Archive for category ステレオサウンド

Date: 8月 1st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その46)

ステレオサウンド 50号の巻頭座談会、
この最後に出てくる瀬川先生の発言は、当時の私には完全には理解できなかった、
というか、同意できなかったところがあった。
     *
瀬川 「ステレオサウンド」のこの十三年の歩みの、いわば評価ということで、プラス面ではいまお二方がおっしゃったことに、ぼくはほとんどつけたすことはないと思うんです。ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
 それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
 ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわですね。
 そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
 オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
     *
41号から読みはじめた私にとって、50号はちょうど10冊目のステレオサウンドにあたる。
二年半読んできて、熱っぽく読んでいた時期でもある。

だから瀬川先生の《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには》に、
完全に同意できなかったことを憶えている。

でも、ずっとオーディオを趣味としても仕事としてもやってこられた瀬川先生と、
オーディオに興味を持ちはじめてそれほど経っていない私とでは、
さまざまな捉え方、考え方が違ってあたりまえなのは頭でわかっていても、
このことは、心のどこかにひっかかったままになっていた。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その45)

ステレオサウンド 49号には、附録がついていた。
表紙写真傑作集としての1979年のカレンダーだった。
附録がついていて、1600円の定価はそのままだった。

カレンダーのコストがどれだけかかっていたのかはわからないが、
49号の誌面にカラーページが少ない理由のひとつには、このカレンダーがあるはずだ。

ただ、それでも……、と思う。
カレンダーは197号にも附録としてついていた。
197号にカラーページが少なかったということはない。
特集にはカラーページがたっぷりと使われている。
内容はステレオサウンド・グランプリ(つまり賞)である。

49号と197号。
定価も含めて比較してみると面白い。

49号の原田勲氏の編集後記には、賞という文字は登場しない。
     *
 もしもオーディオコンポーネントの高級品がこの世から全く消え去ったら……オーディオファイルにとってそれこそ闇だ。これはオーディオに限らない。どんな趣味であれ、優れた道具の持味はその趣味の感興を高める。そのことから〝趣味は道具につれ、道具は趣味につれ〟と言えなくもない。
 今回選定した〝ステート・オブ・ジ・アート〟の狙いは、オーディオコンポーネントにおける道具の理想のあり方を、実際の製品を通して語ろう、というところにある。無論、現実の製品が理想を実現しているというわけでは決してないが、少なくとも、「ステレオサウンド」誌の考えている、望ましいコンポーネントのありようは提示されているとおもう。
     *
STATE OF THE ARTという日本語には訳しにくい言葉をあえて選んで使ったのは、
当時編集長であった原田勲氏のはずだ。

何度でも書くが、STATE OF THE ART賞が現在のステレオサウンド・グランプリの始まりであり、
名称だけでなく、ずいぶんと変質してしまった、と思ってしまう。

Date: 7月 31st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その44)

ステレオサウンド 49号だけを見ているぶんには気づかなかったことが、
50号を手にして、49号の特集にはカラーページがなかった、と気づいた。

50号は創刊50号記念特集を謳っていた。
五味先生の「続・五味オーディオ巡礼」で始まり、特集のページに続く。
巻頭座談会として、井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の五氏による
『「ステレオサウンド」誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる』があり、
岡俊雄、黒田恭一、両氏による『「ステレオサウンド」誌に登場したクラシック名盤を語る』、
「オーディオ一世紀──昨日・今日・明日」(岡俊雄)、
「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」、
「オーディオ・ファンタジー 2016年オーディオの旅」(長島達夫)があった。

巻頭座談会、「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」にはカラーページがある。
50号のあとに49号にもどると、
49号には「続・五味オーディオ巡礼」はなく、特集から始まる。
しかもカラーページはない。

カラーページなしの特集は、ステレオサウンドにしては珍しい。
しかも49号の特集は、《第一回STATE OF THE ART賞》と、
これから先も続けていくことをはっきりと示している。

ステレオサウンドにとって初めての「賞」の特集であり、
今後も続けていくことを考えているのだから、
一回目は華々しくカラーページを使い……、と思いがちなのに、
カラーページが巻頭からまったく登場しない。

49号でカラーページがあるのは、「サウンドスペースへの招待」だけという、
記事の内容ではなく、パラパラと手にしたときの印象は、49号はどうしても地味になる。

想像してみてほしい。
いまのステレオサウンド編集部が、それまで賞をやってこなくて、
初めて賞のつく企画を開始するとしたら、大々的にカラーページを使って、
華々しい印象の誌面にするはずである。賞ということを全面的に押しだす。
49号は、なぜか地味な印象を与えるかのような誌面になっている。
つまり賞の企画であることが、STATE OF THE ARTの後にいるかのようにも感じさせる。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その43)

●瀬川冬樹
 ステート・オブ・ジ・アートという英語は、その道の専門家でも日本語にうまく訳せないということだから、私のように語学に弱い人間には、その意味するニュアンスが本当に正しく掴めているかどうか……。
 ただ、わりあいにはっきりしていることは、それぞれの分野での頂点に立つ最高クラスの製品であるということ。その意味では、すでに本誌41号(77年冬号)で特集した《世界の一流品》という意味あいに、かなり共通の部分がありそうだ。少なくとも、43号や47号での《ベストバイ》とは内容を異にする筈だ。
 そしてまた、それ以前の同種の製品にはみられなかった何らかの革新的あるいは斬新的な面のあること。とくにそれが全く新しい確信であれば、「それ以前の同種製品」などというものはありえない理くつにさえなる。またもしも、確信あるいは嶄新でなくとも、そこまでに発展してきた各社の技術を見事に融合させてひとつの有機的な統一体に仕上げることに成功した製品……。

●長島達夫
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉が一般に知られるようになったのは、マーク・レビンソンが自作のアンプにこの言葉を冠したのがきっかけになっていたように思う。この言葉を字義どおりに直訳してみると、「芸術の領域に達した」ということになるように思う。しかし、これは機械相手の場合、何か大仰すぎる表現であまりふさわしくない印象を受けてしまう。なぜ大仰でふさわしくない印象をもつのだろうか。それは多分、この言葉を冠する対象が道具としての器械だからだろう。これがもし「人」を対象にする場合なら、そのようには感じないのかもしれない。

●柳沢功力
“STATE OF THE ART”という言葉にこだわった、いいわけがましいことを書くのはやめよう。そう決めていたのだが、いざ書きはじめてみると、やはりこだわってしまう。選定のための票を投じ終えたいま、まだ、その言葉にこだわっているというのも、考えてみれば責任を問われそうな態度だが、どうも、その本来の意味が、ほくには理解できたようでもあり、できないようでもある言葉なのだ。
 たとえばこれがBEST BUY”ならこんなことはないだろう。それには〝お買い得〟というぴったりの日本語があるから、ところが”STATE OF THE ART”の方には、どうもぴったりの日本語が見当らない。

●山中敬三
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉は、わが国でこそ耳慣れないが、以前からアメリカを中心によく使われていた。私は、ステート・オブ・ジ・アートという言葉の本来の意味合いは、意訳かもしれないが、その時代において技術的に最高を極めた製品、というのが適当な訳だろうと思っている。元来、この言葉の持つ意味合いはかなり難しいもので、この言葉が使われ始めた頃には、よほどの製品でない限り、そのようには表現されなかったのであるが、最近、特にアメリカのオーディオ製品のランクを表わす言葉として、新しい着想で作られた技術の最先端をいくものに対して頻繁に使われるようになったために、最近ではさほど値打ちがなくなって、さらにエッジ・オブ・ジ・アートなどという言葉が作られるほど、一般化してしまった感がある。
 私は、今回ステート・オブ・ジ・アートを選出するに当って、やはりその言葉の原点に帰るべきだという気がする。そうでなければこの言葉の意義はまったく失われてしまうし、これだけ製品数の多い現状では選考基準をちょっとでも落すと非常に広範囲になってしまって、いわゆる〝ベストバイ〟というものと何ら違いはなくなってしまうという心配さえある。

書き出しだけだが、みな”State of the Art”をどう解釈するについて書かれている。
よく似た企画の41号の「世界の一流品」ならば、こうはならなかった。

もっといえば、最初からステレオサウンド・グランプリという名称であったなら、
「ステレオサウンド・グランプリ選定にあたって」の書き出しは、まったく違うものになっていたはずだ。

もしかすると名称の候補にステレオサウンド・グランプリは最初からあったのかもしれない。
けれど、これではラジオ技術のコンポグランプリの後追い・二番煎じと思われかねない。
ステレオサウンドの性格からして、それは最も避けたいことである。

“State of the Art”は、その役目を見事に果している。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その42)

ステレオサウンド 48号の特集の冒頭には、
岡先生の「Hi-Fiコンポーネントにおける《第一回STATE OF THE ART賞》の選考について」がある。

この岡先生の文章は、
《まず、〝ステート・オブ・ジ・アート〟という言葉から説明しなければなるまい》
で始まる。

岡先生の文章のあとに、
岡俊雄、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、柳沢功力、山中敬三、
原田勲の九氏の選考委員の「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」の、
それぞれの文章が続く。

それぞれの書き出しを引用しておく。

●井上卓也
 今回は、本誌はじめての企画であるTHE STATE OF THE ARTである。この選定にあたっては、文字が意味する、本来は芸術ではないものが芸術の領域に到達したもの、として、これをオーディオ製品にあてはめて考えなければならない。
 何をもって芸術の領域に到達したと解釈するかは、少しでも基準点を移動させ拡大解釈をすれば、対象となるべきオーディオ製品の範囲はたちまち膨大なものとなり、収拾のつかないことにもなりかねない。それに、私自身は、かねてからオーディオ製品はマスプロダクト、マスセールのプロセスを前提とした工業製品だと思っているだけに、THE STATE OF THE ARTという文字自体の持っている意味と、現実のオーディオ製品とのギャップの大きさに、選択する以前から面はゆい気持にかられた次第である。

●上杉佳郎
 私は,今も昔もオーディオマニアであることに変りはないのだが、過去においてメーカーに籍を置き、アンプ回路の設計を担当していた経験があるし、現在でも私の会社の上杉研究所で設計開発を行なっている関係上、どうしてもユーザー側の立場よりも、設計者的立場に片寄って物を見てしまう傾向がある。
 そのために、今回の〝ステート・オブ・ジ・アート〟選考に当って、私が最も重視した点は、〝経時変化〟ということになる。この経時変化に注意した、などというと不思議に思われる方がおられるかもしれないので、少し説明しておきたい。

●岡俊雄
 ステート・オブ・ジ・アートというものう、単にオーディオ機器における〝名器〟と同義語に解釈することには問題があるだろう。
 やはり技術的初産としての高度に達成されたものでなければならないし、その達成のされかたに、何らかのかたちで、オリジナリティというものをもっていなければなるまい。もちろん名器的な性格はそのなかに自ずと含まれてくることは必然的である。
 そのことをつきつめて考えてゆくと、オーディオ機器における〝名器〟とは何か、〝ステート・オブ・ジ・アート〟とは何か、という論文を書かなければならないことになってしまう。

●菅野沖彦
 ステート・オブ・ジ・アートという言葉が工業製品に対して使われる場合、工業製品がその本質であるメカニズムを追求していった結果、最高の性能を持つに至り、さらに芸術的な雰囲気さえ漂わせるものを指すのではないか、と私は解釈している。「アート」という言葉は、技術であると同時に美でもあり、
芸術でもあるという、実に深い意味を持っている。しかし、日本語にはこの単語の持つ意味やニュアンスを的確に訳出する言葉がないこともあって、実にむずかしい言葉ということができる。

Date: 6月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その41)

当時は気づきもしなかったし、だから考えもしなかったけれど、
ステレオサウンド 49号の特集が「Hi-Fiコンポーネント《第1回STATE OF THE ART賞》選定」が、
もし違うタイトルだったら……、49号に対する印象は変ってきたと思う。

《STATE OF THE ART賞》はステレオサウンドが初めて行なう「賞」である。
オーディオ雑誌では、すでにラジオ技術がコンポグランプリを毎年行なっていた。
スイングジャーナルでは、毎年レコードのに賞を与えていた。

ラジオ技術のコンポグランプリが生れてきた背景は、
ステレオサウンドを離れてけっこう経ったころに知った。
そういう経緯で生れてきたのか、と思いながらも、
それが一回で終らずに続けられるようになったのは、それだけの影響があったためだろう。

影響があれば、出版する側にもメリットはある。
ならば他の出版社も、同じことをやろうとする。

ステレオサウンドの《STATE OF THE ART賞》も、そう捉えることができる。
けれど、少なくとも当時は、そんな印象は受けなかった。

それはコンポグランプリの事情についてほとんど知らなかったこともあるが、
それ以上に《STATE OF THE ART賞》という名称にある。

もしこれが、いまと同じ《ステレオサウンド・グランプリ》だったら、
こちらの印象は違ったものになっていたはずだ。

“State of the Art(ステート・オブ・ジ・アート)”という、
うまく日本語に訳せない言葉だからこそ、49号は成功した、といえる。

Date: 5月 26th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その40)

ステレオサウンド 49号の表紙はマッキントッシュのパワーアンプMC2300である。
光沢のあるタイルの床に置かれたMC2300の姿は、
当時、このパワーアンプに対して繊細なイメージをまったくもっていなかった私でも、
いいな、と思ってながめていた。

どことなく暑苦しいイメージを感じていたMC2300なのに、
49号の表紙では、どこか涼しげである。

49号の特集は「Hi-Fiコンポーネント《第1回STATE OF THE ART賞》選定」。
STATE OF THE ART賞は、ステレオサウンドにとって初めての企画である。

私が最初に手にしたステレオサウンド 41号の特集に近いといえばそういえるけれど、
それでもステレオサウンドにとって初めての企画といえよう。

49号のちょうど二年前に出た41号の特集は「コンポーネントステレオ──世界の一流品」だった。
特集の冒頭にある「ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって」で、
瀬川先生が書かれている。
     *
 ステート・オブ・ジ・アートという英語は、その道の専門家でも日本語にうまく訳せないということだから、私のように語学に弱い人間には、その意味するニュアンスが本当に正しく掴めているかどうか……。
 ただ、わりあいにはっきりしていることは、それぞれの分野での頂点に立つ最高クラスの製品であるということ。その意味では、すでに本誌41号(77年冬号)で特集した《世界の一流品》という意味あいに、かなり共通の部分がありそうだ。少なくとも、43号や47号での《ベストバイ》とは内容を異にする筈だ。
     *
41号と49号は誌面構成も近い。
それでも41号と49号は、違う。

まず41号はあくまで「世界の一流品」であり、それは賞ではなかった。
49号の特集がステレオサウンドにとって初めての企画なのは、
STATE OF THE ARTだからではなく、それが賞であるからだ。

Date: 5月 24th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その39)

ステレオサウンド 48号の第二特集は低音再生だった。
当時、ふたたびブームの兆しのあった3D方式の実験的試聴を行っている。

この第二特集の冒頭には、
井上先生による「音楽再生における低音の重要性を探る」があり、
低音再生の歴史、方式を俯瞰的にまとめたものだ。

三通りの試聴がある。
ブックシェルフ型スピーカーをベースにしたもの。
フロアー型スピーカーをベースにしたもの。
小型スピーカーをベースにしたものだ。

試聴風景の写真を見ると、相当数のスピーカーが集められているのがわかる。
これにサブウーファーが加わるのだから、かなり大変な試聴だったはずだ。

48号の新製品紹介の記事でも、サブウーファーが六機種取り上げられている。

記事だけではない。
このころ小型スピーカーの良質なモノが、各社から出てくるようになっていた。
そういう小型スピーカー専用として、コンパクトなサブウーファーも出てきはじめていた。

これはダイレクトドライブプレーヤーの普及により、
アナログディスク再生のS/N比の向上が一般化したためかもしれない。

ゴロの出るようなプレーヤーで聴いていたら、
低音の拡充はデメリットのほうが大きいのだから。

だから48号の中に、アナログプレーヤーと低音再生が、
第一、第二特集としてあるのは、編集部が意図したことなのか、たまたまなのか、
はっきりしないけれど、いい組合せであることは確かだ。

そうは思うのだが……、ここでもアナログプレーヤーの第一特集に共通する何かを感じていて、
読もうとすればするほど、何もつかめない感じさえしていた。

41号から読み始めたのだから、48号で丸二年読んでいた、
別冊も買っていた。
まだ二年であっても、それなりに読んできた。

にも関わらず48号は、くり返すが、私の中で決着がついていない。

Date: 5月 24th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その38)

ステレオサウンド 47号の「続・五味オーディオ巡礼」に関してはまだまだ書きたいことがある。
満足いくまで書いていたら、次(48号以降)に進めない。
それに「続・五味オーディオ巡礼」に関しては、まとめて書きたいことがあるので、
いつかあらたに書く予定だ。

48号にうつろう。
表紙はEMT・930stだ。
真上から撮ったカットであり、
930stがあらわしているように、48号の特集はアナログプレーヤーである。

タイトルは「ブラインドテストで探る〝音の良いプレーヤーシステム〟」。
ページ数も多い。

試聴方法もただ単にブラインドフォールドテストということに満足していない。
編集部が、ブラインドフォールドテストを復活させるとともに、試行錯誤がそこにあるようにも感じた。

試聴はかなりの手間だったと思う。
けれど、48号がそれまでのステレオサウンドと同じように読めたかというと、違った。

知りたいことが、伝わってこない感じがしていた。
これだけのことをやっているのだから、48号は面白いはず……、そう思い込もうとしていた。

その「知りたいこと」が自分でもはっきりとしないまま、48号を、それでもくり返し読んだ。
その意味では、私の中で決着のついていない号が、48号である。

Date: 4月 2nd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その37)

五味先生は「続・五味オーディオ巡礼」の後半、こう書かれている。
     *
 JBLでこれまで、私が感心して聴いたのは唯一度ロスアンジェルスの米人宅で、4343をマークレビンソンLNPと、SAEで駆動させたものだった。でもロスと日本では空気の湿度がちがう。西洋館と瓦葺きでは壁面の硬度がちがう。天井の高さが違う。4343より、4350は一ランク上のエンクロージァなのはわかっているが、さきの南口邸で「唾棄すべき」音と聴いた時もマークレビンソンで、低域はスレッショールド、高域はSAEを使用されていた。それが良くなったと言われるのである。南口さんの聴覚は信頼に値するが、正直、半信半疑で私は南口邸を訪ねた。そうして瞠目した。
     *
この部分を読んで、やっぱりそうなのか、と思っていた。
そうなのか、と思った部分は、アンプのところだ。
マークレビンソンのLNP2とSAEのパワーアンプ、とあるところだ。

SAEの型番はわからないが、勝手にMark 2500だろうと思っていた。
LNP2とMark 2500で、JBLの4343を鳴らす──、
この時代のステレオサウンドを読んできた人ならば、それは瀬川先生の組合せと同じであることに気づく。

組合せだけで音は決まるわけではないことは重々わかった上で、
そうなのか、と思っていたし、
なにか五味先生と瀬川先生の共通点のようなものを感じとろうとしていたのかもしれない。

南口重治氏の4350Aの音は、どう変ったのか。
     *
 プリはテクニクスA2、パワーアンプの高域はSAEからテクニクスA1にかえられていたが、それだけでこうも音は変わるのか? 信じ難い程のそれはスケールの大きな、しかもディテールでどんな弱音ももやつかせぬ、澄みとおって音色に重厚さのある凄い迫力のソノリティに一変していた。私は感嘆し降参した。
 ずいぶんこれまで、いろいろオーディオ愛好家の音を聴いてきたが、心底、参ったと思ったことはない。どこのオートグラフも拙宅のように鳴ったためしはない。併しテクニクスA1とスレッショールド800で鳴らされたJBL4350のフルメンバーのオケの迫力、気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモはついに我が家で聞くことのかなわぬスリリングな迫真力を有っていた。ショルティ盤でマーラーの〝復活〟、アンセルメがスイスロマンドを振ったサンサーンスの第三番をつづけて聴いたが、とりわけ後者の、低音をブーストせず朗々とひびくオルガンペダルの重低音には、もう脱帽するほかはなかった。こんなオルガンはコンクリート・ホーンの高城重躬邸でも耳にしたことがない。
 小編成のチャンバー・オーケストラなら、あらためて聴きなおしたゴールド・タンノイのオートグラフでも遜色ないホール感とアンサンブルの美はきかせてくれる。だが大編成のそれもフォルテッシモでは、オートグラフの音など混変調をもったオモチャの合奏である。それほど、迫力がちがう。
     *
この音がどうだったのかを、何度も読み返しては想像していた。
南口重治氏の音を想像するには、そのころの私にはとにかく読むしかなかった。
記憶せんばかりに読み返した。

《気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモ》、
この部分を、とくに想像していた。

いったいどういう音なのだろうか、どういうレベルの音なのだろうか、と。
同時に、五味先生への信頼も増していた。

五味先生はタンノイのオートグラフを、マッキントッシュのC22とMC275で鳴らされている。
高能率のスピーカー(ラッパ)を真空管アンプで鳴らす。

五味先生はオーディオ愛好家の五条件のひとつとして、「真空管を愛すること」とされている。
ステレオサウンドに以前に書かれていたことだし、「五味オーディオ教室」にも載っていた。

47号でも、こんなふうに書かれている。
     *
ヴァイオリンの合奏は、ただ高音が鳴ればいいというものではない。あの飴色の胴をした一挺一挺のヴァイオリンが馬の尻尾に擦られて調和を響かせねば、ユニゾンとはいえまい(高音をここちよく鳴らすだけならシンセサイザーでこと足りるのである。そして矢鱈シンセサイザー的ヴァイオリンがちかごろ多すぎる。いいトランジスター・アンプで、トゥイーターをうまく鳴らした時ほどそうだから皮肉な咄だ)。
     *
その五味先生が、南口重治氏の4350Aの音、
つまり高能率のラッパを真空管アンプで、というありかたとは違うありかたのシステムの音に、
《感嘆し降参した》と書かれている。

オーディオマニアの中には、五味先生のことを古いシステムに固執している人と捉えている人がいる。
新しい音を認めない人だ、と思い込んでいる人がいる。

そんなことはないのだ。

Date: 3月 29th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その36)

ステレオサウンド 47号の「続・五味オーディオ巡礼」の扉の写真は、
五味先生の後にタンノイのオートグラフがある。
ということは、この部屋の持主のメインスピーカーは、別にあるということを、
扉の写真は暗に語っているし、五味先生はそのスピーカーに対峙しての表情だともいえる。

そのスピーカーが何であるのかは本文を読んでいけばわかる。
JBLの4350Aである。
4ウェイ5スピーカーのバイアンプ駆動のスピーカーシステムである。

「続・五味オーディオ巡礼」の冒頭に、
4ウェイ・スピーカーシステム、マルチアンプシステムを頑なに却ける理由が述べられている。
にも関わらず、4350Aの部屋に訪問されている。

五味先生のJBL嫌いは「五味オーディオ教室」を読んで知っていた。
つまり4350Aをよくいわれるはずがない、わけだ。

訪問先の南口重治氏のリスニングルームは、
当時、田舎の高校生には想像がつかないものだった。
写真の説明には「奈良東大寺の庭に隣接する南口邸の裏庭に建てられたリスニングルーム全景」とある。
奈良東大寺の庭に隣接する……、いったいどういうところなのだろうか、
想像しても想像できなかったのを憶えている。

オートグラフと4350Aがおさまっている部屋は約24畳とある。
天井も高そうである。
床もコンクリートはで固められ、と書いてある。
そうとうにしっかりとした造りの部屋であることはわかる。

アンプはマークレビンソンのLNP2に、
低域にスレッショルドの800A、中高域にSAEのMark 2600。

そういう南口氏の4350Aの音を、こう書かれている。
     *
「ひどすぎますね」私は南口さんに言った。4350は芸術を鑑賞するスピーカーとは思えない。何という、それに無機的な音だろう、と。「こんなものは叩き返しておしまいなさい」
 南口さんは失笑して、
「たしかにこれでいいとは私も思いませんが、まだ良くなる余地はあるように思います」
     *
ここまで読んで、やっぱりそうなのか……、と思ってしまった。
けれど「続・五味オーディオ巡礼」は、ここで終っているわけではない。

Date: 3月 23rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その35)

ステレオサウンド 47号の特集、ベストバイ・コンポーネントの構成には疑問を感じながらも、
すべてが43号と比較して不満というわけではない。

43号では選考者がひとりだけの機種に関しては、
「その他、1票を得たベストバイ・コンポーネント」として表になっているだけで、
なんのコメントもなかった。

でもその1票しか得られなかったコンポーネントの中に、
もっと票を得ているコンポーネントよりも、興味をもっていたモノがいくつかあったし、
この人が、どう評価しているのかを読みたかった。

47号では43号よりもコメントの文字数が減っている。
ほぼ一行といえる文量しかない。
けれどそのおかげとでもいおうか、1票だけのコンポーネントでもコメントがついている。

とはいえ、やはり読み応えということでは47号はもの足りなかった。
けれど、その47号でさえ一年後の51号でのベストバイ・コンポーネントよりは、ずっとましだったのだ。
この点に関しては、51号、55号についてふれるときに書くことにする。

そんな47号ではあったのだが、
私にとって47号は、嬉しい一冊だった。
それは巻頭に、「続・五味オーディオ巡礼」のタイトルとともに、
ソファにあぐらをかいて坐っている五味先生の写真があったからだ。

五味先生が以前ステレオサウンドに書かれていたことは、
「五味オーディオ教室」を読んで知っていた。
だが41号から買いはじめた私にとって、
五味先生不在のステレオサウンドが続いていた。

もうステレオサウンドには書かれないのか……、と少しずつ思いはじめていたころに、
「続・五味オーディオ巡礼」が始まった。
この嬉しさが、いかほどであったかは想像していただくしかない。

47号当時のステレオサウンドは1600円だった。
「続・五味オーディオ巡礼」だけで、あとはつまらない記事ばかりだとしても、
私はためらうことなくステレオサウンド 47号を購入したであろう。

何度も何度も、文字通り買って暫くは毎日読み返していた。
読み返すことで、そこでの「音」を想像していた。

Date: 3月 21st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その34)

41号からステレオサウンドを読みはじめた。
ほぼ二年間、夢中になってステレオサウンドを読んでいた。

私にとっての七冊目にあたる47号。
これが私にとって、はじめて疑問を感じたステレオサウンドである。

47号の特集は、ステレオサウンド三度目のベストバイ・コンポーネントである。
この他の記事として、新連載の「ロングラン・コンポーネントの秘密をさぐる」がはじまり、
連載対談として、菅野沖彦、保柳健、二氏の「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」もはじまった。

巻末には「物理特性面から世界のモニタースピーカーの実力をさぐる」もある。
この記事は、三菱電機郡山製作所/三菱電機商品研究所の協力を得て、
46号に登場したモニタースピーカーのいくつかと4343を加えた10機種の測定が載っている。

44、45、46号での測定協力は日本ビクター音響研究所だった。
それが三菱電機にかわり、測定項目も違っている。

音楽関係の記事では、
黒田恭一、坂清也、河合秀朋(キングレコード第二制作室プロデューサー)三氏の座談会、
「イタリア音楽の魅力」もあった。
私はこの記事で、オルネラ・ヴァノーニを知り、聴きはじめた。

一冊のステレオサウンドとして読むと面白かった、といえる。
けれど肝心の特集に、私は疑問を感じたのだった。

読み手の勝手な期待なのだが、
同じ企画ならば前回よりも今回のほうがより面白くなる、
そういうものだと思い込んでいた。

47号のベストバイ・コンポーネントは43号のベストバイ・コンポーネントよりも面白くなっているはず、
より充実して読み応えのある特集となっているはず……、
そう思い込んでいた、というより信じ込んでいた。

その期待が裏切られたから、疑問を感じたということもあるのだが、
もっと違うところでの疑問を感じていたのだが、その疑問がどこに起因してのものなのかがはっきりするのは、
もっと後のことだ。
ステレオサウンドで丸七年働き、辞めて数年経ったころだった。

47号は、現在のステレオサウンドがそうであるし、さらに色濃く(ある意味巧みに)なっているのだが、
誌面の幕の内弁当化のはじまりの号といえる。

Date: 3月 21st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その33)

ステレオサウンド 46号の奥付のところにあるアンケートハガキは、
1978読者の選ぶベストバイ・コンポーネントの投票用紙だった。

46号を買った時点で、47号の特集はベストバイ・コンポーネントだとわかる。
また43号のようなベストバイ・コンポーネントが読めるのか、と思っていた。

投票用紙への記入も、一年前とは少し違う意味でずいぶんと考えた。
一年前には「ベストバイ」の意味を深く考えずに記入したけれど、
高校一年生にとってのベストバイとして記入すべきなのか、
それともそういった年齢的なことを考慮せずにベストバイ・コンポーネントと思うモノを記入すべきか、
そのことについても考えていた。

47号への関心は、46号の特集を読み返すたびに多くなっていった。
間違いなく瀬川先生はスピーカーのベストバイとして、
UREIのModel 813、K+HのOL10を選ばれるはず。

ここに疑問はなかった。
どう書かれるのか、そのことに強い関心があった。

それに45号に登場したKEFのModel 105も同じだ。
間違いなくベストバイ・コンポーネントして選ばれる……。

こんなふうに43号の時点では登場していなかったオーディオ機器のどれを選ばれ、
それらについてどう評価されるのかを、一方的に予測しながら発売をまった三ヵ月だった。

そしてSMEの3009/SeriesIIIにシュアーのV15 TypeIVを組み合わせた表紙の47号が出た。

Date: 3月 21st, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その32)

ステレオサウンド 46号の特集は、もうひとつある。
井上先生による「最新MC型カートリッジ 昇圧トランス/ヘッドアンプ総テスト」だ。

スピーカーの特集が三号続いたからこその、音の入口にあたるカートリッジの特集だったのか。
カートリッジの記事はこれだけではない。
「オーディオの名器にみるクラフツマンシップの粋」でも、カートリッジが取り上げられている。

井上卓也、長島達夫、山中敬三の三氏による鼎談で、
製造中止になっているカートリッジが紹介されている。

「フォノカートリッジの名門」と題された、この記事の最初に登場するのは、
ウェストレックスの10Aである。
10Aが紹介されているページの右側のカラー口絵では、ノイマンのDST、DST62、PA2aがある。

ウェストレックスの10A、ノイマンのDST、
どちらもカッターヘッドを開発・製造していたメーカーのカートリッジであり、
ラッカー盤のモニター用として開発されたモノだ。

当時の編集部がどれだけ意図してのものだったのかはわからないが、
音での出口であるスピーカーシステム、
その中でもモニタースピーカーは、プログラムソースをつくるための音の出口であり、
その音の出口によって確認されたモノを、再生側ではカートリッジでトレースする。

つまりモニタースピーカーが、通常のスピーカーとは違うのは、
カートリッジの前段階のスピーカーというところにある。

そして10A、DSTも通常のカートリッジの前段階にあるモノであり、
モニターカートリッジとも呼べるモノでもある。

カートリッジとスピーカーという対照的なモノでありながらも、
プロフェッショナル用として、モニター用としての共通点ももつスピーカーとカートリッジが、
同じ号で取り上げられているいたわけだ。