カラヤンのマタイ受難曲(その3)
もうひとつ思い出していた文章がある。
黒田先生の書かれたものだ。
1978年のユリイカに載った「バッハをきくのはメービウスの輪を旅すること」である。
東京創元社から1984年に出た「レコード・トライアングル」で読める。
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J・S・バッハの音楽は、ニュートラルな、つまり雌雄別のない音でできているといういい方は、許されるであろうか。音が徹底的に抽象的な音でありつづけ、ただの音であることでとどまるがゆえに、永遠のメタモーフォシスが可能になるとはいえないか。
永遠のメタモーフォシスの可能性を秘めた音楽をきくということは、メービウスの輪の上を旅するのに似ている。どこがはじまりでどこが終わりかがわからない。はじめと終わりがわからぬまま、しかし、自分がつねに途中にいることを意識せざるをえない。
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黒田先生は、指定楽器のないオープンスコアのフーガの技法について語られている。
とはいえ、ここで語られているのは黒田先生によるバッハ論ではなく、
音楽のききてとしての座標の意識についてである。
私にとって、これまでさけてきていたカラヤンのマタイ受難曲を聴くのは、
そういうことを確かめることなのかもしれないからこそ、
黒田先生の文章を思い出したのかもしれない。