Archive for category 作曲家

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その6)

組合せを考えていく場合、とにもかくにもスピーカーを決めるところからすべてははじまる。
特に、このディスク(音楽)を聴きたいための組合せなのだから、
スピーカー以外のものからきめていくことは絶対にあり得ない。

カラヤンの「パルジファル」を聴くためのスピーカーとして、何を選ぶのか。
その前にクナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴くためのスピーカーとして、何を選ぶのか。

これに関してはすでに答は出ている。
古今東西数え切れないほどのスピーカーシステムが存在していたわけだが、
クナッパーツブッシュの「パルジファル」ということになれば、
シーメンスのオイロダインしか、私にはない。

オイロダインを2m×2mの平面バッフルに取り付けて、クナッパーツブッシュの「パルジファル」を聴きたい。

オイロダインでクナッパーツブッシュの「パルジファル」というと、
古くからのステレオサウンドの読者の方ならば、
50号の「オーディオ巡礼」に登場された森忠揮氏を思い出されることだろう。

森氏はオイロダインをマランツのModel 7とModel 9で鳴らされていた。
森氏のリスニングルームに響いたクナッパーツブッシュの「パルジファル」について、
五味先生は書かれている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。
     *
「パルジファル」はいうまでもなくワーグナーの音楽である。
その「パルジファル」をクナッパーツブッシュが、バイロイト祝祭劇場で振っている演奏を聴くのに、
シーメンスのオイロダイン以外のスピーカーは、いったいなにがあるといえるだろうか。

Date: 10月 26th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その5)

音楽性、精神性といったことばは、使う時に注意が必要にも関わらず、
そんなことおかまいなしに安易に使われることの多さが、気になってきている。

どちらも便利なことばである。
「この演奏には精神性がない」とか「この音には音楽性が感じられない」とか、
とにかく対象となるものを一刀両断にできる。

しかも、これらのことばを、こんなふうに使う人に限って、
精神性とはいったいどういうことをいうのか、どう考えているのか、
音楽性とはいったいどうことなのか、どう捉えているのかについての説明がないままに、
精神性(音楽性)がない、という。

その反対に、音楽性がある、精神性がある、という使い方も安易すぎるとも感じているが、
少なくともこちらは一刀両断しようとしているわけではない。

とにかく一刀両断的な「音楽性(精神性)がない」の使われ方をする人は、
時間をかけて話していこうとは思わない。

なにも「音楽性(精神性)がない」という使い方が悪い、という単純なことではない。
少なくとも、そこでその人が感じている精神性、音楽性について、
とにかくなんらかの説明があったうえで、こういう理由で「音楽性(精神性)を感じない」といわれれば、
その意見に同意するかどうかは措くとしても、話を続けていける。

ながいつきあいで、音楽の好み、音の好み、どんなふうに音楽を聴いてきたのかを熟知している相手とならば、
一刀両断的な言い方でも、まだわかる。
けれどそうでない人と話す時にこんな言い方をしてしまったら、
そうだそうだ、と同意してくれる人とならばいいけれど、世の中はそうでないことのほうが多い。

こういうことを書いている私も、20代のころは、こんな言い方をしていたのだ。
そして、そんな言い方をしていた20代のころ、私はカラヤンの「パルジファル」を聴くことはなかった。

Date: 10月 25th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その4)

「パルジファル」はいうまでもなくワーグナーによるオペラだが、
ワーグナーによる他のオペラ、たとえば「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」には、
歌劇ということばが頭につく。
つまり歌劇「さまよえるオランダ人」であり歌劇「タンホイザー」である。

「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルグのマイスタージンガー」「ニーベルングの指環」は、
歌劇ではなく楽劇「トリスタンとイゾルデ」、楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、
楽劇「ニーベルングの指環」となる。

「パルジファル」には、歌劇でも楽劇でもなく舞台神聖祝典劇がつく。

この、舞台神聖祝典劇「パルジファル」だけに、精神性を、ほかの作品に求める以上に求めてしまい、
カラヤンの「パルジファル」は精神性が、クナッパーツブッシュの「パルジファル」よりも稀薄だ、
というようなことはいおうと思えばいえなくもない。

だが、ここでいう精神性とはいったいどういうことなのかをあきらかにせずに、
ただ精神性が……、と大きな声でいっても、
それに納得してしまう人もいるだろうが、すべての人がそれに納得するわけではない。

精神性がない、とか、精神性が薄い、といったことを、クラシックの演奏に関していう人がいる。
オーディオに関しては、音楽性がない、とか、音楽性が薄い、というように、
スピーカーから出てくる音に対して、そう評価する人が少なくない。

ここでの精神性と音楽性は、ある意味よく似ている。
使われ方もよく似ている。

Date: 10月 23rd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その3)

クナッパーツブッシュのバイロイトでの「パルジファル」は1962年、
カラヤンのベルリンフィルハーモニーとの「パルジファル」は1979〜1980年にかけての録音。
つまり約20年の隔たりがある。

この20年の隔たりだけが理由とはいえないほど、カラヤン盤はスマートである。
これはカラヤンという指揮者とクナッパーツブッシュという指揮者の風貌もそうであるし、
オーケストラに関してもそういえるところがある。
さらに歌手にもいえる。

クナッパーツブッシュ盤でのグルネマンツはハンス・ホッター、カラヤン盤ではクルト・モル、
クナッパーツブッシュ盤でのアンフォルタスはジョージ・ロンドン、カラヤン盤ではジョゼ・ヴァン・ダム、
クナッパーツブッシュ盤でのクリングゾールはグスタフ・ナイトリンガー、
カラヤン盤ではジークムント・ニムスゲルン、
いずれもカラヤン盤の方がその歌唱もスマートである。

録音に関しても同じことがいえる。
1962年のライヴ録音、しかもバイロイト祝祭劇場でのクナッパーツブッシュ盤よりも、
デジタルによって録音されたカラヤン盤の方が、精妙でスマートである。

そして、この精妙さ、スマートさが、カラヤン盤においては、
往々にして精神性が稀薄という評価につながっていくようでもある。

Date: 10月 22nd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その2)

赤と青、と対照的なジャケットなのが、
クナッパーツブッシュの「パルジファル」とカラヤンの「パルジファル」である。

「パルジファル」の名盤といえば、このころまではずっとクナッパーツブッシュ盤だった。
他にもいくつかの「パルジファル」のレコードはあっても、
とにかく日本では「パルジファル」といえば、
バイロイトでのクナッパーツブッシュが唯一無二的存在として扱われてきた。

五味先生も、
《クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、
クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でもうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか想えぬ鳴り方をする箇所がある。》
と書かれている。

やっぱり「パルジファル」は、とにかくクナッパーツブッシュ盤を最初に聴こう、と思っていた。

そういうクナッパーツブッシュ盤の輝きは、カラヤン盤が登場した時でも、いささかも衰えてはいなかった。
ワグネリアンと自称する人、そう呼ばれる人にとって、カラヤンの「パルジファル」はどう映ったのだろうか。

クナッパーツブッシュとカラヤンは、どちらが優れた指揮者であるとか、
どちらが優れたワーグナー指揮者であるとか、そういったことを抜きにして語れば、
カラヤンはスマートであり、クナッパーツブッシュはそうではない、といえる。

カラヤンの「パルジファル」とクナッパーツブッシュの「パルジファル」もまた、そういえる。

Date: 10月 22nd, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その1)

カラヤンが亡くなって、約四半世紀が経つ。
カラヤンが残した録音の正確な数は、決してカラヤンの熱心な聴き手ではなかった私には、
おおよその数すら知らない。

それにそう多くのカラヤンのレコードを聴いていたわけでもない。
カラヤンのベートーヴェン全集にしても、すべてを聴いているわけではない。

このことには、やはり五味先生の影響が関係している。
五味先生がカラヤンをどう評価されていたのかについては、いまここではあえて書かない。

五味先生の影響をまったく無しで、カラヤンの演奏を聴けているかについては、
いまでも正直自信が、いささかなかったりする。

そんなカラヤンの、偏った聴き手である私でも、いくつかのディスクに関しては、
カラヤンの素晴らしさを素直に認めている。

私が聴いてきたカラヤンのレコードの数はたかが知れている。
そのたかが知れている数の中から、カラヤンのベストレコードとして私が挙げたいのは、
ワーグナーの「パルジファル」である。

日本にはアンチ・カラヤンの人がいる。
そういう人たちからすればカラヤンのベートーヴェンは……、ということになるし、
おそらくカラヤンのワーグナーに関しても、カラヤンのベートーヴェンと同じ扱いになっていることだろう。

カラヤンの「パルジファル」のレコードが出た時、私は18だった。
若造だった。
「パルジファル」の全曲盤をたやすく買えるわけでもなかった。
五味先生の影響も受けていた私にとって、
カラヤンの「パルジファル」は、狐にとって手の届かない葡萄と同じだったのかもしれない。

カラヤンの「パルジファル」なんて……、と思い込もうとしていた時期が、私にはあった。

Date: 8月 24th, 2013
Cate: ベートーヴェン

待ち遠しい(アニー・フィッシャーのこと・余談)

アニー・フィッシャーに関する情報は、昔は少なかった。
いまではインターネットのおかげで、
私がアニー・フィッシャーをはじめて聴いた時に比べればずっと多くの情報が得られるとはいえ、
それでもほかのピアニストと比べれば、情報はそれほど多くはない。

それでもアニー・フィッシャーが素晴らしいピアニストであることにはなんら影響を与えることはないのだが、
それでもアニー・フィッシャーの人となりは、少しは知りたい気持は、いまもある。

twitterには、Botとよばれる、著名人の発言をツイートするアカウントがある。
私もそんなBotをいくつかフォローしていて、そのなかのひとつにRichterBotがある。

ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルに関するものだ。
今日ツイートされた中に、リヒテルがアニー・フィッシャーについて語っているものがあった。
     *
(アニー・フィッシャーは)実に率直な人物で、私の見るところ外交辞令など一切抜きである。だから言うことが信じられる。何でも包み隠さず、こちらの目を見ながら言ってくれる。私の弾いたバッハ『フランス組曲ハ短調』とモーツァルトの『ソナタへ長調』の演奏を的確に批判したことをよく覚えている。
     *
やはり、そういう人だったんだ、と思った。

Date: 7月 31st, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その5)

アンドラーシュ・シフのCDをはじめて聴いた時のことが思い出されてきた。
その時受けた印象が、まるっきり同じである。

だからといってシフが変っていないわけではない。
約20年の歳月、私もそれだけ歳をとっているし、シフだって同じに歳をとっている。
20年前に鳴らしていたオーディオ機器は、なにひとついまはない。
まったく違うオーディオ機器で鳴らしての印象が同じだった。

たとえ同じオーディオ機器を持っていて、住んでいるところも同じだったとしても、
20年前の音と2004年の音がおなじなわけはない。

まわりの環境も、ほぼすべてが変っている。
変っていないものといえば、
デッカ時代のシフゴールドベルグ変奏曲のCDに刻まれているピット(データ)だけしかない。

そのデッカ時代のゴールドベルグ変奏曲のCDを、2004年に聴いたところで、
20年前と同じ印象を受けることは、まずない。
そういうもののはずだ。

にも関わらず、シフの20年ぶりのゴールドベルグ変奏曲の新録を聴いて、
20年前にはじめてシフの演奏を聴いた時と同じ印象を受けている──、
つまり変っていないものを聴いて変化に気付き、
変っているものをきいて、変っていない、と感じる。

このことが意味するところを考えると、
アンドラーシュ・シフの音楽家としての才能の豊かさとか素晴らしさ、といったことではなく、
シフというピアニストの特異性のようなものに気づく。

そして、それからシフのECMでの録音を集中的に聴くようになった。
20年前と同じことをくり返していた。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その4)

アンドラーシュ・シフのゴールドベルグ変奏曲のECM盤をもらったのは、
2004年の1月か、そのあたりだったと記憶している。

シフのゴールドベルグ変奏曲は20年ぶりの再録音である。
デッカでの旧録はスタジオ、ECMの新録はライヴである。

最初,そのことに気づかずにCDプレーヤーにディスクをセットした。
ピアノ・ソロだから、だいたい音量はこのくらいかな、という位置にレベルコントロールをセットした。
すぐに音が出てくるものとかまえていたら、肩透かしをくらった。
演奏が始まるまで(最初の一音が鳴り出すまで)に、すこしばかり時間がかかる。

どうしたのかな、と思っていると、音が鳴り出す。

ライヴ録音だということをジャケットを聴く前に読んでいたら、
どうしたのかな、と思うことはなかったわけだが、
身構えていたのに肩透かしをくらったことは、よかったのかもしれない。

とにかくシフの音は美しかった。
1980年代に、デッカの旧録を聴いた時のことが思い出されてきた。
あの時と、まったく同じだ、と思っていた。

もちろんまったく同じだ、といっても、完全に同じというわけではない。
でも、1980年代にまだ20代のときにシフの演奏を聴いて受けたものと同じものを、
2004年、40代になっていた私は、感じていた。

Date: 7月 30th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その3)

1980年代のある時期、アンドラーシュ・シフのCDを、
グレン・グールドよりも集中して聴いていた。

シフは1953年生れだから、グールドよりも21若い。
当然、その分だけ録音も新しい。
新しい録音による魅力も、シフのCDにはあったから、よけいに集中して聴いていたところもある。

グールドの演奏は、人によっては、受け入れらないという面があるようだ。
私にはそれはないのでなんともいえないけれど、
グールドについて否定的な人もいることは知っている。

シフの場合はどうだろう。
これも想像でしかないのだが、グールドを否定するような意味でシフで否定する人はいないような気もする。

だからシフの演奏はつまらない──、ということにはならない。
そんなレベルでの、シフの演奏ではない。
そうであったらシフの演奏に夢中になるわけがない。

素晴らしいピアニストだと思う。
なのに、ふと気がつくと、シフのCDをかけることがなくなっていた。
そうなるとシフの新譜にも関心が薄れていく。

実はシフがECMに移ったことも知らなかった。
「気に入ると思って」という言葉とともに、シフのゴールドベルグ変奏曲の新録のCDをもらったとき、
懐かしいな、というおもいだけだった。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その2)

アンドラーシュ・シフのベートーヴェンのピアノソナタ。
最後の三曲をおさめたVol.8を聴いて、そこに「ないもの」を感じとった。
そのことは、この項の(その1)に書いている。

このシフのベートーヴェンを手に入れてしばらくは集中して聴いていた。
いい演奏だ、と思う。
たしかに「ないもの」があることは、私にとっては事実であるが、
このベートーヴェンが、高く評価されることに否定的であったり、どこかおかしいと思ったりはしない。

それで、いまもシフのベートーヴェンを聴いているかというと、
一年以上聴いていない。
もっともベートーヴェンのピアノソナタの、最後の三曲はそうたびたび聴く性質のものでもないから、
そんなことも関係しているといえばそうなるけれど、
他のピアニストによるベートーヴェンのピアノソナタは聴いているわけで、
シフのディスクに手が伸びることがなくなった、ということになる。

ECMになってからのシフの素晴らしさに気づかせてくれたのは、
ある人からもらったバッハのゴールドベルグ変奏曲のCDだった。

それほど深い付き合いではない人から、
「気に入ると思って」という言葉とともにもらった。

アンドラーシュ・シフだ、懐かしいなぁ、とその時は思っていた。
1980年代、シフがデッカに録音していたころ、
シフの新譜は必ず聴いていた時期があった。

グールドのバッハは素晴らしい、
シフのバッハも、またいいな、と思い、このときもシフのCDを集中的に聴いていた。

あのときも、いつのまにかシフのCDに手が伸びなくなっていた。

Date: 6月 20th, 2013
Cate: バッハ, マタイ受難曲, 五味康祐

ヨッフムのマタイ受難曲(タワーレコードに望むこと)

今回のヨッフムのマタイ受難曲もそうだが、
タワーレコードはオリジナル企画として、独自にCD復刻を行っている。
こういう企画はありがたい。

私がタワーレコードの、この企画に望むのは、
五味康祐・愛聴盤シリーズである。

ヨッフムのマタイ受難曲は今回復刻された。
次は、ミヨーの「子と母のためのカンタータ」を復刻してほしい。
ミヨー夫人が朗読をつとめたものだ。
いまナクソスのサイトでMP3では聴けるようになっているものの、
やはりCD、もしくは16ビット・44.1kHzのダウンロードで聴きたい気持がつよい。

それからアンドレ・メサジェの「二羽の鳩」。
これのLPは「子と母のためのカンタータ」とほぼ同時期に手に入れたもの、
ある事情で手もとにはない。
しかも演奏者が誰だったのかを、はっきりとおぼえていない。

まだある。ヴィヴァルディのヴィオラ・ダモーレ。
五味先生の著書を読んでも演奏者が誰なのかはっきりしないが、
どうもアッカルドによるものらしい。

まだまだあるけれど、この三枚、
無理ならばミヨーだけでも復刻してもらいたい。

Date: 6月 17th, 2013
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その1)

マタイ受難曲を聴くのであれば、最初はヨッフムの演奏で聴きたい──。
五味先生の文章にふれてきた者にとって、
そして五味先生の文章によって導かれるようにクラシックを聴いていった私にとって、
バッハのマタイ受難曲は、五味先生の愛聴盤であったヨッフム盤で聴きたい。
それも国内プレスのLPではなく、輸入盤で聴きたい──、
五味先生の文章によってマタイ受難曲を知った時から、そう思っていた。

マタイ受難曲のヨッフムの、それも輸入盤は私が高校生の時まで住んでいた田舎では手に入らなかった。
国内盤も見た記憶がない(輸入盤ばかり探していたせいもあろうが)。

マタイ受難曲を10代の若造がぱっときいて、すべてを理解できるなんて思っていなかったし、
だからこそ、できるだけ、その時の自分にできる範囲であっても、
少しでもいい環境でマタイ受難曲を聴きたかった。
それが初めて耳にすることになるマタイ受難曲になるのだから。

ヨッフムのマタイ受難曲は、だから輸入LPで買った。
初めて聴いたマタイ受難曲となった。

その後だった、クレンペラー、リヒターの新旧録音を聴いたのは。

ヨッフムのマタイ受難曲は、割と早い時期にCDになった。
さっそく買った。もちろん輸入盤だった。

マタイ受難曲を聴いた時から30年以上が経ち、
いくつものマタイ受難曲を聴いてきた。
ヨッフム盤がベストなのかどうかは、どうでもいいことであって、
誰の、どの演奏がベストか、などと考えたことはない。

それでもいくつものマタイ受難曲を聴いた後にヨッフム盤に耳を傾けると、
素直に美しい、とおもえる。

私にとってヨッフムのマタイ受難曲は愛聴盤となった。
けれど、いつのまにかCDは廃盤になっていたようで、
一時期はハイライト盤のみだったりもした。
いまも輸入盤は廃盤のようであるし、国内盤も廃盤である。

そのヨッフムのマタイ受難曲をタワーレコードが、今回復刻してくれた。
タワーレコードのサイトによれば、国内盤は1997年以来の再発、ということだ。
オリジナルマスターからのハイビット・ハイサンプリング音源をCDのマスターとして使用しているらしい。

でも、そういうことは、この演奏の前には些細なことのようにおもえてしまう。
とにかく、やっとヨッフムのマタイ受難曲を誰かにすすめられるようになったのが、うれしい。
このうれしさは、どこか格別である。

Date: 2月 12th, 2013
Cate: ベートーヴェン

待ち遠しい(アニー・フィッシャーのこと)

読響アーカイブ・シリーズとして、
ハンガリーのピアニスト、アニー・フィッシャーによるモーツァルトのピアノ協奏曲のCDが今月末発売される。

20番と23番のカップリングで、
20番は1983年公演、23番は1994年公演を収録したもの。

1994年の公演には行けなかったが、1983年の公演には行っている。
といっても、今回発売されるCDの公演ではなく、アニー・フィッシャーのソロ・リサイタルのほう。

実はアニー・フィッシャーの名前は、そのときまで知らなかった。
ただ何かのコンサートにいったとき、会場の前で配られるチラシの束のなかに、
アニー・フィッシャーのリサイタルのものがはいっていたのが、きっかけといえばきっかけであった。

この手のチラシには、聴き手の興味を煽るようなことも書かれていることがある。
いかにも、素晴らしい演奏家が来日してくれる、といったようなことも書かれていることがある。
30年前のことだから、なぜ興味をもったのかも憶えていない。

おそらくベートーヴェンの後期のピアノソナタを、コンサートで聴いてみたい。
ただ、それだけで聴きにいったのかもしれない。

期待していたとはいえない聴き手であった私だったけれど、
当日のベートーヴェンには圧倒されたことだけ、いまでも心に残っている。

このときだけである、楽屋まで行きサインをもらったのは。
とにかくアニー・フィッシャーという人を間近でみたかった。

小柄な人だった。
1914年生れだから、このとき69歳か68歳。
煙草をくわえてのサインに応じているアニー・フィッシャーの姿は、独特の貫禄があった。

このときハタチの若造は、
その日のベートーヴェンがどう素晴らしかったのもよくわからず、ただ感動していただけだった。
だから、その日から30年経ち50になった耳で、
もういちど、あの夜のアニー・フィッシャーのベートーヴェンを聴きたい、と思う。

30年前、行けなかったモーツァルトのピアノ協奏曲も素晴らしいとおもうし、
いまから聴けるのを楽しみにしている。
それでも、私としては、あの日のベートーヴェンをもういちど確認したい。

録音されているのかどうかもわからない。
残っているのであれば、ぜひCDにしてほしい。
その日がくるのであれば、待ち遠しい。

Date: 10月 19th, 2012
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その2)

バーンスタインの晩年の演奏にある執拗さは、
バーンスタインの愛なんだろう、と思える。
それも、あの年齢になってこその愛なんだ、とも思う。

手に入れること、自分のものとすることが愛ではなくて、
自分の全てを捧げる、そういう愛だからこそ、
それまでの人生によって培われてきた自身の全てをささげるのだから、執拗にもなるだろう。

同じひとりの人間でも、颯爽としていた身体をもっていた若い頃と、
醜く弛んだ肉体になってしまった老人とでは、愛のかたちも変ってきて当然である。

バーンスタインのトリスタンとイゾルデ、
マーラーの新録音、モーツァルトのレクィエムをはじめて聴いたとき,
私はまだ20代だった。

だから、いま書いている、こんなことはまったく思いもしなかった。
それでも、強い衝撃を受けた。
バーンスタインの演奏に強く魅了された。

それから約四半世紀が経った。
まだ、トリスタンとイゾルデ、マーラー、
モーツァルトのレクィエムを振ったときのバーンスタインの年齢には達していないが、
ずいぶん近づいてきている。

いまもバーンスタインの演奏を聴く。
そして、より深く知りたいと思うから、
若い頃には関心の持てなかったコロムビア時代のバーンスタインも、すべてではないが聴いている。

コロムビア時代のバースタインのマーラーと、
ドイツ・グラモフォン時代のバースタインのマーラー、
やはり私は後者をとる。

コロムビア時代のマーラーも、いま聴くと、若い頃には感じ難かった良さを感じている。
それでも私は、ドイツ・グラモフォン時代のマーラーをとる。
老人の、執拗な愛によるマーラーを。