Archive for category 「スピーカー」論

Date: 7月 14th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その4)

映画館のスクリーンには、俳優が大映しになるシーンがある。
大きなスクリーンいっぱいに、俳優の顔が映る。
それは人間の実際の大きさよりもずっと大きい。
にも関わらず、観客はそのことを不自然だとは思わない。

そういったシーンで、ささやき声でセリフが使われれば、
そのささやき声は、実際のささやき声よりも大きい。

スクリーンの前に俳優が登場して、ささやき声でセリフでいったところで、
映画館のすべての観客に、そのささやき声が聞こえるわけではない。

大きな音でのささやき声。
これも俳優の顔のアップと同じで、特に不自然だとは感じていない。

それはささやき声は、ちいさな音で再生されるからささやき声であるのではなく、
ささやき声は最初からささ譜やき声であり、そのささやき声の特質をスピーカーが鳴らしてくれれば、
観客(聴き手)は、音が大きかろうと、ささやき声だと認識できる。

このことは何もささやき声だけではない。
楽器も同じだ。たとえばピアノ。
単音でいい。ピアニッシモで弾かれた単音と、フォルティッシモで弾かれた単音とでは、
それを録音して、同じ音量になるように再生しても、聴き手は、どちらがピアニッシモで弾かれた単音なのか、
すぐに判別できる。

Date: 7月 3rd, 2014
Cate: 「スピーカー」論

自由奔放に鳴るのか

自由奔放に鳴らせるのか──、というのが最近のスピーカーシステムに対して思うことである。

真空管アンプと同時代のスピーカーは、
アンプの出力がいまのように求められなかったため出力音圧レベルが100dBをこえているのが少なくない。
そういう時代の、いわば古き良き時代のスピーカーと、
その後アンプがトランジスターになり大出力が容易に得られるようになるにつれて、
出力音圧レベルが下がり周波数帯域が拡大していったスピーカー、
もっといえばピストニックモーションの追求、不要振動の除去を積極的に追求しているスピーカーとは、
いったいなにがどう違うのか。

動作原理に違いはない。
だが音は違う。
メーカーが違うから音が違うということではなしに、
明らかに時代の音というべき違いを感じとることがある。

高能率のスピーカーは概してナロウレンジである。
低域もそれほど下までのびていないし、高域に関しても同様である。
エンクロージュアに対する考え方もいまとは異るところもけっこうある。

ここで書きたいのは、そんなことはあえて一切無視して、
音だけに焦点を絞っていったときに、何がいえるのか。
一言でいいあらわせる違いがあるのか。

これはずっと前から考えていたことである。

現時点での結論を書けば、
古き良き時代のスピーカーは、自由奔放に鳴らせるし、
自由奔放に鳴る、ともいえる。
これが最大の魅力であるし、自由奔放であっても、ときに音が粗野になることはあっても、
下品になってしまうことはない、といえる。

現代のスピーカーとなると、自由奔放に鳴るのか、ということ以前に、
自由奔放に鳴らせるのだろうか、と感じる製品が少なくない。

それでも自由奔放な鳴らし方を、そこでした時に、いったいどういう音になるのだろうか。
粗野になることはないかもしれないが、どこか品を失ってしまうのではないか。

Date: 1月 4th, 2014
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その6)

スピーカーを役者としてとらえることで、
世の中に存在する幾多ものスピーカーそれぞれの個性について、
どう捉えるかも私のなかでははっきりしてくる。

役者は舞台やカメラの前で、役を演じる。
セリフがそこにもある。

ヘタな役者だと、感情のこもっていない、棒読みのセリフになったり、
大見得をきった演技にもなる。

そういう演技だと観ている側は、そこで行われていることに感情移入できない。
どこか他人事、それも対岸の火事のようでもあり、
いくらそれがつくり事とはいえ、傍観者から一歩踏み込めなかったりする。

感情がこちらに伝わってくると、違ってくる。
けれども、その伝わってくる感情は、役者自身の感情であれば、
その役者の熱狂的なファンであれば、その感情を受けとめられるだろうが、
そうでない者にとっては、役者自身の感情なんて、どうでもいいことであり、
観ている側が求めている感情とは、役柄の感情である。

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その3)

ららぽーとがある船橋からいま住んでいる国立まで電車の時間は一時間半ほどある。
その間ぼんやりと思っていたことがある。

いまジョン・カルショウがいたら、この日私が体験した技術で、
21世紀の「ニーベルングの指環」を制作するのではなかろうか、と。

20世紀の「ニーベルングの指環」はショルティとの全曲録音だった。
音だけのものであっても、カルショウはさまざまなことを試みている。
そのすべてが、いま聴いても価値が変らない、とはいえないところはある。
やりすぎの感はたしかにある。

それでも当時、初の「ニーベルングの指環」の全曲盤である。
あれだけ長い作品を音だけのレコードで、聴き手に最後まで聴き通してもらうためのアイディアとしては、
成功しているといえるし、そこがまたいまではやりすぎとも感じてしまう。

とはいえカルショウ/ショルティによる「ニーベルングの指環」はおもしろいレコードである。
こういうレコードを、いまから50年以上前にカルショウはつくっている。
そのカルショウが、3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか。

ワーグナーの楽劇でも、
「ニーベルングの指環」の作曲の途中でつくられた「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、
「トリスタンとイゾルデ」は登場するのは人間だけなのに対して、
「ニーベルングの指環」ではそうではない。

そういう作品である「ニーベルングの指環」だけに、あれこれ夢想してしまっていた。

Date: 12月 2nd, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その2)

映画が映し出されるスクリーンの大きさは無限大ではないから、縁がある。
縦と横にそれぞれが縁があるからこそ、映画は成立するものであり、
だが時としてその縁を観客に意識させないようにしたいと考えている制作者もいるのではないだろうか。

船は時にあるららぽーとの西館に新しくできた映画館(TOHOシネマズ ららぽーと船橋)、
私がスタートレックを観てきた劇場は500人ほどの大きさ。
都内にはこれよりも大きな劇場があるし、その劇場のスクリーンよりもサイズとしては小さくなる。

けれど縁を感じたか、ほとんど感じなかった、ということでいえば、
TOHOシネマズ ららぽーと船橋のスクリーンは、大きさ(縁)をさほど意識しなかった。

これが今回はじめて体験したドルビーアトモスがもたらしてくれたものなのかどうかは、
まだなんともいえない。
それでも無関係とは思えなかった。

TOHOシネマズは来年日本橋にもできる。
その後上野、新宿にもできる。
おそらくドルビーアトモスも導入されることだと思う。
そうなってくれれば船橋まででかけなくても、もう少し近くの劇場で体験できるようになる。

最近ではホームシアターを熱心に取り組んでいる人の中には、
映画館よりも自宅の方が音も映像もよい、と感じている人が増えているらしい。

確かに昨日のTOHOシネマズ ららぽーと船橋は質の高い映画館だったが、
それほどでもない映画館があるのも事実で、
ホームシアターのマニアが、映画館よりもよい、と思うのはわからないわけではない。

でも、別項で書いている現場(げんば)と現場(げんじょう)
音場(おんば)と音場(おんじょう)でいえば、
ドルビーアトモスが体験できた映画館は現場(げんじょう)である、とはっきりといえる。

Date: 12月 1st, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その1)

船橋に出かけて映画を観てきた。
船橋までの距離は約50km。その間にいくつもの映画館があるにも関わらず、
船橋まででかけていったのは、11月22日にオープンした船橋のららぽーとに出来た映画館が、その理由である。

Dolby Atoms(ドルビーアトモス)を日本で初めて導入した映画館である。
いまのところここでしかドルビーアトモスは体験できない。
しかもスタートレックを二週間だけ、このドルビーアトモスで上映してくれるとあれば、
ちょうど午前中に船橋に用事が重なったこともあって、出かけて、いま帰ってきたところ。

ドルビーアトモスについてはリンク先を読んでいただくとして、
スタートレックを一本観ただけの感想ではあるが、
映画館の音響とはいえ、トーキーと呼ばれていた時代とは別種の音響であり、
映画館で映画を鑑賞するための音響から、映画を体験するための音響といえる。

こんな書き方をすると効果だけを狙った音響のように受けとめられるかもしれないが、
決してそこに留まっている音響ではなく、
エンディングで流れる音楽を聴いていても、いい印象だった。

そしてスタートレックは3D上映だった。
3D上映とドルビーアトモスの相性は、かなりいいのではないだろうか。
観ている途中で気づいたのは、
通常の上映よりもスクリーンの大きさを意識することがかなり少なかった、ということ。

Date: 11月 23rd, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その3)

トーキー用のスピーカーは、セリフの明瞭度が高い。
これが最大の特長だといわれ続けてきた。

映画ではさまざまな音が使われる。
音楽が鳴るシーンもあれば、音楽がまったく鳴らないシーンもある。
音楽が、映画の中の音の主役となることよりも、
ずっとずっとセリフが、映画の中の音の主役であることが多い。

セリフが明瞭に聞こえ、聞き取りやすくなければ映画のストーリーが観客に伝わらなくなることがある。

30年以上前、上京して映画館に行って感じていたことは、
意外にもセリフの明瞭度が悪いところがある、ということだった。

ずっとセリフだけははっきりときこえるものだと思っていたからでもあり、
田舎町の映画館よりも東京の映画館の方が設備も立派だし最新のものだから、という、
こちら側の思い込みもあった。

洋画だと字幕がある。だからあまり気づかなかった。
けれど邦画、それも古い作品を、
名画座ではなくロードショー館で観ていて、セリフがじつに聞き取りにくかったことにびっくりした。

邦画だから字幕はない。
だからセリフは耳だけが頼りなのに、
その耳にはいってくる情報の質がきわめて悪かった。

けれど、これは当然だったのかもしれない。
すでに時代はトーキーという言葉を使ってはいなかった。
トーキー用のスピーカーではなくなっていたのだろう。

Date: 10月 29th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

スピーカーの位置づけ

中点(その12)に書いたことを思い出している。

レコードは、それがLPであろうとCDであろうとミュージックテープであろうと、
レコードの送り手側にとっては最終点であり、
レコードの受け手(聴き手)にとっては、音楽を聴く行為における出発点になる。

この「レコード」を「スピーカー」と置き換えてみる。

スピーカーから音が出る。
だからスピーカーはアウトプットのためのオーディオ機器という位置づけになる。
だからといって、スピーカーが絶対的に最終点といえるだろうか。

そんなことを考えている。

レコードが最終点でもあり、出発点でもあるわけならば、
スピーカーもまた出発点といえるのではないか。

最終点でもあり出発点でもあるレコードとスピーカー。
そのうちのひとつ(レコード)が音の入口であり、もうひとつ(スピーカー)が音の出口となり、
オーディオというひとつの系が形成されている。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その2)

トーキー用のスピーカーとは、いったいどういうものなのか。
このことについて考えていくことのはじまりとなったのは、
ステレオサウンド 46号に掲載された広告であった。

シーメンスのスピーカーの輸入元であった關本の広告にはこうあった。
     *
「お気づきですか……足音」
映画における足音。
これは意外とむずかしいものです。
M.ブランドとE.M.セイントの〝波止場〟での1シーン。
会話に聞き入っていると聞こえない足音。
しかしサウンド・トラックには、ちゃんと録音されているのです。
足音の録音が、録音技術者のウデの見せどころであるように、
トーキー・サウンド・システムのスピーカの設計者にとっても同じこと。
しかしこの音、目立ってはならない音ですから、
はりあいこそありませんが、映画にはつきもの。
全体のムードにかかせないものです。
シーメンスには、この縁の下の力もち的足音に取組んで数十年。
映画〝F1〟におけるツインカム
フラット12の、
あのバカでかいエクゾースト・ノートを、より迫力あるものに、
しかし足音はさりげなく……。
この、大と小を一手に引き受けようと生まれてきた、
シーメンスのオイロダインやコアキシャルたち。
これぞ頑固なドイツ人の熱き情熱。
     *
同じ動作原理のスピーカーであっても、
家庭用スピーカーで聴くものといえば、ほぼすべて音楽といえる。
音楽といっても幅広いとはいえ、音楽であることには違いない。

中には音楽よりも自然音の再生だったり、鉄道の音、自衛隊の演習の音などだったりしたとしても、
そういう人だって音楽を鳴らすことが主目的であり、そのことをスピーカーに求めているはず。

Date: 10月 18th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(その1)

いまでも高値で売買されているウェスターン・エレクトリックのスピーカーは、
トーキー用として開発されて実際に劇場で使われてきた。

アメリカにウェスターン・エレクトリックがあれば、
ドイツにはクラングフィルム(シーメンス)があり、
イギリスにはロンドン・ウェストレックスがあった。

映画用のスピーカーと書かずに、トーキー用とするのは、
アンプとの関係性において違いがあるからである。

いまでは大出力アンプといえば、いったいどのぐらいの出力より上をいうのだろうか。
いまや100Wの出力は大出力(ハイパワー)とはいわない。
200Wでも300Wでも、いわないのではないだろうか。
500Wを超えると、さすがに大出力という感じがしてくるし、
1000Wを超えると、大出力(ハイパワー)! ということになる。

これだけの出力が得られる時代だから、
スピーカーの能率は、昔ほど重要視はされなくなっている。
高い音圧が必要ならば、耐入力とリニアリティに優れたスピーカーを、
大出力のパワーアンプで駆動すればいいからだ。

だがトーキー時代には、アンプは真空管によるもので、出力は10Wあれば大出力だったこともある。
一桁の出力のアンプもあった時代だ。

この時代のスピーカーには、だから高い能率(出力音圧レベル)が求められる。
10W程度のアンプでも、劇場いっぱいに満足できる音を出さなければならないのだから。

トーキー用スピーカーは、だから大型で能率が高い。
100dB/W/mを超えるモノばかりである。

Date: 10月 9th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その5)

アンプからの電気信号(シグナル)に対してハイフィデリティであることは、
技術の追求においては無視できないことではあるものの、
オーディオがいまもモノーラル録音、モノーラル再生であるのなら、
アンプからの電気信号を正確に振動板のピストニックモーションへと変換することを実現できれば、
それでもってスピーカーのハイフィデリティは達成された、ということになる。

けれど、われわれが再生しようとしているものは、
ステレオフォニック録音のステレオフォニック再生である。
だから正確なピストニックモーションと不要共振の徹底した排除だけでは、
ハイフィデリティとはとても言い難い。

もっともこれがステレオフォニックではなく、バイノーラル録音・バイノーラル再生であれば、
正確なピストニックモーションと不要共振の徹底した排除を実現したスピーカーでも、
ハイフィデリティということができる。

完全とまではいかなくても、
ステレオフォニックな録音のステレオフォニックな再生という条件よりも、
はるかにハイフィデリティに近づいている、といえるはずだ。

もちろんその場合、スピーカーの配置は、ステレオフォニック再生とは違ったものになる。
もっともバイノーラルの再生は、すでにヘッドフォンという、
かなり理想に近いオーディオ機器(変換器)が存在しているので、
わざわざスピーカーをバイノーラル再生に用いることは無駄なのかもしれない。

ヘッドフォンは、バイノーラル再生に対しては、かなり理想に近いといえても、
だからといってステレオフォニック再生にとってもそうであるかといえば、
これはスピーカーにおける正確なピストニックモーションと徹底した不要共振の排除だけでは、
ハイフィデリティとはいえないのと同じで、
われわれはいったいどういう録音物を再生しようとしているのかを、
はっきりとさせておかなければならない。

Date: 10月 8th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(そのきっかけ)

「スピーカーは役者だ」と、(その1)で書いた。
こう考えるように、こう捉えるようになったのには、あるきっかけがある。

そのことがなければ、「スピーカーは役者だ」と考えているのかどうかはなんともいえない。
この結論にいつかはたどり着いたかもしれないが、もっと時間を必要としたことだろう。

なぜ、人は音楽を聴くのか。
しかも飽きずに聴き続けるのか。

ある人にとってはどうでもいいような音楽が、別の人にとってはとても大事な曲にもなるし、
私にとって大事な、大切な曲が、私と違う人にとっては、それこそどうでもいい音楽になることだってある。

聴き手の感受性の違いから、などともっともらしい理由をつけようと思えば、
いくらでもつけられる。

でも結局のところ、音楽は物語のひとつでもあるからこそ、
その音楽のもつ物語の断片でもいいから、自分のそれまでの日々に重なるところがあれば、
その曲は、その人にとっては大切な音楽となるのだから、
もうこのことについては、たとえ心の中でどうおもっていても、言葉にすべきことではない。

特に歌は、直接・具象的な物語を含み、
日本人にとっては日本語の歌は、さらに直接的な物語となるものだから、
大切な日本語の歌を、ひとつでもいいから持っている人は、音楽の聴き手として充分しあわせといえよう。

2002年7月4日、
菅野先生のリスニングルームで、ホセ・カレーラスの「川の流れのように」をかけていただいた。
このとき菅野先生のリスニングルームで聴いていたのは、七人。

「川の流れのように」が鳴り終った時、
聴いていた人の心の裡がどうだったのかは、ひとりひとりが知っていればいいことである。

「川の流れのように」が鳴っている間、その人の人生(物語)が鳴っていたのは間違いないはず、と、
そう確信できるのは、そこにいた人たちの表情を見たからだ。

「川の流れのように」がおさめられているホセ・カレーラスのAROUND THE WORLDは、
私にとって最初に聴いた時から愛聴盤だった。
そこに2002年7月4日の物語が加わった。

そこでの物語を歌ってくれたのは誰だったのか、何者だったのか、何だったのか。
2002年7月4日に聴いたホセ・カレーラスの「川の流れのように」が、
私がスピーカーを役者として捉えるようになった、大きなきっかけである。

Date: 10月 7th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その4)

High-Fidelityは、ときとして都合のいいものである。
この音はハイフィデリティだ、このほうがハイフィデリティだ、的な使い方がなされているが、
この場合、もっとも問題になるのは、何に対してのハイフィデリティか、ということは、
実のところ、ずっと以前からいわれていたことではあるにも関わらず、
いまでも、ただ単に「ハイフィデリティだ」というふうに使われることが多い。

再生側におけるハイフィデリティとは、
理想論は別として現実には、録音に対してのハイフィデリティということになる。
では録音におけるハイフィデリティとは、やはり原音ということになる。
だが、この原音と呼ばれる、正体が判然としないものに対してのハイフィデリティとは、
いったいどういうことになるのか。

このことについて書くことは、
ここでの「スピーカー」論から離れていくし、
再生側におけるハイフィデリティは、録音に対してのハイフィデリティということに落ち着く。
それ以上のことを望んでも、再生側からはいかんともしがたいからだ。

では録音に対してのハイフィデリティということになるわけだが、
2チャンネル・ステレオにおいては、左チャンネルと右チャンネルの信号がそれぞれ録音されている。
このふたつのチャンネルの信号を、
まったく干渉せずに何も加えず何も減らさずにスピーカーに電気信号として送り込む、
その送り込まれた電気信号を完全な正確さで振動板のピストニックモーションへと変換する。
この際に、余分な共振はいっさい加えない。

これが果して録音に対してのハイフィデリティといえるのか、となると、
やはりこれは録音「信号」に対するハイフィデリティということでしかない。

Date: 10月 6th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その3)

スピーカーは、アンプからの電気信号を振動板のピストニックモーションとする変換器であるとすれば、
アンプからの電気信号のとおりに、振動板が前後に動けばいい、ということになる。

もちろん分割振動という余計なものはなく、振動板が正確に前後にのみ、
電気信号にあくまでも忠実に動く。

低音から高音まで、ピアニシモからフォルテシモまで、
あらゆるおとの電気信号が来ても、それを振動板の前後運動に正確に変換する。
そしてエンクロージュアの振動も極力抑えていく。

とにかく振動板以外の振動は不要な振動と判断して、
振動板のみが正確にピストニックモーションする──、
大ざっぱに言えば、これがいまのスピーカーの目差すところである。

このことが100%実現できる日が来たとしよう。
それでHigh-Fidelityは実現された、といえるようになる──、とは私には思えない。

これは、あくまでもアンプからの電気信号に対してのHigh-Fidelity(高忠実度)でしかない。
Signal-Fidelityの理想を実現した、としかいえない。

アンプからの電気信号を正確に振動板がピストニックモーションできれば、
それで理想が実現、問題解決となるほど、オーディオはたやすくない。

スピーカーがそんなふうになるころには、
アンプも当然進歩していて、入力信号そのままに増幅して、歪もノイズもいっさいなしになっていることだろう。
ならばアンプからの電気信号の通りに振動板がピストニックモーションしていれば、問題はない──、
はたしてそう言えるのだろうか、それだけで充分なのだろうか。

Date: 9月 19th, 2013
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(その2)

以前から「スピーカー楽器」論がある。

スピーカーは、変換器である。あくまでも入力信号(アンプからの信号)に対して高忠実であるべきだ、という、
いわゆるHigh Fidelityに基づく考え方、「スピーカー変換器」がある。

スピーカーの開発者・技術者であれば、
スピーカーをでき得る限り高忠実な電気→音響変換器として捉え、考えていくことは、至極当然である。
そうやってスピーカーは、いわば進歩してきた。

このことに対し「スピーカー楽器」論は、
スピーカーの開発者・技術者側からの意見ではなく、
聴き手・受け手側からのものであることは、
スピーカーは、楽器なのか、高忠実な変換器であるべきなのかについて語るときに忘れたり、
ごっちゃにしたりしてはいけない。

「スピーカー楽器」論は、あくまでも聴き手側からのもので、
「スピーカー楽器」論を、スピーカーの開発者・技術者が唱えることではない。

最近では、「スピーカー楽器」論を謳うメーカーがある。
その存在を、だからといって否定はしないものの、
「スピーカー楽器」論を謳うメーカーでスピーカーをつくっている人を、
スピーカー開発者・技術者とは、呼びにくい。

あくまでも、「スピーカー楽器」論を前面に謳うかぎりは、スピーカー製作者である。