろう。

私がここで指摘していることは、ステレオサウンドのバックナンバーをしっかりと読んでいれば、
そして川崎先生のブログを読んでいれば、自ずと気づくことである。
それが編集者であり、ジャーナリストと呼ばれる人である。

オーディオ雑誌の編集者であり、ジャーナリストであると自認するのであれば、
ステレオサウンドのバックナンバーはしっかりと読んでいて当然である。
ただ読んだ、というレベルでなく、読み込んでいなければならない。

読み込んでいれば、
いま自分たちがやっている組合せの記事と、
以前のステレオサウンドの組合せの記事の違いに、はっきりと何が違うかまではわからなくとも、
何かが違うことだけはわかるはずである。

何かが違うとわかれば、より深く考える。
なのに……、と思う。
結局、バックナンバーを読み込んでいない、としか思えない。

そして川崎先生のブログ。
現ステレオサウンドの編集長だけには、いっておきたい。
わずか五回で終了してしまった川崎先生の連載「アナログとデジタルの狭間で」、
この担当者が、いまのステレオサウンドの編集長であるからだ。

連載がなくなれば、関心も興味もなくしてしまうのか、と。

Date: 8月 10th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その4)

別項で、ステレオサウンド 99号での予算30万円の組合せについてすこしだけ触れた。

この記事を誰が書いたのかについてはあえて触れなかった。
書いた人について書きたいわけではなかったからだ。

いまステレオサウンドに書いている人の誰でもいい、
99号と同じ質問に対する回答として、どんな組合せを提示できるのかといえば、
ほとんど同じレベルであることが予測できるから、その人ひとりについて書こうとは思わない。

別項では、ステレオサウンド 56号での瀬川先生による予算30万円の組合せと比較した。

同じ予算30万円の組合せで、つくった人が違う(時代も違う)。
違うのは、それだけではない。
瀬川先生の56号での組合せは、回答としての組合せである。

99号での別の人の組合せは、表面的には回答としての組合せである。
読者からの質問に答えての組合せなのだから。

だが、私にはその組合せが回答としての組合せには思えない。
思えないからこそ、印象に残っていない(あまりにも印象に残らないから記憶していた)。

片方は回答としての組合せであり、もう片方はそうとはいえない組合せである。
すこし言い過ぎかなと思いつつも、それは応答としての組合せにすぎない。

同じことはステレオサウンド 194号の特集「黄金の組合せ」にも感じる。
あの誌面構成を含めて、応答としての組合せにすぎないものを「黄金の組合せ」と言い切っている。

最低でも「黄金の組合せ」は、回答としての組合せでなければならないのに。
だから(その1)で、間違っている、と書いた。
間違っている編集と言い切れる。

どうして、こうなってしまうのか。

Date: 8月 9th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その3)

受動的試聴と能動的試聴。
このふたつがあるのはわかっている、当然じゃないか、という反論があるかもしれない(ないかもしれない)。

いまのステレオサウンド編集部が、受動的試聴と能動的試聴に気づいていて、
その違いがどういうものかわかっているかもしれない。
可能性がまったくないとはいわない。

けれどもいまのステレオサウンドの誌面を見るかぎりは、
いまのステレオサウンド編集部はこのことに気づいていない、と判断できる。
気づいていて、その違いがわかっていたら、ああいう誌面構成にはならないからだ。

では以前のステレオサウンド編集部は気づいていたのか、わかっていたのか。
私がいたころの編集部では、受動的試聴、能動的試聴という言葉では一度も出なかった。
気づいていなかった、といっていいだろう。

それ以前の編集部はどうだろうか。
はっきりとはわかっていなかった、と誌面を見る限りはそう思える。
けれど、いまのステレオサウンド編集部よりは、なんとなくではあっても感ずるものがあったのではないか。

それは編集部が、というよりも、筆者がなんとなく気づいていた、というべきなのかもしれない。

私はそういう誌面構成のステレオサウンドをもっとも熱心に読んできた。
だからこそ、組合せの記事に対する違和感は、人一倍感じるのかもしれない。

──と書いているが、私が受動的試聴、能動的試聴に気づき、はっきりと考えるようになったのは、
そんなに以前のことではない。数年前のことだ。

川崎先生が、応答、回答、解答についてブログで書かれている。
これを読んでから、である。

Date: 8月 9th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その12)

瀬川先生は、
マイケルソン&オースチンのパワーアンプによる4350Aのバイアンプ駆動の組合せで、
コントロールアンプはアキュフェーズのC240を、やはり選ばれるのか……、とも思う。

4343やアルテックの620Bの組合せでは、C240とTVA1の組合せは好ましい。
けれど、ここでの組合せは4350Aであり、しかもバイアンプである。

低域用にもTVA1をもってこられるとしたら、コントロールアンプはC240ですんなりと落着くと思う。
だが低域用にはM200である。
となると、もしかするとマークレビンソンのML6という可能性もあったのではないか……、そんな気もしてくる。

ML6だったとしたら、エレクトリックデヴァイディングネットワークはLNC2になる。
ML6がモノーラル仕様だからLNC2もモノーラルにされるかもしれない。
M200もモノーラル仕様だからだ。
となると、中高域用のTVA1も贅沢に片チャンネルのみ使用するということになるかもしれない。

コントロールアンプがC240だったら、こんなことはされないと思うが、
ML6をもし選択されたのであれば、ここまでいかれたのではないか。

そんな気がするのは、オール・レビンソンによるバイアンプ駆動の音を「ひとつ隔絶した世界」と表現され、
M200の音の切れ味に関して、次のように書かれているからだ。
     *
切れ味、という点になると、このアンプの音はもはや剃刀のような小ぶりの刃物ではなく、もっと重量級の、大ぶりで分厚い刃を持っている。剃刀のような小まわりの利く切れ味ではない。力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力を持っている。
     *
この音の切れ味は、レビンソンの音の切れ味と対極にある。
《どこまでも音をこまかく分析してゆく方向に、音の切れこみ・切れ味を追求するあまりに、まるで鋭い剃刀のような切れ味で聴かせるのが多い。替刃式の、ことに刃の薄い両刃の剃刀の切れ味には、どこか神経を逆なでするようなところがある》、
この傾向がもっとも強いといえるのが、この時代のマークレビンソンのアンプの音だった。

「ひとつ隔絶した世界」と対極にあるもうひとつの「ひとつ隔絶した世界」を、
マイケルソン&オースチンのTVA1とM200のバイアンプ駆動によって、
4350Aから抽き出すことができるのであれば、そこまで瀬川先生は試されたような気がする。

《力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力》は、
内蔵ネットワークでの4343以上に研ぎ澄まされるはずである。

4350Aではウーファーにはネットワークが介在しない。
しかもダブルウーファーである。
《力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力》は、力を込めれば丸太をまっ二つにできる底力になるはずだ。

大ぶりの分厚い刃は、より鍛え抜かれたものになるのではないか。
それがどういう音なのか、想像するのが楽しくてならない。

Date: 8月 8th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その2)

アンプの試聴の場合、
アンプ以外のオーディオ機器、
スピーカーシステム、CDプレーヤー(もしくはアナログプレーヤー)をそのままである。
アンプだけを換え、他はいっさい変えないようにして試聴を行う。

組合せの場合はどうだろうか。
スピーカーの選択から始まることもある。
スピーカーが決っていれば、アンプの候補をいくつか選び、それらをつなぎ替えて聴いていく。
アンプが決ったら、いくつかのCDプレーヤーの候補を聴いていく。

すべての組合せの試聴がそうだとは限らないが、
おおまかな流れとしてはアンプを決める。

ということはアンプを決めるための試聴は、
ステレオサウンドが行っているアンプの徹底試聴となにが違うのか、ということになる。

スピーカーシステムは、一般的な試聴の場合には試聴室に常備されているリファレンススピーカーで行う。
組合せの場合は、対象となるスピーカーが変る。

つまり組合せにおけるアンプの選択のための試聴はと、
一般的なアンプの試聴との違いは、スピーカーが違うということだけなのか。

ならばアンプが決ったあとにCDプレーヤーをいくつか聴くのは、
いつものCDプレーヤーの試聴とはアンプとスピーカーが違うだけなのか。

つまり組合せの試聴とは、
いつもの試聴とは使用機材が違うだけなのか──、そういえる面がある。

それでも一般的な試聴と組合せの試聴には、大きな違いがある。
一般的な試聴は、いわば受動的な試聴であり、
組合せの試聴は、能動的な試聴である。

ここで勘違いをしないでほしい。
受動的試聴より能動的試聴のほうが上だとか、受動的試聴はいらない、といいたいわけではない。

受動的試聴、能動的試聴、どちらも必要なことである。

Date: 8月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その1)

このブログをお読みになっている方で、私よりも若い世代だと、
もしかすると、昔はそんなによかったのか、いまはそれほどでもないのか、
そんなふうに受けとめられているようにも思っている。

私は、私が体験してきた昔がよかった、
だからいまは昔よりももっとよくあるべきだと思っている。

オーディオ機器に関しては、悪くなっているところもあるし、そうでないところある。
よくなっているところもある。

だから、オーディオの行く末に絶望はしてはいないし、希望ももっている。
けれど、オーディオジャーナリズムに関してはそうとはいえない。

短期的にみれば悪くなったり良くなったりする。
でも長期的にみればよくなっている──、
そうであってほしいと願っているのだが、確実にひどくなっていると断言できる。

オーディオジャーリズムに携わっている人たちは、そんなことはない、というであろう。
それでも断言しておく、ひどくなっている、と。

ステレオサウンドは194号の特集で、黄金の組合せを行なっている。
194号は春号ということもあってだろう、誌面を刷新している。
そういうなかでの特集なのだから、編集部も力が入っているとみていいだろう。

しかも「黄金の組合せ」である。
少しは期待していた。
けれど期待はやはり裏切られた。

ひどい特集とまではいわない。
けれど間違っている編集である、といっておこう。

194号の特集を見て、ステレオサウンド編集部、そしてオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
組合せをどう考えているのか、そして組合せの試聴をどう捉えているのか。
そのことについて考えてしまった。

同時に編集部も組合せの捉え方が、私が面白いと感じながら読んでいたころの組合せの記事の時代とは、
あきらかに違ってしまっている。

違っていることは必ずしも悪くなっていることとはいえない。
けれど、ステレオサウンド 194号の「黄金の組合せ」を見ると、間違っているといえるし、
組合せという試聴と、いわゆる一般的な試聴との違いも編集部ははっきりと把握していない。
残念ながらそうとしか思えない記事づくりであった。

いままでオーディオジャーリズムについて書く時、
意識的にぼかしていたところがある。
何がどう悪くなったのか、なぜ悪くなったのか、
ではどうすればいいのか。そういったことはぼかしていた。

それはオーディオジャーリズムに携わっている人たちが自ら気づくべきことであって、
他から指摘されたところで改善はしない、という考えからであった。

でも194号の「黄金の組合せ」を見て、少しははっきりとさせていこうと考えを改めた。
それはひどいからではなく、間違っているからである。

Date: 7月 23rd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その11)

「コンポーネントステレオの世界 ’80」でM200(B200)のことを書かれているが、
このときのコントロールアンプについては何も書かれていない。

M200は自宅で試聴されているから、
瀬川先生が自宅で使われていたコントロールアンプとなると、
マークレビンソンのLNP2とML6、それにアキュフェーズのC240である。

このころのステレオサウンドを読まれていた方ならば、
TVA1とC240のペアを、《近ごろちょっと類のない素敵な味わい》と評価されているから、
C240の可能性が高い。

けれどTVA1とM200は出力管の種類も数も違うから、
もしかするとマークレビンソンだったかもしれない可能性は捨てきれないが、
4350Aで、オール・レビンソンによる世界と対極にある音の世界を求めてということになれば、
C240をコントロールアンプにされるだろう。

マルチアンプドライヴで要となるエレクトロニッククロスオーバーネットワークはどうされるか。
オール・レビンソンではLNC2を、片チャンネルを遊ばせたモノーラル使いだった。

ここではコントロールアンプがアキュフェーズだから、
同じアキュフェーズのF5だろうか。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」で瀬川先生は4343のバイアンプドライヴをやられている。
ここでは予算100万円の組合せから、200万円、400万円とステップアップするもので、
最終的に4343を、コントロールアンプはML6、パワーアンプはアキュフェーズのP400、
エレクトロニッククロスオーバーネットワークは、同じアキュフェーズということでF5を選ばれている。

ただしヤマハのEC1も候補にあげられていた。
そして、どちらにしようか、いまも迷っている、と発言されている。

F5はクロスオーバー周波数を別売のクロスオーバーボードを差し替えて行なう。
EC1はクロスオーバ周波数を細かく、ツマミでいじれるようになっている。
F5の減衰特性は-12dB/octと-18dB/octに対し、EC1は-6dB/octの選択できる。
それに-12dB/oct時のQ特性も05〜1.0のあいだで連続可変となっている。

だから瀬川先生は、
《ぼくはこういったところをいじるのが好きですから、こちらの方を気に入っている》といわれている。
だからEC1を選択された可能性もある。ただしEC1には250Hzという、4350にぴったりの値はない。
4350の場合、EC1だとクロスオーバー周波数が200Hzになってしまう。

アキュフェーズからは、F5の上級機にあたるF15が、M200から遅れて登場している。
組合せをつくる時期によっては、F15、それからエスプリのTA-D900も候補にはいってくる。

4343をTVA1二台でバイアンプというのであればF5でもいいと思うけれど、
4350を、それも低域にはM200をもってくるバイアンプでは、正直F5ではなくF15にしたいところだ。

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その10)

瀬川先生はステレオサウンド 52号で、書かれている。
     *
 ところで、ML6の音は良いと思い、ML2Lの音にまた感心し、両者を組合わせたときの音の素晴らしさに惚れ込みながら、しかしその音だけでは十全の満足が得られないように思われる。それは一体何だろうか。
 おそらく、音の豊かさ、それも、豊潤(あるいは芳醇)とか潤沢とか表現したいような、うるおいも艶もそして香りさえあるかのような豊かさ。光り輝くような、それも決してギラギラとまぶしい光でなく、入念に磨き込まれた上品な光沢、といった感じ。
 そんなリッチな感じが、レビンソンの音には欠けている。というよりもレビンソン自身、そういう音をアンプが持つことを望んでいない。彼と話してみてそれはわかるが、菜食主義者(ヴェジタリアン)で、完璧主義者(パーフェクショニスト)で、しかもこまかすぎるほど繊細な神経を持ったあの男に、すくなくとも何か人生上での一大転換の機会が訪れないかぎり、リッチネス、というような音は出てこないだろうと、これは確信をもっていえる。
 いわゆる豊かな音というものを、少し前までのわたくしなら、むしろ敬遠したはずだ。細身で潔癖でどこまでも切れ込んでゆく解像力の良さ、そして奥行きのある立体感、音の品位の高さと美しさ、加えて音の艶……そうした要素が揃っていれば、もうあとは豊かさや量感などむしろないほうが好ましい、などと口走っていたのが少し前までのわたくしだったのだから。たとえば菅野沖彦氏の鳴らすあのリッチな音の世界を、いいな、とは思いながらまるで他人事のように傍観していたのだから。
 それがどうしたのだろう。新しいリスニングルームの音はできるだけライヴに、そしてその中で鳴る音はできるだけ豊かにリッチに……などと思いはじめたのだから、これは年齢のせいなのだろうか。それとも、永いあいだそういう音を遠ざけてきた反動、なのだろうか。その詮索をしてみてもはじまらない。ともかく、そういう音を、いつのまにか欲しくなってしまったことは確かなのだし、そうなってみると、もちろんレビンソン抜きのオーディオなど、わたくしには考えられないのだが、それにしても、マーク・レビンソンだけでは、決して十全の満足が得られなくなってしまったこともまた確かなのだ。
     *
そして53号で、オール・レビンソンによる4343のバイアンプの音を聴かれて、書かれている。
     *
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
 けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
 だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
 そう思ってみてもなお、ここで鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。
     *
サンスイのショールーム、スイングジャーナルの試聴室での4350のオール・レビンソンによる音を聴かれ、
自身のリスニングルームで自身の4343を、4350と同じラインナップで鳴らされている。
その感想を、53号に書かれている。

オール・レビンソンの音を「ひとつ隔絶した世界」と認めながらも、
そこに決定的に欠けているものを求めようとされている。

ちょうどそのころにマイケルソン&オースチンのTVA1が登場している。

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その9)

「4350の組合せ」について書こうとしたのは、
井上先生が4350Aを所有されていたこと、井上先生ならばどういうシステムで鳴らされたのか。
そのことを考えていたからである。

最初はそのことについて書く予定だったのが、書いていくうちに書きたいことが出てくる。
瀬川先生はオール・レビンソンの組合せだったわけだが、
こんな組合せもつくられたのではなかろうか……、そうおもえることがある。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭の冒頭を読んでほしい。
     *
 秋が深まって風が肌に染みる季節になった。暖房を入れるにはまだ少し時季が早い。灯りの暖かさが恋しくなる。そんな夜はどことなく佗びしい。底冷えのする部屋で鳴るに似つかわしい音は、やはり、何となく暖かさを感じさせる音、だろう。
 そんなある夜聴いたためによけい印象深いのかもしれないが、たった昨晩聴いたばかりの、イギリスのミカエルソン&オースチンの、管球式の200ワットアンプの音が、まだわたくしの身体を暖かく包み込んでいる。
 この200ワットアンプは、EL34/6CA7を8本、パラレルPPでドライヴするモノフォニック構成の大型パワーアンプで、まだサンプルの段階だから当分市販されないらしいが、これに先立ってすでに発売中のTVA1という、KT88・PPの70ワットのステレオ・パワーアンプの音にも、少々のめり込みかけていた。
 近ごろのТRアンプの音が、どこまでも音をこまかく分析してゆく方向に、音の切れこみ・切れ味を追求するあまりに、まるで鋭い剃刀のような切れ味で聴かせるのが多い。替刃式の、ことに刃の薄い両刃の剃刀の切れ味には、どこか神経を逆なでするようなところがあるが、同じ剃刀でも、腕の良い職人が研ぎ上げた刃の厚い日本剃刀は、当りがやわらかく肌にやさしい。ミカエルソン&オースチンTVA1の音には、どこか、そんなたとえを思いつかせるような味わいがある。
 そこにさらに200ワットのモノ・アンプである。切れ味、という点になると、このアンプの音はもはや剃刀のような小ぶりの刃物ではなく、もっと重量級の、大ぶりで分厚い刃を持っている。剃刀のような小まわりの利く切れ味ではない。力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力を持っている。
 たとえば、少し前の録音だが、コリン・デイヴィスがコンセルトヘボウを振ったストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス)。その終章近く、大太鼓のシンコペーションの強打の続く部分。身体にぴりぴりと振動を感じるほどの音量に上げたとき、この、大太鼓の強打を、おそるべきリアリティで聴かせてくれたのは、先日、SS本誌53号のための取材でセッティングした、マーク・レビンソンML2L2台のBTL接続での低音、だけだった。あれほど引締った緊張感に支えられての量感は、ちょっとほかのアンプが思いつかない。ミカエルソン&オースチンB200の低音は、それとはまた別の世界だ。マーク・レビンソンBTLの音は、大太鼓の奏者の手つきがありありとみえるほどの明解さだったが、オースチンの音になると、もっと混沌として、オーケストラの音の洪水のようなマッスの中から、揺るがすような大太鼓の轟きが轟然と湧き出してくる。まるで家全体が揺らぐのではないかと思えるほどだ。
 B200の音の特徴は、もうひとつ、ピアノの打音についてもいえる。もう数年前から、本誌での試聴でも何度か使ってきた、マルタ・アルゲリチのショパンのスケルツォ第2番(グラモフォン)の打鍵音は、ふつうとても際どい音で鳴りやすい。とくに高音の打鍵ほど、やせて鋭い人工的な鳴りかたになりやすい。しかしB200では、現実のピアノで体験するように、どんな鋭い打鍵音にもそのまわりに肉づきの豊かな響きが失われない。ただ、アルゲリチ独特の──それを嫌う人も多いらしいが──癇性の強い鋭いタッチが、かなり甘くソフトになってしまう。まるで彼女の指までが肉づき豊かに太ってしまったかのように。それにしても、近ごろ聴いた数多くのアンプの中で、音の豊かさ、暖かさが、高域の鋭さまでを柔らかくくるみ込んでしまって、ピアノの高域のタッチをこれほど響きをともなって聴かせてくれるアンプは、ほかにちょっと思い浮かばない。いくら音量を上げても、刺激性の音がしない。それで、最後に、アース・ウィンド&ファイアの「黙示録」(CBSソニー)の中から、おそらくこれ以上上げられないと言う音量で二曲聴き終えたら、同席していた3人とも、耳がジーンとしびれて、いっとき放心状態になってしまった。あまり大きな音量だったので、玄関のチャイムが聴こえずに、そのとき友人が表でウロウロしていたのだが、遮音については相当の対策をしたはずのこの部屋でも、EWFのときばかりは、盛大に音が洩れていたらしい。
     *
この時は試作品だということで型番がB200となっているアンプは、マイケルソン&オースチンのM200のことだ。
EL34を八本使った出力段をもつこのアンプは200Wで、KT88プッシュプルのTVA1の約三倍の出力を持つ。

シャーシーはTVA1とM200は共通。TVA1がステレオ仕様に対してM200はモノーラル仕様。
出力トランスもM200のそれはTVA1の出力トランスのふたつ分の大きさとなっている。

瀬川先生はこのM200を低域用として、TVA1を中高域用として4350Aを鳴らされたのではないか。
そうおもえてくるのだ。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その8)

もう少し水にこだわって書けば、
マークレビンソンのML6とマッキントッシュのC29の違いには、のどごしの違いもあるように思う。
のどごしにも好みがあろう。

1995年ごろだったか、
日本にもフランスのミネラルウォーターの中で最も硬水といわれるコントレックスが輸入されるようになった。
いまではどのスーパーマーケットにも置いてあるし、
ディスカウントストアにいけば1.5ℓのペットボトルが150円を切っている。

いまから20年ほど前は扱っているところも少なかった。
そのころ祐天寺に住んでいたけれど、まわりの店にはどこにもなく、
隣の駅の学芸大学の酒屋で偶然見つけたことがある。
価格は1.5ℓで400円ほどしていた。

水の味といってもたいていは微妙な違いであるが、
コントレックスは誰が飲んでも、味がついているとわかるくらいだった。
しかもたまたま遊びに来ていた友人に出したところ、硬くてのみ込みにくい、といわれた。

コントレックスののどごしが私は好きだったけれど、友人は苦手としていた。
音にも、水ののどごしに似た違いがある。

耳あたりのいい音とは、違う。
耳(外耳)を口だとすれば、鼓膜が舌にあたるのか。
耳は、音によって振動する鼓膜の動きを耳小骨を用いて蝸牛の中へと伝えるわけだから、
咽喉にあたるのは蝸牛か。
となると喉越しではなく蝸牛越しとでもいうべきなのか。

とにかく音ののどごしは、人によって気持ちよく感じられるものに差はあるだろう。
ある人にすんなりと受け容れられる音ののどごしを、別の人はものたりないと感じることだってあろう。
コントレックスのように、気持いいのどごしと感じる人もいれば、重すぎるのどごしと感じる人もいる。

こうやって書いていると、アンプの音とは水のようなものぬたと思えてくる。
オーディオではアンプの音だけを聴くことはできない。
スピーカーが必要だし、プログラムソースも必要となって音を聴けるわけだから、
水そのものの味を聴いているわけではないが、
水の味はコーヒー、紅茶を淹れるときにも関係してくるし、
ご飯を炊くのであっても水の味は間接的に味わっている。
料理もそうだ。

水そのものを直接口にしなくとも、
口にいれるコーヒー、や紅茶、料理を通して、われわれは水の味の違いを感じとれる。
アンプの音とは、そういうものだと思う。

そして、1981年夏、レコード芸術で始まった瀬川先生の連載、
「MyAngle 良い音とは何か?」を思い出す。

この連載は一回限りだった。
一回目の副題は「蒸留水と岩清水の味わいから……」だったのを思い出していた。

Date: 7月 19th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その7)

井上先生が4350Aの組合せをつくられている「コンポーネントステレオの世界 ’80」、
その前年の’79年版で、瀬川先生はこう語られている。
     *
ぼく自身がレコード再生に望んでいることは、もう少しシビアなものです。それをうまく説明できるか自信はあまりないんだけれども、つまり、レコード音楽を再生するには、まず音が美しくなければならない。これがぼくきゼタ以上件なんですね。
 音が美しいというと、ちょっと誤解をまねくかしれませんが、もちろん音楽のなかには、不協和音をもつもの、あるいはもっと極端にノイズ的な音を出すもの、また一部のロックやクロスオーバーのように音源側ですでに音が歪んでいるもの、そういうものがあるわけだけれど、それを再生した場合に、音楽のイメージをそこなわない範囲で、しかし美しく再生したい、ということです。このことは、よくしゃべったり書いたりしているんだけど、ぼくは再生というものは虚構のなかの美学だという意識をもっています。だから、出てくる音をより美しく磨き上げて出すということが、ぼくにとっては絶対の条件なんですね。
 それを第一とすると、第二の条件としては、虚構であるからこそ、本物よりもっと本物らしくあってほしい、本物らしさを意識したい、という気持がぼくにはある。つまり作りものだから、いっそう本物らしくあってほしい、ということですね。このことについて、かつて菅野沖彦さんがうまいたとえを使われたから、それを借用すると、プラモデルの正確な縮尺モデルというものは、ビスの頭ひとつとっても正確な縮尺で作られているべきなのかもしれないが、現実にそう作ったらビスなどは見えなくなる。だから、実物らしくみせるには、ときには正確さをゆがめることも必要なんだ、ということですね。
 オーディオ再生というのは、それと同じで、縮尺の作業だと思う。つまり6畳とか8畳の空間に百人をこすオーケストラが、入りこめるはずはないんです。そのオーケストラを縮小して、ぼくらは聴いているわけでしょう。そしてそういう狭い空間でも、コンサートホールで聴いているような雰囲気を再現することができるのは、縮尺しているからです。しかし、たとえば25分の1とか50分の1といった形で、物理的に正確な縮尺をとったら、さっきのビスの頭と同じで、聴こえなくなる音がいっぱい出てきます。そこでそれを、部分的に強調してやる。強調するという言葉に抵抗があるんだったら、レトリックといってもいいてしょう。レトリックの作業を行うわけです。いいかえると、オーディオ再生には、より生々しく感じさせるための最少限のレトリックが必要なんだ、と思う。そしてそれを十全に表現してくれるスピーカーが、ぼくにとって望ましいんです。
 したがって、いわゆる〈生〉と、物理的にイコールかどうかと測定の数値ばかりを追いかけたり、物理的に比較したりすることだけが、製作の最良の方法だと考えて作られたスピーカーは、ぼくには不満がのこります。音の美学といいたいところのものを、十分に理解したうえで作られたスピーカーでないと、ぼくは共感がもてないんです。
 そのことをさらに押しすすめていうと、これもぼくが口ぐせみたいにいっていることですが、音が鳴り出すと同時に、演奏している場と自分の部屋とか直結したような感じ、それがあるかどうかということです。それを臨場感とか音場感といった言葉でいっているわけだけれど、要するに、そこに楽器の音があるだけではなく、音の周辺にひろがっている空間までもが、自分の部屋で感じられるかどうか、それからより濃密に感じられるかどうか、ということですね。
     *
井上先生と瀬川先生がレコード音楽再生において望まれているものは、基本的には同じでありながらも、
細部において違いがある。

それはプラモデルの正確な縮尺モデルで、どの部分の正確さを歪めるかの違いではないだろうか。
最少限のレトリックが必要ではある。
その最少限のレトリックを、どの部分にもってくるのか──、
これによってコントロールアンプの選択がマークレビンソンのML6かマッキントッシュのC29か、
わかれてしまうのではないだろうか。

井上先生の組合せには400万円という予算の制約があり、
瀬川先生の組合せには予算の制約がないということも忘れてはならないことにしてもだ。

Date: 7月 15th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その6)

ステレオサウンド 52号で瀬川先生は、マークレビンソンのML6のことを書かれている。
     *
 新型のプリアンプML6Lは、ことしの3月、レビンソンが発表のため来日した際、わたくしの家に持ってきて三日ほど借りて聴くことができたが、LNP2Lの最新型と比較してもなお、歴然と差の聴きとれるいっそう透明な音質に魅了された。ついさっき、LNP(初期の製品)を聴いてはじめてJBLの音が曇っていると感じたことを書いたが、このあいだまで比較の対象のなかったLNPの音の透明感さえ、ML6のあとで聴くと曇って聴こえるのだから、アンプの音というものはおそろしい。もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。これがアンプの音のおもしろいところだと思う。
 ともかくML6の音は、いままで聴きえたどのプリアンプよりも自然な感じで、それだけに一聴したときの第一印象は、プログラムソースによってはどこか頼りないほど柔らかく聴こえることさえある。ML6からLNPに戻すと、LNPの音にはけっこう硬さのあったことがわかる。よく言えば輪郭鮮明。しかしそれだけに音の中味よりも輪郭のほうが目立ってしまうような傾向もいくらか持っている。
     *
また《ML6がML2Lの内包している音の硬さを適度にやわらげてくれる》とも書かれている。

瀬川先生と井上先生は、同じことをML6に関して言われている。
同時にふたりの違いもまた読み取れる。

4350Aではないが、4343の組合せを「続コンポーネントステレオのすすめ」でいくつかつくられている。
そのなかに4350Aの組合せとほぼ同じ例があり、
そこには「あくまでも生々しい、一種の凄みを感じさせる音をどこまで抽き出せるか」とある。

ここでの組合せはEMTのアナログプレーヤー950に、
アンプはマークレビンソンのML6とML2のペアである。

井上先生はリアリティのある音で聴きたいということでML6からマッキントッシュのC29に、
コントロールアンプを換えられた。
瀬川先生は、あくまでもパワーアンプにML2を使うことが前提ではあるものの、ML6を選択される。

《あくまでも生々しい、一種の凄みを感じさせる音》も、
リアリティのある音であり、それは《もはやナマの楽器の実体感を越えさえする》音でもある。

井上先生は「コンポーネントステレオの世界 ’80」で、C29とML6を水に例えられてもいる。
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たとえていうと、マークレビンソンの音が、きわめて純度の高い蒸留水だとすれば、マッキントッシュC29+MC2205の音は、鉱泉水、つまりミネラルウォーターのような、そんな味わいをもっています。自然の豊かさの魅力、とでもいったらいいでしょうか。
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アンプの音を水に例えるのは、瀬川先生も52号の「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」の最後でやられている。
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 アンプの音に、明らかに固有のクセのあることには、わたくしも反対だ。広い意味では、アンプというものは、入力にできるだけ正直な増幅を目ざすべきだ。それはとうぜんで、アンプがプログラムに含まれない勝手な音を創作することは、少なくとも再生音の分野では避けるべきことだ。
 しかし、アンプの音が、いやアンプに限らずスピーカーやその他のオーディオ機器一切の音が、蒸留水をめざすことは、わたくしは正しくないと思う。むろん色がついていてはいけない。混ぜものがあっても、ゴミが入っていても論外だ。けれど、蒸留水は少しもうまくない。本当にうまい、最高にうまい水は、たとえば谷間から湧き出たばかりの、おそろしく透明で、不純物が少なくて、純水に近い水であるけれど、そこに、水の味を微妙に引き立てるミネラル類が、ごく微量混じっているからこそ、谷あいの湧き水が最高にうまい。わたくしは、水の純度を上げるのはここまでが限度だ、と思う。蒸留水にしてはいけない。また、アンプの音が、理想の上では別として現実に蒸留水に、つまり少しの不純物もない水のように、なるわけがない。要は不純物をどこまで少なくできるかの闘いなのだが、しかし、谷間の湧き水のたとえのように、うまさを感じさせる最少限必要なミネラルを、そしてその成分と混合の割合を、微妙にコントロールしえたときに、アンプの音が魅力と説得力をもちうる。そういうアンプが欲しいと思う。そして水の味にも、その水の湧く場所の違いによって豊かさが、艶が、甘味が、えもいわれない微妙さで味わい分けられると同じように、アンプの音の差にもそれが永久に聴き分けられるはずだ。アンプがどんなに進歩しても、そういう差がなくならないはずだ。そこにこそ、音楽を、アンプやスピーカーを通じて聴くことの微妙な楽しみがある。
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私はC29もML6、どちらもミネラルウォーターだと思う。
ただ《その水の湧く場所の違い》があり、そのことによる含有されるミネラル類の量、割合に違いがある。
ML6は軟水のミネラルウォーターで、C29はML6よりは硬水という、そんな違いだと感じている。