Archive for category 作曲家

Date: 3月 9th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その2)

オペラの実演には演出家がいる。

オペラは歌劇であり、ワグナーの作品は楽劇といわれるが、
ワグナーの作品もまたオペラである。

その意味では、ワグナーの楽劇をレコード(録音物)で聴くのと同じように、
ヴェルディやモーツァルト、その他の作曲家のオペラをレコードで聴くときにも、
レコード演出ということが気になってくるかというと、私の場合そうではない。

なぜワグナーの作品だけに、レコード演出ということが気になってくるのだろうか。

オペラにおける演出とは、視覚的なものである。
視覚的なものがなく、聴覚的な録音物でオペラを聴く際には、
そこには演出は無関係ということになる。

ライヴ録音を聴くのであれば、多少は演出による音への関係性があったとしても、
スタジオ録音であれば、演出は録音とは無関係になる。
スタジオ録音のオペラのレコードには、演出家は存在しない。

そういうレコードを聴いても、ワグナーであれば、レコード演出という要素が頭をかすめる。

Date: 3月 9th, 2016
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェン(とオーディオ)

今年の秋で、「五味オーディオ教室」と出逢って40年になる。
40年のうちに、いろんな変化があった。

そのひとつに、ベートーヴェン交響曲全集がある、と思う。
レコード会社にとって、全集モノは、いわゆる金のかかる企画である。
時間もふくめて、金のかかる企画である。

そうである以上、ある程度、もしくは十分に採算のとれる見込みがなければ、
レコード会社も手を出さない、といえる。

まして全集モノの再録音となると、それをやれる演奏家はごく一部に限られる。
カラヤンがそういう存在だった。

ベートーヴェン全集を再録音している。
その全集はレコード雑誌だけでなく、オーディオ雑誌でもとりあげられていた。

演奏の変化とともに録音の変化について語られることがあった。

Date: 2月 14th, 2016
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その1)

「西方の音」を読んでいると、ワグナーのことが出てくる。
オーディオを介してワグナーを聴くことについて、いくつ書かれている。

「タンノイについて」では、次のように書かれている。
     *
 最近になって、ワグナーのステレオ盤が相ついで欧米でも発売されている。ステレオは、ワグナーとマーラーを聴きたくて誰かが発明したのではあるまいか? と思いたくなるくらい、この二大作曲家のLPはステレオになっていよいよ曲趣の全貌をあらわしてくれた。それでも、フルトヴェングラーとラインスドルフを聴き比べ(フルトヴェングラーのは米国では廃盤。ショルティやカラヤンのワルキューレ全曲盤は、この時はまだ出ていなかった)ステレオのもつ、音のひろがり、立体感が曲趣を倍加するおもしろみを尊重しても、なお私はフルトヴェングラーに軍配をあげる。音楽のスケールが違う。最もステレオ的な曲と思えるワグナーでさえ、最終的にその価値をとどめるのは指揮者の芸術性だ。曲の把握と解釈のいかんであって、これまた、当然すぎることだが、しばしばそれがレコードでやってくる場合、装置の鳴り方いかんが指揮者の芸術を変えてしまう。
     *
「ワグナー」では、こう書かれている。
     *
 ドイツ民族のサーガ神話は、楽劇のストーリーとして興味があるにすぎない私は聴衆だから、膨大な『ニーベルンゲンの指輪』の序夜に、ファーフナーなる巨人が登場したことなど、二日目の『ジークフリート』を聴く時には綺麗に忘れている。ジークフリートの剣に刺される大蛇が実はファーフナーだと、解説を読んでもぴんとこないくらいだ。神話に対しては、それほど私はずぼらな聴衆である。つまり真のワグネリアンでは断じてない。いつかはワグナーの楽劇の膨大さそれ自体にうんざりする日がくるかも分らない。
 が今はまだ、ワグナーの楽劇をその完璧なスケールの大きさで再生してくれる、わが家のステレオ装置をたのしむ意図からだけでも、繰り返し聴くだろう。ドイツ的なワグナーがテレフンケンではなくて英国のタンノイでよりよく鑑賞できるのは、おもえば皮肉だが、バーナード・ショーは死ぬまで、イギリスは自国のワグナー音楽祭を持つべきだと主張していたそうだ。前にも書いたことだが、タンノイの folded horn は、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。
     *
いうまでもなく《タンノイの folded horn》とは、五味先生のオートグラフのことである。
オートグラフでワグナーを聴いた経験は、私にはない。
けれど、五味先生がいわんとされることはわかる。

オートグラフの現代版といえるウェストミンスター。
構造的には同じといえる、このふたつのスピーカーシステムの違いは、
私にはオートグラフはベートーヴェンであり、ウェストミンスターはブラームスである、と以前書いた。

その意味でいえば、ワグナーを聴けるのはオートグラフともいえる。

このことはひどく主観的なことであり、賛同される人はいないであろうが、私にはいまもそう感じられる。
おそらく死ぬまで変らないのではないだろうか。

五味先生の書かれたものを読みすぎたせいかもしれない、と思いつつも、
ワグナーをオーディオで聴くという行為は、
他の作曲家の作品をオーディオで聴くという行為とは違う面があるように感じてしまう。

それはなんだろうか、と考えていた。
単なるワグナーへの思い入れ、思い込みからきているだけのものとは思えない。
だから考え続けていた。

答らしきものとして出てきたのは、演出である。
菅野先生はレコード演奏といわれた。

たしかにそのとおりである。
そこにワグナーの場合、レコード演出が加わってくるのではないだろうか。

Date: 8月 12th, 2015
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その12)

隔離された場所での、不意打ちのように流れてきた音楽に接した聴き手と、
クラシック音楽が好きで、自分でレコードを買い、オーディオを介して接する聴き手とで、
演奏家に対しても違いがある。

レコードを買って聴く聴き手は、
レコードを棚から取り出すときすでに、曲とともに演奏家を意識している。
ベートーヴェンの「第九」をカラヤンで聴きたい、とか、トスカニーニで聴きたい、といったように。

隔離された場所で「第九」、「フィガロの結婚」に接して聴き手は、
流れてきた曲が誰が作曲したのかもわからない人が多いかもしれないし、
たとえ曲名は知っていても、誰が演奏しているかどうかまでは知らずに聴く(聴かされる)ことになる。

何も知らずに、突然鳴ってきた音楽を聴く。
音楽との出逢いにおいて、この不意打ちのように聴こえてきた音楽は、
ときとして意識して聴く音楽以上に、聴き手の心に響くのかもしれない。

隔離された場所での不意打ちのように鳴ってきた音楽──。
その1)で書いた映画「いまを生きる」(原題はDead Poet Society)の中盤、
突然鳴ってきたベートーヴェンの「第九」は、私にとってまさに不意打ちであった。

あのシーンで「第九」が使われるとは、とも感じたけれど、
やはり、あのシーンでは「第九」だな、と思いながら、
誰の演奏なのかわからない「第九」を初めて聴いていた。

映画館も、いわば隔離された場所といえなくもない。
大きな映画館では千人以上の人が入り、暗がりの中、皆スクリーンを見つめている。

自分の意志で入場し、出ようと思えば映画の途中でも退場できる。
そんな隔離された場所は、刑務所という出入りが自由にはできないところとは、
隔離の意味合いがずいぶんと違うのはわかっている。

私は映画館というある種隔離された場所・時間の中で、ライナーの「第九」と出逢った。

Date: 3月 10th, 2015
Cate: バッハ, マタイ受難曲

カラヤンのマタイ受難曲(その5)

カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによるマタイ受難曲を聴き終えて、
もう一度、黒田先生の「バッハをきくのはメービウスの輪を旅すること」を思い出していた。

メビウスの環の裏と表、
カラヤンの場合、片方がマタイ受難曲でもう片方がパルジファルであるような気がしたからである。
メビウスの環だから、どちらが表で裏なのかは同じことであるから、
マタイ受難曲が表でパルジファルが裏とはいえない。

続いているように聴こえてくるのは、
ずっと以前とはいえ「バッハをきくのはメービウスの輪を旅すること」を読んでいたからなのか、
そしてマタイ受難曲を聴く前にも読み返していたからなのか。

なんにしても、いまの私はカラヤンのマタイ受難曲とパルジファルを切り離して受けとめることはできない。

そしてすこしだけ思うのは、
マタイ受難曲もパルジファルと同レベルの録音であったなら……、である。

Date: 3月 6th, 2015
Cate: バッハ, マタイ受難曲

カラヤンのマタイ受難曲(その4)

カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーによるマタイ受難曲。
CDは三枚組で、昨夜一枚目だけを聴いた。

いま聴いて良かった、と思っていた。
カラヤンのマタイ受難曲は1972年には出ている。

10代、20代のとき、聴こうと思えば聴けたわけだが、
もしそのころ聴いていたら、一回聴いて、それでいいや、ということになったと思うからだ。

若いうちに積極的になんでも聴いていくことは決して悪いことではないが、
必ずしも、それだけがよいことだともいえないのではないか、とも思う。
少なくとも私に関しては、カラヤンのバッハ演奏に関しては、そういえる。

人によって、聴くべき時期は違っている、ということかもしれない。

Date: 3月 1st, 2015
Cate: バッハ, マタイ受難曲

カラヤンのマタイ受難曲(その3)

もうひとつ思い出していた文章がある。
黒田先生の書かれたものだ。

1978年のユリイカに載った「バッハをきくのはメービウスの輪を旅すること」である。
東京創元社から1984年に出た「レコード・トライアングル」で読める。
     *
 J・S・バッハの音楽は、ニュートラルな、つまり雌雄別のない音でできているといういい方は、許されるであろうか。音が徹底的に抽象的な音でありつづけ、ただの音であることでとどまるがゆえに、永遠のメタモーフォシスが可能になるとはいえないか。
 永遠のメタモーフォシスの可能性を秘めた音楽をきくということは、メービウスの輪の上を旅するのに似ている。どこがはじまりでどこが終わりかがわからない。はじめと終わりがわからぬまま、しかし、自分がつねに途中にいることを意識せざるをえない。
     *
黒田先生は、指定楽器のないオープンスコアのフーガの技法について語られている。
とはいえ、ここで語られているのは黒田先生によるバッハ論ではなく、
音楽のききてとしての座標の意識についてである。

私にとって、これまでさけてきていたカラヤンのマタイ受難曲を聴くのは、
そういうことを確かめることなのかもしれないからこそ、
黒田先生の文章を思い出したのかもしれない。

Date: 3月 1st, 2015
Cate: バッハ, マタイ受難曲

カラヤンのマタイ受難曲(その2)

昨夜寝る前に思い出したことがある。
五味先生が「メサイア」で書かれていたことだ。
     *
『マタイ受難曲』を硬質で透明なクリスタル・ガラスの名器とすれば、『メサイア』は土の温もりを失わぬ陶器、それも大ぶりな壺だろうか。透明度は明晰性に、硬度は作者の倫理性に根差すのなら、『マタイ』が上位に位置するのは言う迄もないことだ。しかし土の温もりも私には捨て難いし、どちらかといえば、気軽に、身構えず聴く気になるのは『メサイア』第二部の方である。
     *
マタイ受難曲を、硬質透明なクリスタル・ガラスの名器とたえとられている。
そのとおりだと思う。
ならば、なぜカラヤン/ベルリン・フィルハーモニーのドイツ・グラモフォン盤を、
これまで遠ざけてきたのだろうか、と思っていた。

理由ははっきりしている。
けれど、私にとってカラヤンのマタイ受難曲を遠ざけるもっとも大きな理由となった五味先生の文章が、
暗にカラヤンのマタイ受難曲を推しているようにも読めることに気づき、苦笑いするしかなかった。

まだカラヤンのドイツ・グラモフォン盤のマタイ受難曲は聴いていない。
それは硬質で透明なクリスタル・ガラスの名器のごとき演奏なのだろうか。

Date: 2月 28th, 2015
Cate: バッハ, マタイ受難曲

カラヤンのマタイ受難曲(その1)

カラヤン指揮によるバッハのマタイ受難曲は、
ふたつのCDが現在では入手可能である。

ひとつはドイツ・グラモフォンによる1972-73年にかけてのステレオ録音。
もうひとつは1950年のモノーラルのライヴ録音である。

1950年録音は、カスリーン・フェリアーが歌っているので、
アナログディスクでももっていた(ただし音はひどかった)。
CDになってからも購入した(まだこちらの方が音はまともになっていた)。

でもドイツ・グラモフォン盤は持っていないどころか、聴いたことがない。
聴こうと思ったことがなかった。

1970年代のカラヤンに対する、こちらが抱く勝手なイメージとマタイ受難曲との印象が異質な感じがして、
なんとなく聴く気がおきなかっただけが理由である。

けれどクラシック音楽における精神性と官能性、精神的なものと官能的なものは、
実のところ一体であって、不可分のものであることに気づけば、
カラヤンのマタイ受難曲(ドイツ・グラモフォン盤)に対しての興味がわいてくる。

このことは昔から気づいていたのかもしれない。
レクィエム(モーツァルトでもフォーレでもいい)において、
ある種の官能性が稀薄なものに関しては、名演といわれるものであってもさほどいい演奏とは感じてなかったからだ。

Date: 11月 30th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その21)

ベーゼンドルファーのVC7については、「Bösendorfer VC7というスピーカー」という項を立てて書いているように、
このスピーカーシステムには出た時から注目していたし、いいスピーカーシステムだといまも思っている。

いまはベーゼンドルファーのVC7ではなく、Brodmann AcousticsのVC7になっている。
輸入元もノアからフューレンコーディネイトに変っている。

昨年のインターナショナルオーディオショウから、
フューレンコーディネイトのブースに展示されるようになった。
今年のショウでVC7の音が聴けるかな、と思い期待していたものの、
タイミングが悪かったのか、聴けずじまいだった。

ショウの初日と二日目に一度ずつフューレンコーディネイトのブースに入ったけれど、
どちらも鳴っていたのピエガのスピーカーシステムだった。
VC7は鳴らしていなかった、と思っていたら、ショウに行った知人の話では鳴らしていたそうである。
なのでBrodmann AcousticsのVC7になってからの音は、まだ聴いていない。

ベーゼンドルファー・ブランドのVC7に私が感じた、
このスピーカーシステムならではの良さは引き継がれているようである。
だから、ここでの組合せにはベーゼンドルファーのではなく、Brodmann AcousticsのVC7として書いていく。

Date: 9月 28th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その20)

カラヤンの「パルジファル」をそう受けとめるようになっているのだから、
それ以前とはスピーカーの選び方そのものが大きく変ってしまった。
以前だったら、もっと簡単にスピーカーを決めてしまっていただろう。

実を言うと、この項を書き始めた時、スピーカーシステムに何を選ぶかは決めていなかった。
なぜ、いまカラヤンの「パルジファル」をとりあげようと思ったのか、
そのこと自体を私自身が知りたかったから、書き始めた。

これだ、と思えるスピーカーシステムが思い浮ばなかったら……、と思わないわけではなかった。
しかも過去のスピーカーシステムではなく、いまのスピーカーシステムから選びたかった。

クナッパーツブッシュの「パルジファル」のためにはシーメンスのオイロダインがすぐに思い浮んだ。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」は私が生れる前の演奏である。
私が「パルジファル」を知った時、クナッパーツブッシュはすでに亡くなっていた。

カラヤンの「パルジファル」はそこが私にとって違うところだ。
カラヤンは、まだ生きていた。
「パルジファル」は私がまだハタチになる前、青臭い少年だったときに出ている。

それだけでもクナッパーツブッシュの「パルジファル」とカラヤンの「パルジファル」は、
私にとっての意味合いが違ってくる。

これはだめだ、というスピーカーシステムは次々に浮んでいった。
それらのスピーカーシステムについて書いてもつまらない。

これだ、と思えるスピーカーシステムは、ほんとうにあるのだろうか……、
ほんとうに思い浮んでくるスピーカーシステムはあるのか……、
そんなふうにならなかったら、現行製品をひとつひとつ消去法で消していくしかないのか、
それで残ったスピーカーシステムは、カラヤンの「パルジファル」を聴くのにふさわしいといえるのだろうか。

いまは思い浮ばないだけで、きっとあるはず。そのおもいもあった。
ひとつあったことに、やっと気づいた。

ベーゼンドルファーから出ていたVC7である。

Date: 9月 25th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その19)

「70歳になったらパルジファルを録音したい」であっても、録音のためには演奏するのだから、
「70歳になったらパルジファルを録音したい」も「70歳になったらパルジファルを演奏したい」も、
同じではないか、と考えることはできないわけでもない。

けれど、録音は残る。
10年、20年、さらには50年……、と残っていく。

その録音が世に登場したときは、最新録音であり、優秀録音だったのが、
古い録音といわれるようになったとしても、一度録音されたものは残っていく。

カラヤンが「70歳になったらパルジファルを録音したい」と常々口にしていたのは、
「パルジファル」をのこしたかったからなのだ、と思う。

だからカラヤンがいつのころから「70歳になったらパルジファルを録音したい」というようになったのかを知りたい。

同じ、このテーマで30のころ書いていたとしたら、違う書き方をしたように思う。
「70歳になったらパルジファルを録音したい」についてもとりあげなかったかもしれない。

でも、もう30歳ではない。
30歳ではないから、カラヤンの「パルジファル」について書いているようなところがある。

カラヤンは「パルジファル」を遺したかった。
30の時にはそう思えなかっただろうし、仮に思ったとしても、そのことの意味は20年前といまとでは違う。

「パルジファル」はカラヤンの遺言かもしれない。

Date: 9月 25th, 2014
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その18)

カラヤンの「パルジファル」は、1979、1980年の録音。
カラヤンは1908年4月5日生れだから、70をこえてからの録音ということになる。

カラヤンは「70歳になったらパルジファルを」と常々口にしていたということは、以前何かで読んでいるし、
HMVのカラヤンの「パルジファル」の紹介ページに書いてある。

「70歳になったらパルジファルを」だが、出典は知らない。
正しくどう言っていたのかまではわからない。

「70歳になったらパルジファルを」の後に続くのは、「録音したい」なのだと思う。
どこかのオペラ劇場で演奏したい、ではなかった、と思う。

私は、だからカラヤンは「70歳になったらパルジファルを録音したい」と常々口にしていたのだと思っている。

Date: 9月 2nd, 2014
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その3)

50をこえて、これから先どこまで執拗になれるのか、と考えるようになってきた。
齢を重ねることで淡泊になる、枯れてくるかと思っていたら、
どうも執拗になっていくようだ。

だから、そういう音を望むようになってきている。

20代前半、ステレオサウンドで働いていたころ、
菅野先生がよくいわれていた──、
「ネクラ(根暗)重厚ではなく、ネアカ(根明)重厚でなければ」と。

菅野先生は1932年生れだから、そのころの菅野先生の年齢にほとんど同じぐらいになっている。

どこまで執拗になれるのか、と思うようになり、
菅野先生の、この「ネアカ重厚」を思い出している。

ネクラ執拗ではなく、ネアカ執拗でありたい。

Date: 6月 12th, 2014
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その11)

隔離された場所での音楽ということで思い出すのは、映画「ショーシャンクの空に」だ。
主人公(アンディ・デュフレーン)が、無実の罪で投獄される。

20年前の映画だ。
いまでも評価の高い映画だから観ている人も少なくないだろう。
あらすじは省く。

映画の中盤、アンディ・デュフレーンが投獄されているショーシャンク刑務所に本とレコードが寄贈される。
その中にモーツァルトの「フィガロの結婚」のレコードを見つける。
卓上型のレコードプレーヤーで聴きはじめたアンディ・デュフレーンは、
ひとりで聴くのではなく、管内の放送設備を使い、刑務所中に響きわたらせる。

そのシーンを思い出す。

「第九」の話も、「ショーシャンクの空に」も隔離された場所での、
そこに似つかわしくない、といえる音楽が鳴る。

実際の話と映画(フィクション)をいっしょくたにしているわけだが、
こういう世間と隔離された場所で、
おそらく「第九」も「フィガロの結婚」もはじめて耳にする人たちが大勢いる、ということでは共通している。

どちらの聴き手にも、音楽の聴き手としての積極性はない。
自ら、この曲(第九にしてもフィガロの結婚にしても)を選んで聴いているわけではない。
いわば不意打ちのようにして聴こえてきた音楽である。